第35話:嵐の出航
木製の卓が激しい音を立てて軋んだ。
「王都へ戻るわ。……今すぐに!」
フランシアは銅版画のガゼットを爪の先で引き裂かんばかりに握り潰し、立ち上がった。
荒くれ者たちがたむろする酒場の中、少女の細い喉から放たれた声は、獣のような殺気を孕んで空気を切り裂く。
菫色の瞳の奥で燃え盛るのは、温室の小鳥の嘆きではない。海上で死線を越え、波飛沫に洗われて研ぎ澄まされた、剥き出しの修羅の炎だった。
だが、ガッシュは身じろぎもせず、琥珀色の瞳で静かに煙草の煙を吐き出した。
「戻ってどうする。今の貴様は運河で死んだはずの亡霊だ。王宮の跳ね橋の前で衛兵にフリントロックの銃弾を撃ち込まれて終わりだ」
「構うものですか! あの子が……私の服をまとい、私の地位を盗み、あんな顔をして笑っているのよ! 奪われたものは、この手で切り裂いて取り戻す!」
激昂するフランシア。
かつて高慢に他人を見下ろしていただけの王女は、もはやどこにもいなかった。自らの足で立ち、奪われた尊厳のために命を投げ打つ覚悟を決めた猛獣の姿がそこにあった。
ガッシュの唇の端が、微かに持ち上がった。
男は腰帯から、あの冷たい鋼の感触を宿した漆黒の短剣を抜き放ち、テーブルの上にコトリと置いた。
「行け。……ケジメをつけてこい」
「……え?」
「嵐が来る。快速艇を出してやる。だが、戻るべき場所を間違えるなよ、小鳥。……お前の席は、この船に空けておいてやる」
短剣の黒光りする柄が、フランシアの掌へと渡された。
男の不器用で冷徹な後押しを受け取り、フランシアは短剣を腰の帯へと深く差し込んだ。
背を向け、喪服のように黒いウールの粗布を翻す。
密輸港の波止場を蹴り、荒れ狂う夜の海を裂いて、復讐の炎を宿した本物の王女が王都ルミエールへと走り出した。
――同じ刻。
青薔薇の離宮の回廊に、荘厳なファンファーレが鳴り響いていた。
何百本もの蜜蝋蝋燭が眩いばかりの光を放ち、豪奢なバッスルと宝石をまとった貴族たちが大広間を埋め尽くしている。
扉の前に立つのは、純白の絹繻子のドレスを纏ったミシャ。
首元には繊細な手織りレースの襞襟、白磁のうなじを際立たせる漆黒の前下がりボブ。その菫色の瞳は、罪悪の刃を心の奥深くに呑み込み、氷のように怜悧な気品を湛えていた。
「参りましょう、私の姫」
白手袋の手を差し伸べるクロード。
男の青い瞳には、熱烈な崇拝と、この手で彼女を鳥籠から解き放つという不退転の忠誠が灯っている。
ミシャはその手に、そっと自らの指先を重ねた。
重厚な大広間の両開き扉が、従僕たちの手によって厳かに開け放たれる。
万雷の拍手と管弦の調べが降り注ぐ中、偽りの王女が一歩、光の海へと足を踏み入れた。
――だが、二人はまだ知らない。
外海の怒濤を越え、黒い刃を握り締めた復讐者が、この華麗なる偽りの宴の扉を叩き破る刻が、すぐそこまで迫っていることを。




