第34話:海を渡る銅版画
外海の潮風が吹き抜ける密輸港の酒場は、安煙草の紫煙と粗悪なラム酒の酸鼻な臭気に満ちていた。
剥き出しの梁から吊るされた鯨油ランプが鈍く揺れ、粗削りのオーク材のテーブルに集う荒くれ者たちの怒号を照らしている。
片隅の丸テーブルには、革のロングコートを纏ったガッシュが、琥珀色の瞳を細めて腰を下ろしていた。腰帯には二挺のフリントロック短銃。その向かいには、船上での過酷な日々を経て、かつての繊細な指先に短剣の胼胝を刻んだ少女――フランシアが座っていた。
纏っているのは、潮と血飛沫で汚れた黒いウールの粗布。
記憶を失ったまま海を漂流し、ガッシュに叩き込まれた短剣術で荒くれ者たちの腕を切り裂いて生き延びてきた彼女の横顔には、かつての温室の小鳥の甘さなど欠片も残されていなかった。
「頭、王都から抜けてきた快速ガレオンが、面白いもんを運んできたぜ」
席へ近づいてきた甲板員が、酒で湿った木製の卓上へ、一枚の乾いた紙片を広げた。
活版印刷機で大量に刷られ、港から港へと早馬や帆船で運ばれる王都の最新ガゼット――銅版画入りの号外。
ガッシュは煙草の灰を床へ落とし、何気なくその大見出しへと視線を落とした。
『第一王女フランシア様、若き宰相補佐クロード卿と華麗なる婚約』
刷り込まれた見出しの真下。
繊細な陰影を刻む銅版画によって彫り出されていたのは、豪奢な純白の夜会ドレスを纏い、前下がりの黒髪を揺らして気品ある微笑を浮かべる、一人の姫君の肖像画だった。
「……おい、小娘」
ガッシュの喉が低く鳴った。
「お前、自分の顔を鏡で見たことがあるか?」
男の鋭い視線に促され、フランシアは訝しげに眉をひそめながら、テーブルの上の紙片へと視線を落とした。
その瞬間。
酒場の喧騒が、潮騒の轟音が、世界から一切の音色が掻き消えた。
紙の上の輪郭。
切り揃えられた黒髪、白磁の額、夜露のように澄んだ菫色の瞳。
そして――何千何万本の糸を縫い重ねてきた者だけが醸し出す、清冽で研ぎ澄まされた佇まい。
――夕暮れの鐘が鳴る前に、必ず戻るわ。ありがとう、私の白百合。
――半日だけでいいわ。私のドレスを着て、あの離宮の部屋に座っていてほしいの。
雷鳴のような衝撃が、フランシアの脳髄を貫いた。
深い海の底へ沈んでいた記憶の檻が、一瞬にして音を立てて粉々に砕け散る。
神聖の森の外れ、廃礼拝堂。
偶然出会った、自分と瓜二つの他人の空似。気まぐれに分け与えた南蛮渡来の砂糖菓子と、ほつれたレースを繕ってくれたあの森の針子ミシャ。
自分を濁流へと突き落とした無紋馬車の車輪の音。そして今、自分の名を騙り、自分が忌み嫌っていたはずの冷徹な婚約者クロードの隣で、我が物顔で微笑んでいるあの顔――。
「あ……あの子が……」
フランシアの喉から、掠れた空気のような声が漏れた。
短剣を握り締めていた指先が、ガチガチと激しく震え出す。
「あの子が……私の服を着て……私の名前で……私の椅子に座って……笑っている……?」
ただの他人の空似として、身代わりの銀貨を握らせて利用しただけの卑しい針子が、自分の人生のすべてを掠め取り、王宮の頂点に君臨している。
屈辱と裏切りの激痛が、全身の血管を灼熱の油のように駆け巡った。
ガゼットを握り潰すフランシアの菫色の瞳に、狂乱と修羅の炎が、凄まじい業火となって燃え上がった。




