第33話:純白の帳
蜜蝋蝋燭の甘い煙が漂う青薔薇の離宮の衣装室。
姿見の前に立つミシャを包んでいたのは、新大陸航路の貿易船がもたらした極上の絹繻子で仕立てられた、眩いばかりの純白の夜会ドレスだった。
胸元を飾る幾重もの手織りレース、鯨骨のコルセットによって極限まで引き締められた腰の線、そして裾に向かって豪奢に広がるバッスル。
今宵開かれる盛大な婚約披露夜会のために、王室御用達の針子たちが昼夜を徹して縫い上げた一着。
だが、職人の手仕事を誰よりも理解しているはずのミシャの指先は、滑らかな絹の感触に触れながらも、冷え切ったまま微動だにしなかった。
(……白百合の死装束)
胸の奥で、乾いた自嘲が零れる。
消えた本物の王女フランシア。奪い取った偽りの身代金のように纏う純白の帳。
肩口で鋭利に切り揃えた前下がりの黒髪が、透き通るような白磁のうなじを際立たせ、冷徹な仮面を貼り付けた菫色の瞳を異様なほど冴えわたらせていた。
控えの間の重厚な扉が静かに開いた。
正装を纏った近衛兵を退け、入ってきたのは――黒の礼装に白銀の飾り帯を斜めに掛けたクロードだった。
胸元に佩いた勲章が、蝋燭の炎を反射して鈍く光る。
「下がりなさい」
クロードの低く抑えた一言で、裾を直していた下級侍女たちが息を潜めて一礼し、部屋を辞していった。
二人きりになった部屋に、ピンと張り詰めた沈黙が落ちる。
クロードは敷石を踏みしめ、ゆっくりとミシャの前へと歩み寄った。
眼鏡の奥の青い双眸が、純白のドレスに身を包んだミシャを捉える。そこにあるのは、かつての冷酷な検分でも、政治的な打算でもない。息を呑むほどに純粋で、狂おしい熱を孕んだ真摯な光だった。
「……息を呑むほど美しい。フランシア様」
男の白手袋の指先が、躊躇うように空中で止まり、やがてそっとミシャの冷たい右手を包み込んだ。
針を握り続けたことで残る指先の微かな硬さすら、男にとっては守るべき尊い証であるかのように、慈しみを込めて握りしめられる。
「この夜会が終われば、貴女は大奥様の完全な監視下から離れ、私の妻として宰相府の庇護に入ることになる。……もう、誰にも貴女を脅かさせはしない」
「クロード卿……」
「貴女を、この息苦しい鳥籠から救い出してみせる。私が生涯をかけて、貴女の自由の盾になりましょう」
偽りの王女であることなど露ほども知らず、目の前にいる「彼女」そのものの魂に捧げられた、命がけの忠誠。
その言葉が熱ければ熱いほど、ミシャの心臓には冷たい刃が深く突き刺さっていく。
すべてを打ち明け、自分は森の捨て子に過ぎないと叫び出したい衝動。けれど、それを口にすれば待っているのは即刻の処刑と、神聖の森の水車工房への軍靴の蹂躙だけだ。
ミシャは痛む胸の奥を押し殺し、薄い唇に王女の笑みを貼り付かせた。
その時。
遠く離れた離れの温室――幾重もの青薔薇の茂みの奥深くで、眠り続けていた王妃アデレイドの白磁の指先が、ぴくりと微かに動いた。
硝子ドームの隙間から、外海の湿り気を含んだ不穏な夜風が吹き込み、青薔薇の花弁をざわざわと揺らす。
まるで、遠い海から近づきつつある激しい嵐の足音を、誰よりも早く告げるかのように。




