第32話:波飛沫の洗礼
叩きつけるような白波が、容赦なく船の甲板を洗った。
潮風に混じる、生々しい錆と火薬の匂い。
ずぶ濡れの麻服を纏ったフランシアは、船首楼の影でよろめきながら、甲板の手すりに爪を立てていた。
運河の濁流に呑み込まれた激痛の果て、記憶の糸は断ち切られたままだ。自分がどこから来て、なぜこの船にいるのかすら定かではない。
だが、骨の髄に刻み込まれた傲慢な気位だけは、記憶の空白など嘲笑うように鮮明だった。
「無礼者共……! この私を、どこの誰とも知れぬ卑しい船乗り風情が指図する気? 下がれ、近寄るな!」
荒くれ者たちが差し出した干し肉の皿を、フランシアは細い手で力任せに払い落とした。
木皿が甲板を転がり、塩漬けの肉片が波飛沫に濡れる。
船乗りたちの間に、険悪な殺気が走った。
「このアマ、調子に乗りやがって……! 拾ってやった恩も忘れやがって、海へ叩き落としてやる!」
船乗りが腰のカトラスを抜き放ち、フランシアの首筋へと刃を向けた。
だが、その手首が空中で硬直した。
背後から伸びた影が、男の手首を鉄の万力のようにねじり上げていた。
「よせ、ボリス」
低く、地鳴りのような声。
ガッシュだった。
革コートの裾を冷たい飛沫に濡らしながら、男は船乗りを無造作に突き飛ばし、フランシアの前へと歩み寄った。
琥珀色の双眸が、肩で息を荒らげる少女を値踏みするように見据える。
フランシアは怯むどころか、顎を反らし、菫色の瞳に敵意の火を灯して睨み返した。
「貴方がこの下品な船の頭目ね。……今すぐ私を安全な港へ下ろしなさい。さもなくば――」
「さもなくば、首でも撥ねるか?」
ガッシュは冷笑を浮かべ、腰の帯から一本の漆黒の短剣を抜き取った。
鞘から滑り出た刃が、鉛色の陽光を吸って鈍く光る。男はその切っ先を、フランシアの喉元ではなく、柄を前へ向けて少女の胸元へと突き出した。
「取れ」
「な……何を――」
「陸の薔薇がどれほど気取ったところで、嵐の外海では一日と持たずに腐る。生き延びたいなら、爪を研げ。小鳥」
男の言葉に迷いはなかった。
叩きつける波と激しく傾ぐ船体。足元をすくわれそうになりながら、フランシアは突きつけられた短剣の柄を、震える指先でしっかりと掴み取った。
掌に伝わる、凍えるような鉄の冷気と確かな重み。
「足を開け。重心を低くしろ。波に逆らうな、刃は肉ではなく骨の継ぎ目を狙え」
罵倒も同情もなく、ガッシュの低く乾いた指示だけが、吹き荒れる潮風を切り裂いていく。
少女の手首を掴み、姿勢を正させ、波の揺れに合わせて刃を突き出す軌道を叩き込んでいく。
荒波に打たれ、皮膚が千切れるような飛沫を浴びるたび、フランシアの華奢な肉体から甘さが削ぎ落とされていく。
宮廷の香水に守られていた温室の薔薇が、外海の猛毒のような潮風に洗われ、猛獣のような野生の牙を研ぎ澄ませていた。




