第31話:海賊騎士の船
視界を埋め尽くすのは、漆黒の怒濤と白銀の飛沫だった。
轟音を立ててうねる外海の波を切り裂き、三檣の武装船「黒鴉号」が荒波を押し渡っていた。
張り巡らされたロープが強風に軋み、鉛色の空の下で黒い帆が大きく孕む。甲板には錆びた錨や真鍮の六分儀を収めた木箱が転がり、潮風と硝煙、そして乾いたラム酒の匂いが立ち込めていた。
濡れたオーク材の床板の上に、一人の少女が横たわっていた。
かつて王都ルミエールでミシャに着せた、あの粗末な麻の服。
塩水とヘドロに塗れ、無惨に引き裂かれた襤褸布の隙間から、凍え切った白磁の肌が覗いている。
肩口で切り揃えられていた前下がりの黒髪は海藻のように額にへばりつき、唇は生気を失って紫色に染まっていた。
運河の濁流に呑まれ、外海への激しい引き潮に乗って数昼夜を彷徨い、死の淵で網に引き上げられた娘――第一王女フランシア。
「……う……っ」
微かな呻きとともに、フランシアの長い睫毛が震えた。
開かれた菫色の瞳は濁り、焦点がおぼつかない。激流に頭を打ち据えられた衝撃のためか、自らの名も、自分が何者であったのかも、記憶のすべてが深い霧の底へと沈んでいた。
「頭、息はあるぜ。だが、こんな小娘を拾い上げてどうするんで? 身代金を取れそうな身なりでもねえ。海へ放り込んだ方が手っ取り早い」
下卑た声で笑う粗暴な船乗りが、腰のカトラスに手をかけて唾を吐いた。
王都の港湾警備を嘲笑い、新大陸航路の富裕商船を専門に狩る荒くれ者たち。彼らにとって、行き倒れの小娘の命など一滴の水ほどの価値もない。
船乗りがフランシアの肩を蹴り飛ばそうとした、その刹那――。
――カラン、と。
硬質な拍車の音が響き、甲板の空気が一瞬で凍りついた。
「手を退けろ、ボリス」
低く、波の咆哮すら圧する乾いた声。
船乗りたちが慌てて道を開ける。
マストの陰から歩み出てきたのは、潮風に晒されて色褪せた分厚い革のロングコートを纏った男――「黒鴉号」の船長、ガッシュだった。
引き締まった長身に、荒縄のような無骨な佇まい。
腰帯には長身のサーベルと、真鍮の細工が施された二挺のフリントロック式単発短銃が吊るされている。
潮焼けした精悍な顔立ちの中で、獣のように鋭利な琥珀色の瞳だけが、横たわる少女を冷ややかに見下ろしていた。
ガッシュは膝を折ることなく、革ブーツの爪先でフランシアの顎先をわずかに持ち上げた。
記憶を失い、死の寒気に震えながらも、少女は反射的にその爪先を弱々しい手で払いのけようとした。
瞳の奥に宿る、決して他人に屈すまいとする剥き出しの傲慢さと気位。
「ほう……」
ガッシュの唇の端が、面白そうにわずかに歪んだ。
「ただの浮浪児ならとっくに魚の餌だ。……襤褸を纏ってなお、噛みつくことだけは忘れていないらしい」
男は冷徹な眼差しを崩さぬまま、背後の船乗りたちへ振り返ることもなく言い放った。
「その娘を船室へ運べ。乾いた布と毛布を投げてやれ」
「へ、へい! しかし頭、この娘をどうする気で?」
ガッシュは答えず、再び横たわるフランシアの菫色の瞳を見据えた。
荒れ狂う外海の飛沫が、二人の間に容赦なく降り注ぐ。
「拾った命だ。……生き延びてみせろ、小鳥」




