第30話:婚約内定
離宮の謁見の間に、太后ヒルデガルドの冷徹な声が厳かに響き渡った。
「――ルミエール王国第一王女フランシアと、ヴァルハイト公爵家嫡男、宰相補佐クロードの婚姻を内定とする。これより神殿への奏上を進め、来たる新月の夜会にて、諸侯の前で正式に披露目を行うものとす」
玉座の前、豪奢なベルベットの礼装に身を包んだミシャは、深く頭を垂れていた。
鯨骨のコルセットが胸を締め付け、呼吸のたびに薄い絹の布地が擦れ合う。
胸元の奥深く、肌身離さず忍ばせたセリアからの小さな手紙――あの森の素朴な香りが、皮膚を通して冷たい現実を突きつけていた。
隣に跪くクロード・フォン・ヴァルハイトは、完璧な臣下の礼を取りながら、一切の異論を挟まなかった。
かつて第一王女との政略結婚を公然と嫌悪し、冷徹な取引の道具としか見做していなかったはずの男。その横顔には今や、打算の影など微塵も残されていなかった。
「……儀礼の詳細は典礼省に一任します。下がりなさい」
ヒルデガルドの乾いた手招きとともに、重苦しい謁見が幕を閉じた。
退室を許された二人は、蜜蝋蝋燭の影が揺れる長い回廊へと歩み出る。近衛兵たちの規則正しい靴音だけが、高いアーチ天井に反響していた。
回廊の半ば、中庭の冷気が吹き抜ける大理石のバルコニーの陰で、クロードがふと足を止めた。
「フランシア様」
呼び止められ、ミシャは前下がりに切り揃えた黒髪を揺らして振り返った。
銀縁眼鏡を外したクロードの青い瞳が、遮るもののない至近距離からミシャを射抜く。その双眸に宿るのは、かつての冷たい検分ではない。熱く、純粋で、崇拝にも似た情熱の光だった。
クロードは静かに歩み寄り、白手袋の右手をそっと胸元へと当てた。
「あの温室で貴女に言葉を奪われて以来……私は、自らの盲目を恥じるばかりです。かつての私は、貴女の真の気高さを何一つ理解していなかった」
「……クロード卿?」
「太后陛下の敷いた敷石の上で踊るだけの婚姻など、唾棄すべき茶番だと思っておりました。ですが、今の貴女は違う。サロンで泥を投げつけられてなお、針一つで気高き花を咲かせ、理不尽に抗うその誇り……私は、魂を奪われた」
低く、抑えきれない震えを孕んだ声。
クロードは迷うことなくミシャの細い手を取り、自らの胸元へと引き寄せた。軍礼服の厚い織物越しに、男の激しい鼓動が直に伝わってくる。
「私は、今の貴女をお守りしたい。太后の支配からも、この国の古びた呪縛からも……貴女のその清冽な光を、私の命に代えても守り抜く」
嘘偽りのない、剥き出しの真情。
氷の官僚と呼ばれた男が、一人の女性に対して捧げた、生涯で最も真摯な誓い。
だがその言葉は、ミシャの胸の奥を鋭利な刃のように抉り抜いた。
(違う……。貴方が守りたいと願っているのは、王女フランシアなんかじゃない)
愛されているのは、王女の仮面を被った「森の針子ミシャ」の魂だ。
けれど、彼が口にする名は「フランシア」。
彼が忠誠を誓っている相手は、自分ではなく、運河の濁流に消えたもう一人の少女なのだ。
他人の名を騙り、他人の婚約者から熱烈な愛を奪い取っているという、逃れようのない重い欺瞞。
温かい手袋の感触が、ミシャの荒れた指先を焼くように痛む。
胸を掻き裂くような激しい罪悪感が、冷たい血となって全身を巡っていった。




