第29話:森からの便り
夜明け前の青薔薇の離宮は、深い霧の底に沈んでいた。
自室の窓辺に佇むミシャは、重厚な真鍮の掛け金を外し、ステンドグラスの硝子窓を細く開いた。冷たい湿った外気が流れ込み、火照った頬を撫でる。
サロンでの騒動、そしてクロードが跪いて手袋越しに落とした熱い口づけの感触が、いまも皮膚の奥で消えない棘のように燻っていた。
その時、庭園の暗がりからパタパタと微かな羽音が近づいてきた。
朝霧を裂いて現れたのは、喉元を赤褐色に染めた一羽の小さなコマドリ。
迷うことなく窓枠へと舞い降りた小鳥は、人懐こく首を傾げると、ミシャの指先に小さな嘴を擦り寄せた。
その細い足首には、神聖の森に自生する石楠花の樹皮で編まれた、極めて細い紐が結わえ付けられている。
「……セリア?」
息を呑み、震える指先でその紐を解く。
現れたのは、水車工房の泉で晒した薄い亜麻紙の切れ端だった。
懐かしい、森の土と乾いた草の匂い。
そこには、育ての親である長女セリアの、素朴で温かな筆跡が煤インクで小さく綴られていた。
『ミシャ、王都の仕事は無事に終わりましたか。
水車は今日も元気に回り、谷の白百合と紅薔薇は美しく咲いています。
あなたの納めたレースの評判を聞き、町から新しい注文も届きました。
無理をせず、いつでも森へお帰り。温かいスープを作って待っています』
視界が、じわりと滲んだ。
川原で拾われた名もなき赤子だった自分を抱き上げ、針の持ち方を教え、人としての温もりを注ぎ込んでくれた三姉妹の顔が、胸の奥を激しく締め付ける。
帰りたい。
今すぐにこの息苦しいコルセットを脱ぎ捨て、あの静かな石楠花の谷へ、朝日が差し込む水車小屋の作業台へ駆け戻りたい。
けれど、ミシャは唇を強く噛み締め、溢れそうになる涙を瞼の奥へと押し戻した。
戻れば、王家の追手が神聖の森を焼き尽くす。
本物の王女が運河の底へ消え、自分がこの身代わりの仮面を被り続けることだけが、あの愛する家族を守る唯一の盾なのだ。
「……ごめんなさい、セリア」
ミシャは手紙を小さく折り畳むと、肌身離さず身につけているコルセットの裏地、胸元の奥深くへと滑り込ませた。
そしてコマドリの小さな頭を一度だけ愛おしそうに撫で、そっと空へと押し出す。
「お帰り。……私はもう、帰れないわ」
羽ばたきを残し、小鳥は朝霧の彼方、神聖の森がある遥か北の空へと消えていった。
窓を静かに閉ざし、ミシャは前下がりに切り揃えた黒髪を冷たい朝風に揺らしながら、遠い地平を瞳に焼き付けるようにじっと見つめ続けた。
その横顔には、哀しみを呑み下した者だけが宿す、氷のように研ぎ澄まされた覚悟が張り詰めていた。
――カツ、と。
中庭を挟んだ対面の回廊、冷たい石柱の影に、長身の影が佇んでいた。
黒の軍礼服に身を包んだクロード・フォン・ヴァルハイト。
夜明け前の暗がりの中、窓辺で孤独な光を放つミシャの横顔を、熱を帯びた視線でただじっと射抜いていた。




