第28話:影の密談
礼拝堂を後にしたシスター・カリッサは、音もなく暗い回廊を渡り、離宮の北翼にある自室へと滑り込んだ。
重厚な扉を閉ざし、内鍵を下ろすと、冷えた夜気とは異なる濃厚な香膏の匂いが鼻腔を突く。
部屋を照らすのは、彫金を施した真鍮の鯨油ランプが一つだけ。薄暗い影の底で、壁に掲げられた黒檀の十字架が鈍い光を放っている。
カリッサは修道服の頭巾を払い落とし、豊かな黒髪を滑らかな肩先へと零した。青白い指先で首元の留め金を外し、机の上の小瓶から、青白い薬液を一滴だけ白磁の小皿へと垂らす。
その時、暖炉の奥の暗がりから、するりと一筋の黒い影が這い出してきた。
片目を失い、赤黒い傷跡を残した痩躯の黒猫。
猫は音もなくカリッサの踝にすり寄ると、喉の奥を低く鳴らしながら、人語を解する異様な光を宿した金色の片目を持ち上げた。
「……カリッサ様、あの小娘、なかなか肝が据わっておりますぜ」
老いた男の皺枯れ声を小さく凝縮したような、湿った掠れ声。
かつて王都の運河でフランシアを濁流へと跳ね飛ばした無紋馬車の傍らで、闇に紛れて佇んでいたあの使い魔――ニクスだった。
カリッサは小皿を床へ置き、冷笑を浮かべながら細い顎を持ち上げた。
「ふふ……滑稽ね。どれほど着飾ろうと、鳥籠の小鳥に変わりはないわ」
「へへっ、違いねえ。だが、あの布捌きといい、王弟の強突く張りをやり込めた算術といい、ただの我儘な姫君の器じゃございません。まるで、泥水を啜って生き延びてきた野良犬の悪あがきだ。……運河に沈めたはずの娘が、どこであんな牙を研いできたんで?」
「詮索は不要よ」
カリッサの冷たい指先が無造作に伸び、ニクスの頭を撫で下ろした。
鋭い爪が黒い毛並みの下の皮膚に食い込む。ニクスは逃げるどころか、歓喜に震えて喉をゴロゴロと鳴らした。
「本物が海の底で魚の餌になっていようと、あるいは見知らぬ泥棒猫が王女の皮を被って玉座に座っていようと……大奥様の手の平の上で踊っている限り、すべては筋書き通り。最後に血を流して果てるのは、あの忌まわしい血筋の者たちよ」
鯨油ランプの淡い光を浴びるカリッサの横顔には、聖職者の慈悲など微塵もなく、昏い悪意が美貌を歪めていた。
指先が離れると、ニクスは待ちかねたように皿の青白い液体に舌を伸ばし、ぺチャリと湿った音を立てて啜り始める。
小皿を舐め尽くした黒猫は、満足げに片目の金を細め、濁った声でカリッサを見上げた。
「カリッサ様、世辞じゃございませんが、今宵もお肌の張りはお見事で。とてもこの世の年月を重ねたとは思えねえ艶やかさだ」
「お黙り、ニクス」
カリッサは一瞥すらせず、暖炉の鉄の火かき棒を手に取ると、赤く熾きた薪を無造作に突き崩した。
バチリと火の粉が爆ぜ、黒い修道女の冷ややかな影が壁一面に跳ね上がる。
「暖炉にくべるわよ」




