第27話:黒い修道女の囁き
夜の帳が降りた離宮の礼拝堂は、冷え切った大理石の墓所のような静寂に沈んでいた。
ステンドグラスから差し込む鈍い月光と、祭壇に並ぶ何十本もの蜜蝋蝋燭の炎が、壁面の殉教者像の影を歪に揺らしている。
跪いてロザリオを爪弾くのは、ルミエール王国の真の支配者――太后ヒルデガルド。
豪奢な漆黒のベルベットドレスを纏い、白銀に染まった髪を高く結い上げた女帝の背中は、老いてなお一片の隙も許さぬ威厳を放っていた。
その背後から、音もなく黒い影が滑り寄る。
床を擦る裾の音すら立てず、跪く太后の傍らへ膝をついたのは、美貌の修道女シスター・カリッサ。
陶器のように青白い肌に、夜の湖のように底知れぬ漆黒の瞳。黒い修道服の胸元には、銀の十字架が揺れていた。
「……大奥様」
カリッサの吐息混じりの囁きが、冷えた祭壇の空気を撫でる。
ヒルデガルドは目を閉じたまま、ロザリオの琥珀玉を一つ爪先で送った。
「何か、カリッサ。夜の祈りを遮るほどの凶報でもあるというのかえ」
「サロンでの一幕をお耳に入れねばと思いまして。……フランシア様が、典礼尚書家のご息女の非礼に対し、見事な仕置をなさったとのこと」
「見事な、だと?」
ヒルデガルドの眉根がわずかに動く。
幼少より癇癪持ちで、少しの嫌がらせにも金切り声を上げて取り乱すことしかできなかったあの出来損ないの孫娘。その無能さこそが、自らの敷いた盤上で都合のよい駒となるはずだった。
「ええ。引き裂かれた絹の裾を、その場であの細い指先一つで、誰も真似できぬ豪奢な薔薇の刺繍へと仕立て直されたそうでございます。……まるで、生涯を針一本で生き抜いてきた熟練の職人のように」
カリッサの薄い唇の端が、毒を孕んだ弧を描く。
女はさらに顔を寄せ、太后の耳元へと甘美な毒を注ぎ込んだ。
「王弟フェルディナント様の強引な覚書を破り捨て、サロンの嘲笑をねじ伏せ、あの冷血と名高いクロード卿をして膝を屈せしめた……。あまりに鮮やか、あまりに過剰でございます。近頃のフランシア様は、まるで別人のよう……。宮廷の香水ではなく、野山を吹き抜ける森の荒々しい息吹をまとっておいでです」
森の息吹――。
その言葉が落ちた瞬間、ヒルデガルドの指先がピタリと止まった。
かつて、王妃アデレイドを巡る呪わしい過去。
神聖の森にまつわる古い禁忌と、王家の血脈の裏に葬り去ったはずの記憶の澱が、太后の胸中で疼く。
「……身代わりを立てる度胸など、あの愚か者にあるはずもないが」
ヒルデガルドがゆっくりと目を開いた。
蜜蝋の赤い火影を映すその双眸は、老鷹のように獰猛で、険しい光を宿している。
王家の威信を揺るがすいかなる異物も、この女帝の檻の中で息をすることは許されない。
「あの子の監視を強めなさい、カリッサ。爪を剥ぎ、嘴を折る必要があるかどうか……この目で確かめてやる」




