第26話:白銀の賛美
針を落としても聞こえるほどの静寂が、広大なサロンを支配していた。
エレノアは蒼白な顔で立ち尽くし、取り巻きの令嬢たちは息を殺して視線を泳がせている。
無惨に引き裂かれた薄絹の上に咲き誇る、血のように鮮やかな立体刺繍の紅薔薇。誰の目にも明らかな悪意の罠を、自らの指先一つで奇跡の芸術へと仕立て直してみせたミシャの周囲だけ、冷え切った神域のように空気が張り詰めていた。
その静寂を破り、大理石の床を踏み鳴らす規則正しい靴音が響いた。
サロンの回廊側、巨大なタペストリーの影から姿を現したのは、黒の軍礼服を着崩すことなく纏った男――宰相補佐クロード・フォン・ヴァルハイトだった。
銀縁眼鏡の奥の青い双眸は、一部始終をその冷徹な視野に収めていたことを物語っている。
集っていた貴族たちの間に、かすかな動揺が走る。
若き天才官僚であり、太后ヒルデガルドの懐刀。規律と合理性を信奉するこの男の前で粗相を犯したとなれば、典礼尚書家とて無傷では済まない。エレノアの喉がひくりと震えた。
だが、クロードは青ざめる令嬢たちを一瞥すらしなかった。
男の視線はただ一点――切り揃えられた黒髪を靡かせ、毅然と立ち塞がるミシャの姿だけに注がれていた。
敷石を擦る足音が、ミシャの正面で止まる。
次の瞬間、サロン中の息を呑む気配が重なった。
あの氷の官吏と恐れられるクロードが、軍礼服の裾を翻し、恭しく右膝を床へと突いたのだ。
「……クロード卿?」
ミシャの眉がわずかに動く。
男は頭を垂れることなく、真下からミシャの菫色の瞳を仰ぎ見ていた。その端正な顔立ちを覆っていた硬質な仮面は剥がれ落ち、眼鏡の奥の青い光は、熱を帯びて微かに揺らめいている。
「実に見事な手腕だ、フランシア様。泥を投げつけられてなお、それを気高き薔薇へと変えてみせる……あなたのその誇り高さに、心より敬服いたします」
低く、よく通る声がサロンの梁に染み渡る。
それは単なる婚約者としての形式的な庇護ではなかった。身勝手で浅薄だと蔑んでいたかつての王女とはまるで異なる、過酷な逆境を自力で切り裂いて立つその魂への、剥き出しの賛辞。
「汚辱に屈せず、刃を呑んで笑みを返す。その強さこそ、我が国の王家に相応しい」
クロードは白手袋を嵌めた右手を静かに差し伸べ、ミシャの華奢な指先をすくい上げた。
針を握り続けたことで微かに固くなった皮膚の感触が、上質な鹿革越しに伝わってくる。
男は引き裂かれたドレスに顔を寄せるように、ミシャの甲へと恭しく唇を落とした。
吐息の熱が、手袋の布地を透かしてミシャの皮膚を焼く。
顔を上げたクロードの青い瞳。
そこに宿っていたのは、かつての冷徹な監視の光などでは断じてなかった。
暴くべき不審者への疑念すらも呑み込み、焼き尽くさんばかりの、底知れぬ熱烈な崇拝――そして、狂おしいまでの恋情だった。




