第25話:針子の奇跡
嘲笑の波が、サロンの天井を揺らしていた。
無惨に引き裂かれ、血のような赤葡萄酒に染まったペールグリーンの薄絹。エレノアと取り巻きの令嬢たちは、恥辱に耐えかねて泣き崩れるか、あるいは醜く取り乱す王女の姿を待ち望み、嗜虐的な笑みを深めていた。
だが。
ミシャの唇から漏れたのは、悲鳴ではなく、冷ややかな吐息だった。
「……なるほど。これが典礼尚書家のお嬢様の、精いっぱいの歓迎の儀というわけね」
ミシャは乱れた裾を払うこともなく、優雅に長椅子から立ち上がった。
その双眸には、涙の一滴すらない。過酷な冬の森を生き抜き、エデル商会で海千山千の奸商たちを相手に端切れの一枚まで計算し尽くしてきた針子の瞳は、研ぎ澄まされた刃のように冴えわたっていた。
ミシャは腰布の内側、誰の目にも触れぬペチコートの隠しスリットへと指先を滑らせた。
指先に触れる、冷たい金属の感触。
森を出る際、妖精三姉妹から託された細身の銀針と、水車小屋の泉の水で晒した、光を吸って妖しく艶めく特製の銀撚り糸。
「何を突っ立っていらっしゃいますの? そんなみっともないお姿、早く部屋へ引き籠もって――」
エレノアが勝ち誇ったように嘲笑いかけた、その瞬間だった。
ミシャは躊躇いなく床へ片膝をつくと、引き裂かれたドレスの裾を自らの膝の上へと引き寄せた。
白磁の指先が、目にも留まらぬ速さで銀針に糸を通す。
「な……何を――」
言葉を挟む暇すら与えなかった。
シュッ、シュッ――と、絹擦れの鋭い音が静寂を支配する。
ミシャの針捌きは、もはや人間のそれですらなかった。
裂けて毛羽立った薄絹の断端を素早く内側へと折り込み、複雑なドレープを瞬時に形成する。ワインが染み込んだ赤黒い楕円――普通なら洗っても落ちぬ致命的な汚れを、ミシャは隠すのではなく、あえてその中心へと銀針を突き立てた。
ワインの染みを、花弁の陰影に見立てる。
銀糸が縦横無尽に走り、裂け目を波打つ襞へと変え、赤黒い染みの上に立体的な薔薇の蕾を次々と縫い上げていく。
布を寄せるたび、汚れは深紅のグラデーションを帯びた豪奢な花弁へと昇華され、銀のステッチが朝の光を弾いてきらめいた。
わずか数十秒の、神業。
ミシャは歯先で銀糸をプツリと噛み切ると、静かに立ち上がり、ドレスの裾をふわりと広げてみせた。
「っ……あ……!」
サロンの貴族たちの間から、息を呑む音が漏れた。
そこにあったのは、汚された布切れなどでは断じてなかった。
淡い若草色の絹海を裂いて咲き誇る、血のように濃密で立体的な「紅薔薇の園」。破れた裾はアシンメトリーな最新鋭のドレープへと生まれ変わり、王都のいかなる高級仕立屋でも再現不可能な、息を呑むほど前衛的で気品に満ちた極上の意匠へと変貌を遂げていた。
先ほどまで嘲弄を浮かべていた令嬢たちの顔から血の気が引き、エレノアは扇子を取り落として呆然と立ち尽くしている。
冷たい静寂の中、ミシャはゆっくりと歩みを進めた。
新しく生まれ変わった薔薇の裾を優雅に揺らし、エレノアの目の前、わずか一歩の距離で足を止める。
そして、夜露を湛えた菫色の瞳で、青ざめた令嬢を見下ろした。
「まさか人のドレスにこのような粗相をして、口先の詫びで済まそうとは思っておりませんよね?」
氷柱を突き刺すような、冷徹な囁き。
ミシャの唇の端が、ぞっとするほど美しい弧を描く。
「この仕置、後日たっぷりとお返ししてさしあげますわ」
気圧されたエレノアの喉が引き攣り、言葉にならぬ怯えがその瞳を染め上げていく。
サロンの誰もが、ただ圧倒的な威厳の前に平伏するしかなかった。




