第24話:ドレスの罠
極上な紅茶の香気と、白粉の甘ったるい匂いが澱む青薔薇の離宮のサロン。
豪奢なバロック様式のアーチ窓からは柔らかな朝の陽光が差し込んでいたが、そこに集う貴族たちの視線は、冬枯れの森のように冷え切っていた。
ミシャは銀のスプーンをソーサーへ静かに置き、背筋を伸ばして座っていた。
纏っているのは、鯨骨のコルセットで極限まで締め上げたペールグリーンの絹織りドレス。首元には繊細な手織りレースの襞襟が立ち、切り揃えたばかりの漆黒の前下がりボブが、白磁のうなじを際立たせている。
サロンの空気は、張り詰めた嘲弄に満ちていた。
王弟フェルディナントの契約書を破り捨てたという噂は、早くも宮廷の耳聡い貴族たちの間に歪んだ形で広まっていた。
――「気位ばかり高い無能な姫君が、婚約を控えて乱心した」。
太后ヒルデガルドの寵愛を傘に着る高位貴族の令嬢たちにとって、孤立無援の第一王女など、格好の鬱憤晴らしの標的に過ぎない。
「まあ、フランシア様。そのお髪、王都の流行り神の真似事かしら? ずいぶんと……奇抜でいらっしゃること」
扇子越しに忍び笑いを漏らしながら近づいてきたのは、典礼尚書の息女エレノアだった。
胸元をこれ見よがしに開けた真紅のベルベットドレスを波打たせ、取り巻きの令嬢たちを引き連れてミシャの長椅子を取り囲む。
「平民の踊り子ならいざ知らず、由緒正しき王家の姫君がそのような短髪では、クロード卿もお嘆きになりましてよ。……お可哀想に、大奥様の厳しいお言いつけに、とうとう頭がお狂いあそばされたのかしら」
取り巻きたちから、さざ波のような嘲笑が漏れた。
ミシャは眉ひとつ動かさず、冷たい菫色の瞳でエレノアを真正面から射抜いた。
「他人の髪の長短を論じる前に、ご自身の教養の短さを心配なさってはいかが? 典礼省のお嬢様が、朝のサロンで他家の内情を口汚く囀るなど、どんな下民の酒場でも見かけませんことよ」
「なっ……!」
エレノアの白粉で固められた頬が、屈辱で引きつった。
かつて罵倒されるたびに癇癪を起こし、自ら孤立を深めていた愚鈍な王女とはまるで違う。返された言葉の鋭さに気圧されたエレノアは、取り巻きの手前、引き下がるわけにはいかなかった。
女の濁った瞳に、陰湿な悪意が宿る。
「……生意気な。身代わりのように捨て置かれた日陰者が!」
エレノアは給仕の銀盆から、満たされたばかりのカットグラスを掠め取った。
新大陸航路を経て運ばれた、血のように重厚な赤葡萄酒。
「失礼、フランシア様。手が滑って――」
わざとらしく傾けられたグラスから、真っ赤な液体が弧を描いて宙を飛んだ。
ミシャは咄嗟に身を引いたが、逃げ場のない長椅子の上、ペールグリーンの薄絹の裾へと容赦なく葡萄酒が降り注いだ。
ジュッと染み渡る、おびただしい赤黒い染み。
それだけに留まらず、エレノアは身をよろめかせる芝居を打ちながら、自らの硬い革底のヒールを、床に広がったミシャのドレスの裾へと力任せに踏み下ろした。
――ビリッ、ビリビリッ!
絹糸が悲鳴を上げて引き裂かれる音が、サロンの歓談を凍りつかせた。
何重にも重ねられた繊細なペチコートと手織りのレースが、無残に裂け、靴底の泥と赤ワインで汚泥のように塗り潰される。
「まあ! 大変、ごめんなさいませ! 足元がもつれてしまって……ふふ、でも、泥に塗れたそのドレス、今の貴女には実にお似合いですこと」
エレノアは扇子で口元を隠し、勝ち誇った冷笑を浮かべた。
周囲の令嬢や若手貴族たちも、誰一人としてミシャを庇おうとはしない。むしろ、汚れたドレスを見下ろし、娯楽劇の幕引きを待つ観客のように冷酷な蔑みの視線を投げかけてくる。
孤立無援。
引き裂かれた裾を踏みにじられ、葡萄酒の血飛沫を浴びた「偽りの王女」を取り囲むのは、幾重にも連なる冷酷な嘲笑の壁だった。




