第23話:朝の異変
床に散らばった黒髪の残骸を暖炉の灰の中に放り込み、夜明けの冷気が漂う部屋の空気を入れ替えた頃合いだった。
コン、コン――。
無機質で、一切の感情を交えない乾いたノックが二度。
「失礼いたします、フランシア様。朝のお召し替えの刻限でございます」
返答を待つこともなく、重い樫の扉が押し開かれた。
入ってきたのは、灰色の髪を寸分の狂いもなく夜会巻きに固め、黒い更紗のドレスに白の縮緬エプロンを纏った侍女頭マルガレーテ。太后ヒルデガルドの懐刀であり、この離宮における最も冷酷な監視役の老女だった。
背後には、湯気の立つ銀の水盤や亜麻布のタオルを抱えた若い下級侍女たちが、息を潜めて従っている。
「今朝は大奥様より、典礼省との朝餉の席に同席するよう仰せつかっております。すぐにコルセットの――」
機械的に告げながら視線を持ち上げたマルガレーテの言葉が、途中で唐突に途切れた。
化粧台の前に腰掛け、姿見越しに静かに視線を投げかけてくる主の姿。
その首筋を目にした瞬間、老侍女頭の細い目が驚愕に見開かれ、銀のトングを持った指先がピクリと硬直した。
肩口まで伸びていたはずの豪奢な巻き毛が、跡形もなく消え去っている。
白磁のうなじを惜しげもなく晒し、耳朶の輪郭を露わにしながら、顎のラインへと鋭角に落ちる冷徹な前下がりボブ。
乱れひとつない刃物のような切り口と、紅を引いた薄い唇。
深窓の姫君が持つはずのない、研ぎ澄まされた刃のような異様な気迫が、部屋全体の空気を底冷えするほどに支配していた。
「な……っ、フランシア様……その、お髪は……!」
マルガレーテの掠れた声に、背後の若い侍女たちから小さな悲鳴が漏れかけた。
王侯貴族の女性にとって、髪は血統の誇りであり、大奥様の意向に従う従順さの象徴でもある。それを自ら断ち落とすなど、正気の沙汰ではない。
「大奥様に何とお詫び申し上げればよいか……! どなたの差し金です、そのような無残な短髪に――」
「騒々しいわね、マルガレーテ」
低く、だが骨の髄まで染み通るような冷たい声が響いた。
ミシャはゆっくりと椅子から立ち上がり、床に裾を引くシュミーズのまま、侍女頭の前へと歩み出た。
夜露を含んだ菫色の双眸が、老女の動揺を値踏みするように見下ろす。
森で培った鋭敏な五感と、エデル商会で海千山千の商人たちを黙らせてきた不屈の胆力。怯えや迷いは、微塵もその瞳に宿っていない。
「気分転換ですわ。……文句がおあり?」
「し、しかしながら、殿方への輿入れを控えた身で、このような奇矯な振る舞いは大奥様がお許しに――」
「大奥様、大奥様と、壊れたオルゴールのように繰り返すのはおやめなさい」
ミシャは冷ややかに唇の端を吊り上げ、一歩、間合いを詰めた。
至近距離から射抜かれる清冽な光。
昨日の朝、王弟フェルディナントの強欲な略奪契約を白日の下に晒し、目の前で引き裂いてみせた王女の冷徹な迫力が、余すところなく放たれていた。
「この髪を整えたのは私自身です。婚姻の道具として値踏みされるだけの小鳥でいることに飽きたのよ。……それとも何か、私がどのような頭髪でいようと、この身体に流れる王家の血が揺らぐとでも思っているの?」
「め、滅相もございません……っ!」
マルガレーテの背筋に、氷水を流し込まれたような戦慄が走った。
かつての我儘で愚鈍なフランシア王女ではない。
他人の顔色を窺うどころか、宮廷の暗渠に巣食う者たちの喉元をいつでも切り裂けるだけの牙を剥き出しにした、猛禽の如き威厳。
「なら、手早く服を着せなさい。典礼省の役人どもを待たせる趣味はありませんわ」
ミシャが背を向け、両腕を広げる。
その圧倒的な気迫に気圧されたマルガレーテは、言葉を失ったまま、床につくほど深々と腰を折って平伏した。




