第21話:裁ち鋏
重厚な樫の扉が閉ざされ、錠が下りる硬質な音が部屋の静寂を切り裂いた。
ミシャは背を預けていた扉から滑り落ちるように、絨毯の上へ膝をついた。
指先が小刻みに震えている。
先ほど、買い出しから戻った下級侍女が、他の使用人と囁き合っていた噂話――。
『聞いたか? 夕暮れの運河に若い女が落ちたって話』
『暴走した無紋の辻馬車に跳ね飛ばされたらしいよ。折悪く外海への引き潮の時刻だ。水死体すら上がっちゃいない……生存は絶望的だってさ』
頭の奥で、鐘の音が乱打されるように響いていた。
嘘だ。信じたくない。
けれど、約束の日没の鐘が鳴り止んでも、夜が明けても、フランシアは廃礼拝堂へ戻ってこなかった。
身代わりを頼んできた時の、あの哀しげで、何かに追い詰められていた菫色の瞳。
――夕暮れの鐘が鳴る前に、必ず戻るわ。ありがとう、私の白百合。
あれが、この世の別れだったというのか。
(本物は……もう戻らない)
喉の奥がカラカラに渇き、冷たい悪寒が足元から這い上がってくる。
逃げ出さなければならない。今すぐこの息苦しいコルセットを脱ぎ捨て、あの神聖の森へ、石楠花の谷の古い水車小屋へ走って帰らなければ。
だが、思考の端で、凍りつくような現実が首をもたげる。
もし自分が消えればどうなるか。
第一王女の失踪は、国家を揺るがす大罪だ。
太后ヒルデガルドの冷徹な手先が王都中を、そして近隣の森の隅々まで虱潰しに捜索するだろう。
川原で自分を拾い、実の娘のように育ててくれた妖精の三姉妹――長女セリア、次女、三女。あの穏やかで慎ましい水車工房の暮らしが、王国軍の土足とフリントロック銃の銃声によって無残に踏みにじられる。
「……逃げられない」
乾いた声が、蜜蝋蝋燭の揺れる豪奢な天蓋寝室に落ちた。
逃亡の道は、初めから断たれている。
ここで正体を告白すれば、王室を騙った大逆罪として即刻ギロチン台送り。逃げれば森の家族が皆殺し。
残された道は、たった一つしかなかった。
(生き延びるのよ。フランシアが、帰ってくるその日まで……私が、この鳥籠で)
ミシャは震える膝に力を込め、ゆっくりと立ち上がった。
足音を忍ばせて豪奢な象嵌細工の化粧台へと歩み寄る。
南蛮渡来の香油や紅の小壺が並ぶ引き出しの奥――その最深部に隠してあった、粗末な端切れの包みを取り出した。
布を解くと、鈍い銀光が露わになる。
森を出る朝、長女セリアが「身を守るお守り代わりに」と持たせてくれた、古い鋼の裁ち鋏。
何万丈もの最高級の亜麻を断ち、硬い革をも噛み切ってきた、研ぎ澄まされた職人の刃。
ミシャは冷え切った鋼の感触を掌で確かめると、大きな姿見の前に立った。
鏡の中にいるのは、怯えを押し殺し、森の粗野な息吹を隠しきれずにいる一人の少女。
背中まで豊かに波打つ、艶やかな黒髪。
それは森の清流で洗い、妖精たちが毎朝梳かしてくれた、ミシャ自身の生きてきた証そのものだった。
だが、この髪の長さのままでは、いずれ誰の目にも欺瞞が暴かれる。
本物の王女フランシアの髪は、王都の流行の先端をゆく、肩口で切り揃えられた鋭く優美な前下がりボブなのだから。
ミシャは細い顎を引き、菫色の双眸で鏡の中の自分を冷酷に見据えた。
裁ち鋏の刃を大きく開き、自慢の長い黒髪を、根元近くから一掴みに握りしめる。
鋼の冷たさが、首筋の皮膚を粟立たせた。




