第20話:筆跡の罠
床に散らばった羊皮紙の破片を拾い上げ、ミシャは指先でその署名をなぞった。
――Claude von Wahrheit。
鉄筆の払いに迷いがなく、規則正しく傾斜した端正な飾り文字。昨夜、青薔薇の温室でアヘンチンキの投与量を記録していたあの手帳の文字と、筆圧もインクの乗りも寸分違わない。
(あの冷徹な男が、父親のこんな杜撰な略奪契約に加担している……?)
脳裏に浮かぶのは、月光の下で感情を削ぎ落としていたクロードの青い瞳。国家の法規と秩序を信奉する能吏が、王室を食い物にする赤字補填の片棒を担ぐなど、あまりに歪で不自然だった。
ミシャは膝をついたまま、破られた紙片の断面を光にかざした。
針子としての修練は、布の織り目だけでなく、羊皮紙や紙の質感の違和感をも敏感に捉える。
指先を滑らせると、署名の一角だけ、微かに紙肌のざらつきが異なっていた。
(……インクの吸い込みが違う)
公爵家の承認印が押された赤い封蝋の縁。そのわずか数ミリ横の羊皮紙の表面が、極めて薄く、ナイフの刃先で削り取られた痕跡。
元々書かれていた別の文言を削り落とし、その上からクロードの署名を偽造したか、あるいはクロードが別の正式書類にサインした用紙を、フェルディナントが勝手にこの覚書の最終頁として流用したのだ。
「強欲な上に、小細工まで下劣……」
ミシャが呟いた瞬間、サロンの扉がノックもなく開かれた。
敷石を擦る、硬質で無機質な靴音。
跳ね上がるように顔を上げたミシャの視線の先に立っていたのは、噂の主その人――黒の軍礼服を着崩すことなく纏った、クロード・フォン・ヴァルハイトだった。
眼鏡の奥の青い双眸が、床一面に散乱した羊皮紙の破片と、それを手に持ったまま立ち尽くすミシャの姿を瞬時に検分する。
「……サロンがずいぶんと荒れているようですね、フランシア様」
「ごきげんよう、クロード卿。人の部屋へ入る際、ノックという礼儀作法をお忘れになったのかしら」
ミシャは立ち上がり、ドレスの裾を払うと、拾い上げた破片を指先で弄びながら嘲弄の笑みを浮かべた。
クロードは表情一つ変えず、ゆっくりと部屋の中央央央央へと進み出る。その冷徹な視線が、ミシャの掌にある自らの署名へと落ちた。
「父が先ほど、血相を変えて離宮を飛び出して行くのを見かけました。……王家の財政を掠め取ろうとした書類は、無残に始末されたようですね」
「あら、ご存じでしたの? でしたら、なおさらお伺いしたいわ」
ミシャは臆することなく大理石の円卓を回り込み、クロードの胸元、銀の飾り鎖が下がる至近距離まで歩み寄った。
そして、男の眼前へと、その署名の破片を突きつける。
「この恥知らずな契約書の末尾に、なぜ貴方の高潔な名が刻まれているのかしら。叔父様と手を組んで王室を喰い物にするのが、宰相補佐殿の掲げる『合理性』とやら?」
至近距離で放たれる、夜露のように澄み渡った菫色の瞳の光。
クロードの喉元が微かに動き、眼鏡の奥の青い光が鋭利に細められた。
「……私の名を騙った父の偽造工作です。三日前、領地の治水工事に関する決裁書に私が署名した用紙を、父が抜き取り流用した。今朝その紛失に気づき、回収に参ったところです」
「言い訳としては上出来ね。けれど、もし私がサインしていたら、貴方はどうするおつもりだったの?」
「即座に告発し、父諸共、貴女を大奥様の面前へ引きずり出していたでしょう」
冷淡極まりない返答。だが、その声には昨夜のような見下すような響きは失われていた。
クロードはミシャの指先から、そっと羊皮紙の破片を抜き取った。その際、男の白手袋が、ミシャの荒れた指先の角質をかすめる。
「……ですが、貴女はサインしなかった。それどころか、複雑に偽装された契約の罠を、わずかな時間で見破り破棄した」
男の青い瞳が、ミシャの顔を深く、値踏みするように射抜く。
かつてのフランシアには絶対に不可能な芸当。
なぜ、サロンの温室育ちの王女が、悪徳商人のような鋭い鑑識眼を持っているのか。
深まる疑念。けれどその奥底で、クロードの感情をざわめかせているのは、暴くべき敵への警戒だけではなかった。
「貴女は何者です、フランシア様。……いえ、貴女は一体、どこでその『爪』を研いできたのですか」
張り詰めた沈黙の中、クロードの低い問いが、サロンの空気を重く震わせた。




