第17話:冷徹な青
温室の冷気が、月光に透ける硝子ドームの下で凍りついていた。
二人の距離は、わずか三歩。
クロード・フォン・ヴァルハイトは隙のない黒の軍礼服のまま微動だにせず、氷晶のような青い瞳で、影から歩み出たミシャを射抜いていた。銀縁眼鏡のレンズに、青薔薇の暗い茂みと冷たい月影が反射する。
「……夜這いにしては、随分と無粋な足音ですこと。クロード卿」
ミシャの凛とした嘲弄の声が、静寂を切り裂いた。
下着同然の薄いシュミーズ姿。素足の指先は冷たい大理石に晒され、心臓は早鐘のように肋骨を叩いている。だが、顎をわずかに上げ、夜露を孕んだ菫色の瞳で真正面から男を見据えるその立ち姿に、微塵の竦みもなかった。
森で飢えた狼に出くわしたとき、背中を見せて怯えた獣から喉笛を噛み千切られる。怯えを気取られてはならない。
「心外な物言いをなさる」
クロードは抑揚のない声で応じ、胸元の銀鎖に触れていた白手袋の指先を降ろした。
「私はただ、客観的事実と法規を口にしたまでです。大奥様の命により、アデレイド様の病状管理および本温室の封鎖管理は、宰相府と典礼省の直轄権限下にある。王家の第一王女とはいえ、無許可で立ち入ることは重大な規律違反に当たります」
「規律、ね」
ミシャは小さく息を漏らし、ふっと冷笑を浮かべてみせた。
「母の顔を見に来て、何が悪いのですか」
「……何?」
「病に伏せる実の母の手を握り、その無事を祈ることすら、官僚の手帳に記されたインクの染みに許可を乞わねばならないのかしら。そんな薄情な法なら、薪にして暖炉に放り込んだ方がよほど役に立ちますわ」
淀みのない、刃のような言葉。
クロードの眼鏡の奥で、青い瞳が微かに細められた。
「……情を語る場ではありません。それに、フランシア様。貴女は昔から、アデレイド様を直視することすら恐れておられたはずだ。かつてこの温室に引き据えられた際、泣き叫んで卒倒しかけた貴女が、なぜ夜陰に乗じて素足で忍び込むなどという真似を?」
本物のフランシアが抱えていた過去のトラウマ。男は容赦なく、その急所を抉るように踏み込んでくる。
だが、ミシャはその冷徹な追及から目を逸らさなかった。
一歩、前に踏み出す。
「人は変わるものよ、クロード卿。……鳥籠の扉が開かないのなら、自ら鍵を壊す覚悟を決めただけです」
「鍵を壊す、だと?」
「ええ。大奥様の人形同士で手を取り合って、冷めきったスープを啜るような余生を送るくらいなら……私は、母様がなぜここに閉じ込められているのか、この目で確かめておきたかったのよ」
夜露のように澄んだ菫色の瞳。
そこにあるのは、かつてのフランシアが浮かべていた傲慢な癇癪でも、愛を乞う小鳥の怯えでもなかった。
過酷な風雪に耐え、凍てつく冬を自らの針一本で生き抜いてきた者だけが宿す、研ぎ澄まされた清冽な光。
「……っ」
クロードの喉元が、微かに引き攣れたように動いた。
理路整然と感情を排し、あらゆる人間を「盤上の駒」として処理してきた若き秀才の唇が、咄嗟の反論を失って凍りつく。
愚かで、浅薄で、扱いづらいだけの王女――そう軽蔑し切っていたはずの少女から放たれる、息を呑むほどに純粋で気高い熱量。
白磁の鎖骨に浮かぶ青黒い「薔薇の痣」すら、男の瞳を焼き焦がすような不穏な神々しさを帯びて見えた。
「……夜這いなどという下品な言葉遣い、大奥様の前では慎まれることです」
吐き出された声は、先ほどまでの冷徹な響きを装いながらも、どこか僅かに掠れていた。
クロードは視線を強引にミシャから外し、懐中時計の蓋をパチンと乾いた音を立てて閉じる。
「夜風が毒です。……明日の朝には、典礼省の使者も参る。自室へお戻りなさい」
男はそれ以上の詰問を放棄するように、背を向けた。
敷石を削る鋭い靴音が、温室の硝子扉の向こうへと遠ざかっていく。
足早に立ち去る背中を見送るクロードの胸の奥で、氷のように張り詰めていた秩序の歯車が、説明のつかない激しい動揺とともに軋みを上げていた。




