第16話:氷の宰相補佐
硝子柱の影、青薔薇の棘がペチコートの薄い布地をかすめる。
ミシャは腰の奥の裁ち鋏に添えた指の力をわずかに抜き、呼吸の音すら喉の奥で噛み殺した。
森で狩人の罠をやり過ごす時のように、全身を周囲の暗闇へと同化させる。
敷石を削る規則正しい靴音が、寝台の三歩手前で止まった。
月光を背負った男の影が、大理石の床に細長く伸びる。
隙のない黒の三つ揃え軍礼服。胸元には王室官僚の証である銀の鎖が幾筋も下がり、一切の皺を許さない完璧な身なり。
銀縁眼鏡の奥から放たれる青い双眸は、感情の一切を削ぎ落とした氷晶のようだった。
クロード・フォン・ヴァルハイト。
王弟フェルディナントの長男にして、若くして宮廷の実務を牛耳る宰相補佐――そして、太后がフランシアにあてがった婚約者。
クロードは懐から金無垢の懐中時計を取り出し、親指で蓋を跳ね上げた。
チク、タク、と無機質な秒針の音が温室の静寂を刻む。
「……脈拍の減衰、呼吸数の一致。本日のアヘンチンキの投与量は規定通り、と」
懐中時計を収めると、クロードは手帳を取り出し、鉄筆で手早く記号を走らせた。
その視線には、病床の王妃に対する憐憫も畏怖も存在しない。あるのはただ、精巧な機械の摩耗度を記録する技術者のような、冷徹な観察眼だけだった。
だが、手帳を閉じたその瞬間。
クロードの視線が、寝台の縁に落ちた。
大理石の床に残された、かすかな濡れた染み。
先ほどまでミシャが流していた、熱い涙の痕。
さらに、跳ね上げられたままのシーツの皺と、わずかに乱れた青薔薇の茂み。
クロードの眼鏡の奥の光が、鋭利な刃物のように細められた。
「……誰だ」
低く、抑揚のない声。
男の右手が、軍礼服の腰元に佩いたサーベルの柄へと音もなく滑り落ちる。
敷石を踏む足音が、再び始まった。
迷いのない、確信に満ちた足取り。硝子柱の影――ミシャが潜む茂みへと、真っ直ぐに近づいてくる。
(……逃げられない)
あと五歩、四歩。
見つかって「なぜここにいる」と問われれば、即座に大奥様の元へ引きずり出され、正体を暴かれる。
追い詰められたミシャの脳裏で、冷たい火花が弾けた。
隠れるから怪しまれるのだ。
堂々と踏み出せばいい。この身体は今、誰も逆らえぬ第一王女なのだから。
ザッ、と青薔薇の枝を払う衣擦れの音が響いた。
「そこにいるのは――」
「夜這いにしては、随分と無粋な足音ですこと。クロード卿」
凛とした嘲弄の声とともに、ミシャは影の中から歩み出た。
月光が、乱れた黒髪と、白磁の肩を露わにしたシュミーズ姿のミシャを青白く照らし出す。
顎をわずかに上げ、夜露を含んだ菫色の瞳で、冷徹な官僚の視線を真正面から射抜く。
クロードの足が、ピタリと止まった。
感情を殺していた男の青い双眸に、わずかな動揺の波が走る。
「……フランシア様?」
「婚約の内定が決まったからと、夜更けに淑女の寝室へ忍び込む真似はおよしなさい。……それとも、官僚の方々は、法律だけでなく他人のプライベートの侵し方まで書物でお勉強なさるのかしら?」
皮肉を込めて唇の端を吊り上げるミシャ。
だが、クロードは驚きを瞬時に消し去ると、サーベルの柄から手を離し、眼鏡を押し上げた。
その氷のような瞳が、ミシャの素足、そして白磁の鎖骨に刻まれた「薔薇の痣」へと無遠慮に注がれる。
「……立ち入りを禁じられているはずの温室に、護衛もつけず下着同然のお姿で潜んでおいでとは。大奥様にお耳に入れれば、明日の朝には修道院行きになりかねませんよ」
「あら、脅迫かしら? 大奥様を盾に取らねば、女一人ねじ伏せる言葉も持たないの?」
一歩も引かないミシャの眼差し。
二人の視線が、青薔薇の香気が澱む温室の闇の中で、火花を散らすように激突した。




