第13話:針の傷
太后の乾いた皮膚が、ミシャの右手の甲に触れた瞬間、凍りつくような冷たさが骨まで染み渡った。
節くれ立った指先が、容赦なく掌を裏返し、指腹を強く撫で上げる。
そこにあるのは、深窓の姫君が持つべき柔らかな象牙色の皮膚ではない。何万回と麻布を押し通
し、針の頭を受け止めてきた右手中指の硬い角質。そして、人差し指と親指の先を無数に染める、針刺し事故の微小な痕跡だった。
「......顔を上げなさい、フランシア」
低く絞り出すような声が、石造りの広間に落ちる。
太后ヒルデガルドの眉根が険しく寄り、冷ややかな灰色の瞳が、獲物の喉笛を狙う猛禽のように細
められた。
「この無様な指先は何事ですか。まるで路地裏で糸車を回す貧民の小娘のような擦れ様......。王家の第一王女の手が、いつからこのような浅ましい傷に汚されるようになったのです」
背後で控える近衛兵たちの息を呑む気配。侍女頭マルガレーテの鍵束が、不穏にジャラリと鳴った。
一歩間違えれば、替え玉であることが白日の下に晒される。
けれど、ミシャの背筋は微塵も揺らがなかった。
森で吹雪に閉ざされた夜、指先の感覚を失いながらも糸目を一本も違えずに仕上げた極限の記憶が、思考を澄み渡らせていく。
(怯えて引いたら、その爪で喉を引き裂かれる)
ミシャは掌を引き戻すどころか、太后の手を柔らかく、けれどほどけない力で優雅に握り返した。
そして、白磁の頬に花咲くような、極上の微笑を浮かべてみせた。
「......お気づきになられましたか、大奥様」
「何?」
「来月、新大陸航路の開通を祝す夜会にて、私は公爵家のクロード卿と手を取り合って広間を踏み
ます。その際、私が身につけるべき純白のシュミーズ......その胸元に飾る青薔薇の立体刺繍を、夜な夜な自らの手で刺しておりますの」
淀みのない、堂々たる声音だった。
嘘の中に、先ほどまで工房で磨き上げていた本物の手仕事の誇りを織り交ぜる。
「下働きの針子に任せることもできました。ですが、王家とヴァルハイト公爵家の結束を示す晴れ舞台。他人の手の脂に汚された衣ではなく、私自身の魂と祈りを一針ごとに込めたものを纏いたかったのです。......この指先の傷は、王家の誇りを胸に刻む誓いの証。それを浅ましいと仰せなら、私の覚悟が至らぬせいでございます」
太后の灰色の瞳に、動揺の波が走った。
虚飾と怠惰に塗れた宮廷の令嬢たちを誰よりも嫌悪し、「王家の血と義務」を狂信的に重んじるこの老婦人に対し、これ以上ない急所を射抜く弁明。
広間を包む重苦しい沈黙。
やがて、太后はミシャの手を乱暴に放した。
「......戯れ言を。口先だけは母に似ず達者なことですね」
冷淡な言葉とは裏腹に、太后の指先は青薔薇のロザリオへと戻り、それ以上の追及を諦めていた。
「自室へ下がりなさい。マルガレーテ、この娘の傷だらけの指に上等のアーモンド油を塗り込ませておきなさい。夜会でクロード卿に恥をかかせるわけにはいきません」
「かしこまりました、大奥様」
ミシャは深く一礼し、スカートの裾を翻して歩き出した。
背中に冷や汗が張り付き、足の指先が痺れるほどの緊張から解放された瞬間――。
太后の玉座のすぐ傍ら。
暗い石柱の影に、音もなく佇んでいた黒い影と目が合った。
身体の線を露わにした漆黒の修道服。陶器のように白い肌に、鮮血を引いたような艶やかな唇。
シスター・カリッサ。
敬虔な修道女の仮面を被ったその女は、退室していくミシャの後ろ姿を、何か底知れぬ獲物を見定
めたかのように、陶酔に満ちた冷笑を浮かべてじっと凝視していた。




