第12話:大奥様
大理石の敷石から立ち上る冷気が、薄い靴底を容赦なく刺し貫いてくる。
青薔薇の離宮、中央広間。
天井の真鍮製シャンデリアには幾百本もの蜜蝋蝋燭が灯されていたが、部屋を満たす光はどこか白
茶けており、影ばかりを色濃く落としていた。
壁一面に掛けられた歴代王族の肖像画は、まるで棺桶の蓋のように無機質に並び、新参者を品定めするように見下ろしている。
その最奥、一段高い石壇に置かれた黒檀の玉座。
そこに、太后ヒルデガルドが鎮座していた。
喪服を思わせる深藍の重厚なベルベット。青薔薇を象った黒曜石のロザリオを、節くれだった指先で一つ、また一つと繰る乾いた音だけが、広間の静寂を刻んでいる。
(......この人が、鳥籠の主)
ミシャは歩を進めながら、視線を床の一点に落とすふりをして、広間の構造を瞳に焼き付けた。
衛兵の配置は左右に四名ずつ。いずれもフリントロック式の銃とサーベルを帯びている。逃げ道になる扉は背後の大扉と、右手奥の細い控え扉の二箇所。
怯えて竦めば、野生の勘は鈍る。森で狼の気配を察知した時のように、呼吸を浅く整え、全身の筋
肉をいつでも動けるよう微かに緊張させた。
石壇の三歩手前。
ミシャは優美に膝を折り、ドレスの裾を左右均等に扇形に広げた。
妖精の長女セリアは、針の扱いと同じくらい、姿勢と礼法に厳しかった。「布を扱う者が猫背なら、仕上がる服も曲がる」と、頭の上に糸巻きを三つ載せて歩かされた日々。
森で叩き込まれたその体幹は、図らずも、宮廷で最も格式高い「深礼」を寸分の狂いもなく再現していた。
「......遅い戻りですね、フランシア」
頭上から降ってきたのは、氷砂糖を噛み砕くような硬い声だった。
「日没の鐘が鳴り止んでから三十分。王家の第一王女が、護衛も連れずに外を徘徊するなど、軽率
にも程があります」
太后の視線が、ミシャの頭頂部に冷たく突き刺さる。
ここで縮こまり、許しを請えば「いつものフランシア」ではないと見抜かれるかもしれない。フランシアはプライドが高く、決して理不尽に屈服しない少女だった。
ミシャは息を吸い、顔をわずかに持ち上げた。
視線を太后の鼻梁のあたりに合わせ、媚びのない、けれど無礼にならない絶妙な角度で唇を開く。
「ご心配をおかけいたしました、大奥様。ですが、徘徊などではございません。......婚礼を控え、民の暮らしと市場の流通を、この目で確かめて参りました」
「市場の流通、だと?」
太后の眉が、ピクリと動いた。
「ええ。新大陸航路が開通すれば、王都に流れる香辛料や綿糸の相場は激変いたします。公爵家へ
嫁ぎ、やがて国政を補佐する身として、数字の並んだ羊皮紙だけを信じるわけには参りませんゆえ」
エデル商会で店主が語っていた生きた言葉を、すらすらと口に乗せる。
ただの言い訳ではない。大航海時代の利権に目を光らせる王室の人間として、理に適った「もっともらしい大義名分」。
太后ヒルデガルドの冷徹な双眸が、眇められた。
これまで癇癪を起こすか、怯えて黙り込むかだった孫娘が、理路整然と自らの行動を正当化したの
だ。
広間に張り詰めた沈黙が、さらに重く、濃密なものへと変わっていく。
「......ほう。口が減らないことですね」
太后がゆっくりと玉座の肘掛けから身を起こし、杖をついて石壇を一段、降りてきた。
影がミシャの頭上を覆う。
「よろしい。ならば、その『民の暮らしを確かめた手』を見せなさい」
心臓が、跳ね上がった。
「手をお出しなさい、フランシア。王家の娘としての誇りが、その身に保たれているかどうか......私が直々に確かめて差し上げます」
逃げ場のない宣告。
ミシャは喉の奥を締め付けられながら、ゆっくりと、両手を差し出した。
白磁の肌の上に刻まれた、無数の針刺し傷と、麻糸を締め続けた指先の硬い角質。
太后の細い指が、ミシャの右手を容赦なく掴み上げた。




