第11話:鉄の門
「......何を呆けておいでですか、フランシア様」
侍女頭マルガレーテの低く濁った声が、礼拝堂の冷えた敷石を這う。
無数の松明の煙と、鯨油の生臭い煤が、ミシャの鼻腔を容赦なく突いた。
逃げ出す隙間など、どこにもない。近衛兵たちの抜身のサーベルが夕闇に鈍い銀の弧を描き、出口
を完全に塞いでいる。
心臓が肋骨を突き破らんばかりに跳ね上がっていた。
――私は王女ではない。森の針子だ。
その真実を叫んだ瞬間、首筋に冷たい鋼が押し当てられ、身元不明の不敬者として石畳の上に首を
転がされる未来が、鮮明に脳裏をよぎる。
(取り乱してはだめ。怯えたら、その瞬間に死ぬ)
ミシャは震える両手をドレスの重たい襞の奥へ滑り込ませ、掌に深く爪を立てた。
痛みが、凍りつきかけた思考を鋭く覚醒させる。
野生の鹿が、張り巡らされた罠の前で全神経を研ぎ澄ますように。森の吹雪の夜、凍傷の指で一針
一針を縫い進めたあの集中力が、ミシャの背筋を真っ直ぐに押し上げた。
顎を三分上げ、世界中のすべてを靴底の泥のように見下ろす――。
廃礼拝堂でフランシアが教え込んだ、あの冷酷な王女の姿を脳裏に完璧にトレースする。
「......控えなさい、マルガレーテ」
凛とした、硬質な声だった。
喉の奥の震えを完全に殺し、夜霧を切り裂く刃のようなトーンで紡ぎ出された一喝。
マルガレーテの眉が、わずかに跳ね上がった。
ミシャはゆっくりと歩を進める。重厚なベルベットの裾を踏み躙ることなく、優美に、けれど傲慢な威圧を漂わせて、近衛兵たちの切先の前へと立ち塞がった。
「その抜き身の刃は、私に向けられたものかしら? 夕涼みの散歩を少しばかり長引かせただけの王
女に対し、無礼が過ぎるのではないこと?」
「......滅相もございません。大奥様が晩餐の刻限を気に掛けておられましたゆえ、万が一の狼藉者を警戒したまで」
「ならばその薄汚れた松明を下げなさい。煤がドレスのレースに染み付いて不快です」
冷ややかに言い捨て、ミシャはマルガレーテの脇をかすめて歩み出た。
兵たちが息を呑み、慌てて切先を下ろして道をあける。
背中に冷や汗が滝のように流れていたが、歩幅は一分たりとも乱さない。
礼拝堂の外には、漆黒の木肌に青薔薇の紋章を刻んだ、四頭立ての王室馬車が待機していた。
踏み台を置く従僕を無視するようにして自ら馬車へと乗り込み、深紅のシートの奥深くへと腰を沈める。
外から扉が重々しく閉ざされ、錠前が下ろされた。
ガタゴトと車輪が軋み、馬車が夜の街道を走り出す。
狭い車内、カーテンの隙間から、遠ざかっていく神聖の森の黒い稜線が見えた。
(フランシア、あなたに何があったの......?)
自ら戻らなかったのか、それとも戻れない事態に巻き込まれたのか。
確かなのは、本物がこの離宮へ戻るその刻まで、自分が「第一王女フランシア」を完璧に演じきり、生き延びねばならないということだけ。
やがて馬車の速度が落ち、蹄の音が鈍い反響へと変わった。
深い濠に架けられた跳ね橋を渡る音。
窓の外を見上げれば、雲を突くような黒々とした城塞――外界から完全に隔絶された王城の禁域
「青薔薇の離宮」が、冷酷な巨獣のように聳え立っていた。
――ギギギギ......ガシャンッ!
耳朶を劈く鉄の軋みとともに、巨大な落とし格子と鉄門が下ろされた。
退路は、完全に断たれた。
暗い車内の中で、ミシャはドレスの裾の裏、妖精セリアから託された小さな裁縫針が一本、しっかりと仕込まれているのを指先で確かめた。
(ただ震えて待つ気はないわ。......この鳥籠の仕掛け、全部見破ってやる)
菫色の瞳に、森の白百合には似合わぬ、研ぎ澄まされた光が宿っていた。




