第8話:挨拶をする、ただそれだけ
翌朝の騒がしい廊下。
私と美咲は階段の踊り場の陰から、隣のクラスのドア前を観察していた。
視線の先には、入り口で直立不動の不審者――佐藤拓実。
昨日の放課後に決まった『自分から挨拶する』という第一関門。
陰キャぼっちにとっては、装備なしでエベレストの頂上を目指せと言われるようなものね。
ただの挨拶だというのに、ダラダラと冷や汗を流し、視線を泳がせまくっている。
だが、拓実の奇行はそれだけじゃなかった。
クラスメイトが通りすぎるたび、「あ……」「う……」と口をパクパクさせては見送るという、不気味な反復横跳びみたいなまねを延々と繰り返している。
生徒たちはその異様な光景を遠巻きに見て、サッと目をそらして通りすぎていく。
挨拶以前の問題だわ。こんな自爆寸前の地雷、本能的に避けられて当然だ。
「あはは、佐藤マジでキョドりすぎっしょ。完全にバグったNPCじゃん」
隣で美咲が、隠れるのも忘れて楽しそうに笑い声を漏らす。
ああもう、見てられない。
いっそ私が後ろから蹴り飛ばして、無理やり発声機能を起動させてやろうかしら。
その時、孤立無援の陰キャの両脇を、見慣れた二人の陽キャが固めた。結城と須藤だ。
「おい佐藤、ガチガチになりすぎだ。肩の力抜けって」
「声出す前にビビるなよ。ほら、前田が来たぞ。あいつなら俺たちもよく話すから」
「っ……!」
拓実はビクッと肩を跳ねさせ、脱兎のごとく逃げ出そうとするが、その肩を須藤が掴んで逃走を阻止した。
サッカー部エースストライカーの反応速度は伊達じゃないわね。
絶対に人間社会からの亡命を許しちゃダメよ。
「おーす、前田! おはよーさん!」
「お、結城じゃん。おはよ。須藤も朝練おつかれ」
前田くんが笑顔で応じた瞬間、須藤が拓実の背中を、ドンッ! と遠慮なく前へ押し出した。
「ほら、佐藤」
「えっ!? あ、その……っ!」
強制的に舞台へ放り出され、本日最大のバグりっぷりを見せる拓実。
口をパクパクさせて完全にフリーズしている。
秒針の音が聞こえそうなほどの静寂が続く。
いいから、さっさと声を出しなさいよ。
そんな無言の圧を、踊り場の陰から送り続けると、拓実はギュッと目を瞑り、声を絞り出した。
「お、お、おはよう……ッ!!」
オウムの如く、声が盛大に裏返った挨拶に、一瞬珍獣を見たかのような顔をした前田くん。
普段まったく喋らないクラスの陰キャが、突然目の前で奇声を上げたのだから当然の反応ね。
だが、あいつの横には二人の救世主がいる。
前田はすぐに柔らかい表情になり、軽く手を上げた。
「お、おう。おはよう、佐藤。結城や須藤と一緒って、なんか珍しい組み合わせだな」
挨拶を返して教室の中へと入っていくクラスメイトを、拓実はポカンと口を開けたまま見送っていた。
「やったな、佐藤」
「声、裏返ってたけどな」
結城と須藤に笑いかけられても、状況が処理しきれないのか、拓実は魂が抜けたように呆然と立ち尽くしている。
オタクCPUは完全にオーバーヒートだ。
ま、不審者がようやく人間の言葉を一つ発したんだから、今日のところはこれで良しとするしかないわね。
***
放課後の空き教室。
朝のフリーズ状態からすっかり回復した拓実は、なぜか腕を組み、得意げにふんぞり返っていた。
「ふん、簡単だったな。本気を出せばこんなもんだよ」
挨拶ごときで本気を出したなんて、よくもまあ恥ずかしげもなく言えたものね。
「盛大に声裏返ってたわよ……あんなキモい挨拶しておいて、よくドヤ顔が出来るわね」
「超テンパってたっしょ? 笑えるくらいキョドりまくりだったよ」
私と美咲がさっそく鋭いツッコミの矢を放った。
「なっ……! そ、それは不可抗力だ! ウォーミングアップが足りなかっただけで……!」
必死にラノベ主人公のような言い訳を紡ぐ拓実。
そんな現実逃避のバリアを、美咲がニヤニヤと楽しげな笑みで切り裂いた。
「ふーん。じゃあ、これからは一人で挨拶できるんじゃなーい?」
「えっ……!?」
拓実のドヤ顔がピクッと引きつった。
そこに、須藤が容赦ない真顔で冷酷な現実を突きつけた。
「そうだな。俺たちが毎朝アシストしてやるわけじゃないし、明日からは一人で頑張れよ」
「えっ……! む、無理だ! 俺一人じゃ結界を破れない!」
今度は頭を抱えて絶望のポーズ。……まったく、いちいち大げさなのよ。
「甘ったれてんじゃないわよ。みんなに認知されたいなら、当たり前のように挨拶できるまで一人で続けなさい」
私は一歩前に出て、正論ナイフを振り下ろした。
「いい? 挨拶は人間関係の入り口でしかないの。ここからは本格的な『会話のトレーニング』よ。結城たちの輪に混ざって、まともなコミュニケーションを学びなさい」
「そ、そんなぁ……」
「アハハ、佐藤ファイトー!」
美咲の明るい笑い声が響く中、拓実はズルズルとその場に崩れ落ちた。
外見のマイナスを乗り越えた先に待っているのは、地獄のコミュ力矯正スパルタ特訓。
痛い幼馴染の「人間化」への道は、まだ始まったばかりなのよ。




