◇30.魔王城の宰相に本音で
翌日。
「ト、トレイシア様。どうされたのですか。二週間前に水揚げされた魚以上に死んだ目ですぞ」
毛繕いセットを手に現れた私に、モリスさんは開口一番にそう言った。
「黙って身体を差し出せ。貴様の毛に用がある」
「あっはい」
素直に従うモリスさんを連れた私は、のしのしと荒々しい歩調で魔界の敷地内にある小高い丘に向かった。見晴らしが良く、木陰にはベンチもあるので、最近お気に入りの憩いの場所だ。
魔王城の皆さんとの交流が増えたおかげで、以前ほど暇ではなくなったとはいえ、もはや日課となっているモリスさんのブラッシングを欠かすことはできない。毛刈り前の羊の如くもこもこしい毛並みを一心不乱に梳かしていると、やがて無我の境地に至れて癒されるのだ。
乱れた精神状態の時なんかは特に、無心になれる時間が欲しくなるものである。
そう、前日に負ったダメージを一晩寝ても引きずり、昼間になっても気分が向上しない、今のような状態の時は。
「はあああああ……」
しかし、むやみに豊富な毛量と弾力を誇る身体を専用ブラシでいくら梳いたところで、抜け毛は収穫できても心は一向に晴れなかった。青空の広がる爽やかな丘の上にいるというのに、気分はどんよりと曇ったままである。
「ほあああああ……」
淑女らしからぬ深い溜め息を吐いていたら、膝の上でされるがままだったモリスさんが、「トレイシア様」と口を開いた。
溜め息の原因に言及されてしまうかなと一瞬だけ身構えたが、どうにも先程まで爆睡をかましていた気配のあるモリスさんなので、単に今ちょうど目覚めて口を開いたようだ。なので安心して「なんぞ?」と話を促す。
「トレイシア様は人間ですが、このモリスめを恐れも嫌いもしません。無理をして接しているようにも見えません。なぜなのでしょう?」
つぶらな瞳で見上げてくるモリスさん。いや貴様この純白もこもこ生物のどのあたりに恐怖と嫌悪の要素があるのだ、と真顔で返しそうになったが、モリスさんの問いの真意は分かる。
これはモリスさん単体ではなく、魔族全体に対する私の態度への問いかけなのだろう。モリスさん相手だけならいざしらず、最近では他の多種多様な魔族たち(可憐なうさ耳メイド、屈強な獅子顔の衛兵、不定形生物な庭師等々)とも挨拶や軽いやりとりを交わす程度の仲になっているので、その辺りが気になったのだと思われる。
「魔族は怖い、それは人間の常識なる。確かにそう」
魔界というよく分からない場所で生まれた、よく分からない種族。
驚異的な膂力を持ち、圧倒的な魔力を行使し、人間を脅かす存在。
ゆえに魔族は恐ろしい者、悪しき者。
これが人間社会における、魔族に対する一般的な認識である――ということくらい、もちろん知っているけれど。
「だが、ちゃんちゃらおかしくてへそでティータイム」
「へ、へそで茶を沸かすほどに……?」
「種族のみで悪と全判定するなど、浅はか。潮干狩り会場の海よりも浅い」
「そ、それは浅い」
思わず素で「へっ」と小馬鹿にした笑いを浮かべてしまった私を、モリスさんはきらきらと輝く眼差しで見つめた。
「トレイシア様は魔族に差別意識を持たれない、柔らかな心の持ち主なのですね」
いや別にそんな博愛由来ではないので、そう思われるのは据わりが悪い。
昨日、いかにもそういう綺麗な心根の持ち主である「トレイシア姫」に、自己敗北を喫して立ち直れない今は、特に。
「ちゃう。もっと合理的な理由でおま」
善良で純真な姫というセルフプロデュースを今後も続けていくためには、博愛精神に基づくものと思われたままのほうが都合は良いとは分かっているのだけれど、なんだかそんな気持ちになれなかった。
自暴自棄な気分だったこともあるし、そのもこもこした姿につい心を緩まされて割と素の自分に近い態度で接してきたモリスさん相手には、もう本音で話したって構わないような、そんな気持ちもあった。
「合理?」
「せや。わてはそういうもんやて知ってるから、そう思ってるだけ」




