男の名は
涙で視界が歪んでいた。目の前の人物が誰なのか、わからない。けれど、どうやら自分を助けてくれたらしいことはわかった。
彼は、そっと花凛を降ろすと、背中を向けた。
花凛は袖で涙を拭う。明瞭になった視界に、雄々しく立つ、その男の背中に見惚れた。広く厚い背中が、彼のこれまでの研鑽や経験、その上に築いた自信を雄弁に語る。
ジーパンとブーツ、上半身は現代風ながら中世的で、上には外套を羽織っている。両腰には長い鞘が見え、腰後ろには短剣らしきものを携えている。
瞳が濡れた。恐怖心でも安堵からのものでもなく、ただなぜか涙が出た。
長い髪を後ろに束ね、鍛え上げられた四肢。顔は精悍で瞳には闘志が燃え滾っている。
それは花凛の知っているただの大人ではなく、戦場を駆け抜けた兵士のように見えた。年はそうは離れていないだろう。しかし、花凛が過去に感じたことがないほどの包容力を醸し出している。
男は背負っていた鞄をおろし、腰から剣を抜いた。
「下がってろ」
「は、はい」
返答するだけで精一杯だった花凛は、後退りして壁際に背中をつけた。
どうしたことか、鼓動が早い。その上、彼の背中から目が離せない。そして、同時に恐怖心の一切合財が拭われている事実に気づいた。
花凛が逃げようとしていた扉、そこから彼は現れたらしい。
見ると、動物らしき姿が見えた。片方は蜥蜴に毛を生やしたような見た目。獰猛にも見えるが、花凛にはその動物は敵ではないと思った。
隣に立つ、獅子顔の人間。いや、獅子が人型になったと言えばいいか、その幻想的な生物にも同様に警戒心を抱かない。
男がゴーレムに向けて走った。
ゴーレムの伸ばした腕に乗り、走っている。その姿を見て、花凛はぎょっと目を見開いた。ここが現実なのかという疑念を抱くほどに、その挙動は人間離れしていた。
疾走する男は、ゴーレムの肩口から顔面へと跳躍し、剣を煌めかせる。傍目でも武器の扱いに長けていることはわかった。
白刃はゴーレムを刻む。しかしそれは表層だけだった。土をこぼしたが、亀裂の走った頭部は周囲の土が集まり、修復された。落ちた肉体だった土塊は地面に落ちると、小さなゴーレムに姿を変えた。
肩に乗ったまま、剣を突き刺していた男に向かい、ゴーレムは腕を伸ばした。だが、男は掴まれる寸前で飛び降りる。高さは十数メートル。飛び降りるには高すぎる。
しかし男は、ゴーレムの身体に剣を突き立てた。速度が緩まり、そのまま地面に降り立つと、転がり緩衝する。そして立ち上がると同時に、叫んだ。
「レオン、時間を稼いでくれッ!」
レオンと呼ばれた獅子が、ゴウと雄たけびを上げ、ゴーレムに猛攻を開始する。足元で大剣を振るう。刀身は体躯と同等の長さ。それを軽々と扱っている。
それでも、不死身の土くれには効果がないようで、削った部分がすぐに土に覆われる。見ると、周辺の土を吸収しているようだった。
「リュウ!」
「ギュイ!」
リュウと呼ばれた蜥蜴か犬か哺乳類か、形容するのが難しい生物が男の隣に立っていた。
口腔をガバッと広げる。何かが燃え盛るような音と共に、リュウの前方には小さな赤い球が生まれた。膨張する球を構成するものが火炎であると理解した時には、すでにソフトボール程の大きさになっていた。
そして突然、リュウは球体を噛み砕く。同時に男がリュウの眼前に剣を掲げた。
リュウが呼気を吐く。橙の大気が吐息と共に流れ、男の剣に付着する。瞬く顆粒は、刀身を彩り、同化すると煌めいた。
鈍く光っていた長剣は暖色に発光している。まるで熱に溶かされる寸前の金属のようだった。しかし溶解する気配はない。高熱によって湯気が立つ。
呼吸を終えると、リュウは著しく疲労したように見えた。緩慢に動き、男から離れ、花凛の横に来ると、限界とばかりにその場で横たわった。
花凛は横目でリュウを見る。何となく触りたい衝動に駆られたが、我慢した。
男が地を蹴り、熱した剣でゴーレムの足を斬った。超高温に触れたゴーレムの土塊は簡単に溶けてしまった。
ゴーレムの四肢は男の持つ剣の刀身以上の直径がある。一撃では斬り落とせず、何度も斬り刻んでいるが、先ほどまでと違って確実に敵の身体は崩れ落ち始めている。
周辺の子ゴーレムは男と獅子の挙動を阻害している。だが、気にするほどではないらしく、鬱陶しそうに蹴り払ったりしていた。
「お姉ちゃんっ! だ、大丈夫っ!?」
声に振り向くと、悠李がこちらへ走り寄って来ていた。後方には他の面々の姿もあった。どうやら、部屋の端に沿って花凛のところまで来たらしい。
男達がゴーレムの気を引いてくれたおかげだった。
「う、うん。大丈夫だから」
「よ、よかったっ!」
悠李は心の底から安心した、といった表情で涙を流していた。
そんな妹の顔を見れずに、花凛は男の戦いぶりに視線を向ける。
人外との戦い。人と異形の存在との対峙。体躯の差は歴然なのに、男と獅子は対等に渡り合っていた。
「あれ、何なんだ……?」
「わかりません……まるで、これでは創作の世界です」
「し、信じられないわ。これ、夢じゃないわよね?」
巴と瑠璃、そしてめぐみは目の前に起こる非現実的な出来事を受け入れられない様子だった。それは花凛も同じだ。
「あ、あの戦ってる奴は味方なのかよ?」
「わからん」
「はぁはぁ、み、見る限り人間みたいだね。た、助けてくれている、のかな?」
彰は狼狽しつつ、岩次はいつも通りの硬い表情を浮かべている。対して、迅は息を切らして呼吸を整えていた。
「人間? あ、あれがかよ! あんなデカブツと戦ってんだぞ!?」
彰の疑問に誰も答えない。助けられた花凛でさえその問いに答えることはできなかった。普通の人間があんな芸当ができるとは思えない。
仮に、相当な訓練を乗り越えた兵士でも不可能なのではないか、と花凛は思った。それと同時に、この世界の住人なのではという考えがちらつく。
自分達と同じ人間、少なくとも地球に住まう人間に可能な領域を超えてしまっている。ならば、やはりこの世界に住まう人間に近い生物なのではないか。
花凛は、自分の考えが整合性が保たれていない方向に向かっていると気づく。
あのゴーレムの存在、そして今隣にいる、リュウと呼ばれた生物の存在、獅子という亜人の存在、そしてこの場所、まるで洞穴の中のような内観、男の眩いばかりに光る剣、それらが花凛の常識的な考えをすべて瓦解させている。
男は花凛達を見もせず、戦いに没頭している様子だった。彼にとってもこの戦いは楽なものではないらしく、表情は硬い。獅子と連携し、ゴーレムの左足を集中的に攻撃している。
「はぁ、はぁ、ってか、遠いっての。髪乱れちゃったじゃん」
「つ、疲れた。ってか、バヤシうっざいって! 離れてよ!」
「し、しむぅ、しむぅっ!」
不快そうにしている萌子。夢衣の脇腹には若林が涙目で縋りついている。これではどっちが生徒かわからない。その後ろから、麦がついて来ていた。何か喋る気配はない。
「マジで、何がどうなってんの?」
「……知らないよ」
萌子の疑問は花凛に向けられた。しかし知らないものは答えようがなく、花凛は首を振るしかできない。そんな花凛を見て、萌子は小さく舌打ちをした。
花凛は、内心で不愉快に思ったが、口には出さない。
全員がリュウの存在に気づき、驚き、または顔を顰め、恐怖した。だが、誰も近づこうとはしなかった。
しばらく全員が男と獅子の戦いを見守っていた。
しかし、その内、自分達には何もできないとわかると、彰達は顔を見合わせ、今までとこれから、今の状況を整理しながら、男達が入って来た扉へと向かった。いつの間にか閉じられ、堅固な壁と変わったらしい。
遠目で彰達が押し引きしている光景が視界に入る。
萌子達は安全だと思ったのか、だるいだるいと言いながら座り込み、手鏡を出して身なりを整えている。こんな状況でも、スタンスは崩さないらしい。ある意味清々しい。
しばしのこう着状態。目の前で命を賭け戦っている人間がいるのに、花凛達は一様に、平和ボケしている人間そのものだった。
彰達も必死さに欠けている。
見ず知らずの男が、戦っているのに、自分達はそれが当たり前だ、と思い込んでしまっている。ゴーレムが落下して来た直後、あの時は全員が生命の危機を感じたはずだ。しかし、今は状況が変わり、こう思っている。
あの人がなんとかしてくれそうだし、自分達は大丈夫。
大人に守られ続けていた高校生達は現実を甘く見て、そして助けてくれる人間への感謝を軽んじ、現実を軽く受け止めていた。
そんな様子を見て、花凛は憤るでも、省みるでもなく、こんなものかと感想を抱くだけだった。花凛の視線には男の姿が常にあった。
リュウは休息しつつも、男の戦いを見守っている様子だった。瞳にはどこか心配そうな色が浮かんでいる。花凛を含め、面々はリュウを気にしてはいるものの、近づくことはなかった。しかしその状況を変えた人間がいた。悠李だ。
「見たことない子だねっ」
無造作に、リュウの隣に座る。
その行動に驚いたのは花凛だった。なんて不用心な。
内心で戦々恐々としつつも、制止することはなかった。
リュウは悠李を一瞥すると、興味なさそうに瞳を閉じた。
花凛は、悠李は何をするつもりなのか、と動向を見守っていたが、特に何をするでもなく、リュウの隣に座り込んで、花凛と同じように男の戦いっぷりを観察している。
「あっ」
悠李は真剣に男の姿を見つめながら小さく声をあげた。そして一瞬だけ、目を見開き、そして僅かに瞳を濡らした。どうしたのか、と尋ねる前に、聴覚が強く刺激を受ける。
「倒れるぞ!」
部屋中に響く声に、花凛は思わず立ち上がった。
男と獅子の攻撃で、ゴーレムは左足を膝下まで失っていた。なんとか均衡を保とうとしていたが、ついに限界を迎えたのだ。
ゴーレムは体重を支えきれず、無様に倒れた。十五メートル程の巨体が倒れた衝撃が、地面を伝わり、震動となって花凛にも襲い掛かる。
「きゃっ!」
座っていた方がよかった。立っていたせいで、バランスを崩し、転倒してしまう。
「お、お姉ちゃん」
「大丈夫!」
恥ずかしさから声量が大きくなる。そのせいで悠李が怒られたと勘違いして、ビクッと震えた。
違う、そんな風にするつもりじゃなかったのに。
そう思っても、弁解する素直さは、花凛にはまだなかった。
窮地に自分の安否を心配してくれた妹の気遣いを思い出して、胸がチクリと痛む。けれど、長年積もり積もった一方的な嫉妬は意固地になる元凶となり、内底にかさぶたとなって残っている。氷解するにはまだ時間がかかりそうだった。
「すげぇ……」
呟いたのは彰だった。そしてその感想に、花凛は心底、同意した。
ゴーレムの転倒を機に、全員に緊張が走っている。距離があるので押し潰される危険性はないが、地面を震動させるほどの規模を誇っているのだ。改めて、強大で危険な存在だと思い知らされた。
男と獅子は、無防備になったゴーレムの頭部を中心に攻撃している。だが、効果的な手段ではないようで、ゴーレムの行動は活発なままだ。土の塊であることはわかっている。だったら表面を削っても意味はないのだろう。
ゴーレムの左足に土が集まる。徐々に修復されていった。
これではキリがない。こういう場合、往々にして弱点があるものだ。そう考えた、花凛はせめて、男に助言にできないかと考え、必死でゴーレムの体躯を観察した。
しかし、その行動は無に帰する。
「胸のところですっ!」
立ち上がり、そう叫んだのは悠李だった。先んじて、ゴーレムの弱点を発見していたらしい。
声を受けて、男は獅子に何か指示を出しながら、ゴーレムの胸部に乗っかった。そのまま剣を胸に突っ立てて根元まで埋める。
しかし、剣はすでに先ほどの煌々とした輝きを失っていた。そのため、切れ味は落ちているらしく、何度か体重を込めて、刀身の三分の二程度を埋めた。
だが、ゴーレムは足の修繕を終え、立ち上がり始める。
ズゥンと、重低音を生みだし、巨躯を再び屹立させる。
男は胸に剣を刺したまま離さない。どうするのか見守っていると、懸垂の要領で身体を持ち上げ、刀身部分に立ち上がる。その状態のまま、小剣を鞘から抜くと、頭の上に掲げた。
次いで、獅子が大剣を構え、跳躍する。
人間の身体能力を軽く凌駕している脚力によって、立ち上がる途中のゴレームの胸部分まで体躯を持ち上げた。虚空で慣性が弱まる。その位置は男の頭上、数メートルの位置だった。
まさか同士討ち?
そんな杞憂はすぐに霧散した。
獅子の大剣が男へ振り下される。しかしどこかおかしい軌道だった。斬る、というより押し付けるような軌跡を描き、大剣は男の小剣に向かい流れる。
一度の剣戟、その衝撃で、男の身体はググッと下がる。
獅子は膂力を緩めず、体重を預けたままの姿勢を保持している。
すべての力は男の足元に集約し、更にそこから長剣、つまりゴーレムの胸部に刺さっている剣の刀身に伝わる。伴って、刀身の切れ味が手伝い、ゴーレムの胸部から腹部にかけて、深い線が入る。
引き裂かれた周辺の土くれがボロボロと崩れ、中から一際目立つ塊が見えた。
それは宝石のように瞬き、内部を透過している。
「レオン!」
男の一声で、獅子が吠え、大剣を引く。同時に、男は上方に掲げていた小剣を降ろした。その刹那、男の行動を見越していたように、獅子が男の肩を踏んだ。
「ぐっ!」
男の呻き声がここまで聞こえた。よほどの衝撃だったのか、遠目でも顔が歪んでいるのが見て取れた。
獅子は男の肩を蹴り、跳躍する。その先にはあるのは宝石、それは核のように見えた。
獅子の咆哮と共に一閃が放たれる。見事な縦一文字の軌道を大剣が通り、核は真っ二つに分かたれた。
見事に着地した獅子と、空中で体勢を崩してやや不格好に受け身をとった男。双方共に、何を言うでもなく、全力疾走で明後日の方向へ走った。
僅かな沈黙の後、ゴーレムは機能を停止し、倒れた。
肉体を保っていた力を失ったかのように、土くれはただの土に変わる。
意思を失った自然物はそのまま地面に零れ落ちた。
しかしその質量は尋常ではなく、砂音と共に相当な重量が落下した音とが重なり、花凛達の耳朶に届く。花凛は思わず目を閉じ、耳を塞いだ。
やがて音の余韻がなくなると、目を開ける。
そこには巨躯は存在せず、あったのは盛られた土だけだった。
数秒後、男が慎重に土の上に乗り、周辺を探る。花凛からは見えないが、何か探しているようだった。目星はついているのか、迷いなくその場所に向かうと膝をついた。
中央付近の土壌に腕を突っ込むと、引き上げた。その手には、剣が握られていた。刀身が蒼く、青銅のように見えたが、色むらが一切ない美しい造形は、ゴーレムの核のような宝石じみた神秘的な輝きがあった。
「よし、武器ゲット。いやぁ、戦ってる最中も気になってたんだよな、これ」
死闘を終えたばかりとは思えない、男の嬉しそうな声が聞こえた。どうやら、戦闘中も男の眼には剣の姿が見えていたらしい。花凛の眼には映っていないが、もしかしたら悠李にも見えていたんだろうか。
男は剣の刀身に布を巻きつけ、鞄の中に入れた。長さがあるので刀身の一部と、柄がはみ出しているが問題ないらしい。
横目で悠李を見ると、興奮したように頬を染めて、拍手していた。耳障りにならないように音を殆ど慣らしていないところが妹らしい。
戦闘が終わったことで、全員が男の動向を見守った。
見ると扉前にいた彰達も座っていた萌子達も立ち上がり、男の方を見ている。
男は花凛達の方に歩み寄る。そして軽快に一言、
「久しぶり」
と、言った。
花凛は何を言っているのかわからず、巴や瑠璃の顔を見た。しかし、返ってきたのは否定の意。全員が首を横に振ったり首を傾げるだけだった。一人を除いては。
「お、お久しぶり、ですっ。よかった、無事だったんですねっ!」
「ああ、なんとかね」
悠李がぺこりと頭を下げて、男に挨拶をした。
では、妹の知り合いなのか、と結論に至りそうになったが、どうも引っかかる。
花凛は改めて男の姿を視界に入れた。
腰まで伸ばした髪を後頭部で結っている。長身のおかげで長髪も似合っているが、鍛え上げられた肉体のおかげでスラッとした印象がない。
そのため無骨さが際立っており、男らしさを強調する一因となっているだけだ。
顔は比較的整っているが、特に秀でているわけでもない。ただ、自信の表れが顔にも出ており、それが妙に色気と男らしさを醸し出している。
大人の余裕か、それとも彼自身の経験からくる自負かはわからないが、花凛の周囲にいる人間、それは老若男女すべてにおいて知らないタイプの男性だ。
知らない。見たことがない。けれど、会ったことがあるような気もした。
「ユウちゃん、全然変わってないな。ってか、制服姿……あれ、それ中学の」
「は、はい。その、あれ、どうして、かな。なんだか、姿がかなり変わってるような?」
「そりゃ三年も経ってるし」
「へ? あ、あの、どういう」
「うん? どういうって……」
会話が成り立ってない。いや認識が違っているような気がする。
花凛は悠李に視線を送り、誰なのかと無言で問いかける。すると、気づいた悠李がきょとんとしつつ答えた。
「竜胆芯さん、だよ?」
竜胆? 芯?
あの、失踪した、竜胆芯?
「はああああああああああああっ!?」
驚愕の声を上げたのは、悠李以外の全員だった。




