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獅子奮迅

 エミルと別れて四階層に上った。


 青蝋燭が並んでいる情景は三階層までと同じだった。明らかに意図的な配置だ。ここまで規則的な構図は故意にしか作り上げられない。


 メシュテリアの構造も、俺の転移も、あらゆる事象は、自然に起こったことではないように思えた。それでも、俺は進むしかないのだ。


 何者かの意思がそこにあっても、操り人形のように、敷かれた道をひたすらに沿うことしかできない。


 松明で蝋燭を灯す。見飽きた扉が再び眼前に立ち塞がっていた。


 俺は扉を押し開け、四階層の内部を覗いた。


 何の変哲もない通路だ。暗がりなので奥までは見えない。しかし、今までと違う空気を感じた。言い表すのは難しいが、どこか重苦しいような雰囲気だ。


 俺は肩から感じるリュウの体温に、勇気を貰いながら歩を進めた。


 慣れとは恐ろしい反面、心強い。しかし今まで培った経験はこの場に置いては機能していない。進む毎に、脚は重く、行動が億劫になっていく。


 道は直線だ。魔物もいない。その痕跡も前兆らしきものもない。見た目は三階層までの迷宮と差異はない。だがひりつような肌の感触と鼓膜を圧するような感覚が断続的に浮かぶ。


 後頭部には僅かな電気が走ったような鋭い痛み、髪は逆立ち、胃はむかむかする。いつの間にか力み、いかり肩になっており、口内は乾く。舌の根は水分を欲し、喉は無意識に唾液を飲み込んだ。



 おかしい。原因はわからないがこの階層は今までと違う。



 はっはっ、と呼気を吐く。いつの間にか、全身に汗が滲み、激しく動揺していた。

 足を止めてしまいたい衝動に駆られつつも、理性がそれを許さない。

 鉛の足枷を引きずるような錯覚を覚えながら、俺は歩み続ける。


 まっすぐ、道なりに。愚直に進むと、やがて行く手を遮ったのは扉だった。

 それも、階段前にある扉よりも更に規模は大きい。

 巨大な扉は七、八メートル近くあり、巨人でも通るのかという空想を促す。


 扉はそこだけで、俺にとって適度な大きさの扉はない。つまり、ここを通らなければ中には入れないということだ。


 思案した。まさか力で押し開けられはしないだろう。何か方法があるのかもしれない。


 俺は少し下がった。


 今更ながらに気づいたが、どうやら広い空間に出ていたらしい。でなければ巨大な扉があるはずもないので当然なのだが、その程度のことに気づかないほどに、俺の思考は混濁していたようだ。


 天井は見えない。壁には目立った部分はない。地面も同様だ。


 扉はどうか。縁にはステレオグラムを思わせる図が描かれている。

 触れてみると平面だった。それ以外に特徴はない。

 素材は鋼鉄らしく、触れるだけで重厚さと硬度が伝わる。と、重低音と共に、扉が勝手に開いた。


 俺は慌てて後方に下がる。触れたことが切っ掛けだったのか。


 手前に両扉が開いて行く。重みのせいか、地面が小刻みに震動する。完全に開き切ると、また正面に通路が見えた。


 俺は生唾を飲み込み、逡巡しつつも、自らを奮起させ踏み出した。

 今までと比べ、確実に雰囲気が違う。


 俺はここに来てようやく思い当たった。これはどういう風に形容すべきか、考えていた、その結論が出たのだ。



 十数歩歩いたとき、その答えと、現実は見事に合致した。



 そこは洞穴とは一線を画していた。自然の岩石や表土は存在しない。智により生まれた加工品の床は、一階層のような粗雑な石畳とは違う。


 美しく表面を滑らかにした、熟練の技を思わせる石床は、計算しつくされた正方形を交互に張り合わせて出来ている。


 蒼い光を反射し、天井さえも照らしている。発光しているのは青蝋燭。それは階段付近しか存在しなかった、この迷宮に備え付けられている永久機関だ。



 唖然とした。



 部屋には美麗な円柱と石床と青蝋燭。天井も同様で、芸術的な形だ。


 正面。そこに厳然と屹立するそれから、俺は視線を離せない。


 蒼き炎と入口同様の巨大な扉を背に、その生物は雄々しく猛々しく俺を見下ろしていた。遠目でも、その鋭い視線を真っ向に受けて、下半身が硬直してしまう。


 丸太のように逞しい四肢に、体躯の大半が重鎧で覆われている。黒く、鈍く、武骨で何より機能的でない。

 洗練さはなく、あるのは使い込まれただろう傷跡と欠けた部位だけ。


 であるというのにごうも柔弱さはなく、その姿は剛強無双を体現したかのようだった。猛獣を思わせる唸りを漏らし、コォと白い息を吐いた。


 そいつが持っていたのは剣だった。

 それも巨躯である己の身の丈を超すような大剣だ。漆黒に塗り潰され、まるで闇そのものを凝固したような見目に、邪悪と恐れ以外の感想を持ちようがない。


 顔が獅子の亜人。


 毛むくじゃらの全身の最上部にあるのは百獣の王そのものだ。ただし相違点が一つだけある。それは色だ。奴の毛は白と灰で彩られている。


 尾ていから伸びる人類が失った部位が床に横たわっているが、毛ほども愛らしさはない。爪は鋭利で凶器そのものだった。大爪だけで俺の命は刈り取られるだろう。


 俺は後ずさりした。肩口に振り返ると扉は軋みながら閉じた。開く時はあれだけ時間を有していたのに。逃げ場はないことをわからされた。


 怖気を感じる中、俺は冷静に思った。どうやらこいつがこの階層の番人らしい。


 奴は俺を真っ直ぐ見据える。天敵を前にした生物の行動は決まっている。委縮だ。カチカチと奥歯が悲鳴をあげている。全身が警報を発し、表情は強張っている。



 俺は部屋の入口に立ち尽くすことしか出来ない。



 獅子は業を煮やしたように、ゆっくりとこちらへ歩いて来た。


 手に握った大剣を軽々と持ち上げ、鎧の肩当てに乗せた。甲高い金属音が響く。獅子が動くごとに生まれる、重鎧の擦過音も同様にけたたましく、不快な音が耳朶まで届いた。


 俺は何とか対応しなければと思い、松明を落とし長剣を腰から抜いた。しかし、手元を見下ろすと、相手との武器の違いに戦々恐々とし、自らを叱咤する。この武器で勝てるわけがない。一撃を受けるだけで、へし折れてしまう。


 俺は焦燥感に駆られながらも拳銃を抜き、リュウに指示を出した。


「リュ、リュウは離れて、い、入口まで下がるんだ」


「キュ、ギュ!」


 リュウは獅子を睨みながらも、悔しそうに鳴き、肩から飛び降りると下がった。賢い奴で助かった。ここで問答をしている暇はない。


 俺は獅子に銃口を向ける。両手は震えて照準が定められない。何度も呼吸し、落ち着きを取り戻そうとした。


 奴との距離は五メートル程。まだ大丈夫。射撃には、まだ適した距離だ。


 俺は自身を平静にしようと努め、そして一気に酸素を吸い込み、息を止めた。同時に、獅子の頭部付近に銃口を向けて発砲した。



「なっ!?」



 だが、その目論みは簡単に崩れ去った。



 俺が引き金を絞った瞬間、奴は大剣を盾にしたのだ。刃先を地面に向け、半身になって刀身で体躯を覆った。その一連の動作を、俺が銃を撃つ数瞬前に終えたのだ。


 俺は驚愕に打ち震えた。


 奴の流麗な所作、そして奴が俺の攻撃を読んでいたということ。形状からどういう武器なのか推察したのかそれとも元々も知っていたのか。どちらにしても同じような攻撃をしても弾かれてしまう。


 そして同時に理解した。

 奴は洞察力と観察眼、あるいは知識を持っているということ。


 間違いなく強敵だと、直感的に理解した。


 弾はまだある。だが無闇に撃っても無駄撃ちに終わる。


 獅子との距離は五メートルはあった。心の底ではまだ大丈夫だと思い込んでいたのだ。


 だが、獅子は一瞬でその距離を詰めた。正に瞬きをしていた合間の出来事だった。


 瞬時に一歩、脚は俺へと向かい、そして獅子は宙を舞った。大剣が上から落ちる。それは刃物ではなく鈍器だった。


 俺は瞬間的に右方へ跳躍した。意識せず、反射的な行動だったが、その対応は好手だった。轟音と共に地面が捲り上がる。石の礫が散乱し弾ける中、俺は必死で頭を稼働させていた。



 俺のすべき行動。それはこんなやり方ではないはずだ。



 俺は着地し、獅子の返す剣が来る前に、もう一度横に飛ぼうとした。が、寸前で中断し、地面を唇が触れる程に姿勢を低くする。


 間髪入れず後頭部に風が触れる。その後、鼓膜を揺らす風切り音。俺は鳥肌が立つ前に、頭を上げながら銃口を獅子に向けた。


 その時、俺は確かに奴がグルゥと唸る声を聞いた。


 拍が重なり眼と鼻の先に、獅子の口腔が見えた。すべき選択肢は浮かぶ。回避か攻撃続行だ。


 俺は左手を差し出した。咄嗟だった。何の覚悟も出来ていない。だが、ほんの少しだけ痛いだろうなという思いはあった。


 歯噛みし、痛みの波に耐えようとしながら、右手に携えた拳銃を獅子の顎に向けて、垂直にした。噛撃と射撃はほぼ同時に起こる、はずだった。


 しかし、奴は獣そのものの動きで噛みつきを途中で止め、瞬時に横っ飛びした。ほんの一瞬遅れて発砲音が響く。俺の左手は無事だったが、目論みは空振りした。


 奴から距離を取ろうとしたが、横目で見えた光景が俺の身体を動かす。拳銃を落とし、長剣と小剣を同時に抜いた。


 見事な半月の軌跡と共に鉄塊が空を滑る。態勢を整え、後方に飛びながら長剣と小剣で白刃を受け止めた。


「くあっ!」


 圧倒的な膂力の差に、両剣を弾かれそうになるも、後方へ飛んだことで衝撃は半減された。できるだけ柄に近い部分の刀身で受けられたのは幸運としか言えない。

 おかげで反動で自身を斬りつけることはなかった。


 しかし、俺の身体はそのまま吹き飛ばされることを余儀なくされる。


 壁に向かう俺の身体を回転させ、足の着地を試みるも、加速中に姿勢を変えるのは不可能だった。漫画のようにはいかず、俺は背中から壁に強かに打ち付ける。


「……ッッッ!」


 視界が白光に埋まる。痛苦と共に肺から息が吐き出された。呼吸困難に陥りながらも、俺は獅子の姿を視界に収めようと顔を上げる。


 奴に隙はない。俺が態勢を整える前に、猛然と迫ってきた。


 息が出来ない。苦しくてしょうがないが、死ぬたくないという思いだけで、強引に両手を上げ、姿勢を低くした。


 あれだけの重装備であるのに、奴の動きは俺を上回る。熟練さを感じさせる、練達な技と身のこなしに脱帽する暇はない。




 観察し、対応し、思考しろ。




 俺は獅子の袈裟斬りを、身体を折り回避した。そして勇気を持って飛び込もうとしたが、見えない鎖に拘束されてしまったかのように身体が動かない。


 逡巡の中、奴は暇なく連撃に繋げる。俺は打つ手なく回避に集中するしかなかった。


 近場でよくよく見ると奴の凄まじさが浮き彫りになった。漆黒の大剣の長さは二メートルを超えている。それを悠々と扱っているのだ。尋常ではない。剣風だけで腕が吹き飛びそうな迫力を持っている。


 受けるのは危険だ。だが、回避も困難だった。


 なぜなら奴の初撃は疾風を思わせる速度、二の剣も返し、俺へと迫り、剣速は衰えない。三、四と続き、連なった剣刃は止まることを知らない。その一撃、たった一度だけ受ければ俺は地に伏してしまう。



 常に綱渡りの攻防だ。



 だが、攻撃に転ずるのも難しい。

 奴の連携の合間に懐へ飛び込もうとしても、剣戟の結びは薄く短い。

 その転瞬の光芒を見極めるのは、俺にとって神業に近い。


 人と戦ったこともなく、剣術や剣道の経験もない。あったとしても命のやりとりを日本ですることは早々ない。躱し続けるだけで奇跡的だ。


 大剣のような重量のある武器を振るうならば予備動作があるはずなのに、獅子にはその隙がほとんどない。あっても一瞬で、俺はその綻びを解れさせることができない。


 暴風と破壊の音が辺りを漂う。石床は大剣によって隆起し破裂した。


「くっ!」


 またぞろ恐怖が脳裏をよぎった。泡を食い、打開策を考えようと思っても、感情が邪魔をする。焦るな焦るなと言い聞かせても、身体は思惟はまともに働かない。



 結果は明白だった。



 痛みは突然走る。大剣の動きばかりに気をとられていた俺は、視界外までは気を割けなかった。


 腹に刺さる獅子の膝蹴り。下から突き上げられた衝撃に、俺は僅かに宙へ舞う。そのまま、獅子の肩が同位置に収まり、膂力が貫いた。正面からの力をまともに受け、俺は地面に落ち、転がりながら苦悶に喘いだ。


「ぎ、ぎう、ぐっ」


 無様にも唾液を漏らし、ついでとばかりに嘔吐した。激臭の中、俺はもんどりを打ち、そして獅子から必死に逃げた。痛みを感じつつも、恐怖が凌駕していたのだ。


 生存本能が痛みに喘ぐことを許可しない。情けなく、地面を這い、獅子から距離をとろうとした。


 ゴウと獅子が唸る。それは怒りかそれとも勝利の雄叫びか。


 凡百の人間である俺が、獣の類と対峙すること自体間違いだった。


 奴は剣を、戦いを知悉している。俺が勝てる道理などなかった。退路を断たれた時点で、俺は悄然と項垂れ、奴に媚びるしかなかったのだ。


 吐血した。

 胃をやられたらしい。

 痛みは常を逸していた。


 涙し、これから来るであろう死の瞬間から逃れることだけを考えた。しかし様々な感情がないまぜになり良案は浮かばない。


 獅子が泰然と歩を進める。俺へ向けるその視線は蔑みのように見えた。




 いやだ、死にたくない!




 声にならない。声を出すことができない。激しい感情の奔流と喉の熱、体中を流れる痛み、それらが合わさり、発声という単純な行動もできなかった。


 壁まで追い詰められたことを知ったのは、背中に伝わる石の感触のおかげだ。



 鍛練が足りなかった。

 装備が足りなかった。

 経験が足りなかった。

 体格が足りなかった。


 筋力が足りなかった。


 知恵が足りなかった。


 作戦が足りなかった。


 準備が足りなかった。




 覚悟が足りなかった。




 足りなかった。足りなかった。何もかも、何もかもが足りなかった。




 何を驕っていたのだ。弱い魔物相手に優勢でいられたことで、自身が強くなったと勘違いしたのか。矮小な存在なのだということを失念していたのか。


 生きるために必死になるということは、慣れることではない。常に死なない方法を考え、生き抜く方法を模索しなければならなかったのだ。


 怠慢だった。倦怠感に見舞われていた。余裕で脱出できるんじゃないかと甘い考えさえ抱いていた。大した窮地もなく、そして今まで何とかなったという経験があった。そのせいで俺は思い違いをしていた。


 俺は大丈夫。

 俺だけは大丈夫。

 俺はそうならない。


 俺は――死なない。


 日本にいた時、感じていた根拠のない自信。それが俺の心に染みついていたのだ。だから耄碌していた。平和ボケしていたあの頃と同じように、俺は安全だという意味のわからない、根拠のない、理由のない安全神話を信じてしまっていた。


 愚かだ。そうとしか言えない。


 一瞬でも、一つでもおかしいと思った瞬間、引き返すという選択肢を浮かべていれば、こんなことにはならなかった。


 不穏な空気を感じとった時、引き返せばよかったのだ。脱出を試みたりせず、身の丈にあった生活を営み、リュウと過ごし、時にエミルと話す。そんな生活をすればよかった。やりくりすれば何とかなったかもしれない。



 だが、もう遅い。



 獅子はもう俺の目の前に立っている。




 今、正に剣を掲げた。




 後悔に次ぐ後悔の嵐の中、俺は恐怖という波紋に乱れる自我を感じた。これは現実なのかという疑問を持ったまま、ただその瞬間を待った。







 ――――――







 ――――







 ――だが、獅子は俺を見下ろしたままだった。







 そして何を思ったか、元の位置へと戻って行った。奥の扉前に佇み、俺への興味を完全に失ったかのように瞳を閉じた。


 何が起こったのか理解出来ず、俺はしばし呆然と動向を見守った。しかし、獅子はその場から一切動こうともせず、そして俺へ意識を向ける様子も皆無だった。


「た、助かった、のか?」


 獅子からは俺を殺そうという意思を感じなかった。扉を守るという使命を持っているかのように、ただそこに直立していた。奴は背に扉を背負い、剣を手に佇んでいるだけ。


 俺は脱力し、その様子を漫然と観察していたが、やがてこの場から逃れることができるのだと気づき、緩慢に立ち上がった。


 獅子は俺を見ない。それは俺をまったく脅威と感じず、そしてどうでもいいと言っているかのようだった。


 誇りを傷つけられるよりも、安堵の方が大きく、俺は急ぎ、拳銃と松明を拾い、入口に戻った。リュウが心配そうに鳴き、俺の肩に乗る。


 入口は俺が戻ると同時に開いた。一度閉じたら開かずの扉、ではないらしい。肩口に振り返ると獅子は微動だにせずに、絵画のような雄々しさと気高さと共に立っていた。


 俺は開いた扉の隙間に身体を通し、通路をさっさと戻る。


 心臓がうるさい。まだドクドクと唸っている。悲鳴を上げているのは心臓だけではない。肺は伸縮を繰り返し、胃は痛みを伴っている。全身の血が沸騰するように熱い。


 なんとか生き延びたという開放感と共に、俺に残ったのは敗北と殺されかけたという事実だけ。



 俺は階段エリアまで戻ると、その場に座り込んだ。



「キュゥ……」


 リュウは俺の頬を舐めた。雫は拭われ、そして再び溢れる。


 自分の感情がわからない。死を覚悟し、命を繋ぎ止めた。生かされた。安心した。嬉しくもあった。九死に一生を得て、命の重さを感じた。喜ぶべきなのだろう。けれどこうも思った。


「情けねぇ……!」


 自分のふがいなさに苛立ちを覚えた。


 突然の邂逅に動揺しまともに対処できなかった。

 今考えればやりようはあった。

 銃を主体に何度も発砲し、隙を窺いながら、大剣の盾からはみ出た部分を撃てば奴を負傷させることはできたかもしれない。


 その隙がなくとも、相手の視界は塞がれる。その上で、移動しながら射撃をするという戦法もとれた。


 だが俺は狼狽し、たった一発だけの発砲で、距離を詰められ接近戦を余儀なくされた。そして剣術の競い、勝てるはずがない。奴の剣士としての立ち位置は、俺の遥か上だ。


 回避主体になった時点で隙を見出すことはできないし、見つけても上手く突けしない。俺にそんな剣術の腕前はない。単に剣を振るということだけ考えて鍛練していたのだから。剣を持つ相手との戦いは想定していなかった。



 考えれば考える程、自分の迂闊さに腹が立つ。



 最初から、今まで何度も、もっと考えろと、準備しろと言い聞かせて来たはずだ。それでもやはりこういう場面に遭遇している。


 それはどれだけ万全に準備しても、必ず隙は生じるということを表してもいた。多くの時間を費やしても完全な安全というものは存在しない。だから、苦難を乗り越える武器が必要だ。



 もっと強くならなくてはいけない。



 逃げない。逃げてたまるものか。



 俺は、日本ではプライドが高い方ではなかったと思う。どちらかといえば簡単に諦めてしまい、納得のいかない状況を飲み込んでいたはずだ。それが、なぜこんなにも我慢ができないのか。


 そうか、俺はメシュテリアに来て変わったのだ。


 生きることに、あらゆることに真剣に真摯に向き合うようになった。

 本気だからこそ悔しいし腹が立つ。


 今までは妥協し、へらへらとしながらこうすることが一番正しい、事を荒立てないようにするのが最善手だという風に思っていた。


 否定されてもこれは本当の自分ではない、こうすることで上手く回せているという欺瞞の上に生きていた。


 仕方がない。こうしないと困る。面倒に巻き込まれたくない。生きるためにはしょうがない。だって、けど、でも、そういう風に言い訳を重ね、やがて自分の本心を見失った。


 優劣の中でしか自己の存在価値を見い出せず、情けなく社会や組織や他者に迎合している。


 それが社会で生きるということだ、と俺は子供ながらに理解しつつあった。それができなければどんな居場所からも淘汰される。


 合理性の欠けた普通や常識の上で、俺は生活しなければならなかった。それが社会の本質だと知りながら、俺達は身体ばかりが成長し、子供であり続けた。



 誰だってそうだろう?



 厄介事に首を突っ込みたくないし、苦しい思いはしたくないし、努力しなくて済むならしたくないし、親がいるからどうにかなると思っているし、やれば何でもできると思っているし、他人は自分に優しくするべきなんて思いさえしている輩もいる。


 そんな人間ばかりならば社会は回らない。必然、誰かが負担を強いられている。


 けれど、それはすべて他人に縋っているだけの子供の発想だ。


 親やまともな大人がいるから子供でいられる。

 勘違いしたままで生きていける。

 けれど、ここでは俺しかいない。すべて俺が考え、選び、行動し、責任を負うのだ。だから結末に伴う現実も、俺が受け止めるしかない。


 緩和はない。取りこぼしもない。他者と分け合うこともできない。


 だからこそこんなにも激情に駆られてしまう。悔しい。俺の存在は小さく、取るに足らない存在だなんて思われたくない。見返したい。命あっての物種だが、譲るべきではないこともある。


 俺はもう、生かされる人生を歩むつもりはない。自分の人生を己の力で生きるのだ。それは俺が今まで保留していた、俺の生きる意義と信念だ。



 逃げてなるものか。俺を生かしたことを後悔させてやる!



 俺は確固たる決意を胸に、涙を拭い、そして階段を下りた。


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