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最強ペット  作者: mahiru
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7章

七章


 ――突如、轟いたのは爆音。

 爆音は凄まじい風を纏い、一気に室内へと侵入する。破壊された天井から巨大な瓦礫と化したコンクリートが降り注ぎ、瓦礫同士がぶつかり合い、熱気を伴って地面へと散在する。恐ろしい地響きとともに大量の埃が噴煙のように舞い上がる。

 粉塵が霧となり、視界を遮断する。崩れ去った天井からは外気が流れ込んで粉塵以上に重く濁った不快な空気が開放され、清涼感が一気に吹き込む。

 破壊された視聴覚室の天井は見る影もない。電気系統が切断されたのか、収まらない靄の中をぱちぱちと音を立てて照明が不規則な明滅を繰り返す。瓦礫が飛散し、何もなかったはずの床には足の踏み場もないほどに積み重なっていた。

 風が流れ、靄が収まっていくと、その破壊の凄まじさがよくわかる。屋根をなくした室内からは、昼間の雨が嘘のように晴れ渡った夜空に星が鮮やかに輝いている。

 ……一体何が起こったと言うのか。

 ぼんやりと周囲を見まわす。しっかりと状況認識をすることはできなかったが、体が急いで修復作業をするような、奇妙な熱量を感じた。失われたはずの血液が体の中で急速に生み出されていく不思議な感覚がある。

夏葉なつは」

 既に耳に慣れた声が意識を揺らす。

「しっかりしろ、夏葉!」

 腹部からほのかに温かい何かが流れこんで痛みが和らいでいく。傷が癒えていく以上に心に湧きあがるのは例えようのない安堵だった。崩れ放題の瓦礫の中、死ぬほどの怪我を負ったはずだというのにどうしてこんなにも心が凪いでいるのか。それは考えずともわかった。

 来てくれたという思いと、もう来ないと思いつつもきっと来ると確信していたような思い。夏葉は星空からゆっくりと視線を転じ、自分を抱え、傷に手を当てている人物を見た。

 月の明かりを受けて輝く銀髪。秀麗な顔にどこか不適な光を湛える美しい灰黒色の瞳。

「……ぎん……おう

 夏葉の声に少しホッとしたような表情が浮かんだ。だが、すぐに心配げな色を帯びる。

「動くな、今、治してるやる」

「銀王、その姿……」

「黙ってろ」

 はじめて会う姿のはずだった。でも、心のどこかが、知っていると告げる。あの姿も綺麗だがこちらも綺麗だと思う。背中越しに見える満天の星がよく似合う。本当に月のようだ。星を従える夜の王。

 そういえばと緩やかな記憶が蘇る。そんなことを話したような気もするがそれはいつだったのだろう。

「――ったく」

 姿は変わっても、その瞳は変わらない。

「なんだってこんな怪我してんだか」

 呆れたような、安心したような。流れ込む力と同じように温かくて、それなのに優しくない物言いがなんだか懐かしいとさえ思える。

 ――本当に、銀王だ。

「無茶しやがって。そんなに万能じゃないと言ったはずだぞ」

 抱きかかえる腕は確かで、支える温もりが心にあった喪失を埋める。もう感じることはないと思っていた安らぎが、今はしっかりと自分を包んでいる。側にいるというとてつもない安堵が、どうしようもない嬉しさとなって癒しとともに身体に満ちていく。

「も、もう、大丈夫っ!」

 思わず泣きそうになっている己に気付いて夏葉は慌てて銀王を押しやった。顔を見られないように起き上がると大きく開いていたはずの傷が塞がっている。血糊は落とすことはできないが、服に裂け目がある以外、怪我をした痕跡はなかった。

「銀王、こんな能力もあるの?」

 銀王が僅かに顔を上げると、ひゅっと音を立てて風が踊る。半透明の人間達が一瞬にして切断され、かおりの体がゆっくりとその場に下ろされた。

「誰にでも使えるわけじゃない。お前にしか効果はない」

 言って、銀王は瓦礫の方へ視線を転じた。瓦礫を押しのけて立ち上がろうとする動きがある。銀王がさりげなく夏葉の前に立った。

「無様だな、汪融おうゆう

 黒い獣が激しく呼気を吐き出す。

「未だに、人間に宿らねば存在を維持できないとはな」

「貴様、なぜここに」

 汪融と呼ばれた黒い巨大な化け物が呻る。

「完全じゃなかったはずだ。それなのにどうやってあの結界を――」

 言いかけた汪融が夏葉を見た。

「お前の仕業か。だからわざとオレに刺されたのか」

「そんなこと、どうだっていいだろ」

 銀王が一歩前に出た。

「早いとこ、決着をつけようぜ」

「なにぃ」

「言っておくが、前回のようにはいかない」

 銀王が不敵に笑う。

「お前だけは許せない。だからオレのこの手で始末してやる」

 汪融が鼻に皺を寄せた。

「小妖の分際でっ」

 炎の塊が吐き出された。それは一直線に夏葉を目指して飛んでくる。

「――っ」

 腕で顔をかばおうとした夏葉の目の前で、銀王の手が炎を受け止めた。そのまま炎は手のひらの上で燃えている。

 夏葉の目の前で、炎は銀王の腕を生き物のように伝い登っていく。あっという間に全身へと燃え広がった。

「銀王!」

 炎の塊が急速に収縮する。激しく燃えながら、その中で黒い影が蠢く。暫く不規則に動いていた影が動きを止めると一段と強く燃え上がり――そして瞬時に消滅した。

 空気が凍って月に照らされて輝く。足元に白く冷気が流れた。

 見つめる先、見慣れた銀色の狼が、月の光を浴びて佇んでいた。

「今度は、確実にやる」



 熱気が空をも焼きそうな勢いで燃え上がった。

 辺りの瓦礫から爆ぜる音がする。

 炎が瓦礫の山を舐め、溶かしながら蹂躙する。熱が炎を孕んで床を這って行く。

「夏葉!」

 銀王が夏葉の方を振り返った。気絶したままの香を抱えた夏葉が後ずさる。

「銀王」

 空気を焼きつつ伸びてくる炎の波が夏葉の寸前で堰止められていた。光る透明な壁が赤く揺らめく火を受け止めて湯気をあげる。

 ただの氷壁では何分も持たないのだろうが、それは銀王の生み出したものだ。溶かそうとする炎と凍らせようとする氷がせめぎ合う。

「そこから動くな」

 言いおいて銀王は飛翔した。

 同じように空中に舞い上がった汪融が火炎を吐く。銀王は真正面から風雪を吐き出し対抗した。瞬間的に周囲が蒸気で煙る。

 汪融の赤黒い炎に対し、銀王の白銀の氷。溶け合う氷炎の渦は、互いの妖力を潰しあい、それすらも互いの力の一部として荒れ狂う。熱気と冷気が生み出す湿気が夜気を濡らす。

 汪融が動いた。

 炎をまき散らして氷の礫を払い落としながら銀王へと躍りかかった。

 汪融の攻撃で地が揺らぎ、コンクリートが破砕される音が響く。飛び退いた銀王は風を呼び、真空の刃を放つ。

 黒味の強い霧が舞った。額と耳を掠めて過ぎる突風に汪融が吠え声を上げた。

「小癪な!」

 速度をあげて汪融が銀王へと肉迫した。ぎりぎりで躱すも銀色の毛が散る。

 身を返す動きで銀王の尾が汪融の顔面を打ち付ける。怯んだところを後ろ足で蹴り上げると、汪融の身体が僅かに残った壁に叩きつけられた。

「ぐう」

 牙を剥いて飛び掛かる銀王の眼前を汪融の威嚇のような火炎が走る。

「逃すか!」

 反転することは許されなかった。炎を縫って汪融が異常に大きな鉤爪を突き出した。

「ちっ」

 巨大な爪が執拗に追い回す。右から左から、唸りを上げて振り回される。後ろに下がりながらかわすも、やがては壁に到達してしまった。

 黒く湾曲する刃が降りてくる瞬間、銀王は己のもので受け止めていた。

「――つ!」

 銀王の足から赤く散るものがあった。しかし悲鳴を上げたのは汪融だった。

 肉に食い込む爪に銀王が牙を立てると、その鋭利な凶器を噛み砕いたのだ。それだけではない。砕けた破片を風に乗せ、持ち主へと返してやった。

 よろめく汪融を、銀王は容赦なく攻め立てる。

「ぐああっ!」

 放たれた氷柱が汪融の身体を地面へと縫い付けた。瘴気とともに黒く澱んだ血が吹き出した。さらに生み出される氷柱が続けざまに汪融の身体を穿つ。

「くそおがああっ!」

 角が氷柱を折る。地面を転がって体勢を立て直すと、汪融は咆哮した。呼応するように汪融の黒い尾が、鞭のように撓った。伸縮する細く長い三本が、まるでそれぞれが別の意思を持った生き物のように蠢き、銀王を追う。

「相変わらず、面倒くさい奴」

 呟いて風を纏う。吹き上がる風がそれぞれの尾を嬲った。煽られる尾に向け氷の刃を放つと、汪融が身を翻す。

「させるかっ!」

 尾が氷をすべて打ち返してきた。炎を帯び、熱せられて熱い湯玉となって返されたそれは銀王に見事に命中していた。

 湯玉を食らった銀王に向かって汪融が飛びかかる。自在に動く長い尾を警戒しつつ対峙する銀王の身体を何者かが押さえつけた。

「銀王――っ」

 見れば半透明の人間が銀王の両手足を掴んでいた。

「逃れられんだろ!」

 笑う汪融が勢いをつけて走った。

 黒光りする角が動きの取れない銀王を貫こうと向かってくる。

 銀王は首を振った。風が躍って半透明の輩を斬り捨てるのと同時に氷を生み出して突進を受け止める。

 氷壁が粉砕した。堪えきれなかった衝撃に銀王の身体が後方へ吹っ飛ぶ。転がるなり銀王は素早く身構え体勢を整えた。

「――」

 地面を貫いて出てきたのは長く鋭い汪融の尾。ひとつ、ふたつまでは躱したが、続く三撃目を避けることはできなかった。

 脇腹を抉る尾を銀王が食いちぎった。出血からしてもダメージとしては銀王の方が大きいだろうに、汪融が凄まじい悲鳴と共に転げ落ち、その場にのた打ち回る。

「貴様あああ!」

 汪融の目が一層暗い赤を帯びた。千切れた尾からは黒い粘つく液体が流れ続けている。

「……」

 銀王が辺りを見回す。明らかに空気が変化していた。

 途端に、周囲がびりびりと音をたてた。

 汪融の身体を中心にして急激な熱が集まる。熱気が空気を揺らす。バランスの悪い瓦礫の山が崩れていく。露出したコンクリートがぶつぶつと沸騰しはじめた。

「消えろ、狼牙ああ」

 汪融が吼える。

「させるか」

 銀王もまた吼えた。

 ちり、と小さな音――それはお互いの放つ強大な妖力が衝突するきっかけだった。

 汪融を中心にして黒い炎が吹き上がる。それを迎え打つ銀王の身体からもまた白銀色の光が弾けていた。



 尋常ならざる攻防を見つめていた視界が一瞬赤くなる。

 だが、次の瞬間には白濁する。それは目を疑う、信じがたい光景だった。

 まず目が捉えたのは辺り一面を染める紅蓮。地を這い、赤く揺らめく舌ですべてを舐めつくそうしている。

 激しい火、それすらが己の糧であるかのように赤はさらに濃さを増し増殖する。陽炎すら揺らめくことを許されず消えていく。

 何もかもを溶かしつくそうとする禍々しい業火。

しかし、それがすべてを飲み込もうとするのを逆に喰らおうとする銀色の輝きがあった。

 踊り狂う炎が凍りつく。熱せられる蒸気もろともが音もなく動きを止めていく。

「な……」

 異様な熱気の後は異常な冷気。

 黒と白の世界だった。

 熱と冷、炎と氷。

 二匹の妖の持つ相対する力がぶつかりあい、空気が異常な圧力を増していた。

 肌に感じるのは刺すような冷気と焼け付くような熱気。重くのしかかる異常な圧は、重力がおかしくなってしまったかのようだ。燃えようとしているのか凍ろうとしているのか。極端な温度差は余計に壁や床を軋ませているように感じた。

 ――学校がなくなる!

 咄嗟に浮かんだのはそれだった。

「学校が……」

 止めなくては。そう思っていた。

 どうやってという頭はなかった。

 ただ、とにかく止めなくてはと思っただけだ。そしてそこに迷いはなかった。

 香の身体をそっと寝かせる。ふらつく頭は強く目を瞑ってひと振りした。余計ぐらついたような気もするが、目を擦りやり過ごす。

 立ち上がるのは非常な苦労だった。まるで見えない何かが身体にのしかかっているかのように必要以上に重たい。ただでさえだるく、力の入らない足は前に進めようとすると身体を支えることを拒むように崩れてしまう。

「やめて」

 やめてと繰り返す。

 学校での生活は楽しかった。ずっと親戚の間で暮らし、親のいないことに同情めいた目を向けられていた。どこか小さくなって過ごしていたそんな時期と違って、希世と二人暮らしをはじめての毎日は純粋に楽しくて、仲のいい友達もたくさんできた。ここは今の夏葉にとって、自分らしく過ごすことのできる大事な場所であった。

 それが壊されてしまう!

 息苦しかった。濡れた服のように貼りつく不快な空気が呼吸を妨げる。それでも夏葉は大きく息を吸い込んだ。

「――やめて――」

声を出すことは恐ろしく困難だった。だが、夏葉は力の限り叫んでいた。

その時――闇が炸裂した。


     ***


 それは新たな闇の侵食。燃え盛る炎を、凍てつく氷を、黒い光が飲み込んでいく。

 消してしまったのではない。

 明らかに、炎を、氷を、妖力を求めて、恐ろしく蠢く闇そのものが、ここに満ちていた禍々しいすべての力をその内側へと取り込んだ。

 夜の闇よりも深く、深遠の海よりも濃い――これ以上の暗黒が本当に存在するのだろうか。己以外の輝きを許すまいと、まるで世界を染め上げようとするかのような、強欲な深闇だった。

 いきなり訪れた黒の世界。空間の消失、この場所のブラックアウト。

 空間中の力を吸い込んだあと、現れた時と同じように、闇は唐突に、忽然と消えた。

 ……後に残ったのは燃えた残った瓦礫の残骸と、持ちうる妖力を奪われた汪融の姿だった。


     ***


 何がどうなったのか夏葉にはわからなかった。叫んで、それでどうするかなんて考えも勿論なかった。ただ闇雲に走って叫んだことは覚えている。

 そして、全身を押しつぶすような異常な圧力が収まったのだけはわかった。

 目を開けると、黒い不吉の塊がよろめきながら数歩後ずさるの見えた。その赤黒い目は驚愕に見開かれている。

「おのれ……」

 その視線が銀王ではなく、自分に向けられていることに夏葉は困惑した。

「おのれ、雛姫ひなき! またしてもお前が邪魔をするのか!」

 それは呪詛のようだった。瘴気を振りまいて降ってくる言葉は、絞り出すようで深い憎しみが込められていた。

 夏葉は震える声で違うと叫んだ。

「あたしは雛姫じゃないって言ってるでしょ。あたしは牧名夏葉まきななつは!」

「なにを……その力は、間違いなく――っく」

 よろめいて、汪融は倒れる。静かに銀王が歩み寄った。

「終わりだな、汪融」

 銀王が冷たく宣言する。

「またしても雛姫の力を」

 銀王は冷ややかに見下ろした。

「なんだっていい。お前が消すのに、手段なんか関係ない」

 汪融の表情が恐怖にか歪んだ。

「やっと、だ」

 呟いた銀王がひとつ身動きをする。細い、小指ほどの細い、白い光が地面から突き上げられた。無数と言っていいほどの閃光は氷の筋。それは汪融の体を串刺しにすると赤黒く濁ったものを散らして消える。

「ぎゃあああああっ!」

 耳を塞ぎたくなるような不快な悲鳴が夜を割く。白光に貫かれ、断末魔の声を鼓膜に焼き付け……汪融の体は完全に消滅していた。



「銀王」

 月明かりの中、銀色の獣が振り返った。

「怪我は?」

 夏葉より先に銀王の方が問うた。夏葉は首を振る。

「銀王こそ、大丈夫?」

 汪融の攻撃をいくつも受けている。その証拠に銀の毛並みの一部が煤と血に汚れている。大したことはないと答える口調はいつも通り平然としていて、本当に大事はなさそうだ。

 少しだけほっとして、夏葉は銀王に並ぶ。

「ありがとう」

「あ?」

 不審そうに銀王が目を上げる。

「だって、助けてもらったから」

 ふん、と銀王がそっぽ向く。

 夏葉はほんの僅かだけ躊躇してから、その美しい毛並みに触れる。避けられるかと思ったが銀王は動かずにいた。

「来てくれないと思った。……どうして、来てくれたの?」

 銀王の目がふっと笑う。

「よく言う。自分で呼んだくせに」

「え?」

「なんでもない」

 それより、と銀王が夏葉を見上げた。

「希世に連絡だな。ここの始末、なんとかせんと」

 そういえば、と夏葉は思わず口元を押さえた。すぐに戻るから家で待ってるように言ったまま、連絡もできずにいたことを思い出す。

「絶対心配してる」

 夏葉はポケットから携帯電話を取り出す。案の定、何度も希世からの着信があった。

「それから、あの女と、そこの男、病院へつれてってやれ」

 銀王に言われ、夏葉は振り返る。汪融が燃え尽きた場所には、白鷺優斗が倒れていた。

「先輩……生きてるの?」

 頷いて、銀王は目を伏せた。

「精神はどうなってるか、わからないがな」

 そればかりはどうしてやることもできない。横たわる少年から目を逸らし、夏葉は希世へと連絡を入れた。



「あの、さ。銀王」

 真夜中に近い時間のせいか、銀王はごく普通に夜道を歩んでいる。歩調がゆっくりなのは、夏葉にあわせているためだろうか。

「ごめんね、いろいろ」

「なにが」

 不機嫌そうな声だった。

 なのに、なんだかそれが銀王らしくて、嬉しくなる。

「助けてもらったし、琴江のことも、助けてくれたんだよね」

 ありがとうと礼を述べるが銀王はふんと鼻を鳴らしただけだった。

「それから、あの……怒らせちゃったし、それに……」

「それに?」

 夏葉は足を止めた。数歩進んでから、銀王が振り返った。月明かりに白銀色の毛並みが美しく輝く。見惚れるほどに優美な姿はあの不気味な化け物である汪融と同じ妖でありながら、全く違う空気を纏っている。

「それに、なんだよ」

 見返す灰黒色の瞳もまた、夜空のように綺麗だと思った。

「あたし……あたし、雛姫じゃないから」

 銀王の耳がぴくりと動いた。

「雛姫じゃなくて、ごめんね」

 多分、銀王は雛姫を待っていたのだ。自分のそばにいるのは自分が雛姫かもしれなかったから。汪融とかいう妖怪も間違ったくらいだ。よほど自分は雛姫と言う人に似ているのだろう。

 だが、やはり自分は雛姫なんて人物ではなくて、全くの人違い。銀王が大切に思っているのは、雛姫と言う人間だ。

「……行っちゃうんだよね?」

 それは淋しいことだった。やっと、戻ってきてくれたのに。また、失うのは辛い。

 この美しい妖は雛姫の元へ帰る。そうしたらもう――今度こそ、戻ってこない。

「雛姫を、探しに行くんでしょ?」

 本当は行かないでと言いたい。この依存する己の心は何なのかわからない。ただ確かなのは行ってほしくないということだけ。

 ――けれど、それは言えないから。

 汪融は、雛姫は銀王のすべてなのだと言っていた。そんな大事な人を探しているだろう銀王に行かないでとは言えない。ならばせめて、雛姫が見つかるまではそばにいてくれたりはしないだろうか……。

「あのね銀王。もしまだここにいてくれるなら――」

「ふらついてる」

「はえ?」

 突然の予想しなかった指摘に、夏葉はおかしな声を出してしまった。

「足元。ふらついてるぞ」

「そ、そんなことないよ」

 言われるまでもなく自覚はしていた。なんだか、体中の力が抜けてしまったような脱力感と全身のだるさを感じてはいた。しかし銀王の言葉が聞きたくて一生懸命隠していたはずだったのに、まさか気づかれているとは思わなかった。

「ったく、なんだってそんなに瘴気に弱いんだ」

 呟くように言った意味はいまひとつわからなかったが、なんとなく責められているようで、夏葉は思わずごめんなさいと応じていた。

「乗れ」

「え?」

「『え』ってなんだよ、不満か?」

 慌てて首を振る。

「ただ、だって、いいのかなって、あたしはほら」

「今更遠慮か? あほらしい」

 膝裏に体を寄せると、器用に夏葉を座らせた。

「それとも何か。人型じゃないのが気に入らないのか?」

「は?」

「お姫様抱っこの方がよければしてやるぞ。服がないから裸だが」

 夏葉はものすごい勢いで首を振った。

 人型と聞いて、今こうして背に乗っていることすら、恥ずかしくなってくる。裸はともかくお姫様抱っこなどとんでもない話だ。想像しただけで本当に倒れそうだ。

「変身するなんて知らなかったよ」

 がくっと銀王の首が下がった。

「変身じゃない。……なんか、お前が言うとすごい間抜けに聞こえる」

「似たようなもんでしょ」

「全然違う、ちなみに、二身にしんだ」

 うんざりといった様子で、銀王が続けた。

「いちいち言う必要はないだろ、別に」

「そうだけど……なんていうか」

 心構えと言うか。色々意識するではないか。

「なんで普段人型じゃないの?」

「別に意味はない。ただ、こちらの方がいいと、雛姫が言っていた」

 夏葉の攻めるような口調に、だが銀王は静かに答えた。

 人型では妖気が抑えられてしまう。目の見えない雛姫は獣型でいることを望んだ、と。

 ――そっか。

 雛姫の要望。やはり銀王のすべては雛姫が中心なのだと実感する答えだった。

「飛ぶぞ。掴まれよ」

「……」

「夏葉?」

 促されて夏葉がその首に手を回すと、銀王はゆっくりと空へ舞い上がった。

 学園からマンションは遠くないのに、銀王は旋回するように大きく空を舞う。星が近づき、ネオンが遠ざかる。熱のせいか、火照った頬に寒いくらいの空気が心地よかった。

「雛姫はな、オレの恩人だった」

 冷たく流れる風の中、銀王の低い声がした。

「汪融にやられ、傷ついたのを二度助けてもらった。三度目は命を助けられた」

「銀王が?」

「あの頃は弱かった。その弱い気配を、外出がままならないはずの雛姫が感じ取って……救われた。手を貸し、オレという存在を認めてくれて。そういう意味でも恩人だ」

「外出がままならないってどういうこと?」

「雛姫は上梨の奴隷だった。目を封じられ、足を奪われ、ずっと地下の闇の中で暮らしていた」

「地下の、闇?」

 再び、胸が痛むような気がする。

「十五歳で死ぬのだと、雛姫は言っていた。満十六の誕生日の前日が儀式の日だと」

 夏葉の胸がトクンと鳴る。汪融と話した時に感じた、奇妙な胸の痛み。

息が苦しい。

「雛姫はすべての封印、妖力を無効にするという特異な能力を持っていた。雛姫は転生のたびに雛姫と言う名を与えられ、儀式に使われ死ぬ」

「何の儀式?」

「巨大な力を己の一族に取り込むための儀式だ。上梨の今の力は、雛姫が生み出したものだ。元々多少の力はあったが、やつらは雛姫の血肉を喰らって、霊力を高め、権力者に重宝され……時代の影で生きてきたんだ。雛姫は、その生贄だ」

 胸が、痛い。

「雛姫が一緒にいてほしいと言った。オレは承知した。そして雛姫は、その稀有な力をオレに与えて、儀式の日に死んだ。だからオレは次の雛姫の転生を待った。また一緒にいるために。だが、数回の転生の後、雛姫は現れなくなった」

 銀王は淡々と続ける。

「ある女が、自分の願いを叶えたら、雛姫に合わせてやると言った」

 繋がりが途切れつつあるのを感じていた。このまま会えずに、雛姫の存在は消えてしまうのかと不安が大きくなってきた頃だった。

「その女は上梨の人間で、未来を見る不可思議な力を持っていた。そして自分の子が雛姫だと話した。あわせてやるから自分を外に出せと」

 女は雛姫ではなかった。それなのに上梨に捕らわれていることに違いはなかった。未来を見るという奇妙な力は、彼女が雛姫の代わりに上梨に新しい力を注ぐ為の生贄となるに足ると考えられていたのだ。

「生贄……雛姫の身代わりで?」

「決まっていたわけではなさそうだがな」

 二十一世紀の現在、生贄などというものが存在していいのか。

「オレも暫く離れていたからな。その間もそんな儀式をしていたのかは知らん」

「でも、その人がなるって考えられてたんでしょ?」

「雛姫が現れなくなって長い。そろそろ途切れてくるだろうから、補う必要があると言っていた。そうなれば恐らくは自分がその役目を負うことになるだろうと」

「……そんな」

「まあ、だからこそ女はオレにそんな話を持ちかけたのかもしれないが」

 証拠がなければわからないと銀王が告げるのに、女は封印をかけると説明した。雛姫の力を継ぐ結界や封印の効かない銀王にではなく、銀王をいれた器にかけると提案した。それを外せるのはすべてを無効にできる雛姫の魂を持つものだけだと。

 女の言うことが真実なら、外に出たい女と雛姫を待っている自分の利害は一致している。しかし、確証はない。これまで雛姫を食い物にしてきた上梨の人間の言うことをそのまま信じていいのだろうか。

 ――だが、銀王は了解した。もしかすると自分を捕らえようとする罠かもしれない。疑う心は消えない。それでも、試してみる価値があるように思えたのだ。

「出られなくなるかもしれないのに?」

 銀王が頷く。

「どうして」

「さあな」

 信じられないはず……なのに、なぜだか不安はなかったのだと、そう銀王が言う。

「そして今――オレは、ここにいる」

 壷が壊れた時、そばにいたのは夏葉だ。その時銀王は夏葉に、華穂かほの身内かと尋ねた。華穂は母だと答えた夏葉。

 己の子が雛姫だと告げた上梨の女の娘。

「それが……あたし?」

 銀王は答えなかった。その無言こそが答えだった。

 長い間誕生しなかったはずの雛姫、それがいずれ生まれる自分の娘だということを知った華穂。だから、華穂は逃げた。そしてあえて違う名前を付けた。己の死を予感し、信頼できる弟に全てを託した。

 今回の雛姫に、以前の記憶はないだろうことは華穂も予言していた。だからこそ動かぬ証拠として封印をかけたのだ。

でも、と夏葉が首を振る。

「あたし、そんな特別な力持ってない」

「さっき、オレと汪融の力を消したのはお前だ」

 銀王が何かをしたのだと思っていた。思ってはいたが、漠然とわかってもいた。だから銀王の言葉を否定することはできなかった。

 どんな能力なのかはわからなかったし、使い方もわからない。ただ内側で何かが弾けるような感覚だけがあった。

「上梨は途切れようとする能力を、転生した雛姫を使って補っている。その度にオレは雛姫のそばにいた。雛姫の願いを叶えるために」

「願いって?」

「雛姫を、雛姫じゃないものにする。上梨から連れ出すために」

 大きく鼓動が跳ねた。

胸が強く疼く。手を当てると、一瞬、自分の手が血に染まったのが見えた。

「……」

 痛む胸は儀式の痕。魂に刻まれた恐怖と痛み。だからこんなに痛いのだ。そこに傷はないのに、雛姫を理解しつつある自分に魂が伝えているのだ。そしてそれは同時に、ずっと一緒にいた一番大切な存在のことを教えてくれようとしている。

 ――間違いなく上梨の血を引きながらも上梨とは関係のない自分。

 記憶を取り戻せないのは過去の時間をなくしたからではない。これこそが望んだものであって、ずっと一緒にいて、それを成しえてくれた存在とわかちあうためにこうして今も一緒にいる。

「その願いは叶ったの?」

「……ああ、多分な」

 それは夏葉の父、母、そして銀王の手によって。

 母の意思を継いだ修、希世によって、夏葉は守られ――今、銀王とともにいる。

「でも、銀王は雛姫を待ってたんだね」

 雛姫と成しえた夢を分かち合いたかったのかもしれない。

 転生した、きちんと銀王を覚えている雛姫と。

 その気持ちはわからなくはないが――少し複雑な気がする。

「あたしね、銀王といるとホッとするの」

 夏葉は首に回した手に力をこめた。

「他の人じゃだめなんだよ」

 銀王、と夏葉が呼ぶ。

「今のあたしは雛姫じゃない。銀王の知ってる雛姫じゃない」

 常に十五年で終わる命を少しでも永らえようと足掻きながら幾度の年数をともに過ごしてくれた存在。銀王ならいつも一緒にいてくれる。そう思った雛姫。そして実際にそうだったのだ。

 今、自分は雛姫ではない。雛姫の魂を受け継いだかもしれないが、絶対的に雛姫ではないのだ。願いはかなったけど、それは雛姫との決別でもあったのだ。

 ――でも、それは新しい関係のはじまりではないだろうか。

 雛姫が信じた銀王。ならば、また、夏葉が信じてもいいではないか。

 ……だからと夏葉は思う。

 だからこそ雛姫はともにいてほしいと言ったのだ。外に連れ出してくれだけではなく、ともにあるようにと願ったのは、ずっと一緒にいるため。運命の鎖から逃れた後も、ずっと銀王と一緒にいたいから。それはほぼ確信に等しい思いだった。

「銀王もあたしを知らないけど、あたしも銀王を知らない。でもさ、これから知っていけばいいよね?」

「……これから?」

「そう、これから、一緒に」

 夏葉なりの精一杯を言葉にしたつもりだった。雛姫の祈りを受け、自分自身の想いを込めて。これからもまたずっと、一緒にいてほしいという願いは通じただろうか。

「そうだな、夏葉」

 ややあって、銀王が笑いを含んだような声を返した。

「とりあえず、そうするか。お前の唐揚げはうまいからな」

 なんだそれはとの抗議に銀王が声をあげて笑った。

「銀王、あと四ヶ月で、あたし十六になるんだよ」

 銀王が息を呑む気配があった。

 今十五歳である夏葉。雛姫にはなかった未来の話だ。

「誕生日には希世姉がケーキを作ってくれるから、半分分けてあげるよ」

 この世界に生まれた魂、はじめて迎える十六とうい年齢。一緒に祝って欲しいのは、ずっと長い長い時を共に生きてきた、自分の片割れ。

「半分だあ? オレの労働からしたら、最低限、五分の四は必要だな」

「は?」

「でもまあオレも鬼じゃないからな。三分の二は分けてやろるよ、なっぱ」

「え、なに、それ。なんでわざわざ分数なの」

五分の四で、三分の二というのは一体どれだけの量だというのだ。

「わけわかんないこと言いやがって、バカ銀すけ」

「数字だぞ、明確じゃないか、あほなっぱ」

「あほじゃないし、なっぱって言うなって言ってるでしょ!」

 夏葉が捕まっていた腕に力を入れた。

「ぐ――やめろ、死ぬ!」

「死なないくせに!」

「わからんだろ、死ぬときは死ぬんだ、妖だって」

 あ! と夏葉が声をあげた。

「なんだよっ!」

「あんた、琴江助けたとき、制服だったって聞いたけど、どっから拝借したのよ」

「そんなもん、いくらでも学校に落ちてるじゃないか」

「落ちてるわけがないだろ! このばか犬」

 それはきっと更衣室とかにある、誰かの制服に違いない。

「犬じゃないと言ってるだろが」


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