6章
六章
狼牙、と白鷺優斗が言う妖が銀王であることはなんとなくわかった。夏葉の周りにいる妖は銀王しかいないのだから。
「本当はもう少し時間をかけようと思ったんだよね」
そう、優斗は笑う。
「牧名さんと話すのは、それなりに楽しかったし」
恋人ごっこでも楽しんで、そして思い切り傷つけて捨ててやろうと思っていたと語る。
「で、ばらばらに切り裂いてやろうとか、ね。あいつの前で」
相変わらずの口調だが、その目は笑ってはいない。いや、嘲笑っているのだ。まるで舞台で話す役者のように己の言葉に酔って話す声が異常に響く。
榊学園の視聴覚室だった。あの一件以来、机や椅子などは取り除かれたままになっている。まだ内装を整えている段階なのだろう。天井は綺麗になっていたが、以前の布張りと違い、壁はまだ白くペンキが塗られただけの状態で、朗々と語る優斗の声が嫌な反響をしていた。
よくよく縁のある場所だ。あまり良くない縁だが。
「あの壷がうまく手に入れば、こんな苦労はしなかったんだけどね」
優斗が両手を広げる。
「壺?」
「奴を封じていた壺だよ」
今、夏葉の手足を押さえているのは半透明の人間だった。この奇妙な姿は記憶にあった。いつぞや壺の側で苦戦していたあの奇妙な影だ。
優斗の忠実な下僕なのかどんなにもがこうとも一向に離す気配はない。四之宮香も同様に捕らえられているが抵抗する気力はないらしい。項垂れたまま顔を上げようともしない。
不気味な生暖かさが、押さえつけられた場所から感じられる。こんなものでも生きているのか。これもまた妖なのかもしれない。
「それ、便利なんだよ」
夏葉の視線に気づいたのか、優斗が言う。
「式神の応用っていうか。妖力を使うとね、そんな便利な使い魔が作れるんだ」
妖力という言葉が気になった。それでは妖ではないか。
「修叔父の金庫をいじったのも、うちに来たのも、全部あんたの仕業だったってこと?」
優斗が微笑する。
「あの壷が狙いだったの?」
「そうだよというべきか、それもというべきか。でも、君も狙いというべきか」
「どういう、こと?」
「言葉通り」
「なんで、あたしなわけ?」
優斗が背を向ける。室内に靴音を響かせ、優雅な素振りで歩く。まるで夏葉との間に距離を置くように、ある程度の位置までくると足を止めた。
「あたしじゃなくてもいいんじゃないの?」
「わからないかな」
夏葉の言葉に、優斗がゆっくりと振り返る。
「君じゃなきゃだめなんだよ。わざわざそこの女を使って確認したんだから」
夏葉が香を見る。香も怯えた目を夏葉に向けた。
「ここでの出来事、僕はきちんと見ていたんだよ」
「え?」
「どんな風にしたらいいか、いろいろ考えたよ。人間がやっているように見せるってのは意外と大変だからね。まあ、その点、そこの女は十分役立ったけど」
香が息を呑むのがわかった。
「そしたら、やっぱり来たじゃないか。君のピンチに、あいつが。間違いないと思ったね」
「……何が、間違いないの」
「なんだって?」
「何が間違いないっていうの」
優斗は意外だといわんばかりに夏葉を見やった。
「本当にわかってないのか? 君は、何も」
「わかってないもなにも、何の話よ」
ほんの僅かな間の後。優斗は発作のように笑い出した。狂ったように笑い、床を転げまわる。
「なにがおかしいの!」
上からな口調も穏やかを装う言葉もすべてが癇に障る。
「これは滑稽だ! わかってない?」
ピタッと優斗の笑いが止んだ。不気味な静けさが視聴覚室に満ちる。
「君は、奴の一番大事なものなんだよ」
心臓がトクンと音を立てた。
「……大事な、もの?」
「君は、奴のすべて。奴のたった一つの宝。たった一つの弱点。たった一つの、守るべき魂」
「……え?」
優斗が残忍な笑みを浮かべて言った。
「お前は、奴の力の源――雛姫なんだよ」
「ひ……なき?」
誰だとは思わなかった。その名前は知っている。
なぜ知っているのかは、わからない。でも、それは自分の内側に渦巻く何かを呼び起こそうとする鍵のようなもの――言霊だった。
「ひなき」
胸が痛い。痛みが強くなる。体中の血がそこに集まっていくような錯覚。その中心に硬い異物でもあるかのように、鼓動にあわせた痛みがある。
「上梨家に巣食った化け物の魂だ。幾度も生まれ変わり、その力を与える」
そう語る優斗の顔は、ひどく歪み、もはや彼の優しい面影は微塵もない。
「奴自身、力を取り戻せていないと思ったが、そうか。お前、自分をわかっていなかったのだな。だからおとなしく捕まったのか」
なるほどと優斗がぶつぶつと呟く。
「道理で餌を逃がした後はさして抵抗しなかったわけだな。そうか、できなかったわけだ」
「……?」
「同時に、お前の忌まわしい力も目覚めてはおらんと。そういうわけだ」
「なんなの? なんの話をしてんのよ」
夏葉に語るというよりも、一人納得するように優斗が頷く。
「まあ、それでも、雛姫であることには変わりない。その血肉を喰らえば、オレも強大な力を得ることができるな――狼牙のように」
「……え?」
優斗の顔が憎憎しげに歪んだ。
「オレは上梨に封じられた。この小僧が外に出すまで出てくることができなかった。狼牙のせいで弱っていたところを封じられたんだ。そのせいでかなり力を削られてこのざまだ」
優斗が歯ぎしりをしながら言う。
「本当ならあんな奴に後れを取るなんざあり得ねえのに、奴は突然強力な力を手にして、オレの前に現れたやがった」
「……」
「その背後にいたのは誰か。――雛姫、お前だよ」
語る優斗の顔がさらに酷く歪んでいく。
「認めるよ、どんな陰陽師より、上梨の結界は強力だ」
だが、と優斗が続ける。
「その力の源となる雛姫を喰らえば、上梨の手からは逃れられる上により大きな力が手に入る」
人のそれとは思えない、赤く陰気に燃える目が夏葉を見据えた。
「自覚があろうとなかろうと、お前は間違いなく雛姫だ」
優斗が笑う。
「残念だが、いくら祈っても奴は来ないぞ。この小僧を使って上梨お得意の頑丈な結界を作っておいた」
「結界?」
耳慣れない言葉だ。
「常の奴ならなんともないだろうが、今のあいつは力を取り戻していない。あれを撥ね退けることはできんだろうな」
夏葉は目をあげた。不気味に笑う優斗を見やる。
「違う、あたしは……あたしは雛姫なんて人じゃない」
もし本当に雛姫であるなら、銀王が関係ないなどというはずがない。
関係ないと銀王が言ったのは――関係ないと言って離れることができたのだから、それこそ自分が雛姫ではない証拠ではないか。銀王は雛姫のものなのだ。結界だとかそんなことは関係ない。雛姫ではない。だから銀王は助けにこない。助けに来ないのが当たり前だ。
「銀王があたしを助けたのは、雛姫だからじゃない。あたしのお母さんと約束しただけ。あんたは間違ってる。だから、あたしを食べたって絶対に銀王には勝てない!」
優斗の体が震える。その顔に不快感が表れる。
「勝てないだと?」
「そうよ!」
夏葉は震えそうになる声を必死に絞り出す。
「あたしなんかを間違って捕まえて。バカみたい」
おまけに、と赤く澱む目を睨み返す。
「あたしだけじゃない。会長まで捕まえて。人質がいなくちゃ戦えないなんて、弱い奴のすることじゃない!」
「なに?」
「自分が弱いからこんな手の込んだことするんでしょ。あんたみたいな卑怯者、絶対に勝てないんだから」
「この、人間っ――」
悲鳴を上げたのは香の方だった。
振り上げられた優斗の手が夏葉の頬を打つ。赤い飛沫が飛び、隣で捕まっていた香の頬に染みを作る。
「オレはな、弱いって言われるのが嫌いなんだよ!」
優斗の手はもはや人の形を成してはいなかった。異様に硬質化した指が夏葉の皮膚を裂いたのだった。
「やめて、牧名さんが!」
香が泣きそうな声をあげる。その目の前で、押さえつけられて動けない夏葉を、優斗の手が薙ぐ。その度に新たな血が飛散する。
「もう、やめてください」
「何を言う? お前もこいつを傷つけたろうが」
「それは――」
「自分はよくて、他人はだめか? 相変わらず、人間とは勝手だな」
優斗が腕を振るうと、頬と首筋の皮膚が裂け血が流れた。襟元が徐々に赤く染まっていく。
「いいか、オレはな、弱いんじゃない。長年の結界で削がれた力が戻っていないだけだ」
「……」
「めでたい奴だ、何も知らないとはな」
声を上げるのは悔しい。歯を食いしばって優斗を見返す。その目が気に入らないのか優斗が頬を、腕を、身体を打つ。夏葉の服が裂け、新たに横腹に線が刻まれた。
「お前らのせいで、オレはくだらない結界に長々掴まって、えらい迷惑したんだ」
夏葉の血がついたその指先――異様に固く、尖った爪を奇妙に伸びる舌で舐める。
「お前はオレを卑怯だと言うがよ。お前に邪魔をされてオレは狼牙に遅れをとったんだ。奴の方が卑怯じゃねえか。そうだろう、一人では勝てないからお前と組んだ。よっぽど弱くて、卑怯だろうよ」
優斗の口から白く濁った空気が漏れる。
「おかげで、力を取り戻すまでは、こんなちんけな体に入ってなけりゃならなかった。恨んでも恨みきれねえよなあ」
夏葉ははっとした。
「……どういうこと? 体って、先輩の……?」
「上梨の、傍流の体はいいぞ。適度に霊力があって、本家と違ってガードも緩い」
優斗の顔が変形した。口が耳まで裂け、狂気を帯びた目が釣りあがり、怪しい光を帯びる。
「ちょいと借りたのさ。じゃなきゃ、今のオレじゃお前に消されかねない。危ないからな」
でも、と邪気を帯びた目が笑う。
「それも要らぬ心配だったな。お前がこんな状態なら、ここまで警戒する必要もなかったよ」
「白鷺先輩はどうしたのよ!」
「何日か前までは意識があったが、さあて、どうしたかね」
全身が震える程の奇妙な気配が広がる。それは夏葉にもわかるくらいに強烈だった。体は間違いなく白鷺優斗のものであったのだろう。だが、それが発する異様な存在感はもはや人間のものではなかった。怪しく笑ったその目が、言わずとも白鷺優斗の末路を語っている。
吐き出される呼気が、まるで絡みつくように蟠っている。体中を蝕んでいくような不快な空気があたりに満ちていく。優斗だったものが両手を地面についた。ほんの少し痙攣するような動きの後、奇妙に首を振るわせる。背中や腹が不規則に凹凸を繰り返し、がくがくと震えながら黒い影が全く別の形を形成する。
夏葉は眉根を寄せてその様を見つめた。香は目を逸らすことが出来なかったのか、変化していく姿を視界に捉えながら、意識を手放したようだった。
「やっぱり、こっちの方がいいね」
白鷺優斗だったものが言った。そこには黒い、巨大な犬のような姿があった。
「化け物」
琴江を襲ったのはこいつに違いなかった。
銀王と似た姿、だが身に纏う禍々しさが明らかに違う。妖も化け物も区別がつかなかった夏葉だがはじめてその違いを認識した気がした。心の底から、化け物だと思った。
黒い肢体に赤く濁った瞳。尾は三つに分かれて、銀王のそれよりも細い。犬に似た顔だが鼻先に角がある。後ろ脚よりも前脚の方が幅が広く大きかった。前足から伸びる爪は三本、恐ろしく長く、湾曲して鋭い。
「酷いねえ。大して変わらんだろ、奴と」
「全然違う」
夏葉は頭を振った。出血のせいだろうか、体が重く感じられてきていた。目が回って、視界が歪もうとする。
「一緒にするな、化け物。銀王はお前なんかと違って、もっと綺麗だ!」
化け物が笑う。
「妖が綺麗でどうする。笑っちまうよ」
さて、と化け物が言った。
「そろそろ奴を連れてくるかね。目の前でお前さんを喰らってやるとするか。生きたまま喰わねば意味がないらしいからな」
口から吐き出される煙はなんなのだろう。顔を背けたくなる不快さだ。
それにしてもと化け物が歩み寄る。爪先で器用に襟元を引っ掛けると、その不気味な顔を近づけた。
「狼牙も気の毒な奴だ。これまでずっと守ってきたものがとうとう終わるわけだ。それもきれいさっぱり忘れちまってるっていう、こんなにもみじめな形で」
「……」
「まあ、いい。どうせ奴もすぐに後を追うことになるんだ。気にする必要もねえな」
夏葉は正面からその不気味な顔を見た。
「あたしは雛姫じゃない」
「まだ言うのか?」
「違うから。なんと言われようと、雛姫はあたしじゃない。あんたは間違ってる」
胸の痛みは続いている。これは何の痛みなのだろう。
何の痛みかわからない。でも、この痛みが、夏葉に何かを告げようとしている。
それが何かわからない。今の夏葉にわかっているのは、絶対にこいつの言っていることを認めてはいけないということ。この場に呼ばせてはいけない。完全でないなら、この巨大な黒い妖怪に勝つことは出来ないだろうから。
だったら、自分にできることはひとつ――こいつに屈してはいけないのだ。
「あたしは雛姫じゃない」
化物の鼻に不快気な皺が寄った。その口から出る白い煙が増える。
「あんたは、間違ってる」
揺るぎのない口調で続ける。
「あたしなんかをどうにかしたって関係ない。あたしは全く関係ないんだから」
怖い。でも、逃げることは出来ない。
助けてと思う。でも、助けに来て欲しくはない。
「あんたは銀王が怖いだけの弱虫だ」
「なんだと」
こいつの思惑通りになんて絶対にさせない。こんな風に死ぬのは、不本意だけど……。
「あんたは弱虫だって言ったの」
化け物が目を見開く。まるで赤い闇のような目が夏葉を射抜く。
「何度だって言ってやる。弱虫」
震えつつも、夏葉は笑ってやった。化け物が激昂するのがわかった。
「てめえっ――」
化け物の爪が動く。それが夏葉に突き立てられるより先に、自らその凶器に体を預けた。
「なにぃ」
体の中を固い異物が通るのがなんとも気色悪い。痛みというよりも、冷たいものに触れ、やがて熱を帯びていくような不思議な感じがした。
口の中に気色悪いぬるっとした液体がたまっていく。咳とともに吐き出すと、刺し貫かれた腹に激痛が走った。
それでも夏葉は笑った。それは壮絶だったに違いない。
「……あんた、もう一つ、間違ってる。あいつは、狼牙なんて……名前じゃない」
そう、狼牙なんて名前ではない。そんな名前ではない。
「銀王って言うんだよ、ばーか」
混濁する意識の中、それは確信めいて心に浮かぶ。
銀王、と。
この自分がつけたのだ。あの美しい獣に。
一緒にいると。そう約束した、その証として――。
***
……人間の少女だと思う。
年の頃で言えば、十に届くか届かないか。豪族の娘なのか着ているものは豪華だ。顔を合わせるのは三度目だがいずれも怪我を治療してもらってすぐに飛び出したので、正面からきちんと対峙したのは初めてに等しい。
この屋敷は少女のものなのだろうか。ここまでの道のりを、少女は人間の女に抱えられたままやってきた。その間ずっと瞳は閉じたまま。二度見かけた時は意識をしなかったが、もしかしたら目が見えないのかもしれない。
部屋の隅に座った姿は普通の子供と変わらなかった。なのに、その身から発する気配はとても人間のものとは思えない。あまり多くの妖に会ったことはないがこれほど大きな妖気は未だ見たことがない。己が戦い、敵わなかった汪融でさえ、これほどに巨大な圧力はなかった。
こんな人間が、自分にどんな用だというのだろう。
汪融にやられて傷ついたのを助けてくれた、その恩は感じている。それだけではない。この少女が己に力を貸してくれたおかげで封じることができた。倒せなかったのは心残りだが、自分に汪融に勝てるだけの力がないのだからそれは仕方ないことだ。多くを望もうとは思わない。
この世に生まれてからずっとひとつ処にいた。そこは温かな集落で争いもない。時折無謀な取立てや強制的労働に駆り出されることなどがあっても、皆仲良く暮らす平和な邑であった。人々の願いは毎日の平和、健康。そして無事に収穫ができること。決して大きなことは願わない。それはとても心地よい願いと祈り、居心地の良い空間だった。
だが人は争う。
人同士が争うのは切ない。小さな集落はそれですぐに消滅してしまう。人の争いには関われないのだと、漠然と、だが確固たるものがあるから、それはもうただ悲しいだけの出来事だ。
しかし、汪融は違う。自分はあの妖から邑を守らねばならなかったのに出来なかった。人を喰われ、邑を焼かれ、初めて抱いた感情――怒り。でも勝つことはできず、敵をとることはできなかった。この少女が汪融を抑えてくれなければ自分も消滅していたに違いない。それほどに大きな力を持った人間が、なぜ自分なんかを助けたりするのだろうか。
「雛姫様。このようなものを連れ込まれては、御方様に知れたらなんと言われるか」
「構わぬ。犬と思うて愛でているようだとでも言っておけばよい」
しかし、との反駁に、雛姫と呼ばれた少女は答える。
「どうせここに来ない。わかるわけもない。おぬしが言うはずもなかろう?」
「それは勿論です」
「ならばよい。我も退屈なのだ。話し相手がおってもよかろう」
子供とは思えぬ口調で、雛姫が続ける。
「我は喉が渇いた。このものにも何か与えてやってはくれぬか?」
すぐに、と答えて、女が部屋を出て行った。
足音が遠ざかると、少女はこちらを振り返った。まるで見えているかのような動きだが、まぶたは閉じたままだ。
「名はなんという?」
答える代わりに距離を取る。
「怯えずともよかろう。別に、取って食おうなどとは思わぬ」
「……」
「我は雛姫という。少し、話し相手になってはくれぬか?」
差し出していた手を下ろして、雛姫は苦笑した。
「先の化け物との争いに手出しをしたのを怒っておるのか? すまなかったな。だが、結果は見えていた。みすみす殺させることはできなんだ」
それは自分でもわかっていた。だが、もう守るものはないのだ。汪融さえどうにかできれば死んでも構わないと思っていたから別段助けが欲しかったわけではないというのが本音だった。
「あれとやり合うて怪我をしていたのだな。勝てないものに無駄に挑むは間違いであろう?」
「……大きなお世話だ」
「やっと喋ったな」
雛姫が微笑む。
「大きなお世話と、な。死ぬつもりだったのか?」
「お前には関係ない」
「そうだな。だが、助けたのだ、関係ないはないだろう」
「勝手にやったんだろうが」
「そうだ。勝手に助けた。だから勝手に死ぬのは許さぬ」
「なんだ、それは」
「死ぬるは一瞬。だが、生きてこそ、何かを成しえるとは思えぬか? おぬしはまだ幼い。これから力を得ように」
雛姫の言う通りかもしれない。自分はまだそんなに時間を過ごしてはいない。これほどに色々なものが世の中に溢れているのだということを、何も知らなかった。人間にも、こんな化け物のようなものがいることも。
なあ、獣よ、と雛姫が言った。
「我はここから出られぬ。目を封じられ、足の腱を切られておる。言ってみれば、奴隷だ。先程の女子がおらねば歩くことすらままならぬ」
だから女に抱えられていたのかと得心する。
「まこと、不便な身体よの」
「誰かにやられたのか?」
こんなに大きな力を持っているというのに。もっと強い妖がいるというのだろうか。
「祖父だ。そして我は十六を前にして死ぬる」
「……え?」
「我の力は稀なのだそうだ。その力を受け継ぐには、我の血肉が必要らしくてな。儀式でもって我の力とともに血肉を取り去り、転生させるのだそうな。無事転生した暁には、また儀式を行うのだろうよ、繰り返し繰り返し」
淡々と雛姫が続ける。
「だから我が逃げぬように、そして他に見つからぬようにと、こんな結界の中で、闇とともに暮らさせておるわけだが……。どうせ逃げられる故、我もおとなしくておるが、おぬしの気配だけは見過ごせなんだ」
それで助けたのだと雛姫が言う。
「のう、獣よ」
雛姫が言った。
「こんな状況でも、我は諦めてはおらぬよ。いずれ逃れてやろうと思っておる。我の血肉を喰らおうとする一族の中に絡みつくこの魂の鎖、いつか逃れてやる。こんな状態の我でもそう思えるのだ。おぬしももっと大事にしてもよいだろう、その存在を」
静かなだけに、そこに秘められた思いが伝わる。死を知りつつも、それを超越してやろうという強い執念。小さな体に込められた意思が、彼女を必要以上に大きく見せている要因のひとつであるのかもしれない。
「おぬし、名前は?」
再びの問いに、シロとそっけなく返した。
「今は白神。その前は銀聖とか……」
「神? それは大層な」
大層だということは自分でもよくわかっている。
「オレが自分で名乗ったわけじゃない」
「だが、強ち間違いでもあるまい。おぬし、確かに妖としては気配が澄んでおる」
言われている意味がよくわからなかった。
「珍しい妖だな。人よりもよほど清浄だ。人の祈りの化生か」
「……知らない、そんなこと」
「なあ、白神」
雛姫は目を開ける。そこには赤い文字の刻まれた濁った眼球があった。途端に、目を背けたくなるような不快な気が漂う。これまでとは異質なその不快感は、明らかに雛姫以外の術者の匂いだった。
「我の願いも聞いてはくれぬか?」
表情を表すことのできない、不気味な硝子玉が覗き込む。
「なんだよ。言っておくが、オレは神じゃない。お前をなんとかするとか、そんな大それたことはできない」
わかっておる、と雛姫は笑う。
「大したことではない」
「……」
「我のそばにいてはくれぬか。常に、我とともに」
「そばに?」
雛姫は俯く。
「我は人のはぐれもの。どうやらおぬしも妖からは外れておるようだ。ならば仲良くできよう。はぐれたもの同士、ともにおってはもらえぬか?」
「……ともに?」
「我がこの世にある限り、我のそばに。そしていつか」
――外へ連れ出してはくれまいか。
「なんだ、そんなことか」
一緒に逃げたいということだろうか。そう思う瞬間、雛姫が確認をする。
「我の願い、理解したか?」
「理解したよ」
「本当か」
「あ、ああ」
「まことに、か?」
「……」
震える声で、何度も問うて、確かめる。
真摯に問う様子が、言葉以上のものを含む願いであることを告げていた。
――連れ出して欲しいのは外ではない。輪廻の外へ誘って欲しいのだ。忌まわしき運命に、ともに立ち向かって導いて欲しい……。
そんな、強烈な願いが少女の全身から発せられる。
「……約束するよ、雛姫」
そばに歩み寄った。伸ばされた手に頭を差し出し、寄り添って座った。
「あんたは恩人だ」
邑は取り戻すことはできないし死んだ者が戻るわけではないが、彼らの眠る地から汪融を遠ざけることはできた。それはこの少女の力添えだ。そして守るべき邑を失った自分に行く場所なんてない。必要としてくれるなら、何を迷うことがあるだろう。
「一緒にいてやる、ずっと」
「ほんとにほんとか?」
何も映さない瞳に涙が溢れる。最後の確認は子供のようだった。
「ああ、ほんとにほんとだ」
――そして、必ず願いをかなえてやる。
その言葉をかみ締めるように、雛姫は暫く無言だった。やがて頷くと静かに微笑んだ。
「ならば我の力を与える。受け取ってもらえるか?」
頷いた。まるで見えているかのように頷き返すと雛姫の手には赤く輝く結晶が現れた。差し出されるままに、それを己の中に取り込む。何の変化も感じられなかったが、体が軽く、視界がより澄んだように感じられた。
「我の眷族として、名をつけてやろうな」
口調は大人のまま。けれど小さな手はゆっくりと豊かな毛並みを撫でる。確かめるように何度も何度も撫で、しっかりとその首に回すと、愛おしそうに頬を寄せた。
「我は目が見えぬから色が解せぬが、恐らく名に因んだ色なのだろうな」
「……深く考えたことはない」
「白、銀……綺麗なのだろうな」
雛姫が目を閉じた。途端に周囲に満ちた不快な空気が立ち消える。
「おぬしの気配、月に似ておる。知っておるか? 大きな力を秘めながら、静かに座する、夜空に浮かぶ月。それは白銀の光を湛えているのだそうな。――月は銀色、星を従えた夜の王。……銀王はどうだ?」
「銀王?」
「今日から、おぬしは銀王だ」
***
「……」
銀王は目を開けた。
懐かしい夢――否、遠い記憶だ。
なぜ、今頃こんなことを思い出すのだろう。
体の奥で何かが明滅する。まるで鼓動のように何かが疼く。多分それが見せた、記憶の片鱗。
銀王は周囲を見回す。だが、視界に捕らえることが出来たのは不快に鬱屈した闇と点在する仄かな輝き。
押し付けられるような圧迫感が包んでいる。つい最近まで己の周りにあった、結界というものだというのはわかった。かなり厳重なものであることもわかるが、久しぶりに体感したところで決して心地よいわけではない。
大外には護符が並んでいる。その内側に二重螺旋の要領で蝋燭が並んでいる。さらに円形に描かれた呪詛の中にも蝋燭が連なっている。これだけでもかなり立派な結界であるが、ご丁寧に檻だけではなく、手首、足首にも杭を打ち込んだかなり強力なものだ。
「これは……上梨の結界か」
この独自な結界は上梨家が編み出したもので内側の小さな結界は氷結を封じるものだった。上梨の女――華穂の結界は知っているが、本格的な上梨家の結界に触れるのは初めてだった。
上梨――元は神無と言う。霊能力を有する一族だ。陰陽とは異なる稀有な力で妖と対峙する。得意とするのは他にはない結界の力。閉じ込められればまず出ることも解くことも叶わないと言われ、妖の間では未だに恐れているものもいる。
拳を握ろうとして、そこに力が宿らないことがわかる。こんな状態ではこの結界を破壊することはできない。
――力が、圧倒的に足りない。
ひとつ息をついて項垂れる。
これほどまで落ちるとは正直思ってもいなかった。これまで長いこと、一人で生きてきたのに、何故、今になってこんなにも力が出ないのか。
負けるわけがないのだ。確かに苦手な炎を使うからといってこんな風に惨めに捕らえられるなどあり得ない。持ちうる能力を開放できれば造作もない相手のはずだ――本来の自分なら。
出会った頃とは違う。あの時は何もできなかった。己の力もわからず、どうすべきなのかがわからなかった。何かを成すに、戦うということ。その意味すらわからなかった。
戦うということも、今ならわかる。そして己が倒すべき相手であることも、わかっている。もう、遅れを取ることはないはずだったのに。
――脳裏に浮かぶ、哀しい瞳。
……力が足りないのは、己のせいか。
元々、封印の中にいた影響で多少衰えてはいた。だが、出会えればすぐに取り戻せるはずだった。体内に満ちる力は変わらないのだから回復を待つだけ。なのに、その源を己で押さえてしまって、出口がわからなくなってしまった――それは、自ら断ち切ってしまったために、本来の道を見失ってしまったから。
――はぐれ者同士、一緒に。
何も知らないはずなのに、かつて耳にした言葉を告げる。咄嗟に、残酷な一致は再び彼女の運命を歪んだ輪廻に戻してしまうことになると思った。だからそれを止めたかった。止めなくてはならなかったのだ。どれほど冷たくても、不本意でも、己と引き換えにしてでも。
それなのに……。
「あんな顔……するのかよ」
思わず呟いて、舌打ちをする。
泣くとは思わなかった。涙に濡れた姿は恐ろしいほどに記憶にある姿と重なった。どれだけ転生を重ねても、一番鮮明に残っている少女の記憶。出会った頃の雛姫によく似ている。
……傷つけたのだとわかった。
止めることはできたかもしれない。けれど……予想以上の痛みがあった。
ずっと傷つけないように、ただそれだけを祈りながら生きてきたのに、他の誰でもない己が傷つけてしまった。
何もわかっていないくせに、その根底にはきちんと残っているということか。開放したいと願いながら、縛り付けているのは自分が在るせい。そんな事実を、わかりきった事象を突きつけられた気がした。
逃れたいはずだ。それを己の存在自体が罪で、それが縛り付けているのなら、断ち切るのはまだ何もつかめていない今が機会であったはず。だから、離れた。また引き戻してしまわないように。護りはするけれど、もう側にはいられない。ようやく決心したというのに。
――それなのに、あんな顔をされては、どうすればいいのか。
生じる迷い。繋いできた絆が失われる。どれだけ長い時間、一緒に紡いできたのか。
断ち切るためなのだと。己はそのためにあるのであって、忌まわしい鎖から逃れることこそが真実の願いなのだと、いざ覚悟をしようにも、未練があの涙で揺り起こされる。
――だって、やっと手に入れたのだ。あれほどに望んだものを、やっと。
引き換えにした時間ではなくて、力なんかではなくて。ただ己を認めてくれる、己だけを必要としてくれる存在を。守るべきものを失くした自分に、新たにこの世にいてもいいのだと、そう許してくれる、何よりも大事な存在を。
……一緒にいたいと願ったのは果たして彼女だったのだろうか。
本当は自分の方なのかもしれない。何かを糧としなければ生きていられないのは己の方。
一方的な依存だ。それでも、縋りたい。
なんだか、体の真ん中が痛い気がする。どうしようもない思いが込み上げて、抑えきれなくて、どうしていいのかわからない。
涙なんて、出ない。そんなものはない。でも、泣きたいのだろうと思った。
……いっそ、泣いてしまえたら、いいのに。
目を伏せた、その刹那。
「――?」
まるで火が灯されたような感覚があった。懐かしいような、焦がれた気配。
「……」
静かに目を閉じる。
――まだ、終わらないということか……。
体の内側、燃えるように熱くなるものがある。切り離そうとしても叶わない、でも大事な自分の一部、その力の源。
全身を熱気が衝撃のように廻る。反対に体の表面は冷ややかな冷気を帯びていく。それとともに頭がはっきりとして、自分の思考と反する本能的な反応に、思わず苦笑する。
この心地よさは随分前に失われたものだ。そしてここまでその残り香で生きてきた。僅かになりつつある力の片鱗。その救済を一人の女の変わった提案に委ねた。長すぎる時間が自分の運命を試すことを望んだ。
結局、離れることはできないのだ。己の方からは。
なぜなら、こんなにも心が躍る。沸き立っている。
聞こえる。己を呼ぶ、懐かしくも新たな声。
――銀王。




