第35話 今際の際
【翔】
カサカサと草木を踏みつぶしながら近づいてくる嵐山。勝ち誇ったように、随分と楽しそうな笑みを浮かべている。嵐山が俺のすぐ横まで顔を寄せる。蜘蛛の糸は手綱のように後ろの大木へ張り巡らされ、右手は完全に封じられてしまった。
「愛ちゃん、薄情ねー。本当に逃げちゃった」
「蜘蛛の姿、大分様になっているな」
「私ね。翔のこと好きだったのよ」
「へぇ」
「何でもできるし、優しいし、お金持ちだし。優良物件だもの」
「そりゃどうも」
「結婚しましょうか」
「……煙草吸わせてくれ」
片手が使えないとこうも不自由なのか。もたもたとしながら煙草に火をつける。肺にいっぱい煙を吸わせる。……緊張が取れる。体のこわばりがなくなっていく感覚がした。
「ねぇ、翔? どうなの? 返事は?」
「待て。俺は今際の際なんだろ? 最後の一本くらいゆっくり吸ってから返事をさせてくれ」
天たちはうまくやっているだろうか。虎AIは恐ろしく強い。
虎、怪我していないといいな。もし、虎の身に何かあったら天が率先して動いてなんとかするから大丈夫か。
奏ちゃん、受傷覚悟で行ったけど無事に戻ってきて欲しい。
蘭さん、息子同然の二人が大変な目に遭って気が気じゃないだろうな。
煙草の火がジリジリ……と音を立てる。
蓮の奴、また鼻血出すまで無理していないだろうか。普段の姿からは想像できないくらい実は熱い奴だから心配だな。
愛ちゃん。誠一のこと、頼んだ。きっと今の愛ちゃんの言葉ならあいつに届く。
ゆっくりと、深呼吸。不思議と、落ち着いていた。
俺は……みんなにとって良い大人だっただろうか。少しでも導くことが出来ただろうか。
……悪くはなかった、と思いたい。
煙草の火がジリジリと先端を焦がし、残りはあとわずかになった。
近くの木がわずかに揺れているのを視界にとらえる。
……俺は左手で煙草を口元から離す。
「さあさ? お返事は?」
「俺は料理が出来ない」
「私も」
「いろんなところに物を置きっぱなしにして、置いた場所を忘れる」
「私も」
「最近、腰が痛くて必要な時以外は外に出ない」
「私も」
嵐山は両手を俺の顔の近くにドンと叩きつけるように置く。互いの鼻の先がくっつくくらいまで顔を近づけてくる。
「……お似合いじゃない? 私たち」
俺は再び煙草を咥え……。
ジュッ。
煙草の吸殻を勢いよく吹き出し、嵐山の額にぶつけてやった。
「残念ながらプロポーズは自分からと決めているんだ」
嵐山は一瞬、呆けたような表情をする。
はは、滑稽だな。
俺は蔑むように意地クソ悪く笑ってやった。
「……っ!! 死、」
「ぬのはあんたよ! クソ野郎!!」
スタンガンの青い稲妻が迸る。闇の中で光る青が爽快だった。
木の上から降ってくるなんてまるで虎だな。
「あぎゃ、ぎゃぎゃぎゃ!!!」
愛ちゃんは着地を華麗に決めると、俺に抱き着いてきた。ずっと涙をこらえてたんだろう。下唇に噛み跡がついていた。
「それに、あいにく娘や息子たちがもういてね。娘に嫌われているようじゃダメだな」
「翔さんっ! 翔さんんんっ!!」
「愛ちゃん、助けてくれてありがとう」
「馬鹿! 馬鹿よ!! 私が戻ってこなかったらどうするつもりだったの!」
「絶対戻ってきてくれると思ってた」
「馬鹿あっ!」
愛ちゃんが泣きながらすごい力で俺の胸を叩いてくる。肩をひくひくさせながらの号泣。こんなに泣いているところを見たのは小学生以来だな。
「よくもまぁ、猪突猛進な愛ちゃんが木から落下しながらスタンガンぶち込むなんて考えついたな」
「虎に言われたから。型にはまってたら勝てないって」
「ほぉ。虎に後でお礼言っておかないとな」
嵐山は全身をびくびくと痙攣させている。あれだけ流暢に動いていた口が今はもう動かない。俺は蜘蛛の巣がついた右手を開放すべく、ライターの火で蜘蛛の巣を炙る。
「翔さん。火傷するよ……」
「……熱っ。これが一番手っ取り早い」
チリチリと焼け焦げる蜘蛛の糸。独特な臭いが鼻につく。
「さて、愛ちゃん。天たちのところへ戻るぞ」
「え? 嵐山はこのまま?」
「熊にでも食わせと、」
チッ……チッ……チッ……
時計の秒針のような音が一定間隔で聞こえてくる。
ねっとりとした殺意を感じ、冷や汗が噴き出す。
「愛ちゃん! 走るぞ!」
「え!?」
愛ちゃんの手を引き、走り出す。十歩ほど足を進めたところで後ろから激しい爆発音。その後に体全体を強く押してくる熱風が俺たちを襲う。咄嗟に愛ちゃんを抱きかかえ、地面に伏せた。
木々の焦げた臭いが辺りに漂う。パラパラと焼けた葉っぱが上から落ちてくる。
「しょ、翔さん。大丈夫?」
「……腰が使い物にならなくなったくらいだ」
俺たちはゆっくりと起き上がる。
さっきまで嵐山がいた場所には、もう誰も立っていなかった。
散乱しているのは、蜘蛛の脚だった機械の残骸だけ。
「最後まで嫌な奴だったね」
「救いようがない。こいつばかりは」
ドオンッ!!!
「「!?」」
遠くでもう一つの爆発音。
愛ちゃんと顔を見合わせる。言葉を交わさずとも、何が起きているかは明確だった。
天たち——。無事でいてくれ!




