第14話 狂犬
※AI生成のイラストを挿絵として使用しています。
【天】
ぐわんッ!
「ひっ……!」
メス遊びをやめ、虎が突然、首を横へ倒した。人間とは思えない角度で。俺に向かって、しーっと人差し指を立てる。
「6、7、8……10」
暗闇の奥で足音が重なっていく。水を踏む音が、少しずつ近づいていた。
「10人くらいこっち来てる」
メスを握り直す。遊びは終わり、とでも言うように。
「……全く。いいところだったのに。虎、いける?」
「余裕」
軽く肩を回しながら、虎は笑った。
「あ、虎。分かっているわね?」
メスをくるりと回す。
「……殺すな、だろ」
「いい子」
「めんどくせー」
足早に虎は足音のもとへと向かっていく。
「手伝わなくていいんですか?」
蘭さんは涼しい顔をしている。
「必要ないわ」
「……いや、でも1対10じゃさすがに」
虎が尋常じゃなく強いのは分かったけど。ここでじっとしているのも違う気がしたので虎を追いかけることにした。
「蓮、ちょっと懐中電灯借りる!」
「あ、おい!」
「お前、こんなところに逃げ込みやがって!」
「あれ……!」
虎の後を追ったはずなのに、曲がり角を抜けた先で警察部隊と鉢合わせた。しかも、さっき虎が言った通り10人。
「いや、あの」
俺は後退る。
「捕まえろ! 逮捕だ!」
警察の注意が全て俺に向かった瞬間──。
バシャッ!
虎が飛び出した。そう見えた。
が──。
次の瞬間にはもういなかった。
「え……?」
懐中電灯の光と暗闇が混じり、まばらにしか見えない。悲鳴、倒れる音、水飛沫。
そして──。
「うるせぇなー」
虎の声。俺は恐る恐る懐中電灯で音のしたところを照らす。
そこには……。膝をついている男。壁にもたれている男。床に倒れ込んでいる男。そして中央に虎。
「あと、7人」
メスを静かに構えた虎の姿はあまりにも現実的ではなくて、芸術作品みたいな不気味さと綺麗さが混じりあっていた。
「……だから必要ないって言ったでしょう?」
みんなが駆けつけてくれた頃には既に全て終わっていた。
「蘭ー。全員死んでないぞ」
「いい子」
俺は虎の動きを見ていた。……はずなんだけど。何が起きたのか全く分からなかった。洗練された舞だった。予測できない自由奔放な動き。そんな動きに見とれている間に、バタバタと警察が倒れていった。
「さて、こんなところに長居は無用ね。行くわよ」
蘭さんは踵を返しコツコツとヒールの音を響かせて歩き始める。
「行くってどこに?」
「私のおうち」
にこりと妖艶に笑う蘭さん。
「……行く当てもない。とりあえずついていくぞ」
疲れ切っている翔さん。足がほぼ上がっていない。満身創痍の俺たちは蘭さんについていくことにした。
雑居ビルが並ぶ一角。その中に、蘭さんの住処は紛れ込んでいた。看板を見ると、Nocturne Clinicと書いてある。蘭さんが鍵を開け、俺たちを招き入れる。一般的なクリニックと違うのはいきなり処置室のような部屋があること。医療用の機材や道具、薬品がきれいに並べられている。
「クリニック……? お医者さん?」
愛がきょろきょろと周りを見渡す。
「自費診療の少しばかり怪しいお医者さんよ」
「蘭ー。動いたから腹減った」
蘭さんは、小さくため息を漏らしながら虎を宥める。
「虎。出かける前に食べたじゃないのよ」
「動いたら消えた」
当然のような言い方だった。
「全く……。うちの食いしん坊がうるさくして悪いわね。みんなもシャワーとか着替えとかしちゃいたいでしょう? 一回休憩にしましょうか」
虎はソファに転がるように寝そべる。さっきまでの何かを切り裂く存在が嘘のように、ただのだらけた少年に戻っていた。
「シャワーあるんですね……。ごめん、みんな、私限界だから1番最初にもらっていい?」
愛はさっき虎に思い切り押し倒されていたので、全身、下水道の汚水まみれになっていた今にも泣きだしそうな顔をしている。
「女の子が着れるような服あったかしら? 私のじゃ大きすぎるし……。虎の服で良ければ置いておくわね」
「……なんでもいいです。じゃ、お借りします」
完全に思考停止している愛。
「さて、私は虎のごはんを作るけどみんなはお腹すいている?」
俺と蓮と翔さんは顔を見合わせる。下水道を通り、警察官が倒れていく現場を見た直後だ。空腹なのに、食欲という感覚だけがどこか遠い。
「水分だけ、お願いするか」
翔さんの提案に頷く。
「分かったわ。あなた方も着替え用意してるから着替えてね。後で洗濯回しちゃうから」
そう言い残すと、キッチンへ向かう蘭さん。
どこからともなくため息が漏れる。みんな疲れ切ってしまって項垂れている。全員が同じ重さを抱えたまま、ソファに体を預けていた。
「翔さん、さっき思い切り押し倒されてましたけど、大丈夫ですか?」
「あばらが少し痛いくらいだな。何、問題ない、さ」
死んだ魚のような眼をしながら煙草を吸っている。口の中に煙だけが溜まり、行き場を失っている。……煙を吐くという行為を忘れているようだった。いつもの翔さんの余裕さが感じられない。相当堪えているようだった。
「蓮は?」
「……知ってるだろ。昔から運動が苦手なんだ」
真っ青な顔をして、呼吸をするだけでもう精一杯だという雰囲気を醸し出している。
「おー。蓮。今のうちから体力つけとけよ。俺みたいになるぞ」
口の中の煙草の煙を漏らしながらだらしなくしゃべる翔さん。今はもう、誰もちゃんとした冗談を返す気力もない。……俺は視線をずらし、別のソファで横になっている虎に声をかけた。
「……何?」
鋭い視線が返ってくる。獣みたいな目。
「いや……、さっきのすごかったな、って」
「あー?」
「こんなこと言うと不謹慎なのかもしれないけど、綺麗だった」
吊り目を真ん丸に開いて唖然とする虎。
「……。綺麗ってなんだよ。人、切ってただけだぜぇ?」
笑いながら言っているのに、どこか温度がない。冗談とも本気ともつかない軽さだった。
「あ……そうだよな。俺、何言ってんだろ」
言葉にしてから、自分の感覚のズレに気づく。一つ一つの動きがあまりにも丁寧だった。今思い返すと足の腱を狙って制圧していたんだと思う。
「お前、名前なんつーの?」
「天……」
「ふーん」
虎はじっと俺を見た。値踏みするようでもあり、興味があるようでもあり、どちらでもないようでもあった。
「えっと……。蘭さんとは付き合い長いのか?」
「数年前から面倒見てくれてんの」
「へぇ」
「だから逆らえねぇ」
にぃっ、と年相応の笑顔を見せる虎。雑居ビルの中にあるクリニック。本来なら交わるはずのない年齢と関係性。それなのに、当然のように同じ空間に収まっている。……この二人を知れば知るほど疑問しか沸かなくなる。
「……! 虎。右の太もものところケガしてるぞ」
「あー?」
視線が一瞬だけ落ちる。
「気づかんかった」
「いや、結構深い傷だぞ、それ」
ソファの座面には、じわりと赤黒い染みが広がっていた。虎が何もリアクションをしていなかったから今になってようやく気づく。
「オレ、痛覚ねぇからな」
何でもないことみたいに、虎は言った。
一拍、空気が止まる。
「……え?」
かしゃっ
蘭さんが虎の食事を持ってきた。
「お待たせ、虎。……その前にその足縫わないとね」
「こんなのほっときゃ治る」
「お馬鹿。ソファをこんなに汚しといて何言ってるのよ」
蘭は深く息を吐き、こめかみを押さえた。その仕草すら、妙に慣れている。
「天。ちょっと虎を借りるわね」
「いいってー。飯食いてぇー」
当たり前のように引きずられていく虎。
——痛覚がない?
その言葉だけが、頭の中に引っかかったまま残っていた。




