第13話 二つの影
※AI生成のイラストを挿絵として使用しています。
【天】
「っ……うぅ、くさ……」
秘密の通路の先は、薄暗い下水道だった。鼻を刺す腐臭。濁った水が足元を流れ、天井からは雫が一定の間隔で落ちている。遠くで、サイレンの音がまだ響いていた。
「……出口は塞いでおいた。すぐには追って来れないはずだ。だが、安心はできない。出来るだけ距離を取るぞ」
翔さんは短くそう言って、周囲を警戒する。蓮が懐中電灯を点けると、細い通路の先がぼんやり浮かび上がった。
「……っ!」
突然、愛が小さく息を呑んだ。壁際を黒い影が這っていく。
「やっ……!」
次の瞬間、愛は俺の服を強く掴み、そのまま背中にしがみついてきた。
「む、むり……っ」
肩が震えている。
「お、おい愛……!」
柔らかい感触と、耳元にかかる吐息に、一瞬頭が真っ白になる。だけど。今はそんな状況じゃない。翔さんがノートパソコンの画面を見ながら細い道を進む。
「これがこの下水道の見取り図だ」
蓮が翔さんのパソコンの画面をのぞき込む。……かなり複雑な道だ。これは適当に進んだらすぐに迷ってしまう。
「分かりました。誘導します」
「……は?」
「僕に見せたということは道案内しろってことですよね?」
蓮が何か問題でも? と言いたげに翔さんを見ている。昔から、一度見たものは忘れない。瞬間的な記憶能力が長けている。
「変態だな」
「よく言われます」
翔さんはノートパソコンはもう不要だと言わんばかりに画面を閉じる。
「蓮、灯りを前に。天は愛ちゃんから離れるな」
湿った足音が、静かな下水道に響く。ただ、暗闇の奥へ向かって走り続ける。
どれくらい歩いただろう。汚水のせいでズボンが肌に張り付いて気色悪い。
懐中電灯の光が少し薄くなって辺りが見辛い。
「蓮、疲れたか?」
「だ、大丈夫……、だ」
みんなから少し遅れている蓮を見る。昔から体力がなくて、運動が苦手なんだ。肩で息をしているのがうっすらと見える。
「翔さん。あとどれくらい歩きますか?」
「そうだな。ここらで抜けるところが……」
突き当りの通路が月明かりでぼんやりと照らされているのが分かった。やっとこの場所から抜けられる……と、全員が安堵の息を漏らした。……が、月明かりと共に長く伸びる影。
カカカッ!!!
金属音が鳴り響く。何かが飛んできたようだ。……小さなナイフ? カラカラと音を立てて俺の足物に転がる。蓮が俺の足元を懐中電灯で照らしてくれる。これ……手術とかで使うメス?
「あいつら捕まえればいいんだな? なんか、とろくさそうだなぁ」
懐中電灯の光の中に、二つの人影が浮かび上がる。
一人は小柄な男。月明かりに金髪がキラキラ反射している。全身を黒色で揃えており闇に溶けるような印象を受けた。獣のような鋭い眼光をこちらへ向け、指先で器用にメスを回していた。
「軽口を叩かないでさっさと捕まえなさい」
もう一人は翔さんより頭一つ分は背が高い。紫紺色の長い髪を後ろで束ねたその姿は、一瞬男か女か分からなかった。
「鬼ごっこの始まりだぜぇー?」
小柄な男が、指先でメスを回しながら突っ込んでくる。まるで遊びにでも誘うみたいな無邪気な声色。だけど、その目は全く笑っていなかった。獲物を狙う目。
「全速力で後退だ! 離れるな!」
ゴールは、もう目前だった。あと少しで地上に出られたはずなのに。俺たちは再び暗い下水道の奥へ向かって走り出す。
バシャッ、バシャッ──!!
汚水が跳ね、ズボンにまとわりつく。腐った臭いが肺に入り込み、吐き気が込み上げた。背後から、乾いた金属音が響く。
カンッ!!
壁にメスが突き刺さる。
カンッ! カンッ!!
今度は足元。ほんの数センチ横を刃が掠めていった。
「ひっ……!」
愛の怯えた声。
「くそっ……!」
「おいおい、もっと頑張って逃げろよ」
男の笑い声が、下水道に不気味に反響する。
「鬼に捕まったら──。食われるぞ?」
次の瞬間。背後で、水を蹴る音が一気に近づいた。
「つーかーまーえた」
背後から腕を絡め取られた瞬間、翔さんの体が地面に叩き伏せられる。
「っ……!」
水飛沫が上がる。次の瞬間には、首元へナイフが突きつけられていた。
「……おじさんには、鬼ごっこは辛いもんがあるな」
「翔さん!」
「このっ……!」
愛がポケットからスタンガンを引き抜き、小柄な男へ飛びかかる。
だが。
「おー、怖ぇな」
男は笑ったまま翔さんを盾にし、愛の手首を掴む。そのまま体を半回転。愛の体が宙を浮き、次の瞬間には地面へ押さえつけられていた。
「きゃっ……!」
「可愛い子ちゃんが、こんな危ないもん振り回すなよ」
スタンガンが水溜まりに落ち、火花を散らす。男が楽しそうに笑う。
「二人、捕まっちまったぞ?」
翔さんも、愛も、完全に制圧されていた。
速すぎる。
何をされたのか、ほとんど見えなかった。異様なほど体の使い方が上手い。
──逃げられない。
本能が、そう警鐘を鳴らしていた。蓮もこれ以上走れない。
──詰んだ。
男は今にも手に持ったメスを愛と翔さんに突き立てようとしていた。
その瞬間、俺は奏の顔を走馬灯のように思い出す。逆さの奏じゃない。この記憶は……奏と二人で話している時?
『本当はね、アイドルなんてやりたくないんだよ。周りがやれって言うから』
……なんだ、この記憶。
ぶわっ、と冷や汗が噴き出てくる。それと同時に後悔の波が押し寄せる感覚。
あの時も俺が選択を間違わなければ──?
不確かな、ちぐはぐとした記憶に混乱しながらも俺の体は勝手に動いていた。
「天! お前が行ったところで何も解決しないぞ!」
後ろから蓮の声が聞こえる。その通りなんだ。分かってるんだ。
全身が震えて思うように動かない。
怖い、怖い、怖い。
だけど足は徐々にスピードを上げて男に近づいていく。
「あー? んだよ、おめぇ」
「二人に手を出すな」
手首を掴んだまま一瞬だけ体重を乗せ、男の重心をずらす。愛の短い悲鳴のような、俺の名前を呼ぶ声が聞こえる。
「天!? 無理だよ!」
格好なんてつかない。手も足も震えて、歯もカチカチと音を出して、顔なんかもきっと恐怖で歪んでいるんだろう。
「ははっ! んだよそれ! バカじゃねーの」
次の瞬間、男の体重が乗る。さっきまで正面にいたのに男の姿はなくなっていた。視界が揺れる。床に叩きつけられたと分かった瞬間、呼吸が潰れる。
「……さて、後はあの眼鏡だけか。そこの3人は動くんじゃねーぞ」
「まだ、終わってない」
「あー?」
俺は立ち上がる。男は理解できないものを見るかのような目で俺のことを睨みつけてくる。
「どう考えてもお前じゃオレに勝てねぇだろ。黙って寝てろ」
「そんなの分かってんだよ! 俺にどうしようもないことくらい!」
……今出てきた言葉は、この男に向けて言った言葉、か?
「んな正面から来てもよ」
ガッ!
「こうなるに決まってんだろ」
この男の動きを止めるために抱き着こうとしたが、俺の体は男の肘鉄で再び下水道の床に叩きつけられる。汚水が俺の口の中に入ってくる。
男は屈み、床に寝転がっている俺と目を合わせる。その目は蔑むようでもあり、憐れむようでもありどちらともとれる目つきだった。
「おめぇ、何でそんな必死なんだよ」
「……もう後悔はしたくないから」
「あー?」
ビュッ!
カランッ!
「……!?」
俺は男のメスを持っている手に向かって思い切り張り手を食らわす。メスは下水道の床に金属音を響かせながらクルクル転がっていった。
恐怖と、疲れで自分が何をやっているのか何を言っているのか分からない。
すると。
暗がりからもう一人の長身の人物がスッと出てくる。
コツ、コツ、コツ
ヒールの音が下水道に響く。
「虎、あまり本気を出さないで。もういいわ。お仕舞よ」
長身の人物が俺たちの前まで歩いてくる。
「試すような真似をして悪かったわね。私は千歳蘭」
長い髪をかき上げながら、その人物は口元を緩めた。ちなみに生理学的な性別はお・と・こ。とウィンクしている。
「手荒な真似をして悪かったわね。怖かったでしょう? そこの赤髪の子、虎相手によく抗えたわね。無謀にもほどがあるけど」
「蘭ー」
地面にしゃがみ込んでいた小柄な男が不満そうな声を出す。
「なによ」
「俺の紹介」
蘭は小さくため息をつく。
「この小さいのは虎って言うの」
「蘭ー。それ悪口だからなー」
虎と呼ばれた男は、もうこちらに興味がないかのようにメスを指で回して遊んでいる。
「試す、って……?」
「私はアイコーポに因縁があってね」
低く落ち着いた声。だが、その奥に押し殺した怒りが滲んでいた。
「天下のアイコーポに楯突いているお馬鹿さんたちがいると聞いてね。……だから会いに来たのよ」
虎が退屈そうにナイフを弄ぶ横で、蘭さんは真っ直ぐこちらを見る。
「信頼できるお馬鹿さんたちかどうか、少し見させてもらったの」
アイコーポ。今や日本一の大企業だと称賛する人間は多い。だけど、その裏で疑問を抱いている人間もいる。
……俺たちみたいに。
「アイコーポと戦うには、内部を知る人間が必要だったの」
翔さんへ視線が向く。
「元アイコーポのプログラマー、花園翔」
次に、愛を見る。
「そして、社長の娘。一条愛」
短い沈黙。その後、蘭さんは静かに言った。
「……力を貸してくれない?」




