侯爵領が落ちた日から二十日
「若奥様。」
突然懐かしい呼び名を聞いて、私は辺りを見渡した。
若奥様。私が人の国の侯爵家でブライクさまと結婚した後の数ヶ月間、屋敷の使用人達に呼ばれていた名だ。
泉で食事の準備をしている女達と話をしていた私は、やはり空耳だったのだろうかとまた彼女達に目線をうつそうとしたその時、視界の端に懐かしい人物を捉えた。
「まぁ。」
目を見開いた先には、薄汚れた格好で疲れきった表情をした40を少し過ぎたくらいの男が立っていた。人の国の侯爵家で、家令見習いとして働いていた男だ。見習い、といっても実際には家令そのもので、年老いた父が引退するまで家令を名乗らないでいる、という状態だったのだけれど。
「まぁ。」
私はなんと言っていいかわからず、ただ感極まって口元をおさえた。あの戦いから、生き残っていたのだ。
私は彼の元に駆け寄ると、彼の手を両手で包み込んだ。
「生きて、いたのですね。」
溜め息のような言葉が唇からこぼれて、私は口を閉じた。言いたいことも聞きたいことも、山ほどある。けれど、次の言葉が、何も出てこない。
そんな私を穏やかな表情で見つめ、家令は静かに、けれどはっきりと、頷いた。
すると突然私の体が宙を浮き、いつの間にか後ろからやってきていた力強い腕に抱きとめられていた。
「生きていたか。よく来たな。歓迎する。」
私を横に置き、ブライクさまが家令を抱きしめた。
あの日、ブライクさまに近しい人達が沢山亡くなった。無抵抗な人々は、魔王軍に丁重に扱われたと聞いていたけれど、では誰が抵抗せず投降したかまではわからなかった。誰が助かり誰が亡くなったのか、私達は全くわからないままその話題には触れずに過ごしてきた。
まだ修理中の屋敷の、大広間の横にある食堂のテーブルに家令を座らせるとブライクさまも座り込んだ。私は女達に軽食と、旅の汚れを落とすためのお湯や布の準備を命じた。慣れない私と、慣れない使用人達があたふたと騒がしく動きまわるのを、家令が柔らかい笑みで見守っていた。
家令はブライクさまと何かを話した後、すぐに立ち上がりこちらに歩いてきた。
「若奥様。いえ、失礼いたしました。奥様。」
懐かしい。落ち着いた、低い声。私はつい湿り始めた目尻を押さえ、微笑んだ。
「今後は私が、奥様のお側に。この屋敷のことはお任せください。」
「まあ。いいのですか。」
まさか荒れ果てたこの領地でも変わらず尽くしてくれるとは、思ってもいなかった。
「もちろんです。人の国の侯爵領の領民達は、新たな農地開拓のために魔の国内の各領地に配置されました。ですが人の国の侯爵家の屋敷で働いていた者達は、特別に恩赦になりました。おそらく、魔王陛下の、ブライクさまへの配慮かと思われます。」
まあ。私は驚いて、つい声をあげてしまった。魔王陛下は意地が悪いのか優しいのか、よくわからない。とても複雑な方のようだ。そういえば以前ブライクさまも陛下のことをよくわからないと評価していたことを思い出した。それともただの気分屋なのだろうか。
「奥様。私共の一族は、長い間侯爵家に仕えて参りました。代々家令として、侯爵様の影として。人蔟で唯一、侯爵の秘密を知り、支えてきた一族であると、自負しております。」
秘密。侯爵が魔族の密偵であったことだろうか。確かに。屋敷の中にも協力者がいなければ、人質に会いに行くのは難しかっただろう。
「実は、私は父から、幼少の頃に侯爵家の事情を聞かされ、何事かあれば事情を汲んで侯爵、次期侯爵を支えるよう育てられました。けれど、私にできることなど無きに等しく、ブライク様が悲しまれていてもどうすることもできないのが実状でした。」
穏やかな家令の表情が曇る。
「私も侯爵様も、いえ、前侯爵ですね。いえ、今はユージーン様と呼ばせていただきます。も、ブライク様があの騒ぎの後生き残るとは、思っておりませんでした。」
私は、「そうですか。お義父様も。」と呟いて、けれど言葉が続くことはなく口を閉じた。お義父様はブライクさまに生きて欲しいと願っていたはず。けれど、生かす方法が見つからなかったのかもしれない。
「そういった事情でしたので、ブライク様が貴方様を連れて魔の国に渡ったと聞いた時は、正直驚きました。けれどきっと、失礼ながら、また何か事情があるのだと考えたのです。」
私とブライクさまの、人の国での仮面夫婦ぶりは、侯爵家で働いていた者ならば誰でも知っている。何らかの事情があって二人が結婚したのは明らかだった。
「私は、きっとブライク様は死にそうな顔で、ぶすっとしていらっしゃると思っていたのです。はやく、私が駆けつけなければと。」
家令の口元に、苦い笑いが浮かぶ。
「それなのに、今のブライク様は、なんだかすっきりとした表情で、柔らかく微笑まれています。」
私の瞳をとらえて、家令がゆっくりと訊ねた。
「奥様の、おかげなのですね。」
私は驚いて首を左右に振った。
「違います。私は何も。ただ私が頼りないので、面倒を見て下さっているのだと思います。優しい方ですので。」
慌てて頭を大きく振った私を、家令は目を大きく見開いて見下ろしていた。そして言葉を選びながら、ゆっくりと続けた。
「あの方は、優しくなど、ありませんよ。」
今までとは違う冷たさを含んだ声音に、今度は私が驚いて、口が開いてしまった。ブライクさまは、とても優しい。
けれど思い返してみれば、あの方は私を簡単に殺そうとした。私を利用するために軟禁もしていた。とても優しいとは呼べないのかもしれない。
「奥様。あの方が優しいのだとすれば、奥様と出会ったからでしょう。」
考え込んだ私に、家令はとても複雑な眼差しを送ってきた。驚き。喜び。そして、羨望。
「あの方を表現する言葉は沢山あります。けれど、優しいと形容したのは、奥様がはじめてです。」
そして家令は諦めたように笑った。
「奥様。どうか、ブライク様をよろしくお願い致します。」
年の離れた兄が、手のかかる弟の成長を喜びながらも少し寂しさを感じているようなその表情に、私は「はい」と答えてにこりと微笑んだ。
「因みに、どの様に表現されるのですか。ブライクさまは。」
私は、私以外の人々のブライクさまへの評価が気になって、聞いてみた。
「そうですね」、家令はそう呟いて、考え込んだ。
「冷たい。怖い。腹黒い。計算高い。」
家令の淀みない主への悪口に、私はつい声をあげて笑ってしまった。そんな私を優しそうに見下ろして彼は続けた。
「格好がよい。も、よく聞きましたね。」
そう言って、彼もお茶目に笑った。
「随分と打ち解けたようだな。君は人と接するのが上手い。あいつはあまり無駄な話をしないが、君とはするようだ。」
感心したように呟いたブライクさまの顔を、真っ直ぐ見つめていたら思い出し笑いをしてしまいそうで、私はつい目をそらしてしまった。
「あいつは俺よりも強い。俺がいない時はあいつの側に。」
私はその指示に素直に頷いた。私を心配して側を全く離れられなかったブライクさまが、そう言うのだから余程の腕と信頼をあの家令に寄せているのだろう。そのような人が近くにいて良かった。
それからブライクさまは、若い男達を連れて領地を見て回るようになった。土の様子や泉を調べて、まずは地図を作るのだと言って。今までは私から離れられなかったことで、行動に制限があったのだろう。良かった。彼が彼らしく動けるようになって。それにしても私は、本当に足手まといなのだと落ち込んでしまう。けれどきっとここには、誰もそんな風に私を責める者はいない。私は深呼吸を繰り返した。自分で勝手に卑屈になるのはやめよう。そう決意して、私は口の両端をあげ笑顔を作った。
そんなことを考えながら、そろそろ帰るであろう男達のためにお湯や軽食の準備をしようと食堂に入って、私の体は固まった。
そこには、見たことのない男と、フードを目深にかぶった人物がいた。
男はまるで自分の家のようにくつろいで我が屋敷に置いてある最高級のお茶を、我が家にある一番高い茶器を使って、当然のように飲んでいた。
けれど周りに屋敷の者がいないことを考えると、客ではない。
いくら訓練された者が少ないとしても、小さな屋敷の中や周りには何十人もの使用人がいる中、一体どうやって、この食堂までたどり着いたのか。
その異様さに、私の後ろを歩いていた侍女が小さく声を上げた。私は手で家令を呼ぶよう合図をし、侍女は頷いて来た道を戻っていった。
目の前の男は、薄汚れていたけれど身形は良かった。着ている服は人の国のもので、この簡易な屋敷と粗末な木でできたテーブルが全く似合っていなかった。けれど、とても印象の薄い顔をしていた。にこりと微笑んだ顔は整っていて不快感はない。けれど、記憶に残るものもない。
「こんにちは。奥様。」
私は息を飲んだ。その洗練された態度と、粗末な服を身にまとった私をこの屋敷の女主人であると認識した男に驚いた。下調べは済んでいるということだろうか。
「こんにちは。あなた様は、どちら様ですの。」
私は平静を装って、口を開いた。心臓の音がうるさい。どうか早くブライクさまが帰ってきますように。
「領主様の昔馴染みですよ。」
ブライクさまの。人の国の貴族か騎士団の関係者か。もしかしたら魔の国の子爵家の者かもしれない。考えがまとまらず次の言葉がでない私を見て、男が続けた。
「革命軍の者です。」
革命軍。ブライクさまとは全く繋がりがなさそうな言葉に、私は内心で首を更に傾げた。
革命軍とは、人の国で王家に反抗している人々のことだ。元々は戦争で夫や子供を亡くした女達が、身を寄せ合い暮らしはじめたことから始まった。最初、彼女達はただ生きるために一緒に生活をしていただけだった。けれど時間が経つにつれ、悲しみが王家への不満となった。そこに、もともと王家に不満を持っていた男達や商人達が加わって、激しい反王家活動をはじめた。そんな革命軍の支援をしている貴族もいるらしい。生臭い集団だと、父はこぼしていた。
「奥様。貴女様はご主人の、本当の顔を、ご存知ですか。」
いきなりの核心に、私は驚いた。この男、何を知っているのか。
「ご主人は、諜報活動をしていたのですよ。」
男は大袈裟に心配そうに私を覗き込んで、にやりと笑った。
「その方法を、ご存知ですか。おん」
その時、後ろからシュッと何かが私の横を通り過ぎていった。
その何かが、銀色に鈍く輝くナイフであることに気づいたのは、目の前の男がそれを避けて、それが壁にカチンとあたり床に落ちたからだった。
振り向いた私の前に進み出たのは、緊張した面もちの家令だった。
「申し訳ありませんが、お引き取り願えますか。」
家令の強い口調に、けれど男はうっすらと笑って、私に向けて挑発的に言ってのけた。
「とんだ挨拶ですね。ここの領主は、客人をもてなすということすらできないのですか。」
客。勝手に入ってきたくせに、客だなんて。それにあの他人を見下した目。しかもあの高級な茶葉は私もまだ味をみていない、とっておきの茶葉なのに。あの茶器だって、ブライクさまについ先日近づきの印にと商人が献上してくれたもので、まだ誰も使っていないのに。私は心の中で男たちの行動を苦々しく思いながら、男が「ここの領主は」と、ブライクさまを文の主語にしたことで、少し冷静さを取り戻した。
この男の目的はわからない。私が非難されても、そんなことは我慢ができる。けれど、私ではなく「領主である」ブライクさまに喧嘩を売るつもりならば、妻として、この喧嘩を買わないわけにはいかない。夫の評判を下げるような対応をするわけにはいかない。私は姿勢を正した。
「それは、申し訳ありませんでした。新しい湯を、お持ちしますね。」
男は私の言葉に、目を細めた。
「それはありがたいですね。貴女方のせいで、すっかりお茶が冷めてしまったので。」
そして私の後ろに、目線を送った。
「領主様もぜひ、一杯いかがですか。」
あからさまに不機嫌なため息と、ぴりぴりとした殺気を背後に感じて私は振り向いた。ブライクさまが、男達を連れて帰ってきたのだ。良かった。あとは彼に任せればいいだろう。私は緊張で強ばっていた体を少しほぐして、肩の力を抜いた。




