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聖者の行進  作者: いくらふじなみ
第二部 世界の扉
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第一話 約束の鍵

帰り支度を済ませ、重厚なオフィスの扉を押し開けた瞬間、鼓膜を震わせるようなクラッカーの音が鳴り響いた。

中空へと放たれた色とりどりの紙吹雪は、まるで祝福の雨のように舞い、光を反射しながらゆっくりと床へ降り積もっていく。


「清水聖仁さん! 二十歳の誕生日、おめでとうございます!」


割れんばかりの歓声と、地響きのような拍手が室内の空気を震わせる。

視界を埋め尽くすのは、見慣れた、しかし今日に限ってはどこか浮足立った表情の仲間たちの顔だ。


彼らと共に駆け抜けてきた数々の夜、積み上げてきた成功の重み。そのすべてが、この熱狂の中に溶け込んでいるようだった。


「うわぁ! ……あはは! 嬉しいな、みんな! ありがとう……えへへ、照れるなぁ」


思いがけない出迎えに、聖仁は足を止めた。

胸の奥から込み上げるのは、驚きと、それ以上に温かな幸福感だ。


頬が熱を帯び、視界が少しだけ潤む。

二十歳という節目を迎えた彼を、仲間たちは容赦のない祝福で包み込んでいく。


「おめでとう、社長! やっと一緒に酒が飲めるな!」


「私より年下なんて、信じられないです! 社長、付き合ってる人いるんですか!?」


「当然、今日は! みんなでパーティーだよな!」


次々と肩を抱かれ、背中を叩かれる。握手を求める手、冗談めかした野次、そして祝福の笑い声。

社内では最年少である彼にとって、この喧騒はあまりに眩しく、同時に愛おしいものだった。


「みんな、ありがとう……本当に嬉しいよ」


聖仁は照れ隠しに視線を泳がせながらも、溢れる笑顔を隠せずにいた。

だが、口々に今夜の算段を始める仲間たちを前に、慌てて両手を挙げる。


「みんな! お祝いしてくれるのは、本当に嬉しいんだけど、ちょっと聞いてくれますか?!」


いくつもの顔が、一斉にこちらを向いた。

その期待に満ちた眼差しに、聖仁は一瞬たじろぐ。それでも、今夜ばかりは譲れなかった。


「今日は……ごめんなさい! 夜は! 予定があります!」


「えーっ!?」


「それはないだろう! 社長として、誕生日は空けとけよ!」


「やっぱり! いつもごまかしてるけど、彼女がいるんだ! いやぁあああ!」


途端に巻き起こる、阿鼻叫喚の叫びと野次。


聖仁は苦笑いを浮かべながら、仲間たちの間をすり抜けた。

逃げるように足を速めるその背に、冷やかしと、名残を惜しむ声がいつまでも追いかけてくる。


賑やかな祝福の喧騒を背に、聖仁は夜の街へと駆け出した。

肺が焼けるような熱を帯び、荒い呼吸が静かな路地裏に響く。


オフィスビルから数ブロック離れた、あらかじめ指定した場所。

そこへ滑り込んできたタクシーの灯りが、暗闇の中にぼんやりと浮かび上がる。


彼は一度立ち止まり、路地を、そして通りを見渡した。背後にも目を向け、人目を気にしながら、すばやく後部座席へと滑り込む。


アプリを通じて目的地は既に伝えられている。運転手は何も言わず、ただ静かに車を発進させた。


窓の外を流れていく街の灯りを眺めながら、聖仁は自らの指先が微かに震えていることに気づく。


(気にしすぎかな。カレンはともかく、僕まで尾行されることはないだろうけど)


彼女は、日本中がその動向を注視する大女優だ。


自分と会う姿が、もし無遠慮なレンズに捉えられたら――交際が報道され、彼女は取材や憶測に取り囲まれることになるかもしれない。


彼女が築き上げてきた仕事にまで、影響が及ぶようなことは避けたかった。


「……迷惑は、かけたくないんだ」


小さく零した言葉は、走行音にかき消された。


膝の上に置いた鞄に手を伸ばし、中身を確認するように指先でその感触を確かめる。

そこには、この日のために心血を注いで用意した、たった一つの『答え』が収められている。


(ようやく、ここまで来た)


二年前、彼女に誓ったあの言葉が、胸の奥で熱く疼く。


(一緒に頑張ってきた皆には悪いけど……僕は、この日のために……彼女に求婚する自信を持ちたくて、頑張ってきたんだ!)


頼りない青年としてではなく、一人の男として。

彼女の手を取り、その未来を共に歩むと、自信を持って告げるために。


聖仁は瞳を閉じ、静かに、しかし確固たる決意を胸に刻みつけた。


***


タクシーが止まったのは、荒涼とした工場の街だった。

煤けたコンクリートの壁と、特徴のない無機質な建物が並ぶ、色彩を失った場所。


独りきりで降り立つ青年に、運転手は怪訝そうな顔を向ける。

それでも、事務的なやり取りだけを済ませ、静かに走り去っていった。


聖仁は一度立ち止まり、ネクタイの結び目を指先で整えた。

そして、工場の従業員通用口にしか見えない、小さく無機質な扉へと歩み寄る。


その扉をくぐり抜けた瞬間――世界は一変した。


視界を埋め尽くすのは、この二年間、幾度となく訪れた、生命の息吹に満ちた楽園。


鮮やかな色彩を放つ花々が咲き乱れ、手入れの行き届いた豊かな緑が、外界の喧騒を拒むようにそびえ立っている。


工場の街とは対照的な、あまりに美しく、あまりに静謐な桃源郷。

その圧倒的な情景を目にするたび、聖仁の張り詰めていた緊張も、雪解けのように緩んでいく。


だが、遠くから響いてきた弾んだ声が、彼の心を再び引き締めた。


「せいじーーーーーん! はやく! はやくぅう! おなかすいてるんだから! わたしっ!」


それは、大女優としての気品を脱ぎ捨てた、愛らしくも強引な、最愛の女神の呼び声。


聖仁は再びネクタイの締め具合を確認し、呼吸を整える。

そして、彼女が待つ光の中へと、早足で歩みを進めた。


近づく聖仁の足音を、彼女は待ちきれないといった様子で遮った。

小走りで駆け寄ってきたカレンが、その華奢な体を彼の胸へと投げ出す。


「やっと逢えた……逢いたかったわ」


熱い吐息とともに、柔らかな重みが彼に伝わる。

彼女の顔が、聖仁の厚い胸板に深く埋められた。


何度も繰り返してきた、見慣れた光景。

それなのに、そのたびに彼の心臓は、まるで初めて触れられたかのように激しく、不器用な鼓動を刻む。


聖仁もまた、彼女の細い背中に腕を回し、壊れ物を扱うような、それでいて決して離さないという意志を込めて、強く抱きしめ返した。


「僕も……逢いたかったよ」


耳元で囁く声が、わずかに震える。


「会えない間、ずっとカレンのことばかり考えていた。たまに会議中も、君のことが頭から離れなくて……ぼーっとしていたら、仲間に怒られたりするんだ。あはは」


照れ隠しのような笑い声を漏らす聖仁に対し、カレンは彼の胸から顔を上げると、ふくれっ面で彼を睨みつけた。


「へぇぇ! 私のせいにするんだ? それは貴方が未熟だからでしょ! 私は違うわよ? 仕事中は、貴方のことなんて忘れてるわよ。ふんっ!」


ぷくっと膨らませた頬と、強気な視線。

だが、その瞳の奥に宿る熱を、聖仁は知っている。


(……自分が忘れてると言ったら、それはそれで怒るんだろうな)


そんなことを思いながらも、聖仁の口元には自然と柔らかな笑みがこぼれた。

あまりにも愛おしくて、言葉にならない。

彼はただ、「ごめんね」と短く、慈しむように謝る。


カレンは聖仁の腕に縋りつき、満面の笑みで彼を見上げた。


「いいわ! 許してあげる!」


その声は弾み、瞳には慈愛と茶目っ気が混じり合っている。


「今日は何と言っても、聖仁君のお誕生日だものね! うふふ! はいはい、聖仁君、ハタチのおたんじょうび、おめでとうぅ! よしよし」


腕に縋りついたまま、彼女の細い指先が聖仁の髪を優しく、慈しむように撫で上げた。

その温もりは心地よく、聖仁の胸には大きな喜びが溢れ出す。


だが、それと同時に、喉の奥からせり上がってくるのは、やり場のないもどかしさだった。


(……子供扱いしないでくれ)


今夜、自分はこの女性に一生を誓うつもりなのだ。

その覚悟を知ってか知らずか、彼女は「よしよし」という、幼子に向けるような慈しみで彼を包んでしまう。


「もうっ! やめてよ、僕はとうとう二十歳なんだよ!? 大人になったんだ……君と対等なんだからね……うぅ」


精一杯の抗議。

しかし、強がった言葉はかえって幼い少年のもののように響き、聖仁自身が、その情けなさに肩を落とした。


そんな彼の姿に、カレンは愛おしげな眼差しを向ける。


「拗ねないでよ、貴方は最高の男。自信持ってちょうだい! なにしろ私を虜にしてるんだから! 私、大女優よ! だ・い・じょ・ゆ・う! うふふ」


―最高の男―

その言葉は、聖仁の胸の奥底に、熱い奔流となって流れ込んできた。

これまで積み上げてきた努力が、すべて報われたような感覚。視界が熱を帯びて歪み、瞳の端から熱いものがこぼれそうになる。


「……っ」


潤んだ瞳で自分を見つめる聖仁に、カレンは苦笑を浮かべた。


「素直ねぇ。そういうところも好きだからいいけど。でも、いい加減おなかが空いてたまらないから、もう中に入りましょ!」


腕にしがみついたまま、彼女は促すように彼を店へと誘う。


一日に一組。

外界の喧騒を遮断したその場所は、静謐と贅が溶け合う、二人だけの聖域だった。

案内されたテーブルに腰を下ろすと、他の客は誰もいない。ただ、洗練された静寂だけが満ちている。


学生の頃、この店ではいつもカレンにご馳走になっていた。

会社を興し、初めて自分自身の手で支払おうとした時――意気揚々と目を通した明細の数字に、血の気が引いたあの日。

あの時の驚きが、今では懐かしい。あれからの自身の成長を思うと、聖仁の胸に温かな充足感が広がった。


「落ち着くなぁ……本当に、素敵なお店だね。カレンが気に入るのもわかるよ」


聖仁は、静かに微笑んだ。


「そうねぇ……他にもたくさん食事には行くけれど」


カレンは、ふう、と小さく息を吐き、背もたれに身を預ける。


「誰かが見ていると思うと、欠伸一つ、背伸び一つ、何か気を使っちゃうのよねぇ。うふふ、ここは羽を伸ばせるわぁ。うーん!」


解放感に浸り、思い切り背伸びをするカレン。

その刹那、スタイルの良い紳士風のホール係が、音もなく歩み寄ってきた。


「――ッ」


カレンは慌てて腕を下ろし、何事もなかったように姿勢を正す。

そんな彼女の姿も、聖仁には愛しくてたまらなかった。


食事が進むにつれ、二人の間には心地よい沈黙と、熱を帯びた会話が交互に流れていった。

窓の外には夜の帳が下り、店内の灯りはどこか甘美な温度を孕んでいる。


ふとした拍子に、カレンの瞳に悪戯っぽい光が宿る。


「ねぇ聖仁。もうお酒も飲める年齢になったんでしょ? ワインでも開けてみない? うふふ」


彼女はグラスを弄びながら、誘惑するように身を乗り出した。

その仕草に、聖仁は慌てて首を振る。


「あ、だめ! だめだよ! 今日は……大事な日だからっ!……っ?!」


言いかけて、聖仁はハッとして言葉を飲み込んだ。

あまりにも露骨すぎる、今日という日の重要性を匂わす失言。

慌てて視線を落とし、顔を赤らめて黙り込む彼を、カレンは慈しむような、それでいてどこか楽しげな笑みを浮かべて見つめている。


「ふふっ……そう? 美味しいのになぁ、ここのワイン。ああ、そうだ! 聖仁に誕生日プレゼントを渡さなきゃね」


カレンは話を逸らすように、脇に置いていた鞄から一通の封書を取り出した。

それは、重厚な装飾が施された、極めて豪華な見た目のものだった。


「ええと……はい、これ! 開けてみて?」


差し出されたその封書に、聖仁の胸が高鳴る。

彼女からの、特別な贈り物。二十歳という節目を祝う、重みのある何か。


「なんだろう……凄く豪華だね。なんだか、申し訳ないくらいだ……どれどれ」


指先が震えるのを抑え、彼は丁寧に封を切った。

中から現れたのは、美しい意匠の施されたメッセージカード。

期待に胸を膨らませ、その文字を追った聖仁の思考が、一瞬で停止する。


『このチケットを持つ人は、一色カレンとエッチができます☆ヤッタネ! BY カレン♡』


「…………っ!?」


あまりにも直球で、あまりにも……ふざけた内容。

聖仁は言葉を失い、驚愕に目を見開いたまま、カードからカレンへと視線を彷徨わせる。


「ぷっ! あはははは!!」


耐えきれなくなったカレンが、ついに声を上げて笑い出した。


「嬉しい? 嬉しいわよね?! あはははは! もう、そんなに慌てる!? あはははは!」


彼女はお腹を抱え、涙が出るほどに笑い転げている。

そのあまりの爆笑ぶりに、聖仁はからかわれたのだと悟った。


(……からかわれたのか)


こうも簡単に心を乱されてしまう自分が、少し情けない。

カレンの明るい笑い声を聞きながら、聖仁は小さく肩を落とす。


「……でも、カードは冗談だけど。エッチのプレゼントは、本当よ?」


笑い転げていたカレンが、ふっと、熱を孕んだ吐息とともに声を潜めた。


彼女はテーブルに両肘をつき、その白く細い顎を手のひらに乗せる。

潤んだ瞳で、蕩けるような、それでいて抗いがたいほど妖艶な笑みを浮かべ、じっと聖仁を見つめてきた。


「……っ!?」


聖仁の身体が、びくりと小さく跳ねる。

心臓が喉元までせり上がり、全身の血が沸騰するような錯覚に陥った。

視界が熱を帯び、目の前の彼女が、あまりにも美しく、あまりにも官能的な「女」として迫ってくる。


「だってぇー……何か物を買ってプレゼントしようにもぉー、もう聖仁はお金持ちだから、その気になれば何でも自分で買える感じだしぃー。だったらぁー、一番喜んでもらえるのって何かなーって考えたらぁー……エッチかなってぇー。うふふ!」


からかうような、甘く引き延ばされた語尾。

彼女は聖仁の困惑と、そのあまりに初心な反応を愛でるように、瞳に暖かな笑みを宿している。


聖仁は俯き、耳の先まで真っ赤にして黙り込んだ。

熱い吐息が唇から漏れ、指先が膝の上でぎゅっと握りしめられる。

あまりの恥ずかしさと、それ以上に押し寄せる幸福感と高揚に、思考が千々に乱れた。


やがて聖仁は震える呼吸を整え、意を決したように顔を上げる。

その瞳には、戸惑いながらも、真っ直ぐで熱い光が宿っている。


「う、うれしいよっ……!」


絞り出すような声。聖仁はカレンの瞳を見つめ返した。


「カレンが考えて、くれるものなら……! 受け取るよっ! そ、そのプレゼントっ!」


顔を林檎のように赤くしながらも、一言一句を噛みしめるように、真剣に、全力で答える聖仁。

そのあまりにも不器用な返答に、カレンは再び堪えきれず、声を上げて笑い出す。


「あははは! もう、貴方は……っ! ふふっ、あはははは!」


笑いながらも、彼女の瞳には、愛しくてたまらないという熱い慈しみが満ちていた。


からかわれた、という情けなさと、あまりに可愛らしい彼女への愛おしさが混ざり合い、聖仁の思考はぐちゃぐちゃにかき乱された。


顔が熱い。

赤らんだ頬を隠すように、彼は俯いたまま、震える呼吸を整えようと努める。


怒っているのではない。

ただ、求婚という人生最大の儀式を前にして、あまりに揺らいでしまった自分自身の自信を、どうにかして立て直したかった。


「……ちょっと、トイレに行ってくる」


掠れた声でそう告げると、彼はゆっくりと立ち上がった。

カレンの瞳が自分を追うのが分かっていても、あえて一度も目を合わせることなく、逃げるように席を立つ。


「あらら、怒っちゃった? ごめーん、せいじーん!」


背後から追いかけてくる、軽やかで茶目っ気たっぷりの声。

今ここで顔を向ければ、またあの熱に浮かされたような動揺に飲み込まれてしまう。

聖仁は返事をせず、店内の奥へと足を進めた。


豪奢な装飾が施された、静謐な洗面室。

彼が蛇口をひねると、冷たい水の流れる音が響く。両手ですくい上げた水を、顔に浴びせた。


「……っ」


冷水が肌を刺す。

熱を持った頬と、火照る思考を無理やり引き戻そうとするように、何度も、何度も顔を洗う。

そして、濡れた顔を拭い、鏡の中の自分を見つめた。


そこに映るのは、二十歳になったばかりの、まだ幼さの残る青年の顔だった。


(……これじゃ、ダメだ)


胸の奥に、重く暗い靄が立ち込める。

これからプロポーズをするのだ。彼女を一生かけて幸せにする、頼れる男だと示したいのに。

結局、すべては彼女のペースで進み、自分はただ翻弄され、振り回されているだけ。


(……これじゃ、情けなくて、断られてしまうかもしれない)


彼女が自分を愛していることは、疑いようもない。


だが、もし「まだ早い」と微笑まれてしまったら?

「今はまだ、子供のままね」なんて言われてしまったら――。


そんな不安が、思考の端々を侵食していく。


普段の彼であれば、これほどまでに感情に振り回されることなどない。

だが、カレンという存在は、彼の理性を容易く溶かし、制御不能な熱へと変えてしまう。


(落ち着け……落ち着くんだ)


聖仁は鏡の中の自分を、射抜くような瞳で見つめた。

震える指先を、強く拳に握り込む。


(きっと、チャンスは来る。それを待とう)


深く、重い呼吸を繰り返す。

内なる靄が晴れるのを待ちながら、彼は静かに、己の心に楔を打ち込んだ。


店内に戻った聖仁の目に映ったのは、主を失った空席だった。


テーブルの上には、飲みかけのグラスが残されていて、カレンの姿はどこにもない。

焦燥が胸をかすめたが、視線を窓の外へと向けると、月明かりに照らされた庭園の片隅に、彼女のシルエットを見つけた。


聖仁は席の脇に置いた鞄へ手を伸ばし、中から『鍵』となる小さな箱を取り出す。

指先に触れるその硬質な感触を確かめ、彼はそれをジャケットの内ポケットへと深く沈めた。


そして、夜の冷気を切り裂くようにして、庭園へと足を踏み出す。


「……カレン。どうしたの? まだデザートが来てないけど……お腹いっぱいになった?」


静寂の中に、聖仁の声が溶け込む。

月光を浴びて佇む彼女は、どこか遠い世界の住人のように美しく、そして少しだけ、心細げに見えた。


「聖仁……ううん。ちょっと酔い覚ましに、風に当たりたかっただけ」


カレンは振り返り、ふわりと微笑む。その頬は、ワインのせいか、それとも夜風のせいか、微かに赤らんでいる。


「今日はなんだか浮かれちゃって。少し飲みすぎたみたい……さっきはごめんね。からかいすぎちゃったわね」


心地よい夜風が吹き抜け、彼女の髪を優しく弄ぶ。


月光を反射して、長く艶やかな黒髪が、生き物のようにゆらりと揺れた。その圧倒的な美しさに、聖仁は思わず言葉を失いかけ、それでも、心からの感嘆を口にする。


「……相変わらず、綺麗な髪だね」


照れも、飾り気もない、ただ純粋な感想。

カレンは一瞬、驚いたように目を丸くしたが、すぐに慈しむような笑みを浮かべた。


「ありがとう。自分でも気に入ってるの! 手入れは大変だけどね。うふふ」


彼女は指先で、自らの髪をゆっくりと梳き上げる。

その仕草一つひとつが、夜の静寂の中で官能的な熱を帯びていく。


「そうそう、髪と言えば……私、今度美容師の役をやるの! 主役ではないんだけどね。主役の男の子をイジめる先輩の美容師! ふふふ、ピッタリでしょ? わたしに」


カレンは聖仁に向かって、わざとらしく人相の悪い顔を作り、おどけてみせた。

その愛らしい「変顔」に、聖仁の強張っていた心は、雪解けのように柔らかく解けていく。


彼は優しく微笑み、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ返す。


「役だからしょうがないけど……君のような優しい心の人に、似合うとは思わないな……」


カレンは、ふっと自嘲気味な笑みを浮かべた。


「……たぶん、聖仁が優しいから、私も自然と優しい気持ちになるだけよ」


彼女の声は、夜風に溶けて消えてしまいそうなほど、低く、掠れている。


「貴方が傍にいないときは、わがままで、意地っ張りで、嫉妬深くて、見栄っ張りで……自分でも分かってる。人に好かれる性格じゃないの」


「カレン……」


聖仁は、彼女を庇いたかった。

『そんなことない』と、その言葉を喉元まで押し上げようとした。

だが、彼女はそれを望んでいないように感じられ、言葉が続かない。


言葉に詰まる聖仁を見て、カレンは突如として、その胸元へ飛び込んできた。


「……っ」


熱い体温と、甘い香りが一気に押し寄せる。

彼女は彼の胸に顔を埋め、その鼓動を聴くように囁いた。


「だから……私と結婚する人は、きっと苦労すると思うわ」


「喧嘩が絶えなかったり、顔を見るのもイヤになって……すぐ離婚しちゃうかも。そういう話、周りでも結構あることだから。ふふふ」


再び、自嘲の笑いが漏れる。

先ほどまでの愛らしい笑いに、今はどこか寂しげな響きが混じっていた。


「……カレン。君は僕のことを優しいって言ってくれるけど……僕だって、自分の嫌なところに、いつもうんざりしてるんだ」


聖仁の声は、夜の静寂に沈み込むように低く、震えている。

胸に顔を埋めるカレンに、彼は言葉を紡ぐ。


「……嘘。貴方の周りは、いつも笑顔で満たされてるわ。私と違って、素顔の貴方を皆が好きになる。私に合わせて、そんな嘘、言わなくていい」


カレンは聖仁の胸に顔を押し付けたまま、否定するように呟いた。

だが、聖仁は首を横に振り、苦い告白を続ける。


「……君が最近出てた、あるドラマを、会社の仲間と一緒に観たんだ。俳優さんとのキスシーンがあった。悔しくて、見てられなくて……トイレに行くって言い訳して、逃げ出したんだ。……さっきみたいに」


カレンは顔を上げ、聖仁を見つめた。


「……え?」


聖仁は顔を赤らめ、視線を地面に落としたまま、堰を切ったように言葉を吐き出す。


「馬鹿だよね……君の仕事だし、お芝居なのにさ。でも、なかなか、君の映画とかドラマとかは、観られないんだ。嫉妬深い自分に、気付かされるのが……怖いんだ」


一言、一言が、聖仁の喉を締め付けるような苦しさを伴って零れ落ちる。

彼は拳を強く握りしめ、自嘲するように言葉を重ねた。


「見栄っ張りなのも同じだ。トイレに逃げ込んで、君を独りにして……どうやって……どうすれば……プロポーズ、OKしてもらえるだろうかって……演出とか、タイミングとか、そんなことばかり考えてた。君が僕を楽しませようとしてくれてるときも、ずっと自分勝手に我が儘に、そんなことばかり考えてたんだ」


一人の男としての、あまりにも不器用で、切実な独白が、夜の庭園に零れ落ちた。


二人の間に、熱を帯びた沈黙が流れる。

聖仁の告白が夜の空気に溶け込み、二人はただ、互いを見つめている。


三拍、四拍……六拍目。

耐えかねたように、カレンがその唇を割り、鋭く言い放った。


「今よ」


「……え?」


聖仁は呆然とした表情で、彼女を見つめる。唐突な促しに、思考が追いつかない。

カレンは眉を寄せ、少しだけ苛立ちを含んだような、それでいて期待に満ちた声で畳みかけた。


「今しかないわ! さぁさぁ!」


未熟な青年が、今こそ求婚の言葉を伝える時なのだと気づくまでに、なお数拍の空白が必要だった。

ようやく事態を理解した聖仁の全身を、熱いものが駆け巡る。


「あ……っ!」


彼はカレンを抱いていた腕を解き、慌ててポケットに手を伸ばした。


ジャケットの右のポケットか、それとも左か。あるいは胸元か。

指先が震え、衣服の端を掴んでは滑り、必死に『それ』を探し求める。狼狽し、もたつき、その手つきはあまりにも不器用で、なりふり構わない。


内心では、歓喜と高揚で爆発しそうなほど胸を躍らせながらも、カレンはあえて不満げな表情を作った。


腕を組み、不満げに唇を尖らせ、瞳を閉じて、じっと耐えるようにその時を待つ。

まるで、あまりにも遅すぎる男の振る舞いに、待ちくたびれているかのように。


だが、その閉じられた瞼の裏側では、今まさに訪れようとしている瞬間への期待が、激しく火花を散らしていた。


ジャケットの左、内ポケットの奥。

指先がようやく、その小さな、しかし確かな重みを持つ箱に触れる。


聖仁は震える手でそれを掴み取ると、一歩、彼女の前に踏み出した。

そして、片膝を地面につけ、祈るような姿勢で跪く。


彼は小箱を開き、中身が見えるよう、両手で大切に掲げた。


「カレン……一生かけて、貴方を幸せにします! 僕と、結婚してください!」


震える声。しかし、そこには迷いも、不確かさも一切ない。


二十歳の誕生日に逢いたいと、彼が伝えてきた時から、彼女の胸中ではこの瞬間の予感が、確信へと変わっていた。

だが、目の前で自分を見つめる最愛の青年の瞳に宿る、あまりにも純粋で、あまりにも重い決意を前にして、カレンは言葉を失う。


溢れ出す熱情と、震える鼓動。

二人の間に、永遠とも思える数拍の沈黙が流れた。


カレンは、震える指先で小箱から『約束の品』を取り出す。


「……地味ね」


ぽつりと、彼女の口から零れたのは、感動の言葉ではなく、あまりに素っ気ない感想だった。


「……え?」


聖仁が呆然と声を漏らす。


カレンは手の中にある指輪を、改めて凝視した。

それはプラチナのみを用いた、中心に石を持たない極めてシンプルな造り。

表面には微かな凹凸と小さな穴が見られるだけの、どこか無機質な輝きを放つものだった。


「婚約指輪って、もっとこう……なんだろう。日常に使う物じゃなくて、特別な日に身に着ける品じゃなかったかしら。もしかして……結婚指輪と婚約指輪、区別ついてない?」


カレンの容赦のない指摘に、聖仁は顔を真っ赤にし、必死に声を振り絞る。


「い、いや! 婚約だよ! エンゲージリング! 本当に……本当に特別な品のつもりなんだ!」


聖仁は慌てて、カレンの手の中にある指輪を覗き込んだ。

その瞳には、彼女の指摘に対する動揺が、まだ色濃く残っている。


「う、うん。問題なさそう。カレン、ちょっと指にはめてみて?」


当のカレンは、強がってみたものの、既に感激で胸がいっぱいだった。


いつ愛の言葉を返そうかと機会を窺っていたのに、聖仁は肝心の返事も聞かないまま、大慌てで着用を促してくる。


高鳴り続ける鼓動を必死に抑えながら、彼女は言われるがままに指輪をはめた。

冷たいプラチナの感触が、彼女の指を包み込む。


その瞬間――。


装飾のための穴だと思われていた箇所から、淡い、神秘的な光が溢れ出した。


「あ……」


カレンが息を呑む。

聖仁は指輪の側面にある、ごく僅かな突起を押した。


光は指輪から宙へと伸び、彼女の目の前で像を結ぶ。


「……っ!?」


カレンの瞳に、信じられない光景が映し出された。

そこに浮かび上がったのは、高さ三十センチほどの小さなホログラム。


透き通るような輝きを纏った、ウェディングドレス姿のカレンだった。


そのあまりに美しい自分自身の花嫁姿を見つめ、カレンは言葉を失い、ただ立ち尽くしていた。


「……どうかな? 君がさっき、僕に誕生日プレゼントくれたとき、話してたろう。お金持ちだと、その気になれば何でも自分で手に入るから悩むって。……僕も同じで、ずっと悩んでたんだ。どうすれば君に、特別な気持ちを味わってもらえるかなって」


聖仁は、震える指先で指輪の側面をなぞりながら、祈るように言葉を紡ぐ。

その瞳には、気に入ってもらえただろうかという不安と、一人の男としての不器用なまでの情熱が混ざり合っていた。


「前から、こういう機械工作は得意だったから、自分で作ってみたんだ。けっこう難しい問題ばかりで、結局完成はギリギリに……?!」


説明する聖仁の言葉を、カレンの唇が強引に塞ぐ。


「――んっ!?」


突如として押し寄せた熱。


それは、もはや理屈や言葉では制御しきれない、溢れ出す感情そのものだった。

深く、濃厚で、互いの魂をかき乱すような激しい口づけ。


聖仁の背中に回された彼女の手は、溢れる想いを伝えようとするかのように強く、そして震えている。


二人の間に、熱い吐息が零れる。


ようやく唇が離れたとき、カレンは肩で激しく呼吸を繰り返し、潤んだ瞳で聖仁を見つめた。

その顔は紅潮し、視線には抑えきれない愛情が宿っている。


「……っ、はぁ……っ、はぁ……」


彼女は呼吸を整えると、震える声で、魂の底から絞り出すように告げた。


「大好き!愛してるわ、聖仁。お願い……私を、離さないで……!」


「……カレンっ! 愛してる! 離すもんか! ずっと、ずっと一緒だ!」


聖仁の咆哮のような誓いが、夜の静寂を震わせる。

彼は離さないという強い意志を込めて、カレンの身体を強く抱き寄せた。


再び重なる唇。互いの魂を溶かし合い、体内に取り込もうとするかのような、熱く、深く、激しい口づけだった。


溢れる涙が頬を伝い、二人の肌を濡らす。

その熱情に突き動かされるように、彼らは何度も、幾度も、互いの存在を確認し合うように唇を重ねた。


やがて、荒い呼吸だけが、夜の空気に溶け出す。


聖仁はカレンを離さぬよう、それでいて壊さないよう、強く、そして慈しむように抱きしめ続けた。

言葉はいらない。ただ、重なり合う二人の鼓動と、夜の静寂が、幸福な時間を刻み続けている。


やがて、聖仁がふと我に返ったように、小さく呟いた。


「……そういえば、まだ食事が途中だったね。ホールの人、困らせちゃってるかな?」


あまりにも真面目で、どこか抜けたような彼の心配に、カレンは思わず吹き出す。

涙の跡が残る瞳を細め、彼女は苦笑混じりに答えた。


「そうね。また少しお腹も減ったし、丁度よいわ。ささ、中に入りましょ!」


カレンは聖仁の腕に縋りつき、満面の笑みで彼に甘えながら、歩き出した。

その傍らで、聖仁が熱を帯びた声で囁く。


「カレン。君がくれたあのカード……もし僕が落としたりして、誰かに拾われたら困るだろう? だから……今夜もう、使っていいかい?」


カレンの足が止まった。

驚きに目を見開き、彼女は聖仁の顔を凝視する。


だが、目の前の青年の姿は、先ほどまでの動揺も、不器用な迷いも、一切感じさせない凛々しいものだった。

ただ、一途で、熱い眼差しが、真っすぐに彼女を見つめている。


カレンは瞳を潤ませ、頬を赤く染めて、静かに頷いた。

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