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聖者の行進  作者: いくらふじなみ
第二部 世界の扉
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第二話 祝福に揺れる

殺風景な工場が立ち並ぶ、無機質な一帯。

その片隅に位置する古い工場跡地の外壁に設けられた小さな扉を潜り抜ければ、そこには別世界が広がっている。


緑と花々に包まれた楽園のような庭園の奥、一日一組の客を静かに迎えるオーベルジュ。


昨夜、伴侶となる約束を交わしたばかりの一組の男女は、その至福の聖域で深い眠りに沈んでいた。


窓から差し込む朝日は、二人を祝福するかのように、白く、神々しい光の帯となって寝室へと流れ込んでくる。


習慣に従い、自然に意識が浮上した清水聖仁は、微かな熱を孕んだままゆっくりと瞼を持ち上げた。


視界に飛び込んできたのは、眩いばかりの朝光と、隣で静かに呼吸を繰り返す一色カレンの姿だった。


二人ともに、一糸まとわぬ姿。


シーツのような薄地の掛布団が、彼女の女神のごとき肢体の曲線を、露骨なまでに浮き彫りにしている。


昨夜は深夜まで、互いの存在を確かめ合うように愛し合い、精魂尽き果てて倒れ込むように眠りについた。


それにもかかわらず、聖仁の身体には、熱い情欲の炎が静かに、だが確実に再燃し始めていた。


(……本当に綺麗だ)


まどろみの中で、彼はその美貌を凝視した。


抗いがたい生命力に満ちた、愛しい女。


(つい数年前までは、こんな女性と結ばれるなんて……夢にも思っていなかった)


(父さんみたいになるくらいなら、一生独りで構わないし……母さんだけを幸せにできれば、それでいいとすら思っていた)


そう思っていた自分が、今、こうして一人の女の熱をその身に受けている。


その事実に、聖仁は、言いようのない充足感を感じていた。


(きっかけは、父さんの自分勝手な陰謀だったけど……カレンと出会えたことだけは感謝だ)


感謝の気持ちが在る一方、胸の奥底を抉るような憤怒が疼く。


(だけど、カレンを脅迫して……手籠めにまでしていたんじゃないかと思うと……絶対に許せない!)


父、清水征人。あの色欲旺盛な父が、これほどの美女を前に、脅迫者として何もしなかったとは思えない。


確信はない。カレンや父から直接、詳しい事情を聞いたわけではない。

確かめず、あえて曖昧なままにしておきたい領域も、彼にはあった。


それでも、父への怒りを拭い切れない。


彼は、隣で眠る愛しい女の寝顔を見つめたまま、強く拳を握り締めた。


やがて気を静め、彼はこの二年間に思いを馳せる。


(陰謀の真実を知って二年……我武者羅に自分を高めてきたつもりだ。それは勿論、カレンと肩を並べて、一人前になって、求婚するのが目的だけど……父さんに対抗する力が欲しかったのもあるんだ。あの得体の知れない力を持つ、父に)


この二年の歳月は、聖仁の二十年の人生において、最も濃密な時間となった。


海外の著名な大学を飛び級で卒業し、人工知能と機械学習を専門とする計算機科学の博士号を取得。

寝る間も惜しんで研鑽に励む傍ら、彼は高校時代の先輩や同級生たちと共に、かつて構想した事業を現実のものへと変えていった。


企業内に散在する情報やシステムを統合し、実務を支える業務用AIは、驚異的な成功を収めた。

今や彼は、若き起業家として、その名を世に轟かせ、次代の寵児と目される地位を築き上げている。


(そして何と言っても! 僕の夢!……それが、形になりつつある!)


胸の奥で、熱い高揚が疼く。


(あらゆる産業の基盤――「世界の心臓部」を目指す独自AIインフラ、《March of the Saints》の構築に成功したんだ!)


March of the Saints、通称《MOS》。


PCから自動車、重機、各種ロボットまで、全ての機器への組み込みを想定した汎用AI基盤。


あらゆる産業を支え、「世界の心臓部」となることを目指す。


(まだ誕生したばかりで、未成熟なシステムだけど……これがあればきっと! 世界は、よりよい未来に向かうはずだ!)


夢の実現を思い、聖仁は胸を躍らせていた。


だが、その思考を心地よく遮るように、隣で眠っていたカレンが寝返りを打った。


彼女の柔らかな身体が、彼の方へと寄ってくる。


上半身を起こしていた聖仁の脚に、彼女の手が触れた。


そして――あろうことか、彼女はそのまま彼の脚に腕を回し、抱き枕でも抱くようにして、その肢体を密着させてきたのだ。


「……っ」


驚いてカレンの顔を覗き込むと、彼女の瞳は閉じられたままだった。


だが、その唇の端には、彼をからかうような、隠しきれない笑みが浮かんでいる。


「……カレン。起きてるんだろう? 本当に悪戯好きだな君は。僕もそうそう、慌てたりしないよ。ふふふ」


カレンは、なおも寝たふりを続けている。


だが、その手は止まらなかった。

脚に回された彼女の手が、滑るように這い上がる。

そしてそのまま、聖仁の身体を、容赦なく、まさぐった。


「?! う、うわぁ! な、なにするんだ! く、くすぐったいよ! も、もう!」


聖仁が思わず声を上げると、ついにカレンは笑いをこらえきれなくなった。


「……ぷっ。慌ててるじゃない……ぷぷぷっ」


彼女は、聖仁にしがみついたまま、静かに笑い続けている。


聖仁は仕返しとばかりに、彼女の脇をくすぐった。


「?! ちょ! ちょっと! やめてよ……あははは! ごめん! ごめんってば! やんっ! あははは!」


カレンは身をよじらせ、声を上げて笑い転げる。


聖仁が手を止めると、彼女は乱れた髪をかき上げ、荒い呼吸を整えながら、艶然とした笑みを浮かべて彼を見つめた。


「もう、くすぐったいなぁ。うふふ、おはよう聖仁。昨日は凄く……素敵だったわ。私、壊れるかと思っちゃった! うふふふ……」


わざと露骨な言い回しを選び、再び彼をからかいにかかるカレン。


聖仁は内心の照れを隠すように、言葉を返す。


「……どういたしまして。君も素敵だったよ。何度も僕に、『好き!』『大好き!』って言ってたよね。こんなに愛されて、僕は幸せだよ。ふふふ」


珍しく言い返されたカレンの頬が、一瞬で朱に染まった。


彼女は照れ隠しにシーツへ顔を埋めると、手元の枕を掴み、聖仁に何度もぶつけた。


「ちょ! いたい、いたいってば! ごめん! もう、謝るから! きみには敵わないってば! もう!」


二人の間には、ただ楽しく、穏やかな時間が流れていた。


ひとしきり、じゃれ合った後、二人は身を起こし、共に浴室へと向かった。


湯気に満ちた密室の中で、互いの肢体を慈しむように、ゆっくりと洗い上げる。

水音と、時折混じる甘い笑い声が、湿った空気に溶けていった。


入浴を終え、バスローブを纏った二人のもとへ、ルームサービスの朝食が運ばれてくる。

白手袋をはめた紳士的な部屋係が、重厚な銀のトレイに載せられた豪華な料理を、音もなく静かに供した。


淹れたてのコーヒーから立ち上る、豊かで芳醇な香りが、室内の空気を満たしていく。それは一日の始まりを告げる、至福の香りだった。

熱い湯気を眺めながら、二人は同時に、「ふう~」と深く、満足げな吐息をついた。


あまりにもぴったり重なったそのタイミングに、二人は顔を見合わせ、どちらからともなく笑い声を上げた。


「ねえ、聖仁。結婚式のことだけど……どうしましょうか?」


カレンがコーヒーの香りに包まれながら、ふと問いかけてきた。


「申し訳ないけれど、聖仁の好みに合わせて地味に済ませようとしても、世間の目が許さないわよ。面倒だけどね」


聖仁は深く頷き、その言葉を正面から受け止めた。


大女優として頂点に立つカレンも、若き起業家として時代の寵児となった彼も、それぞれに大きなしがらみを抱えている。学生時代とは違い、聖仁も身軽な存在ではなくなっていた。双方の背負う社会的地位と、膨大な人脈――それらを考慮すれば、結婚式は単なる二人の誓いの場ではなく、巨大な社交の舞台となる。


「……そうだね。僕たちの結婚式は、盛大にやらざるを得ないね。この際だから、とびっきり派手に! それでいて斬新で、皆に称賛されるような、大きなイベントとして! 気合いを入れてやろうよ!」


カレンは、どこか楽しげに目を細めた。


「そうね! 今や聖仁社長も、時の人だもの。私と貴方が結婚となったら……! マスコミは飛びつくでしょうね。どうせやるなら、思い切り利用しなきゃね。うふふ」


悪戯っぽく、それでいてどこか野心を感じさせる笑みを浮かべるカレン。


聖仁は苦笑しながらも、その提案に同意して頷いた。


二人は、テーブルの上に広げたメモを前に、招待客のリストアップを開始した。


互いに絶対に呼ばないといけない重要人物――政治家、取引先の重役、俳優、世話になったテレビ局関係者など。まずは、影響力の大きい重鎮たちの名前を挙げていく。


「政治家の松島さんは、私も知り合いよ。二人が共通して関係してるなら、そこは外せないわね」


カレンが指先でペンを走らせながら、具体的な名前を口にする。


「局の大塚さんも呼びたいな。ドキュメンタリーでお世話になったし、最近昇進なさって、かなり上のポジションになったみたいだ」


聖仁もまた、招待したい人々の名前をリストに書き加えていった。


次々と候補が挙がり、リストは膨大な名前によって埋め尽くされていった。

重鎮たちの列が終わり、次は親族や友人の番となる。


ふと、カレンが筆を止め、聖仁の様子をうかがうようにして問いかけた。


「聖仁、お父様とは……あれから……後継者のこととか、連絡とれてるの? 全然話題に出なかったけど……」


父――征人の話題が上がった瞬間、聖仁の肩がぴくりと震えた。


彼はリストに視線を向けたまま、ぶっきらぼうな口調で応じる。


「全然。向こうからは何も言ってこないし、僕も別に興味は無いし」


「以前は、月に一度ぐらいは顔を出してたのに、最近は何か月も家を空けてるみたいだ。僕もあれから、海外と日本を行き来するような生活だったから、すれ違いもあったしね。この二年で……数えるほどしか見かけてないよ」


聖仁の言葉は淡々としていたが、その瞳には、父という存在に対する、複雑な距離感が滲んでいた。


誰に対しても常に誠実な、彼らしからぬ、素っ気ない態度。

その背後にある父への複雑な感情を、カレンは察していた。


彼女はペンを置き、じっと彼を見つめた。

意を決したように、静かだが力強い声で話し始める。


「……ねぇ、聖仁。そんなに突き放すような態度は、貴方らしくないわ」


カレンの手が、テーブルの上で聖仁の手に重なる。


「もし過去の件で、私に気を遣っているのだとしたら……それはやめてちょうだい。確かにあの時は、お父様に脅迫されて、怖い思いもしたわ。でもね、結果として――あの出来事が無かったら、今の私たちは出会うことさえできなかった」


彼女は聖仁の瞳を真っ直ぐに見つめ、言葉の一つひとつを刻みつけるように続けた。


「私にとって、貴方に出会えたことは、本当に奇跡なの。……貴方は間違いなく、最高の男なんだもの」


「カレン……」


「それにね……あの時のお父様は、貴方のことを凄く気にかけていたわよ」


カレンは少しだけ視線を落とし、遠い記憶を辿るように言葉を紡いだ。


「自分が嫌われてることも知ってたけど、それでも貴方のことが好きで堪らなかったみたいだったし。親馬鹿丸出しで、貴方の成長を、子供みたいに喜んでた。何だかあの姿を思い出すと……可哀そうになっちゃう」


聖仁は、自分の手に重ねられたカレンの手に、もう片方の手をそっと重ねた。


彼は一度、愛おしげに彼女の瞳を見つめたが、すぐに視線を落とした。

瞼を閉じ、感情を噛みしめるように沈黙する。


数拍の間を置いて、聖仁はゆっくりと顔を上げ、カレンを見つめて話し始めた。


「……確かに、子供っぽい苦手意識だったのかもしれない。僕の母親も、父を悪く言ったことはないし。欠点はたくさんあるにしろ、母や僕を守ってくれてたことは事実だ。そもそも、父親を結婚式に呼ばないのは、体裁が悪いしね。わかった! 父さんに参加の打診メールしとくよ」


その言葉を聞き、カレンは何も言わず、ただ慈しむような柔らかな微笑みを彼に向けた。


***


数か月が過ぎ、二人の間では結婚式の打ち合わせが、幾度となく繰り返されていた。


膨大なゲストリストの精査、会場の設え、衣装の選定――話し合うことは尽きない。


そんな折、聖仁の手元にある端末が、不意に短く震えてメッセージの着信を告げた。


画面に目を落とした聖仁は、数秒の間、黙り込んだ。


やがて、自嘲気味な笑みを浮かべながら、口を開いた。


「……父さん、式は欠席になりそうだよ。どうしても都合がつかないみたいだ」


聖仁は彼女の視線を促すように、端末の画面を向けた。カレンが身を乗り出し、その文面を凝視する。


そこには、父・征人からのメッセージが綴られていた。


『聖仁へ。


カレンさんとの結婚、本当におめでとう。心から祝福します。


結婚式に誘ってくれて、とても嬉しいです。


ですが、その日程だと、どうしても外せない海外視察が入っています。


ギリギリまでスケジュール調整を頑張ってみますが、不参加の場合は、どうか許してください。


……愛する息子へ。


清水征人』


カレンは画面を読み終えると、心なしか落胆したような表情を見せた。

だがすぐに、どこか楽しげな、謎めいた笑みを浮かべて聖仁に告げる。


「……そう。でも、まだ分からないわよ。あのお父様のことだもの。何とかして、駆けつけてくるんじゃないかしら。うふふ!」


カレンが征人に寄せる、その不思議なまでの信頼感。

聖仁は胸の奥に、ちりりとした小さな嫉妬心を覚えたが、すぐにそれを振り払うように小さく首を振った。


「……どうかな。でも、ごめんね。カレンのご両親は、お二人ともいらっしゃるのにさ。こっちは仕事で来られない父親なんて……なんだか、体裁が悪いよね」


「やめて。そんな言い方、聖仁らしくないわよ」


カレンは聖仁の手を軽く叩き、優しく諭すように言った。


「私は全然、気にしないわ。もちろん、うちの両親だってね。うふふ」


その慈しむような気遣いに、聖仁の表情が和らぎ、柔らかな微笑みがこぼれた。

先日、カレン――福崎加恋の両親に、挨拶を済ませてきた記憶が蘇る。

彼女の両親は七十歳近い、どこまでも穏やかで慈愛に満ちた夫婦だった。


「それにしても……カレンのご両親は、君からは想像もつかないくらい、普通の方たちだよね。ああ、馬鹿にしてるわけじゃないよ! 本当に穏やかで、優しい雰囲気の素敵なご夫婦だったから」


「ふふっ! 友達にもよく言われるわ。……まあ遅く生まれた子だったから、甘やかされすぎちゃったのよね。私のこの我儘な性格も、そのせいよ。うふふ」


カレンは胸を張り、誇らしげに笑った。

聖仁は苦笑しながらも、何も言わずに彼女を見つめていた。


会話を続けるうちに、聖仁の思考はふと、ある奇妙な違和感へと向かった。


彼は言葉を選びながら、静かに問いかけた。


「……ねぇ、カレン。少し、変なことを聞くかもしれないけど……父さんの『本当の名前』って、もしかして、知っていたりする?」


実の息子から投げかけられた、あまりに唐突で奇妙な質問。


カレンは怪訝そうに眉を寄せた。


「お父様の名前?……どういうこと? 清水征人じゃないの?」


予測していた反応だったが、それでも聖仁の胸には、安堵とも落胆ともつかない、複雑な感情が湧いた。


彼は苦笑いを浮かべながら、言葉を続けた。


「……うーん、どうなんだろう。実は前から気になっていたんだ。戸籍謄本の父親の欄に、『+』という記号がついているんだよ」


聖仁は、一度言葉を切り、その不可解な事実を告げる。


「この前、結婚の手続きのために改めて謄本を取り寄せた時にも、同じものがあった。役所の職員に尋ねてみたけれど、『不明』としか返ってこなかったんだ」


「『不明』……? 気になるわね。印刷機の出力エラーとか、そんな単純な理由じゃないでしょうし」


カレンの困惑した表情を見つめながら、聖仁は深く頷いた。


彼は一度目を閉じ、数瞬の沈黙を置く。


「……この前、高校時代の先輩に会ったんだ。今、官僚として働いている人なんだけどさ」


聖仁の声のトーンが、わずかに低くなる。


「食事の席で、何気なくその話題を振ってみたんだ。そうしたら……突然、先輩が真顔になって教えてくれたんだよ。その記号は……『事情のある人が通名を使う場合に付けられるもの』らしいんだ」


「事情……」


カレンの唇から、その言葉が零れた。


二人は、清水征人という男の輪郭を掴もうと、思考の海へ深く潜り込んだ。


何らかの事情を隠しているに違いないと思える、謎の人物。


二人は呆けたように天井を見つめ、思案にふけっていた。


だが――ふと、互いの顔へ視線を向けた。


あまりにもぴったり重なった、そのタイミングに、二人は思わず吹き出してしまう。


「うぷっ! あははははは!」


どちらからともなく、堪えきれない笑い声が爆発した。


ひとしきり笑い転げ、肩を上下させて息を切らした後、聖仁は少し落ち着いた様子で補足した。


「……まぁ、そこまで珍しいものじゃないみたいだよ。亡命者とか難民の方とか、色々な事情のある人に使われるらしいんだ。あえて一般に広めることでもない記号だから、政府も広報してないってだけだってさ」


「いや! あの方は、ただ者じゃないわよ! スパイね! 映画に出てくるスパイヒーロー! だって凄い筋肉だし、体中傷だらけじゃない? 顔はハンサムさんのままだけどね、うふふ!」


カレンの弾んだ声に、聖仁は苦笑いを浮かべた。


だが、その直後、彼の胸に、ちりりと刺すような嫉妬が疼いた。


(……なぜ、父の身体のことを、彼女はそんなに詳しく知っているんだ?)


筋肉質なのは服の上からでも判別できるし、腕や脚の傷なら、肌が露出している時に見えるはずだ。


そう自分に言い聞かせても、胸に生じた暗い情念は消えない。彼は必死に、自身の内側から湧き上がる嫉妬と困惑を、理性の力で宥めようとした。


「……そうかなぁ。僕ら家族の前では、普通の父親だよ。この前、経済紙にも、しっかり素顔が載ってたし。そんなスパイ、聞いたことないよ」


聖仁は揺れ動く心を強引に抑え込み、努めて冷静な口調で話を続けた。


「……いずれにしろ、父さんについては、欠席を前提に進めるしかないね。一応ネームプレートも用意しとくけど、それも『清水征人』でいいだろう。そうだ! 話は変わって、例のスクリーンを使った映像なんだけど……」


強引に話題を転換し、打ち合わせを続けようとする聖仁。


カレンは、彼が抱える父への複雑な感情を察しながらも、何も言わず、ただ静かに彼の言葉に耳を傾けていた。


***


『一色カレン!! 電撃結婚!? お相手は9歳年下♡ ウワサの彼は次代の寵児!?』


新聞、雑誌、そして絶え間なく流れるWEBニュース。


あらゆるメディアが、軽薄で扇情的なキャッチコピーを競うように並べ立てた。


大女優・一色カレンが正式に婚約を発表した瞬間、日本中が熱狂の渦に包まれたかのようだった。


だが、当人たちにとってそれは、十分に予測された事態であった。


カレンは所属事務所と密に連携し、徹底的なメディア対応の準備を整えていた。


彼女自身の仕事や、聖仁の本業への悪影響を最小限に抑えつつ、この爆発的な話題性を宣伝効果へと転換させるための、計算された戦略だ。


聖仁もまた、真面目なマスメディアの取材には礼儀正しく応じながらも、話題がカレンに及ぶたびに「尊敬できる素敵な方です」とだけ短く答え、それ以上、私生活の話には応じないことにした。


彼の会社が入るオフィスビルでも、押し寄せる記者たちのために空調の利いた待機所が用意され、冷えた飲み水が手配されていた。


――そこまで備えていたにもかかわらず、カレンはマスコミ対応に疲労困憊の様子だった。


「……まぁ分かってたことだけど。毎日毎日! 同じこと聞かれて! それでもずっと! 笑顔でいなきゃいけないのよ? はぁ……しんどいわ」


ソファの背に両腕をかけ、体を預けて天井を眺めながら愚痴るカレン。


聖仁は苦笑しつつも、励ますように声をかけた。


「まぁまぁ。カレンのその苦労も、しっかり形となって恩恵が出てるよ。事務所の人も、凄く喜んでたじゃない? 随分、利益が出てるらしいよ。それに僕の会社も、一般には、まだそこまで知られてなかったけど、今回の件で一気に注目されたし。広報部署の役員が、ウキウキしてたよ。あはは」


達観したような聖仁の慰めを聞き、カレンは不満げに唇を尖らせた。


むくれた顔で、彼女は捲し立てるように言い返す。


「何よ! 聖仁だって、この前同僚の女性たちに詰められたって、愚痴ってたじゃない! そもそも、なんで『彼女はいない』なんて嘘をつくのよ! 私の名前を出さなくても『彼女がいる』って、ひとこと言っておけば済む話でしょ!」


理不尽な怒りをぶつけられ、聖仁は苦笑を浮かべながらも、宥めるように静かに答えた。


「……いや、もし『います』なんて言ったら、犯人捜しが始まっちゃうんだよ。誰だ、どこの人かってね。それで以前、全然関係ない女性が、僕と少し親しくしてただけで濡れ衣を着せられたことがあって……それ以来『いない』って言うようにしてるんだ。あはは……」


「……はぁー? まったく! モテる男は、言うことが違うわね!」


カレンの怒りは収まるどころか、呆れたような、それでいてどこか拗ねたような響きを帯びていく。


「モテモテで、常識人で、頭がいい聖仁君! いつもの正論、有難うございますわ! ふんっ!」


鼻を鳴らして背を向けたカレンの様子を見て、聖仁はこれまでの経験から、今は黙って距離を取るのが最善であると判断した。


「……ちょっと、トイレに」


短く言い残し、聖仁は静かにその場を後にした。


トイレの個室。静寂の中で、聖仁は深く、重い溜息を吐き出した。


端末の画面には、仕事に関する膨大な通知が並んでいる。

指先でそれらを捌いていくうちに、彼の意識はふと、ある人物の影へと引き寄せられた。


(父さんは、今どの国にいるんだろう……?)


以前届いたメールには中東、その前はヨーロッパ。


世界中を縦横無尽に駆け巡るような足跡。


(人材派遣の会社って、そんなにワールドワイドな仕事なのかな? 派遣会社の中では、そこまで規模の大きい会社ではなさそうなんだけど……)


(……それに、送ってくるメールのドメインまで毎回違う。いったい幾つの連絡先を使い分けているんだ?)


(ふっ、馬鹿なことを考えているな……。分かり切っていることだ。あの人は、別の顔を持っている。派遣会社の社長なんて、ただの隠れ蓑に過ぎないんだ……)


思考は加速し、一つの仮説が脳裏をよぎる。


もし、父・征人が、反社会的勢力の人物だとしたら?


その可能性を考えた瞬間、背筋を冷たいものが駆け抜け、指先から体温が奪われるような悪寒が彼を襲った。


(……もしそうであったら! 後継者なんて冗談じゃない! 絶対に許さない……いや、許すとかじゃない)


(母さんやカレンを守るため、父さんと闘う! 二人を必ず守ってみせる! それだけの事だ……)


十分な時間が過ぎ、思考の澱(おり)を吐き出した聖仁は、ゆっくりと立ち上がった。


どれほど社会的地位を得ようとも、この狭い空間が一番落ち着く。そう感じる自分に、彼は自嘲的な笑いを覚えた。


恐る恐るリビングへと戻ると、そこには先ほどの怒りが嘘のように静まり返った空間があった。

カレンは一人、温かい茶を啜っていた。彼女の傍らには、彼のために用意された湯呑みが一つ、静かに置かれている。


「……ちょうど喉が渇いていたんだ。ありがとう」


聖仁は短く礼を言い、熱い茶を一口啜った。


カレンはまだ頬を膨らませたまま、視線を落として呟いた。


「……わるかったわね。貴方に怒っても、仕方のないことばかりだったわ」


未だに不満げな表情ではあるが、その声には確かな謝罪の響きがあった。


聖仁は、そんな彼女を愛おしげに見つめ、柔らかな笑みを浮かべて応える。


「謝らないで。君が毎日、どれだけ頑張ってるか、わかってるから。マスコミ対応だけじゃなく、本業もね。疲れて愚痴りたくもなるさ。僕も今、トイレで愚痴ってきたよ。ふふ」


聖仁の冗談めかした言葉に、カレンの強張っていた表情が解けていく。


彼女はゆっくりと立ち上がると、聖仁の隣に座り、その身体に縋るようにして抱きついてきた。


「……まぁ、結婚式が終われば、マスコミも落ち着いて、一息つけるでしょう。それまで何とか頑張るわ。……聖仁には、癒しの『抱き枕』として! 精一杯、頑張ってもらわないとね。ふふふ」


カレンは目を逸らしたまま、彼に顔を埋めて笑う。


聖仁は、手に持っていた茶の入った湯呑みを慎重にテーブルへ置き、彼女の背中に腕を回して、その熱い身体を強く抱き返した。


「そうだね。何があっても……君を守るよ。安心して……僕が付いてる」


父への決意、そして彼女への誓い。


聖仁の低く、重みのある言葉が、カレンの耳朶(じび)を震わせた。


二人の視線が絡み合い、熱を帯びていく。


どちらからともなく唇が重なり、深く、甘美なキスが交わされた。


そのまま引き寄せられるようにして、二人はソファへと倒れ込み、重なり合ったまま、深い愛の海へと沈んでいった。

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