第六話 聖女新生
肺が焼けるように熱く、一歩ごとに地面を蹴る衝撃が膝に響く。
聖仁は荒い息を吐きながら、深夜の道を走っていた。
ときおり端末の地図に目を落とし、道を確かめる。
画面の光が、汗で濡れた頬を照らした。
カレンの自宅まで、およそ十五キロ。
走っていたら、一時間以上はかかるだろう。
時刻は、深夜一時を回ろうとしていた。
(……着くころには、カレンさんは寝てしまっているかもしれない)
いや、そもそも彼女ほどの人の自宅だ。
突然、高校生が深夜に会いたいと押しかけて、会える方がおかしいのではないか。
(僕のしていることは、無駄なんじゃ……)
走りながら考え続ける。
冷静なのか、取り乱しているのか、自分でも分からなかった。
それでも、足は止まらない。
通り過ぎかけたレンタル自転車置き場に気づき、聖仁は足を向けた。
端末で手早く手続きを済ませ、解錠された自転車にまたがる。
すぐにペダルを踏み込み、走り出した。
風が、熱くなった顔を冷ましていく。
少しでも早く着こうと懸命に漕ぎながら、再び考えが巡り始めた。
(そもそも、カレンさんは……本当は、嫌々僕と逢っていたのかもしれない)
父から告げられた言葉が蘇る。
あの微笑みも、優しい眼差しも、自分を誘惑するための演技だったのだろうか。
(真実を知った僕が、もう一度会いに行ったところで……もし……カレンさんが、途端に僕を拒絶したら?)
その態度を目の前で見てしまったら、今よりもずっと絶望を深めるだけではないか。
(そんなことをして、何になる?ただ黙って、別れた方が……お互いのためなんじゃ?)
ペダルを踏み続けながら、聖仁は唇を噛んだ。
(僕はただ、もう一度逢いたいだけで……ただの僕の願望で、カレンさんには迷惑なだけなんじゃ?)
拒絶される姿が、頭を離れない。
もう出し尽くしたと思っていた涙が、再び溢れ、頬を伝った。
それでも、聖仁はペダルを踏む力を緩めなかった。
***
端末に表示された住所へ、当初の予測を大幅に上回る、驚異的な速さで辿り着いた。
息を吸っても吸っても足りず、空気を求めて喘ぐ。
肩は激しく上下し、呼吸を整えようとしても、息は細かく途切れてしまう。
よろめきながら自転車を降り、巨大な車庫のシャッター脇に停める。
腹を押さえ、呼吸を整えようとしながら、玄関への入口を探して周囲を見渡した。
しかし、車庫の周りには見当たらない。生垣がぐるりと敷地を囲んでいた。
(……凄く広くて、立派な家だ。車庫も大きくて……入口はどこだ?ひょっとして、反対側が玄関口なのかも!)
聖仁は再び自転車を掴み、ふらつく足取りで歩き出した。
もうペダルを漕ぐ力は残っていない。
自転車にもたれかかるようにして、押して歩くのがやっとだった。
(あきらめない……!カレンさんがもう寝ていたら、朝まで待つ!もし、警備の人に呼び止められたら、事情を話して待たせてもらう!カレンさんに嫌われたら、その時は迷惑をかけたことを、ただ謝って去ればいいさ!無駄なことなんて、何一つ無いんだっ!)
車庫の前を通り過ぎようとした、その時だった。
控えめな機械音とともに、シャッターが上がり始める。
聖仁は足を止め、荒い息のまま、その光景を呆然と眺めた。
開ききったシャッターの奥に、体格のよい男性が立っていた。
警備会社の制服だろうか。
聖仁は、ぎくりとして身構える。
男性は、にこやかに話しかけてきた。
「清水聖仁様でいらっしゃいますか?一色より、お見えになったらお通しするよう承っております。どうぞ、こちらへ」
カレンさんが、待ってくれている。
その喜びが一気に胸を満たした。
聖仁は息も絶え絶えに「ありがとうございます」と伝え、自転車を押しながら警備員の後についていった。
駐輪所を案内された後、聖仁は警備員に導かれ、屋内へと向かう。
導かれた先は、重厚なインテリアで統一された、品のよい来客用の待合室だった。
聖仁は荒い呼吸を整えながら、自分の姿を見下ろす。
ラフな部屋着のまま飛び出し、全力で走って自転車を漕いだ身体は、汗だくになっていた。
豪華な部屋と、その主に、あまりにも不釣り合いな格好に、羞恥と不安が膨らんでいく。
(こんな格好で、深夜に来て……これじゃ、ただただ、嫌われるだけなんじゃ……?)
ソファに浅く腰掛け、前かがみになって俯く。
落ち着かず、膝の上で両手を揉み合わせながら待った。
部屋に入ってから、十分ほど経っただろうか。
扉が控えめにノックされ、外から声がした。
「聖仁君?入ってもいいかしら?」
その声に、聖仁は勢いよく立ち上がった。
「はい?!勿論です!」
緊張で上ずった声が響く。
扉が開き、カレンが入ってきた。
「ふふふ、こんばんは。夜遅くなのに、元気な声ね……まぁ、どうしたの?!体中、汗だくじゃない!え……まさか、走ってきたとか?」
カレンは目を丸くし、聖仁の姿を見た。
聖仁は照れたように笑った。
「は、はは。ごめんなさい、考えてみると……タクシーとかで来た方が早かったかも。馬鹿みたいですね、ははは」
「もう!何やってるのよ、聖仁君!とにかく、何か飲んで!それから、シャワー浴びなさいよ。話はそれから!さぁさぁ、ついてきて!」
カレンは少し頬を膨らませていたが、口元には照れたような笑みが浮かんでいた。
その明るく温かな対応に、聖仁は胸がいっぱいになった。
視界が滲み、返事が涙声になる。
「はい……お言葉に甘えます……うぅ!」
カレンは聖仁の泣き声に気づかぬふりをして、そのまま彼を案内した。
脱衣所に案内され、彼女の言いつけ通り、用意されたボトルの水に口を付ける。
喉を潤す冷たい感覚が、熱を持った身体に刺さるように伝わってきた。
シャワーの音だけが響く浴室で、聖仁は目を閉じ、思考の渦に沈んだ。
立ち上る湯気の中で、カレンとの会話、彼女の指先、その眼差しを何度も反芻する。
浴室から出ると、去り際に言われた通り、タオルと着替えが置かれていた。
だが、それを見た瞬間、聖仁の胸に仄暗い感情がちりりと突き刺さった。
用意されたのは、男性用の服だった。
(……男の人用か)
カレンは以前も、こうして誰かに着替えを用意したことがあるのだろうか。
――何を馬鹿なことを考えているんだ、自分は!
例えそうであったとしても、何ら不思議なことではないはずだ。責められるようなことでもない。
頭では理解していても、胸の奥に澱のように溜まる苦しさは消えない。
着替えに手を伸ばしながら、聖仁はカレンと知り合う前の自分を思い返した。
これまでも、美貌の女性から好意を向けられたことは、何度かあった。
だがそのたび、理性が常に勝り、お断りすることに迷いはなかった。
カレンには、同じように割り切れない。
有名人ゆえの特別感だろうか。それとも――。
聖仁は静かに目を閉じ、自身の内側を凝視した。
カレンは絶世の美女だ。
その容姿に惹かれていることは否定できない。
だが、思い浮かぶのはそれだけではなかった。
彼女が語る仕事への情熱、ふとした瞬間の仕草、そしてあの微笑み。
一つひとつを反芻するたび、胸の奥で「また逢いたい」という気持ちが募っていく。
(あの笑顔も、さっきの優しさも……全部が嘘だったとは思えない。でも、それが僕を好きだからなのかは、分からない。聞くのも……怖い)
聖仁は目を開け、手にした着替えを見つめた。
恐怖はある。
拒絶されることへの不安もある。
それでも、この胸の鼓動を止めることはできない。
(でも、僕の気持ちは分かる。僕はカレンさんが……どうしようもなく好きなんだ。もう、あれが好き、これが好きって言い切れないほどに、好きだ)
(この気持ちを、素直に伝えよう)
そう決めても、拒絶される怖さが消えたわけではなかった。
それでも聖仁は、着替え始めた。
(もし、迷惑だと言われたら……その時は、素直にお別れしよう。あの人と知り合えただけで、関われただけで、僕は幸せだった。この気持ちだけは真実だ)
***
身支度を整え、事前に伝えられた部屋へと向かう。
再会した当初の張り詰めた緊張は、いつの間にか和らいでいた。
真実を知った時の失意や混乱も、今は少し薄れている。
それでも、拒絶されることへの恐怖が胸の奥に澱のように残っている。
カレンと出会えたことへの感謝、そして自分の想いを伝えたいという熱情を抱き
聖仁は、静かにドアをノックした。
「……失礼します。カレンさん、深夜にもかかわらず、温かいおもてなしをありがとうございました」
深く、丁寧な一礼。
それを見たカレンは、困ったように苦笑した。
「もう!硬いわ!作文を読まれてるみたいな硬さよ。さぁさぁ、こっちへきて!隣に座ってちょうだい、ふふふ」
大きなソファに腰掛けたカレンが、自分のすぐ横を指先で叩く。
聖仁は小さく微笑んだが、今の彼女の心がどこにあるのか、その瞳の奥に何が潜んでいるのか、まだ読み取ることができない。
以前のような親密さに甘えることをためらい、彼は示された場所よりも、人ひとり分ほど離れた位置に腰を下ろした。
その距離に、カレンの笑みが微かに曇る。
(……やはり、聖仁君は私に拒否感があるのね。ふふ、当たり前だわ)
カレンはソファに深く身体を預け、天井を見つめて小さく吐息をついた。
「あーあ!聖仁君に嫌われちゃったなぁ……」
自嘲気味な声が、静かな部屋に響く。
「当然よね。お芝居で貴方に恋を仕掛けていたんだもの。……相当、ショックだったわよね?」
天井を見つめていたカレンの視線が、隣に座る聖仁へと移る。
その瞬間、聖仁はソファから床へ身体をずらし、両手をついて深々と頭を下げた。
あまりに予想外の動きに、カレンは息を呑み、狼狽する。
「ど、どうしたの?!何してるのよ、そんなところで!」
「……カレンさん」
震える声が、静寂を切り裂いた。
聖仁は床に手をついたまま、嗚咽を堪えながら言葉を紡ぐ。
「この度は……父に脅迫されたと、お聞きしました。貴方が受けた恐怖、その深さは計り知れないものだったと思います……」
聖仁の肩が、嗚咽とともに上下する。
「父は、僕を後継者にするための試練として、貴方を……利用した。けれど、すべては僕に関わる事です!もう二度と、父に貴方を脅迫させたりはしません!何があっても、僕が止めてみせます!本当に……本当に、申し訳ありませんでした……っ!」
溢れ出す涙を拭うこともせず、聖仁は床に両手をついたまま、深く頭を下げ続けた。
その背中が、嗚咽とともに震えている。
カレンは、ただ呆然と、彼を見下ろすことしかできなかった。
「やめてよ……どうして、貴方が謝るの?……どうして、泣いているのよ……!貴方は何も悪くないじゃない……!」
カレンは必死に声を絞り出そうとした。
震える唇を噛み締め、崩れ落ちそうな自分を繋ぎ止めようとする。
だが、言葉を紡げば紡ぐほど、胸の奥から熱い塊がせり上がり、喉を突き破って溢れ出してくる。
「……っ、あぁ……っ!」
ついに、彼女の端正な貌が、激しい嗚咽によって歪んだ。
カレンは床に伏したままの聖仁に向かって、堰を切ったように言葉を叩きつける。
「貴方は、真面目すぎるのよ……!こんなことまで、全部自分で背負おうとするなんて……っ!貴方は被害者なの!お父様に、私にっ!……騙されたのよっ!」
涙が止まらない。
涙も嗚咽も、もう抑えることができなかった。
「わたし……お父様から、貴方が真実を知って、今こちらに向かっているって聞いて……ずっと怖かったわ……!怒鳴られるんじゃないかって……殴られるんじゃないかって……怯えていたのよっ!でも……それでも、会わなきゃいけないって……だから……やめて……もう、頭を上げなさい!いい加減にしてっ!」
もはや二人とも、声を上げて泣き続けていた。
カレンは言葉を失い、聖仁の震える背中に縋りついた。
彼の顔を上げさせようと、必死に両手で肩を支え、その身体を起こそうとする。
だが、聖仁は重い枷を背負ったように、頭を上げることができない。
「……すみません……っ、カレンさん……本当に……申し訳、ありません……っ」
部屋には、二人の荒い呼吸と、途切れぬ嗚咽が響き渡る。
長い間、二人は泣き続けた。
やがてカレンは力尽きたように、聖仁の身体に重みを預けたまま眠りに落ちた。
聖仁もまた、その様子に気づく余裕もなく、うわごとのように「ごめんなさい……カレンさん……ごめんなさい……」と謝罪を繰り返していた。
だが次第にその声は途切れ、床についた腕に顔を伏せたまま、彼も深い眠りへと沈んでいった。
***
二人はそのまま、二時間ほど眠り続けた。
静寂が支配する部屋で、聖仁に預けていたカレンの身体が、重力に従って滑落する。
背中が床にぶつかった鈍い衝撃に、カレンは跳ね起きた。
「……っ」
打った箇所をさすりながら、時計に目を向けると、時刻は午前四時を回っていた。
カレンは、腕に顔を伏せて眠る聖仁を見下ろす。
ひと眠りを挟み、荒れ続けていた心も、ようやく凪を取り戻しつつあった。
泣き続けた疲労は残るものの、思考は冷静さを取り戻している。
その寝姿を眺めているうちに、カレンの胸にふと、幼い悪戯心が芽生えた。
彼女は音もなく立ち上がり、台所へ向かう。冷蔵庫から氷を一つ取り出すと、再び聖仁のそばへ戻った。
その顔を覗き込むようにして屈み込む。
そして、冷たく硬い氷を、彼の服の襟元から背中へと滑り込ませた。
「っ!?……はぁっ!?」
途端に、聖仁が弾かれたように跳ね起きた。
慌てて周囲を見回し、肩で息をする彼を見て、カレンは堪えきれずに声を上げて笑った。
「あははははは!やっと顔を上げた!もう、頑固なんだから!あははは!」
「カレンさんっ!?な、何が起こったんだっ?!」
聖仁は混乱し、背中に手を回して服の中に入り込んだ氷を掴み出した。
掌に伝わる冷たさに、呆然とする。
それから、涙目になりながら声を上げて笑い続けるカレンを見つめた。
その瞳に宿る無邪気な光を見た瞬間、聖仁の口元にも笑みが浮かんだ。
やがて彼は堪えきれず、声を上げて笑い出した。
「あ、あう……っ、カレンさん……酷いなぁ、ふふふ!あはははは!」
「うふふふ、あははは!」
さっきまで重苦しい嗚咽が響いていた部屋に、今度は二人の、弾けるような笑い声が広がっていった。
立ち上がって向かい合い、二人はまだしばらくの間、笑い合っていた。
やがてカレンは「ふぅ」と小さく息を吐き、笑いを収めた。
彼女はそのまま、聖仁の胸へと崩れ落ちるように飛び込んだ。
彼の身体に顔を埋め、震える声で紡ぎ始める。
「……馬鹿ね。真面目で、優しすぎるのよ、聖仁君……」
その声は、震えを帯びた、ひどく湿った響きだった。
「本当は、怒ってるんでしょ?ずっと嘘をついてたんだもの……私、貴方を騙してたのよ」
「……怒ってないです。本当に」
聖仁は彼女を抱きしめ、その背中をゆっくりと撫でる。
「嘘……ショックだったくせに。あれだけ私が夢中にさせたのよ?好きだ好きだ、言ってたくせに……全部、お芝居だったんだから……っ」
顔を埋めたまま、カレンの言葉が再び涙声に変わる。
聖仁は一度、深く息を吸い込み、一言一言、言葉を選び取るようにして話し始めた。
「……ショックでした。何もかも、全部投げ出して……!壁に頭をぶつけたくなるほど!もう全部!終わりにしたいぐらいっ!つらかったですっ!」
聖仁の瞳からも、熱いものが溢れ出す。
抱きしめたカレンの身体が、彼の嗚咽に呼応するようにびくりと震えた。
聖仁は努めて自分を律し、嗚咽が収まるのを待って、静かに言葉を繋いだ。
「……だけど、ふと思ったんです。僕がこんなにつらいなら、父に脅迫されて、怖い思いを我慢して、意に染まぬ芝居をしなきゃいけなかったカレンさんは……もっと……どれだけつらかったんだろうって。カレンさんに、せめて謝らないとって、思い直したんです……」
聖仁の言葉に、カレンは顔を上げられず、ただ彼の胸で小さく震え続けている。
「それに……もう一つ、気になったことがあったから」
言葉が詰まる聖仁。
カレンもまた、嗚咽を堪え、だが顔を埋めたまま、か細い声で問いかける。
「……もう一つ……?」
「カレンさんが、泣きながら部屋を飛び出していった理由を……どうしても、知りたいと思ったんです」
その問いに、カレンは息を呑み、顔を上げた。
聖仁は彼女の顔を真っ直ぐに見つめ、続ける。
「……あれから、いっぱい考えました。僕の好きな映画『盲目の天使』に関して……実はカレンさんにとって、思い出したくない出来事があったんじゃないかとか……それとも……その……あの日の僕が、あまりに……その……下手で、情けなかったから!それを思い出して悲しくなったんだ、とか……色々、考えたんです……っ!」
自分の不出来に話が及ぶにつれ、聖仁の視線は泳ぎ始め、声は次第に細くなった。
熱を帯びた赤みが、頬から耳元へと広がっていく。
必死に言葉を繋ごうとする聖仁に、カレンは堪えきれずに吹き出した。
「ぷっ!そんなわけある?聖仁君が、下手っぴだから!逃げちゃうなんて!ぷっ、あははは!」
「い、いや!あの時は、真剣にっ!それぐらい、考えたんですっ!笑うかなぁ……真面目に悩んだのに。それは酷いですよ、いくらなんでも!うぅ」
聖仁は、怒るふりをしながらも、腕の中で笑うカレンを、熱を帯びた憧憬の眼差しで見つめた。
やはり、この人が好きだ。
この穏やかで、暖かな時間を、何よりも失いたくない。
感極まった聖仁は、カレンを壊れ物でも扱うように、それでいて強く抱きしめた。
力強い抱擁に、カレンの笑い声が止まる。
二人の間に、重く、濃密な沈黙が数拍流れた。
やがて、カレンが震える声で口を開いた。
「……私ね、お礼を言いたかったの」
彼女は聖仁の胸に顔を埋めたまま、言葉を紡ぐ。
「貴方が私の映画を見て、人助けの気持ちが変わったって……そう言ってくれたでしょう?それが、本当に、すごく嬉しくて……。だから、ちゃんとお礼が言いたかった。でも、言えなかった。あの時は、自分でも理由が分からなかったけれど……今思えば、演技の途中だったからだわ」
聖仁は抱きしめる力を緩め、腕をほどいた。
カレンは彼の胸を軽く押し、腕一本分の距離を取る。
そして、まるで舞台の上で独白する女優のように、両手を広げて語り始めた。
「私、演技には自信があるの。誰にも負けないぐらい……ううん、勝ち負けじゃないわよね。そうだなー……演技してるときは、周りの声も、聞こえてくる音も、見える動作も、俯瞰で考えられるというか……まぁ、凄く集中できるのね。あの時、聖仁君との逢瀬は、私にとって大事な時間、演技中だったの」
「……演技中……」
聖仁が、消え入りそうな声で呟き、視線を床へと落とした。
その寂しげな横顔を見て、カレンは穏やかに言葉を続けた。
「そんな時に、貴方のあまりにも嬉しい言葉に……普段は演技を乱されることのない私は、動揺してしまった。演技を止めて、本当に、ありがとうって言いたかった……でも、貴方を騙していることが、どうしても頭から離れなくなったの」
カレンの瞳から、再び熱いものが溢れ出す。
「そのまま優しく笑ってお礼を言っても、私は貴方を騙し続けることになる。でも、真実を話したら、貴方を傷つけてしまう……。嬉しいのに、苦しくて……。心が、千切れそうだったのよ……っ!何も言えなくなって、逃げ出したの……」
「……っ、あぁ……っ」
堪えきれず、カレンは再び両手で顔を覆った。
指の隙間から溢れる涙が、彼女の頬を伝い落ちる。
嗚咽とともに、彼女の身体が激しく震えていた。
聖仁は一歩、踏み出した。
そして、子供のように震えながら泣きじゃくる彼女を、再び強く抱きしめた。
その腕は、彼女の身体を、壊さないような、慈しみ深い強さで包み込んでいる。
やがて、カレンの肩の震えが収まり、呼吸が静かになるのを待ってから、聖仁は低く、確かな声で語りかけた。
「……今の貴方は、素顔のカレンさんだ。その言葉なら、僕は信じられます」
カレンは、驚いたように目を見開いた。そして、涙に濡れた瞳を細め、茶化すように小さく笑った。
「どうして分かるの?……また、泣き真似してるだけかもしれないじゃない……っ」
「見分け方が分かったんです」
聖仁は、迷いなく、確信に満ちた声で言った。
「貴方といて、僕が緊張する時は、演技中のカレンさんです。そして……こうして、僕が心からくつろげる時。それが、素顔のカレンさんなんです」
自信たっぷりに言い切る聖仁の言葉に、カレンは一瞬、呆然とした。
だが、その表情はやがて、満面の笑みへと変わった。
「ふふっ!あははは!そうだったのね……!もう、私の演技、聖仁君には通じないわね!ふふっ、あはは!」
彼女は弾けるような笑い声を上げると、再び聖仁の胸へと顔を埋めた。
その温もりと、重なり合う鼓動を感じながら、カレンは熱を帯びた声で、小さく、けれど確かに告げた。
「……ありがとう。私の演技を、褒めてくれて」
「……大好きよ」
カレンの愛の言葉が、聖仁の鼓動を震わせた。
その瞬間、身体の奥底から熱い奔流が湧き上がり、全身の細胞が歓喜に震えるような、万能感さえ覚えるほどの衝撃が彼を貫いた。
あまりの幸福に、思考が白く塗り潰される。
言葉を探そうとしても、喉が熱く、うまく形にならない。
「か、カレン……さん!ぼ、僕は……っ!」
歓喜に喉を詰まらせる聖仁を見て、カレンは悪戯っぽく微笑み、彼からわずかに身体を離した。
「あら?緊張してるわね。もしかして、私の演技がバレちゃったかしら?うふふ」
「え?!き、緊張なんて!してませんよ!全然、なんともないですっ!」
慌てて平気を装う聖仁の姿に、カレンは慈しむような、愛おしげな眼差しを向ける。
聖仁は意を決したように、彼女の両肩に手を置いた。
「……僕は、貴方の全てが好きです。つまり虜です」
聖仁の瞳が、真っ直ぐにカレンを見据える。
その眼差しは、真剣な熱を帯びていた。
「だけど……僕は今はまだ一介の高校生で……とても貴方とは釣り合わない。今回の件で、それを痛感しました。でも貴方を諦めきれないっ……!」
聖仁は一度言葉を切ると、視線を落とし、唇を噛み締めた。
カレンは、その誠実すぎるほどに真剣な姿を、ただ静かに見つめ続けている。
「聖仁君……」
再び顔を上げた聖仁の瞳には、決意と、祈るような熱が宿っていた。
「カレンさん、僕に三年、いや二年の時間を頂けませんか?僕にはやりたいことがあって、それを叶える明確なビジョンもあります!根拠のない年数ではありません。それだけの時間があれば、貴方のような素晴らしい、唯一無二の女性に、求婚する自信がつきます!だから……だからどうか……それまで……」
聖仁は再び視線を落とした。
心臓が、耳元でうるさいほどに鳴り響く。
(プロポーズを待たせるなんて、自分勝手すぎるのではないか)
引く手あまたの彼女に、待ってほしいと願うことの重さ。
その迷いが、彼の言葉を喉の奥で凍りつかせた。
沈黙が、二人の間に重く横たわる。
聖仁は言葉を続けられず、口をつぐんだ。
「ダメ」
その短い一言が、聖仁には、突き放すような拒絶に聞こえた。
聖仁は耳を疑い、呆然と立ち尽くした。
「え……?」
「だから、ダメ。私、待つのは苦手なの。二年なんて、とても待ってられないわ。君と違って、私はもう二十七歳なのよ?ここからの二年は……凄く大事なんだから!」
無下に断られ、聖仁は目に見えて肩を落とした。
視線を床に落とし、全身で失意をあらわにするその姿に、カレンは再び悪戯っぽく笑った。
「もう!そんなに落ち込まないでよ!本当に真面目なんだから」
彼女は聖仁の顔を覗き込み、楽しげに言葉を続ける。
「貴方がプロポーズするまで二年かけるのは勝手だけど……その間も、私は貴方と逢いたいってこと!つまり、恋人同士ね」
「え?……ええええっ!?!」
聖仁は驚きのあまり、弾かれたように一歩後ずさり、カレンとの間に距離を取った。
急展開に、思考が追いつかず、心臓が爆発しそうなほど激しく打ち鳴らされる。
そんな彼の狼狽ぶりを見て、カレンは苦笑した。
「マスター……貴方のお父様が心配するのも、分かる気がしてきたわ」
彼女は呆れたように、けれど温かな声で言った。
「普通は、まず恋人同士から始めるでしょうよ。お付き合いをすっとばして、いきなり結婚ありきなんて……そんなの、貴方の方がおかしいわよ!」
恋人という言葉の衝撃から、聖仁は未だ立ち直れず、ただ呆然と立ち尽くしていた。
カレンはそんな彼を苦笑しながら見つめ、一歩、また一歩と距離を詰めると、その身体を強く抱きしめた。
「……でも、本当にいいの?私、気が強くて、わがままなのよ。世間には『悪女』って呼ぶ人もいるわ。いつか貴方が愛想を尽かしちゃうかもしれないのに」
カレンは聖仁の顔を覗き込み、不安げに、けれど慈しむような瞳で問いかけた。
聖仁は、震える指先で彼女の頬を包み込む。
その眼差しは、真っ直ぐに彼女へ向けられていた。
彼は覚悟を決めたように、彼女の唇へと、不器用な、けれどひたむきな口づけを落とした。
数瞬の間、二人の呼吸が重なり、愛で溶け合う。
唇が離れたとき、銀色の糸が二人を繋ぎ、夜明け前の静寂の中に、熱い余韻だけが残った。
「……貴方は、悪女なんかじゃありません」
聖仁は力強い声で、彼女の瞳を見つめ続けた。
「僕の事を真面目って言うけど、貴方もそうだ。役に対して、誰よりも真剣だもの。そして、とても優しくて……。僕は貴方といると、何でもできるような力が、ふつふつと湧いてくるんです。だから、貴方は僕の……?!」
「……っ」
カレンは聖仁の言葉を遮るように、再び唇を重ねた。
先ほどまでの未熟な若者の口づけとは、全く異なる、深く、熟練した大人の熱量。
長い、蕩けるような口づけの後、全身から力が抜け、夢見心地の表情を浮かべる聖仁の顔を、カレンは真っ直ぐに見つめた。
「……私ね、悪女だって言われても構わないって、ずっと気を張ってたわ」
彼女の声は、震えながらも、確かな熱を帯びていた。
「でも、本当は、寂しい気持ちになってた。……でも、もう今は違う。貴方は、私に騙されたと知っても、こうして私を認めてくれた。不思議ね……貴方といると、私も生まれ変わったような気持ちになれるわ」
カレンの瞳から、大粒の涙が溢れ出す。
それは悲しみではなく、歓喜の雫だった。
「ありがとう、大好きよ!聖仁君!」
二人は感極まり、互いの身体を強く抱きしめ合った。
窓の外では、夜が終わりを告げ、白み始めた空から、眩い朝陽が差し込み始めていた。
二人の未来を照らし出すかのように。




