第五話 譲れないもの
庭園を彩るライトアップを背に、カレンは駐車場へ急いだ。
工場跡地を改装したレストラン一角に、黒光りする豪奢なリムジンが停車している。
ヒールの音が、アスファルトを叩く。
車内で連絡を待っていた運転手は、カレンの姿を認めると、すぐに車を降り、後部座席の扉を開けた。
「カレン様!? 何かトラブルでも?」
「……何でもないの。ただ、今日は家に帰るわ。すぐに出してください」
運転手は主の異変を察しながらも、それ以上は尋ねなかった。
カレンが乗り込むと静かに扉を閉め、運転席へ戻って車を出す。
窓の外を流れる街灯の光が、彼女の顔を照らしては通り過ぎていく。
カレンは両手で顔を覆った。
瞼の裏には、パンフレットを差し出した聖仁の顔が浮かんでいた。
(ありがとう……)
ただ、その一言を伝えたかった。
それだけなのに、あれほど苦しくなるなんて。
カレンは混乱した頭で、先ほどの出来事を辿ろうとした。
『盲目の天使』
まだ無名だった頃、主役を貰えたことが嬉しくて、懸命に取り組んだ作品。
今となっては未熟に思える自分の演技が、聖仁に届いていた。
そればかりか、彼が人を助ける時の接し方まで変えていた。
嬉しかった。
心から、御礼を言いたかった。
それなのに、言葉が出てこなかった。
(私がその時、聖仁君を騙す仮面を被っていたから……)
微笑んで、優しい言葉を返すことはできたはずだった。
これまで、そうしてきたように。
けれど、あの感謝に返す言葉まで、演技にしたくなかった。
(心からの御礼を、私の素顔で伝えたかった……!)
顔を覆ったまま、カレンは唇を噛んだ。
仮面を外すということは、聖仁に真実を話すということだ。
脅迫者からの命令で、貴方に近づき、誘惑したのだと。
そんなことを聞かされたら、彼はどんな顔をするだろう。
自分を見つめていた、あの瞳は。
(言えるわけがない……でも、言わなければ、この仮面は外れない。このままでは、あの子は私の素顔を知らない)
真実を告げれば、彼の信頼を壊す。
嘘を抱えたまま愛され続ければ、自分自身を壊す。
カレンは、ゆっくりと手を下ろした。
暗い窓に映る自分の顔を見つめても、答えは出てこない。
不意に、手の中の端末が震えた。
暗い車内で、液晶の青白い光がカレンの顔を照らす。
聖仁からの、ショートメールだった。
『カレンさん、無事に帰れたでしょうか。泣いていたカレンさんのことが、ずっと気になっています。貴方の声が聞きたくて堪らないけれど……今は電話してはいけない気がします。連絡を待ちます。でも僕は、貴方のためなら、どんなことだって出来ます! どうか信じてください。聖仁』
カレンは画面を見つめた。
声を聞きたい。
それでも、電話はしないで待つ。
彼の不安と気遣いが、短い文面から伝わってくる。
(……不安にさせてしまったわね)
あんな風な別れ方をして、彼を置き去りにして。
震える指先で、返信の画面を開く。
「大丈夫よ」「心配しないで」――安心させる言葉なら、いくらでも浮かんだ。
けれど、指は止まった。
何も打てない。
(信じてください、か……)
彼は、自身の思いを懸命に伝えようとしている。
その誠実さが、今の自分には、あまりにも眩しくて痛い。
(貴方のことは、信じられる。でも、私は……)
聖仁が誠実であればあるほど、自分の偽りが胸に迫る。
安心させてあげたい。
けれど、真実を隠したまま返せば、また優しい言葉で取り繕うことになる。
(仮面ばかり、何枚も重ねて……こんな時まで、何て返せばいいのかわからない……)
再び涙が溢れ、画面の文字が滲んだ。
カレンは何も送れないまま、端末を握りしめていた。
***
家に着くと、カレンはそのまま寝室へ向かった。
着替える気にもなれず、ドレス姿のままベッドに身を投げる。
仰向けになり、無機質な天井をぼんやりと眺めた。
頭に浮かんでくるのは、聖仁のことではなかった。
今の自分に至るまでの、長い道のりだった。
(女優になりたいって、いつから思ったのかな……)
今や、同業の頂点に立ったといっても過言ではない。
けれど、その道へ踏み出す最初のきっかけは、すぐには思い出せなかった。
カレンは目を閉じた。
初めて映画の主役を貰った時よりも、もっと前。
まだ、女優という仕事のことさえ、よく知らなかった頃へと記憶を辿る。
(そうだ、あの時だ……)
幼稚園の卒園式で演じた、短いお芝居。
田舎町だったから、近くの老人ホームのお年寄りも招かれて、保護者と一緒に観てくれていた。
昔から、人前に出るのは平気だった。
お芝居が終わると、たくさんのおじいちゃん、おばあちゃんが褒めてくれた。
保護者たちも、口々に声をかけてくれた。
たくさん、たくさん褒められた。
嬉しかった。
(ふふふ……馬鹿みたい。幼稚園生のお芝居だもの。上手でも下手でも、褒めてくれたんでしょうね……)
カレンの口元が、わずかに緩む。
でも、当時はそんなこと、微塵も思わなかった。
かけてもらった言葉を、そのまま受け取っていた。
ただただ、嬉しかった。
***
気疲れからか、意識は闇へと沈み、やがて夢の境界へと溶けていく。
夢の中には、先ほど思い返した卒園式のお芝居を終えたばかりの、幼い自分がいた。
両親の前で、興奮を隠しきれない様子で、身振り手振りを交えて話している。
「わたし! じょゆうさんになるっ! すっごくゆうめいでー! すっごくきれいでー! すっごく、かっこいい!じょゆうさんになるわ!」
たどたどしくも、眩いほどに純粋な声。
カレンは少し離れた場所から、その光景を静かに、慈しむように眺めていた。
不意に、幼い自分がこちらを向いた。
瞳がカレンを捉え、無邪気な問いが投げかけられる。
「なれた?」
「……え?」
「なれたの? じょゆうさん!」
カレンは穏やかに微笑んだ。
「……なれたわ。貴方は、女優になれる」
幼子は満面の笑みで応える。
「よかったぁ! しあわせだね!」
「……ええ、しあわせよ」
「じゃあ、なんで、ないてるの?」
笑顔のまま、幼子が首を傾げる。
カレンは一瞬戸惑ったが、すぐに微笑みを浮かべて答えた。
「泣いてないわ。……しあわせだもの」
「ないてるよ?」
「……泣いてないわ」
「なみだが、ぽろぽろ……どうしたの? しあわせじゃないの?」
「……泣いてないってばっ!」
声を荒げた瞬間、カレンは頬を伝う涙に気づいた。
拭おうとしても、大粒の涙が次々と溢れ出し、止まらない。
「あ……どうして? 泣くはずがない……しあわせだもの! 女優になったのよ、わたし! 有名になって、綺麗だって、かっこいいって、数えきれないぐらい言われたわ!」
幼子は何も言わず、ただじっとカレンを見つめている。
その瞳には、一点の曇りもなかった。
だが、その澄んだ光に、カレンは身を焼かれるような思いがした。
カレンは濡れた頬を両手で拭いながら、自分自身を納得させるように言葉を重ねる。
「だから、しあわせなの……泣くはずないのよ……やめて……やめてえええっ!」
***
跳ね起きるように、カレンは目を覚ました。
全身が汗に濡れ、荒い息が静まり返った寝室に響いていた。
汗と涙にまみれた身体を引きずり、カレンは浴室へ向かおうとした。
思考は混濁し、ただこの熱を、この不快な震えを洗い流したかった。
その時、机の上に投げ出されたバッグの中で、端末が鳴り響いた。
重要な連絡に設定した、着信音だった。
カレンは足を止め、引き返して画面を確かめる。
表示された名は、マスター。
震える指で、通話を受ける。
「……はい」
掠れた声で応じると、端末越しに低く、どこか怪訝な声が響いた。
『カレン、今日は聖仁とのデートだったよな……何かあったのか? 母親から連絡があった。ひどく落ち込んだ様子で帰ってきたらしい。今日は泊まりがけで、友達の所に行くと伝えていたそうだが……まさか緊張のあまり、出来なかったとか?』
マスターの言葉は露骨だった。
だが、今のカレンに取り繕う余裕は残っていない。
「いえ……ご子息と……聖仁君と、事は終えました」
『……事は、か。その言い方だと、その後に何かあったようだな』
愛息子の異変に、マスターも動揺しているらしい。カレンの答えを待たず、問いを重ねる。
『……まさか、あいつ! 獣と化して、君に乱暴なことをしたんじゃないだろうな? 真面目なあいつのことだから、ネットに溢れる間違った性の情報を、律儀に信じ込んでしまったのかもしれん。それを実践しようとして、君に無茶を……済まなかったな。そこまでは読み切れなかった』
カレンは、喉の奥からせり上がる嗚咽を堪え、やっとのことで言葉を絞り出した。
「……いえ……聖仁君は……何も悪くありません……私……わたしがっ! うぅ……!」
聖仁の、無垢な眼差しと笑顔。
そして、心からの感謝の言葉。
思い出すと、もう嗚咽を隠せなかった。
カレンは口元を押さえ、端末を握りしめる。
マスターは問いを止め、しばらく彼女の声を聞いていた。
『……電話では埒が明かんな。迎えを出すから、至急会いたい。君も疲れているだろうから、いつもの場所でなくていい。近くで話そう』
カレンは返事をしようとした。
けれど声にならず、荒い呼吸を繰り返しながら、寝室に立ち尽くしていた。
***
迎えの車は夜の街を抜け、指定されたシティホテルの入り口へと辿り着いた。
カレンは促されるまま廊下を歩き、案内された一室の扉を開ける。
室内にはマスターが一人、静かに佇んでいた。
窓の外の夜景が、その背後に広がっている。
彼の顔を直視できず、俯いたまま部屋へと踏み入るカレン。
「……余程のことがあったようだな」
マスターは、ため息をつき、話し始めた。
「そっと見守るのが紳士の定石だが、私は君の脅迫者だ。何があったか、答えてもらおう」
静かだが、有無を言わせない声。
カレンは、喉の奥からせり上がる嗚咽を堪え、重い口を開いた。
「なぜ……あんなに取り乱したのか……自分でも、うまく説明できないのです……」
途切れ途切れの言葉が零れる。
「ご子息が……パンフレットに、サインが欲しいと。私は、書こうとしました。ですが、その時……この映画を観て、人を助ける時の考え方が変わったと……私の演技に、感謝していると……ありがとうって……うぅ……!」
カレンは手で顔を覆った。
思い出したのは、聖仁のあの眼差しだった。
自分の演技から何を受け取り、どう変わったのかを、懸命に伝えてくれた声。
マスターは、深く息を吐いた。
「……息子から感謝を伝えられて、嬉しさのあまり逃げ出した……訳ではないようだな。後ろめたさは、これまでもあっただろうに。なぜ、今になって耐えられなくなった?」
「……嬉しかったんです……!」
カレンは顔を覆ったまま、声を絞り出した。
「あの頃の演技が、聖仁君に届いていたことが……本当に。だから、御礼を言いたかった……! でも……言えなかった……!」
顔を覆う指に力がこもる。
カレンは息を継ぎ、途切れる言葉を懸命に繋いだ。
「私は、聖仁君を騙している……! 命令で近づき、誘惑したことを隠している……彼から向けられた、本当の尊敬と感謝に……私も、本心で答えたかった……! 仮面を被ったままでは……答えられなかったんです……うぅ……ああっ……!」
カレンはその場に蹲った。
もう声を抑えることもできなかった。
顔を覆ったまま肩を震わせ、泣き続ける。
しばらくの間、部屋にはカレンの泣き声が響いていた。
子供のように泣きじゃくるカレンを前に、マスターは困り果てていた。
かける言葉が見つからず、ゆっくり膝をつき、震える肩にそっと手を置く。
「……まあ、何だ。何と言っていいか……分からんが……」
努めて穏やかな声で、話しかける。
「とにかく、聖仁は君に夢中だ。任務達成といっていいだろう。……君には伝えなかったが、達成の報酬として、君の弱みは忘れることにしよう。脅迫するのは止めにする」
カレンの肩の震えが、一瞬止まった。
「君は自由だ。今までご苦労だったな。後の件は、こちらで処理する。聖仁のことは……忘れてくれ」
思いがけない言葉に、カレンは顔を上げ、マスターを見つめた。
だが、その表情に歓喜の気配はなく、もっと切実な思いがあった。
「マスター……!」
カレンは震える手で、マスターのコートを掴んだ。
縋りつくように握りしめ、言葉を絞り出す。
「お願い、お願いします! どうか……どうか、聖仁君に……!」
息を継いでも、声の震えは収まらなかった。
「今回のことを……すべて、私自身の言葉で……私に告白させてくださいっ!」
マスターにとっても、その願いは予想だにしないものだった。
「告白だって? ……馬鹿なことを言うな! そんなこと、許可できるわけがないだろう」
マスターは、呆気にとられたまま立ち上がり、にべもなく断った。
しかし、カレンは引き下がらない。
床に膝をついたまま、彼を見上げて食い下がる。
「どうか……! どうか、お願いします! 聖仁君に……あの仮面を被った一色カレンだけを、一生覚えていてほしくないのです! 彼が感謝してくれた、あの頃の私の演技に、偽りはありませんでした……! なのに、その感謝を受け取る今の私は、彼を騙している。そう思うと……とても、とても耐えられないっ!」
大粒の涙が頬を伝う。
カレンはマスターの裾を掴み、縋りついた。
マスターは深く息を吐き、再び彼女の前にしゃがみ込んだ。
そして、カレンの顎を掴み、顔を上向かせる。
「正気か? 君はもう自由なんだ。このまま聖仁から離れれば、穏やかな日常に戻れる。だが、もし君が聖仁に、事の真相を告げるなどしてみろ。その時は、話は別だ。君は確実に破滅するぞ」
びくりと身を縮めるカレン。
顎を掴まれたまま、身体が震え始める。
マスターは手を離し、再び立ち上がった。
「君は混乱している。しっかりしろよ。君は大女優で、誰もが羨む栄華を極めた者だぞ。小さなこだわりなど、捨てることだな」
背を向け、そのまま立ち去ろうとする。
その背中に、カレンの声がかけられた。
「……構いません。破滅は、覚悟の上です」
マスターの足が止まった。
振り返らずに、低く問い返す。
「……何と言った?」
「聖仁君を騙し続ければ……本心で演じてきた私まで、偽りの仮面の下に隠し続けることになります。私はチャンスを掴むため、あらゆる手段を使ってきました。汚れた行為も、駆け引きも、厭いませんでした。そのことには、一切後悔していません!」
カレンは立ち上がった。
膝はまだ震えている。
それでも、マスターを見据えて言葉を続けた。
「ですが! 演技には……観る人を喜ばせたい気持ちには! 一切の手抜きも、偽りもありません! 聖仁君に、私自身の言葉で感謝を伝えたい。そのためには……ここで女優生命が絶たれても! 真実を話す必要があるのですっ!」
言い終えても、身体の震えは止まらなかった。
カレンは涙に濡れた顔を上げたまま、マスターの返答を待った。
マスターは振り返り、無言でカレンを睨みつけた。
小柄な体躯から放たれる、圧倒的な威圧感。
その眼差しは、会うたびにカレンを畏怖させてきた。
目の前の男への恐れと、破滅への恐怖に、身体の震えは止まらない。
それでも、真実を話したいという思いは消えなかった。
数拍の間、二人は無言で向き合った。
やがてマスターが深く息を吐き、口を開く。
「……君の覚悟は分かった。人それぞれ、譲れないものがある。だが、真実の告白は君のためだろう? 聖仁にとっては、どうかな?」
カレンは唇を噛んだ。
「……傷つけることは、分かっています。でも、このまま騙し続けることも……」
「君はかつて言ったな。この作戦は、息子の心を壊しかねない劇薬だと。傷つけると分かっていて、それでも話したい。君は嘘を告白して、楽になれるかもしれん。だが、聞かされた聖仁は?」
カレンは答えようとした。
けれど、言葉が出てこない。
「君が破滅する覚悟を決めたことと、聖仁がその痛みに耐えられることは、別だぞ。その後の息子に、君はどう向き合うつもりだ?」
ひたむきに、誠実に、自分を見つめてきた聖仁。
真実を聞けば、あの眼差しが変わるかもしれない。
それは、初めから怖かった。
それでも、話したいという思いは消えなかった。
本心で彼に感謝を返したかった。
もう、偽りの仮面を被っていたくなかった。
だが、真実を話した、その後は?
自分の言葉で傷ついた彼に、何を言えば、どう償えばいいのだろう?
いや、償えない程に、彼の心を壊してしまったら・・・!
「あ……ああ……」
カレンの唇が震えた。
「君自身の破滅だけではない。そこまで考えた上で、それでも話すというなら……好きにしたまえ。とにかく、君が疲れているのは確かだ。車で送らせる。休んでから、よく考えるんだな」
カレンは口を開いた。
先ほどまで繰り返していた願いが、喉につかえて出てこない。
嘘を隠したままでは耐えられない。
それでも、告白した後の彼にどう向き合うのか、答えられなかった。
マスターは背を向け、一度も振り返ることなく部屋を出ていった。
扉の閉まる音が、静かな室内に響く。
独り残されたカレンは、力なく床に伏し、啜り泣く声だけが、部屋に残っていた。
***
深夜零時を回った頃、マスターは久しぶりに、聖仁のいる自宅へ帰った。
静まり返った玄関を抜け、リビングへ向かうと、妻が座っていた。
聖仁の様子を尋ねると、部屋に引きこもったまま出てこないという。
マスターは、聖仁の部屋へ向かった。
扉の隙間から、薄っすらと明かりが漏れている。
まだ起きているようだ。
一度息を吐き、扉越しに慎重に声をかける。
「……聖仁。起きてるのか。もし良かったら……少し話せないか?」
数瞬の間を置いて、部屋の中から返事が聞こえた。
「……どうぞ」
マスターは、ドアノブをゆっくりと回した。
相変わらず鍵はかかっていない。
息子の許可を得て、恐る恐る中へ入る。
聖仁は、勉強机の椅子に座り、机に突っ伏したまま微動だにしない。
マスターは、ばつが悪そうに、その背へ声をかける。
「……あー、母さんから聞いたよ。今日は友達の所に泊まる予定だったんだって? ……それってアレか? 例の……女性との会食の話だろ? ……うまくいかなかったのか……そういう時もあるよ。父さんなんて、何度フラれたことか。は、はは……」
独り芝居のように、乾いた笑いを漏らす。
だが、聖仁は一言も発しなかった。
マスターは、落ち着かない様子で、部屋を歩き回った。
やがてベッドに腰を下ろし、そこに放り出された荷物へ目を向ける。
映画『盲目の天使』のパンフレットが置かれていた。
手に取り、パラパラと捲りながら独り言ちる。
「サインは……やはり書いてないか。まあ、気にするなよ。は、はは……」
聖仁の背が、ぴくりと動いた。
机に伏したまま、口を開く。
「やはり……書いてない? 『やはり』とは、どういうことですか?」
息子の指摘に、今度は父親の肩がぴくりと動いた。
聖仁は顔を上げ、ベッドに座った父を見据える。
「父さん、僕は、貴方に女性と会食に行きたいから服を貸してくれとは、メールに書きました。ですが、それがいつかは書いていない。父さんの洞察力であれば、僕が落ち込んでいれば、それが今日だったのかもと予測するのは、あり得ることです。ですが……! サインに関しては、説明できないっ!」
強い口調で詰める聖仁。
マスターは苦笑いを浮かべたまま、すぐには答えない。
聖仁は、なおも詰める。
「『やはり』貰えなかったというのは、サインを貰う予定があったのに貰えなかった事を、事前に知ってなければ出てこない言葉だ! 何故、知っていたんですか?!」
「お、落ち着きなさい。言葉を間違えただけだよ。どのページを見ても、ほら! カレンさんの名前がないから」
「……カレンさん? 何故です? 他にも出演した有名人はいる。なのに何故、サインがカレンさんのものだと仰るんですか?」
マスターの苦笑いが、一瞬止まった。
聖仁は椅子から立ち上がり、険しい顔で父に近づく。
マスターは両手を上げ、息子を制した。
「聖仁君、どうか落ち着きたまえ」
マスターの眼前まで来て、聖仁はその顔を睨みつける。
その時、父の背広から、覚えのある香りが仄かに漂っていることに気づいた。
今夜、カレンのそばで感じ、自分の服にも移った匂い。
「この香り……カレンさんの香水と、全く同じだ」
マスターは、黙って聖仁を見つめていた。
父の背広から顔へと視線を戻し、問い詰める聖仁。
「貴方は! カレンさんを知っている! いや……今日、会っていたんですか?! どういうことですか!」
その時、騒ぎを聞きつけた母親が、心配そうにドアの隙間から顔を覗かせた。
聖仁は一度深く息を吐き、椅子に座り直した。
父を威圧していた肩の力を抜く。
マスターは妻へ向き直ると、穏やかな笑みを浮かべてみせた。
「心配ないよ。少しからかってしまっただけだ。……冗談の下手さに、自分で呆れてしまうよ。ははは……」
母親は、二人の様子を確かめる。
息子が落ち着いて座っているのを見て、小さく息をつき、静かに部屋を出ていった。
再び二人きりになると、聖仁は努めて冷静に、話し始めた。
「……父さん。僕は、カレンさんと父さんが知り合いなのではないかと……実は以前、疑ったことがあります」
マスターは何も言わず、息子を見つめている。
「はっきり言います。僕は、貴方が普通の仕事をしている人ではないと思っています。僕や母さんには、人材派遣会社の経営者だと言っていますが……貴方には、それだけでは説明できない力を感じるんです」
父の返事はなかった。
聖仁は言葉を続ける。
「ドキュメンタリー番組でカレンさんと共演した時、彼女があまりにも親密に接してくださるので……もしかしたら、父さんに言われて、仕方なくそうしているのではないかと。貴方は以前から、僕が女性を遠ざけていることを、気にしているようでしたからね。ですが、あまりにも突拍子もない想像だったので……その時は、考えすぎだと思いました」
聖仁は、一度言葉を切った。
それから父を真っすぐに見つめ、穏やかに尋ねる。
「父さん、僕はもう十八歳です。どんな事実を聞いても、受け止められます。……カレンさんを、以前から知っていますね?」
マスターは、しばらく息子を見つめていた。
聖仁は答えを急かさず、目を逸らすこともなく待った。
やがて、マスターが口を開く。
「……知っている。カレンさんを脅迫して……君を誘惑するように仕向けた」
父親の口から出た決定的な言葉に、覚悟していたにもかかわらず、聖仁の心は激しく揺さぶられた。
椅子に座った身体がぐらりと揺れ、咄嗟に机に手をついて支える。
固く目を閉じたが、溢れる涙を堪えきれなかった。
体を震わせ、声は立てず、ただ静かに涙を流す。
マスターも黙って目を閉じていた。
長い沈黙の後、聖仁が掠れた声を絞り出した。
「……何故、こんなことを? 目的は何です?!」
マスターは、静かに答える。
「君に……強い男に成長してほしかったのだ。女性を遠ざけるのではなく、包み込むような大きな男に。最終的に失恋するにしろ、それは良い経験になると思った」
(日頃、母さんを泣かせている貴方に言われたくない!)
その言葉を飲み込み、聖仁は震える呼吸を整え、努めて冷静に問い返す。
「いや、それだけではないでしょう。何が狙いです? 僕の成長という目的だけで、こんな大掛かりな舞台を……金持ちの道楽にしたって、考えられない」
真っすぐに見つめる息子に、マスターは答えた。
「……私の後継者になってほしかったのだ。それには、大きな試練を越える必要がある。その資質を、私以外の者にも見える形で、示す必要があるのだ」
聖仁は拳を握りしめ、俯いた。
父のいう後継者とは、単に会社を継ぐという意味ではない。
そんな予感に、身体が震える。
だが、顔を上げると、父を見据えて言った。
「……貴方の後継者になるかどうかは、全てを知ってから、僕が判断します!」
マスターは、黙ってその言葉を聞いていた。
聖仁の頭には、カレンの最後の姿が浮かぶ。
父の正体よりも、今は彼女の様子が気にかかった。
「……カレンさんと別れる時、彼女はひどく取り乱していました。何故そうなったのか、本人からは聞いていません。ひょっとして……貴方が関わっていることですか?! 彼女をさらに脅したとか?!」
「……君と別れる前には、何もしていない」
聖仁は父を見つめ、乱れかけた呼吸を整えた。
「……では、何故……。カレンさんの最後の様子が、ずっと気になっているんです。彼女には、悪いことをしました……僕に関わったせいで、怖い思いを……うぅ……!」
自分が工作を命じたわけではない。
それでも、自分に近づくために彼女が脅されていたと思うと、堪えきれなかった。
聖仁は顔を手で覆い、嗚咽を漏らす。
その様子を見て、マスターが口を開いた。
「カレンさんが……君と別れる時に取り乱していた理由も、本人から聞いている」
聖仁は、涙に濡れた顔を上げた。
「だが、それは私の口から語るべきではない。彼女自身が、君に話したがっていた。私は、それを封じる言動をした。だから今も、言えずに苦しい思いをしていることだろう」
マスターは、懐から端末を取り出した。
素早くカレンの住所を表示し、聖仁に示す。
「ここが彼女の住所だ。もう深夜だが……母さんには内緒だぞ。すぐに行ってやりなさい」
聖仁は、すかさず自身の端末に住所を控える。
そのまま黙って部屋を飛び出す。
玄関へ駆け、勢いよく家を出ていった。
騒ぎを聞きつけた母親が、何事かとマスターに問いかける。
マスターは笑みを浮かべた。
「……そうだなぁ。何事かと言われれば……青春かなぁ。ははは……」




