第四話 嘘が溢れる夜
「聖仁君……私、すぐにでも貴方に逢いたい。ほんの少ししか時間がないけれど……今から、会いに来られるかしら?」
受話器越しに響く声は、甘く、切実な熱を帯びていた。
電話の向こうから、歓喜に震える声が即座に返ってくる。
「はい! 勿論です……っ!」
カレンはスタジオ内にある自身の控室の場所を伝えながら、そこへと早足で歩いた。
聖仁は飛ぶような速さで来るに違いない。
何としても、先に着いておかなければならなかった。
(本当は今日はこのまま別れて、後日に一気に仕留めるつもりだったけど……この子は頭がいい。時間が経つと、冷静さを取り戻してしまうかもしれない……念押ししなきゃ)
聖仁に先駆けて控室に着くと、カレンは通話を終え、深呼吸した。
多少落ちた化粧も、あえてそのままにしておく。
さほど時間も経たず、ドアを叩く音が響いた。
カレンは早足で向かい、扉を開けた。
「はぁ、はぁ……っ! カレンさん! 逢いたかっ……?!」
聖仁は肩で息をし、瞳に熱い期待を宿していた。
カレンは彼を室内へ招き入れ、背後のドアを閉めた。
その瞬間、彼の唇をキスで塞いだ。
驚きに目を見開いた聖仁は、身動きもできずに立ち尽くす。
唇の柔らかな感触と、間近に触れる彼女の吐息。
カレンは男を狂わせる熟練の技を、容赦なく振るった。
青年はただ、押し寄せる甘美な陶酔に身を任せるだけだった。
長い接吻を終え、カレンはゆっくりと唇を離す。
聖仁は頬を紅潮させ、呆然と彼女を見つめていた。
その蕩け切った顔を見て、カレンは心の内で満足する。
(次回までの契約の証よ。これでこの子は、私を忘れられない。冷静になんてさせないわ。次に逢うまでの時間が、かえって劣情を高める熟成の時間になる……ふふふ)
カレンは、熱に浮かされたように虚ろな聖仁の瞳をじっと見つめ、その耳元で甘く、吐息混じりに囁いた。
「好きよ、聖仁君。できればこのまま、貴方と溶け合っていたい……けれど、私にはまだこなさなければならない仕事があるの。キャンセルしたら、周りの人たちに多大な迷惑をかけてしまうわ。……聖仁君なら、分かってくれるわよね?」
「……カレンさん……勿論、です……」
聖仁の返答は、言葉よりも吐息に近かった。
思考が蕩けきり、焦点の定まらない瞳が彼女を追う。
カレンは、やりすぎたかという微かな自覚はあったが、手綱を緩めるつもりは毛頭なかった。
この瞬間に、彼の心へ消えない焼き印を刻みつけるために。
「次の土曜日の夜、二十時に指定の場所へ来て。私のお気に入りのレストランがあるの。そこで二人きりで、美味しいお食事を楽しみましょう?」
「……はい……」
カレンは聖仁の顔に、自身の熱を押し付けるようにして身を寄せた。
頭の中に直接言葉を流し込むような距離で、最後の一撃を放つ。
「美味しいごはんを食べて……そのあとは……ずっと一緒よ。約束してね……愛しの聖仁君」
鼓膜を震わせるような囁きとともに、熱を帯びた唇で彼の頬を軽く撫でるようにキスした。
聖仁は身動きもできず、ただ震える声で呟いた。
「……好きです……カレンさん……僕……ずっと、一緒にいたい……」
その言葉を聞き、カレンはゆっくりと身体を離した。
ドアをわずかに開け、周囲に誰もいないことを確認する。
聖仁の手を強く、それでいて優しく握りしめ、帰宅を促した。
「名残惜しいけれど、もう時間が迫っているわ。土曜日の夜、私、楽しみにしてる。必ず来てね……うふふ」
「……はい……絶対……絶対に行きます……っ!」
聖仁の手を名残惜しそうに離し、彼が去っていくのをドア越しに見送る。
任務の達成は、もはや疑いようのない既定事実だった。
カレンは椅子に身を沈め、深く息を吐いた。
***
二日後、カレンの端末が震えた。画面に表示された名は、マスター。
通話を開始すると、受話器越しに弾むような声が響いた。
「カレン! 素晴らしい、君は本当に最高だ!」
マスターの声は、まるで子供が宝物を見つけたときのように高揚している。
「ついさっき、聖仁から珍しくメールが届いたんだ。……『ある女性と食事に行きたいのですが、その席にふさわしい服を持っていなくて困っています。父さんの服を貸していただけないでしょうか』……だと! あいつがこれほど素直に、女性との予定を書き添えてきたのも快挙だ。何より、自分が嫌っている父親に頼るなんて、最高の結果じゃないか! あいつはもう、君に夢中だぞ!」
子供じみた興奮を隠そうともしないマスターの言葉に、カレンは内心で小さく苦笑した。
自分が息子に嫌われていることは、ちゃんと自覚しているらしい。
「……そうですか。順調なようで何よりですわ。そう遠くないうちに、任務を達成できることでしょう」
「ああ、もちろんだ! 最早、疑いようもない! その調子で、しっかり頼むぞ! わははは!」
マスターは満足げに笑い、一方的に通話を切った。
カレンは小さくため息をつき、思考にふける。
(無垢な彼を虜にしたとして、その先はどうなるのだろう……本当に結婚するなんて、流石に遠慮したいわね)
***
土曜日、約束の二十時より十分早く、聖仁は指定された場所に立っていた。
しかし、目の前に広がるのは、レストランとは程遠い光景だった。
メモに記された住所を何度も見返すが、そこにあるのは無機質な建物の群れと、どこか寂れた工場の風景だけ。
焦燥が胸をかすめ、聖仁の指先が微かに震える。
そんな彼の元へ、一人の紳士が音もなく近づいてきた。
黒のタキシードを纏い、非の打ち所のない身のこなしを見せる男性。
「清水聖仁様、ですね?」
その声に、聖仁は顔を上げた。
「当レストランは、そこの工場倉庫の中で営業しております。分かりにくくて申し訳ありません。どうぞ、こちらへ。ご案内いたします」
紳士が指し示したのは、殺風景な壁と重厚なシャッターが並ぶ工場の入り口だった。
その脇にある勝手口のドアを男が開ける。
聖仁は導かれるまま、狭い通用路へと足を踏み入れた。
通路を抜けた先で、聖仁は思わず息を呑んだ。
そこには、別世界が広がっていた。
空を覆わんばかりに茂る緑、色とりどりの花々が咲き誇る豪奢な花壇。
その美しさに満ちた庭園の奥、小さな建物が静かに佇んでいる。
そして、その前で、一人の女性が彼を待っていた。
「聖仁君! こっち、こっちよ! ふふふ、やっぱり迷ってたみたいね」
カレンの声が響く。彼女は眩いばかりのドレスに身を包み、満面の笑みで手を振っていた。
迷い、焦っていた心が一気に解け、聖仁は彼女のもとへと駆け出した。
「カレンさん……っ!」
聖仁が辿り着いた瞬間、カレンは彼の胸へと飛び込んだ。
その身体の重みと、香水の香り。
カレンは彼の胸に顔を埋め、震えるような声で囁いた。
「……逢いたかった……やっと、逢えたわ」
愛の言葉が、聖仁の全身を駆け巡る。
胸がいっぱいになり、視界が熱く潤んでいく。
「カレンさん……僕の方こそ……っ! 逢いたくて、逢いたくて……たまらなかったです……!」
カレンは聖仁の手を引き、建物の中へと導いた。
室内はそれほど広くはないが、壁一面を覆う巨大なガラス窓が、先ほどの美しい庭園を室内にまで引き込み、視覚的な広がりを与えている。
部屋の中央には、ただ一つの食卓が用意されていた。
促されるままに席に着いた聖仁は、あまりの非日常感と高揚に、落ち着かずに周囲を見渡した。
その様子を見て、カレンは艶やかな微笑を浮かべて語りかける。
「うふふ、素敵なお店でしょう? 一日一組だけ、予約を受け付けているのよ。お料理も凄く美味しいけど……何より一番気に入っているのは、『秘密厳守』というところなの」
「……え?」
聖仁が呆然と声を漏らすと、カレンはさらに身を寄せ、甘く囁いた。
「窮屈で仕方ないけれど、私が男の人と二人きりで食事をすると、色々と騒がれてしまうの。だからこういう場所じゃないと、ね。でもここなら、聖仁君とどんな話をしても大丈夫よ。ふふっ」
「な、なるほど……! ごめんなさい、気が付かなくて……あはは!」
聖仁の緊張を解きほぐすように、カレンは努めて明るく、軽やかな声で笑った。
間もなく、案内役の紳士が音もなく現れて一礼し、それに続いて給仕たちが、美しく盛り付けられた料理を静かに運んできた。
食卓を彩るのは、芳しい料理の香りと、鈴を転がすようなカレンの美声だった。
彼女は絶え間なく、それでいて決して重苦しくならないリズムで聖仁へと言葉を投げかけた。
軽妙な冗談、時折混じる感嘆の吐息、そして甘い賞賛。
そのすべてが、計算された旋律のように完璧な間を持って繰り出される。
単なる美貌だけではない。
相手の反応を読み、話題を巧みに繋ぎ、会話を楽しませる。
高い知性に裏打ちされた会話術もまた、一色カレンを大女優たらしめる能力だった。
聖仁は、いつの間にか緊張の殻を脱ぎ捨てていた。
高揚感と安らぎが混ざり合った、至福のひととき。
彼は、この豊かな時間もまた任務達成への布石であることなど、露ほども疑わずにその場に身を委ねていた。
(男性の心は、実は女性よりも繊細な事が多い……)
カレンは微笑みながら、そんなことを考える。
(彼が緊張のあまり、役立たずで任務失敗なんて、ごめんこうむるわ)
***
食後になり、給仕がティーセットを運んでくる。
案内役の紳士も傍らに立ち、一礼とともにカレンへ小さなカードを手渡す。
聖仁は一瞬、それが伝票か何かかと訝しげに目を向けた。
カレンはカードを受け取り、聖仁に微笑を向けた。
「……聖仁君。お茶を飲み終えたら、一緒に来てほしいところがあるの。付き合ってくれる?」
「はい、喜んで」
二人は談笑しながら、ゆったりとしたティータイムを楽しんだ。
ほどなくして、カレンがふと顔を上げ、弾むような声で話しかける。
「あー! 美味しかった! 聖仁君、もう大丈夫かしら?」
「はい! カレンさん、ご馳走様でした!」
席を立ち、深く頭を下げる聖仁。
カレンもまた、優雅な動作で立ち上がると、律儀な彼の手を握った。
「じゃあ約束通り、一緒に来て! すぐそこだから、うふふ」
悪戯っぽく笑いながら、カレンは聖仁の手を引いて歩き出した。
連れてこられたのは、店内の奥にある、何の変哲もない袋小路。
「? カレンさん、行き止まりですが……ここは?」
困惑する聖仁の問いに、カレンは答えず、壁の角にある細い隙間に先ほどのカードを差し込んだ。
すると、重厚な駆動音とともに、行き止まりに見えた壁がゆっくりとスライドし、その奥から豪奢な装飾に彩られた通路が露わになる。
「?!」
聖仁が息を呑む。
「うふふ、驚くわよね? 私も初めて見たときは、びっくり! さあ、行きましょう」
呆然と立ち尽くす聖仁の手をさらに引き、カレンは通路の奥にある扉を開いた。
その先には、高級ホテルのスイートルームを思わせる、贅を尽くした空間が広がっていた。
重厚な色味の革のソファが、絶妙な動線に配置されている、安らぎの空間。
煌びやかでありながら、品格漂うシャンデリアの光が、室内を淡く照らしていた。
壁一面のガラス窓からは、先ほどまで歩いた庭園が、まるで絵画のように静止して見える。
ドアノブなどの細部に至るまで、上品な造りだった。
隠し通路の先に広がる、非日常の空間。
聖仁は、その美しさに心を奪われ、立ち尽くしていた。
すると背後から、熱を帯びた腕が彼の腰に回り、カレンが耳元で、甘く囁いた。
「ここでのことは、決して外には漏れないわ……私も安心して過ごせる。何を言ったって、どんなことをしたって、大丈夫よ。ふふっ」
その声が、聖仁の意識を現実へと引き戻す。
目の前の空間に、心を奪われている場合ではない。
今からもっと、未知の刺激に触れるのだ。
聖仁は大きく息を吸い込み、意を決してカレンの方へと向き直った。
「カレンさん……っ!」
真っすぐに彼女を見つめ、その身体を強く抱きしめた。
青年の予想外の強気な行動に、カレンは心の内でたじろぐ。
「僕は、貴方が好きです! ファンとして、ずっと憧れていました。でも、もうただのファンではいられない! 貴方に近づきすぎてしまった……一生をかけて、貴方を幸せにします! け、けっこ……っ?!」
決定的な言葉が唇を割る前に、カレンは素早く、その口をキスで封じる。
蕩けるような接吻に、聖仁は身を委ねていく。
(私なしでは生きられないほど虜にする……そこはもう任務達成ね)
カレンは心の内で、冷徹に、そして愉悦とともに呟いた。
(あとはこの子の『初めて』を奪うだけ。その後のことは……本当にどうなっても知らないわよ、マスター……ふふふ)
唇を離し、カレンは熱に浮かされた聖仁を見つめた。
先ほどの勢いはどこへやら、青年はただ呆然と立ち尽くしている。
彼女の指先は、慣れた手つきで彼の服を次々と剥ぎ取っていった。
シャツが床に落ち、逞しい上半身が露わになる。
腰のベルトに手をかけたとき、カレンは彼の耳元へ唇を寄せた。
熱い吐息とともに、甘く、抗いがたい呪文のような言葉を注ぎ込む。
「怖がらないで……私に、すべて委ねていいのよ。聖仁君がどれほど誠実で、たくましい男の子か……全部知っているわ。ただ身を任せて……気持ちよくなることだけ、考えて……好きよ、聖仁君」
言葉が終わる頃には、彼は、完全に露になっていた。
若々しい熱を帯びた姿に、カレンの唇が薄く弧を描く。
彼女自身もまた、流れるような動作でドレスを脱ぎ捨てた。
布地が床に滑り落ち、完成された肢体が、照明の下で浮かび上がる。
「ふっ、ふっ……っ! はぁ、はぁ……っ、ふっ、はぁ……!」
聖仁の喉から、熱い吐息が漏れ出す。
圧倒的な情欲に支配され、彼はただ立ち尽くして呼吸を乱すことしかできない。
カレンは妖艶な笑みを浮かべ、震える彼の手を引いて、大きなベッドへと導いた。
「こっちへ来て……ここで、たくさん『楽しいこと』をしましょう? うふふ」
聖仁は、カレンの肢体を、ただ呆然と見つめていた。
それは理想的な曲線を描きながらも、どこか暴力的なまでの美しさを放ち、男を狂わせるための凶器のごとき蠱惑的なバランスを保っている。
その神々しいまでの姿は、同性の憧れではなく、まるで異性を蹂躪するのが目的のような、完成された造形だった。
荒い呼吸が止まらず、聖仁はただ見つめることしかできない。
触れることさえ忘れてしまうほどの圧倒的な熱量に、彼は立ち尽くしていた。
カレンは、そんな彼の手をさらに強く引き、共にベッドへと倒れ込んだ。
重なり合う身体の熱。
彼女は彼の耳元で、甘く囁いた。
「聖仁君……私に何をしたい? 何をしてほしい?」
カレンの指先が、彼の背中をゆっくりとなぞる。
「ふふっ、いいのよ。思っていること、全部、私にしていいわ。どんなことだって大丈夫。上手いとか下手とか、そんなことは考えなくていい……ただ、頭を空っぽにして、思いに任せるの」
「…………っ!!!」
聖仁の瞳に、獣のような光が宿る。
言葉が終わるや否や、彼は堰を切ったようにカレンへと縋りついた。
聖仁の荒い呼吸が、カレンの肌を震わせる。
二人の身体が触れるたび、熱い火花が散るようだった。
制御不能の獣と化した聖仁。
その激しい動きに翻弄されながらも、カレンは至って冷静だった。
彼女の瞳には、情欲や悦楽ではない、冷静な光が宿っている。
(少し私が制御しないと、失敗し兼ねない勢いね。とにかく、童貞さえ奪えば任務完了だわ……ふふっ)
「素敵よ……聖仁君……とっても、素敵……。ねえ、私、もう我慢できないわ。お願い……私に、貴方をください」
聖仁は、熱に浮かされた瞳でカレンを見つめ返した。
その瞳には、溢れんばかりの情欲と、それとは裏腹な、未熟な青年特有のわずかな不安が混在している。
カレンはその微かな揺らぎを逃さず、慈しむように微笑んだ。
「何も怖くないわ……。貴方のすべてが、愛おしいのだから。大丈夫……全部、私に任せて……」
カレンは身体を起こすと、不安気な表情の聖仁の頬に、優しくキスをした。
互いの身体が激しく震える・・・。
***
やがて、すべてが余韻の中に沈み、静寂が戻った。
二人は重なり合ったまま、荒い息を吐き出し続けている。
聖仁は、魂を揺さぶられるような、甘美な陶酔と虚脱感の中にいた。
対してカレンは、乱れた呼吸の合間に、任務完遂という冷徹な充足感をその瞳に宿していた。
「はぁ、ふぅ……っ。カレンさん……好きです……愛しています……」
荒い呼吸の合間に、聖仁が震える声で愛を紡ぐ。
その言葉には、演技でも計算でもない、魂を削り出すような純粋な熱が宿っていた。
激しい情事による疲労感で、カレンは彼の逞しい身体に縋るように身を預けていた。
彼から向けられる、あまりに真っ直ぐで、汚れのない好意。
その重みに、カレンの胸には一抹の後ろめたさと、それ以上に任務を完遂したという冷徹な充足感が混ざり合う。
彼女は彼の頬に、何度も、慈しむように唇を寄せた。
やがて、熱を帯びた身体をゆっくりとずらし、彼の上から横へと滑り落ちる。
二人は互いに腕を回し合い、静寂の中で、ただ重なり合う鼓動だけを感じながら、穏やかな時間を過ごした。
ふと、聖仁が震える声で口を開いた。
「あ……あの、カレンさん……僕……その……中に……っ! 必ず、責任を取りますから……!」
世慣れない、あまりに誠実な青年の言葉。
カレンは思わず、苦笑を浮かべ、穏やかに言う。
「ふふっ…大丈夫よ。避妊薬を飲んでいるもの。先に伝えておけばよかったかしら」
「え……?」
「今は、そんなこと気にしないでいいの。でも……ありがとう。貴方は本当に、優しい人ね……聖仁君。ふふふ」
顔を真っ赤にして俯く聖仁。
その耳たぶまで赤らんだ様子は、彼がどれほどこの瞬間に、そして彼女に、真剣に向き合っているかを物語っていた。
脅迫によって仕組まれた、狂乱の夜。
しかし、ここにいる青年には何の罪もない。
(……本当に、優しい子)
任務という名の工作に身を投じた自分自身への、微かな、けれど確かな罪悪感がカレンの胸をかすめた。
「カレンさん……あの……言いづらいんですけど……僕、お願いがあって……サイン、いただけませんか?!」
顔を真っ赤にしたままの聖仁が、唐突にそんな依頼を口にした。
カレンは、あまりに予想外な言葉に、一瞬呆けてしまう。
「え……サイン?」
「……はい。だめ……でしょうか……っ」
聖仁は視線を泳がせ、恥ずかしそうに身を揺する。
結婚だの、一生添い遂げるだの、そんな重々しい言葉を並べた相手からの、あまりにちぐはぐな依頼。
カレンは堪えきれなくなり、声を上げて笑い出した。
「ぷっ……あはははは! もう、何よそれ! サインだなんて! だって聖仁君、今、私たち裸で添い寝してるのよ? その状況でサインって……ふふふっ!」
笑いが止まらない。
顔を真っ赤にして縮こまる聖仁の様子を見て、カレンは気の毒に思い、ようやく息を整えた。
「うふふ、ごめんなさい。……いいわよ、もちろん。サインくらい、いつでも書いてあげる」
聖仁の瞳に、子供のような輝きが宿る。
彼はベッドから降りると、傍らに置いていた鞄から一冊の本を取り出した。
ベッドに戻り、勢いよくカレンに本を差し出す。
手渡されたものを見て、カレンは訝しげに眉を寄せる。
それは、『盲目の天使』と大きく書かれた、映画のパンフレットだった。
「あら……聖仁君、これは……?」
「はい! 僕、この映画が大好きで……! ぜひ、この最後のページにサインをください!」
カレンは、指先でページをめくった。
紙の端は擦り切れ、表紙には何度も手に取られた跡が残っている。
紙が手に馴染むほど読み込まれたそのパンフレットには、所々のページに付箋が貼られ、余白には細かな注釈や感想が多数書き込まれていた。
映画『盲目の天使』は、カレンがまだ無名だった頃、主演女優として抜擢された作品だった。
カレンが演じたのは、気難しい盲目の女性。
彼女は、気は優しいが過保護な男性と知り合う。
何でも先回りして助けようとする男性の気遣いと、自分でできることは自分でやりたい女性の思いがすれ違い、衝突、別れを経て、再び愛し合うという恋愛ドラマだった。
当時は大きなヒットには至らず、後のカレンの数々の出演作と比べると、地味な作品だった。
(懐かしいわね……)
指先に伝わる紙の感触に、カレンは当時を思い返す。
(あの頃の私は、ただ主役を貰えたことが嬉しくて、必死だった。役作りのためなら何だってしたわ。今思えば未熟な演技だったけれど……凄く勉強になった作品だわ)
思い出に浸りながら、カレンはゆっくりとページをめくっていく。
すると、後半のページに、赤い文字で大きく書かれた感想があった。
『人を助けるとは、その人に代わってすべてを決めることではない。本人が選べる環境を作ること! カレンさんの演技で、それを教わりました! ありがとう!』
聖仁の筆跡だろうか。丁寧な字で書き込まれている。
カレンのページをめくる手が止まった。
それに気づき、聖仁が覗き込んできた。
彼は顔を赤らめ、たどたどしく言葉を紡ぐ。
「あ……そのメモは、この前、ドキュメンタリー番組でご一緒した後……改めて書いたもので……な、なんだか恥ずかしいな。ご本人に見られるなんて、その時はあまり考えてなくて。あはは……」
照れ隠しに笑う聖仁の姿を、カレンは言葉もなく見つめていた。
(ドキュメンタリーの時、私はどうやって聖仁君を……たぶらかしてやろうかって。罠に嵌めようとしていたのに。彼は、私の演技から……こんなことを受け取っていたの? 必死になって汗にまみれていた、未熟な頃の私を……こんなふうに……感じてくれるなんて!)
カレンは、その文字から目を離せなかった。
彼女の内心の激動に気づくことなく、聖仁は照れたような、それでいて真剣な口調で言葉を続けた。
「この映画を観るまで……僕は、優しさをはき違えていたと思うんです。相手の気持ちも考えず、何でもすぐに助けるべきだって。だけど、それからは、手を出す前に聞くようにしたんです。『手伝ってもいいですか』って」
カレンの口元に、微かな、けれど確かな笑みが浮かんだ。
あの頃、夢中になって演じたものが、この若者の中に確かに息づいている。
未熟だったと自嘲していた自分の演技が、彼の人との接し方を変えていたのだ。
「カレンさんの『盲目の天使』を観なかったら……僕は、相手のためだと思いながら、本当は、その人の自由を奪っていたかもしれません。その人が選べるようにすることも、助けになるんだって……教わりました。本当に、素敵な演技でした!」
はにかんだ笑顔とともに、聖仁が深く頭を下げる。
カレンは、パンフレットを愛おしむように胸元へ引き寄せた。
(嬉しい……あの時の私が、この子に……届いていたのね)
顔を上げた聖仁に、カレンは微笑みかけた。
今度こそ、演技ではない言葉を返したかった。
「聖仁君……私……」
ありがとう、と続けようとして、声が喉に詰まった。
彼の真っすぐな瞳を見つめるうちに、つい先ほどまで任務の達成感に浸っていた自分自身が、ひどく滑稽で、醜いものに思えてきた。
(私は……この子を騙しているのに……)
自分が何のために彼に近づいたのか、聖仁は知らない。
彼の父親と、どんな歪な関係にあるのかも。
何も知らず、彼は自分の言葉を信じ、これほどまでに純粋な感謝を捧げている。
(ありがとうって……本当に、そう言いたいのに……)
いつものように微笑み、甘い言葉を返せば、彼は喜ぶだろう。
それで今夜を終え、日常へと戻ることもできる。
けれど、この続きは? 聖仁には、何も知らせず、いつか別れるというのか?
先を思い浮かべた途端、カレンの唇が微かに震えた。
(そして、ずっと彼を騙し続けるの? 真実を知らないままでは……それは、彼を陰で嘲笑うのと同じことじゃない……)
視線が、開いたページへと落ちる。
『本人が選べる環境を作ること!』
(この子に、ちゃんと向き合うなら……本当のことを……)
父親に命じられたことも、これまで隠してきた嘘も。そのすべてを話した時、彼はどんな顔をするのか。
今、自分に向けられている信頼がどう変わるのか。
答えを聞く場面を想像しただけで、カレンは身動きができなくなった。
「……カレンさん?」
「あ……聖仁君……私……私……っ」
お礼を言いたかった。
けれど、その一言だけで済ませることは、もうできなかった。
何から話せばいいのか、話した後に二人の間に何が起こるのか。
カレンの目から、大粒の涙が溢れ出した。
「?! カレンさん! どうしたんですか!」
聖仁が慌てて手を伸ばす。
カレンはその手を避けるように身を引いた。
今、彼の温もりに触れてしまえば、すべてを口にしてしまいそうだった。
床に落ちたドレスを掴み、彼女は逃げるように浴室へと向かった。
扉を閉めても涙は止まらず、震える指先で急いで衣類を身につけていく。
「カレンさん! 具合が悪くなったんですか!? それとも……僕が何か、気を悪くさせることを……っ! 教えてください!」
扉の向こうから聞こえる聖仁の声は、焦燥と不安に震えている。
自分に落ち度があったのではないかと案じる彼の声を聞きながらも、今のカレンには、その誤解を解く余裕すら残されていなかった。
浴室を出ると、聖仁が心配そうに待ち構えていた。
カレンは彼と目を合わせることさえできず、かろうじて唇を震わせた。
「ごめんなさい……先に、帰るわね……」
引き止める切実な声を背に、カレンは逃げるように部屋を後にした。




