第三話 福音
ネオン輝く街から離れた場所に、空に届くかと思わせる高層ビルがそびえている。
最上階のプレジデンシャルスイートに響く、美女の嬌声と獣の咆哮。
数時間の格闘の末、ようやく解放されたカレンは、自分勝手に寛ぐ男から逃げるように浴室へ向かった。
ここ数か月、何度となく繰り返されてきた光景で、学校での撮影から二週間ほどが過ぎた今夜も、それは変わらない。
鏡に映る自身の身体には、赤黒い痕が浮き出ている。
カレンは無表情にその痕を見つめ、身体を洗った。
身支度を終え、バスローブを纏って部屋に戻ると、ルームサービスだろうか、豪奢な食事が用意されていた。
テーブルの傍らでは、マスターが上機嫌に酒を飲んでいる。
「カレン、腹が減った。食事にしよう」
マスターは、まるで午後のティータイムにでも誘うような軽やかさで言う。
「君も、最後に食べたのはいつだ? 昼のロケバス移動中に、車内で済ませたあの軽食だろう。遠慮はいらない、好きなだけ食べるといい」
性欲が満たされ、次は食欲と言わんばかりのマスター。
脅迫者との会食など、カレンにとってはストレスでしかなかったが、逆らうことはできない。確かに空腹でもあったので、彼女は席に着いた。
食事の時間や内容まで把握されていることにも、マスターの底知れない不気味さを感じさせる。
「……ありがとうございます。いただきますわ」
カレンが小さく、しかし丁寧に頭を下げると、マスターは手元の鈴を鳴らした。
別室に控えていたのか、ドアをノックする音が響き、一人の女性執事が入ってくる。
「失礼します」
執事はまず、カレンのグラスにワインを注ぎ、次いでマスターのグラスへ注ぎ足す。
水が流れるような、自然かつ洗練された動き。
彼女は無言で会釈すると、再び別室へと戻っていった。
カレンの訝しげな視線を汲み取り、マスターは言った。
「ああ、彼女は心配ない」
マスターはグラスを弄びながら、事も無げに告げる。
「長い付き合いだ。今さら秘密がどうのという間柄じゃないから、安心してくれ」
マスターはワインを一口含み、食事に取りかかった。
カレンはその様子を窺ってから、自らのグラスに口を付ける。
「ふふ、相変わらず用心深いな。君のその慎重さも、今回の成功に繋がっているのだろう」
マスターは笑い、続けた。
「聞いたぞ、あのドキュメンタリー番組も大成功だったそうだな。私としては番組の成功など、どうでも良いのだが……業界関係者の手前、成功するに越したことはない」
カレンも評判は聞いていた。
視聴率は勿論、SNSでも話題になり、映画『盲目の天使』も改めて評価されているようだった。
聖仁と親密になる任務は勿論だが、女優としての仕事である以上、手を抜いたつもりはなく、その結果は素直に喜ばしく思える。
「ありがとうございます。マスターに、このような機会をいただけたこと、感謝いたしますわ」
皮肉めいた言いざまにも、マスターは満足げに頷いた。
「あの後、聖仁の母親に聞いたところ、相当君に熱を上げているようだ。今まで以上に、聖仁は君に傾倒している。まずは狙い通りの結果だろう。よくやってくれたな」
マスターはワイングラスを軽く掲げ、喜びを露わにした。
その仕草や言いざまに、カレンはどこか子供っぽい未熟さを感じ、ますます不気味さを募らせる。
(マスター。当然、どんな人物かは調べた……清水征人。日本国内で業界第六位の規模を持つ総合人材派遣会社「ヒューマン・リンクゲート株式会社」、略称HLGの代表取締役社長。同社は一般的な人材派遣に加え、様々な地域や場面で活動する特殊人材の派遣にも強みを持つ……)
カレンは、目の前の男を見つめた。
(表向きは、至って普通の会社経営者。でも、間違いなくそれだけじゃない。息子の教育のために、テレビ番組を二つ用意するなんて。お金があるだけじゃ、到底成し得ないわ)
食事の間中、マスターは終始上機嫌で、次回の撮影の段取りを話し続けた。
食後、先ほどの女性執事がティーセットを運んできた。陶器が触れ合う微かな音が、室内に響く。
香りの高い紅茶の湯気が、二人の間にゆらりと立ち上った。
マスターは熱い茶を啜りながら、ふと思いついたように問いかけた。
「聖仁の様子を見れば、順調そのものだが……君から何か、気になることはあるか?」
何気ない確認。しかし、カレンの脳裏には、聖仁が最後に口にした言葉が浮かぶ。
『あの……僕の父を……ご存じですか?』
カレンは、一拍の間を置いて答えた。
「……特には。マスターの仰る通り、利発でカリスマ性のあるご子息ですが、女性経験のなさは否めません。油断は決して致しませんが、お望みの結果は、もはや確実かと」
疑念を心に秘め、カレンは自信たっぷりに言う。
マスターは薄い笑みを浮かべ、静かに頷いた。
***
番組の放送から、一か月が過ぎようとしていた。
聖仁の部屋に、端末の着信音が鳴り響いた。
画面には、見知らぬ電話番号が表示されている。
「……はい、清水聖仁です」
電話の相手は、番組プロデューサーを名乗った。
一色カレンとのデートプランを出演者がそれぞれ提案し、その内容を競い合うバラエティ番組に、挑戦者として出演してほしいという依頼だった。
息子は軽薄なバラエティ番組への出演を渋るだろうという、マスターの予想に反し、聖仁の心は弾んだ。
(カレンさんと……また、会える。それどころか、デートなんて!)
端末を握る指先が、微かに震えている。
彼女の瞳、声、そして肌に触れた時の熱が、鮮明に蘇った。
「……はい。ぜひ、よろしくお願いします」
精一杯の冷静さを装いながらも、その声はわずかに上ずっている。
聖仁の中で、一色カレンはあまりにも大きな存在となっていた。
詳細な段取りを聞き終え、通話を切ると、彼はその場で蹲った。
あまりの歓喜と、胸を突き上げるような高揚感に、身体が震える。
(よぉし! 何が何でもっ! 僕がカレンさんとデートするんだっ!学校の皆にも相談して、絶対勝つぞ!)
聖仁は拳を固く握りしめた。
***
カレンとの再会を待ち望む日々は、期待に満ちた熱い時間だった。
仲間たちと共に幾度も案を出し合い、笑い、時には真剣に議論を重ねる。
大勢と一体となり、力を合わせて作品を作り上げる、豊かな時間。
そして、ついに収録当日を迎える。
スタジオには多数の観客席が用意され、聖仁は仲間たち二十人ほどを応援団として招いていた。
生徒会のメンバーを含む彼らは、聖仁の呼びかけに応じて学年全体が一丸となって作り上げたプレゼンテーション資料を手にしている。
聖仁は、集まった仲間たちの顔を見渡し、改めて深く頭を下げた。
「みんな、今日は来てくれてありがとう! このプランは僕一人じゃない、学年全員の全力を出し切った最高のものだと、確信を持って言える! あとは僕のアピール次第だ。責任は重大だけど、絶対に後悔しないように戦ってくる! 客席から、最高の応援を頼む!」
聖仁の力強い挨拶に、仲間たちは地鳴りのような歓声を上げた。
スタッフが誘導に入り、応援団が客席へと向かっていく。
一人残された聖仁のもとへ、一人の女性が歩み寄ってきた。
「聖仁君、出演を引き受けてくれたのね。ふふ……嬉しいわ。ありがとう」
その声に、聖仁は息を呑んだ。
ドキュメンタリー撮影で見せた、あの清楚で儚げな姿とは、あまりにもかけ離れた空気を彼女が纏っていた。
身体のラインを鮮烈に強調する、豪奢な薄紫色のドレス。
そして気品あふれる髪型と、自信に満ちたその表情は、スタジオの照明にも負けないほど眩しい。
「あ……カ、カレン……さん……」
初めて会った時のような、あるいはそれ以上の緊張が聖仁を襲う。
指先が震え、言葉が喉に張り付いて出てこない。
カレンは余裕のある笑みを浮かべ、さらに一歩、彼との距離を詰めた。
そして、熱を帯びた吐息とともに、彼の耳元で甘く囁いた。
「また逢えてよかった。デートプラン、いっぱい考えてくれたのでしょう? 楽しみにしてるわね」
鼓膜を震わせる甘い声と、かすかに漂う彼女の香水の香り。
十八歳の青年の胸は、制御不能なほど激しく高鳴っていた。
***
スタジオの眩い照明が、華やかなセットを照らし出している。
スタッフたちの慌ただしい動き、カメラのセッティング、そして鳴り響く指示の声。
一人のスタッフが両手を挙げると、現場の喧騒が一瞬にして静まり返った。
スタッフはスタジオ全体に向けて掲げた五本の指を、一本ずつ折っていく。
最後の指が折られると同時に、司会者が喉を震わせるような大声で叫んだ。
「大女優・一色カレンは、誰を選ぶのか?! デートを勝ち取れ! 年代別で挑む、デートプレゼンたいかいぃぃぃい!!」
宣言とともに、客席からは割れんばかりの拍手が沸き起こり、重低音を響かせる大仰なBGMがスタジオを支配した。
あらゆる仕事をチャンスと捉え、仕事を選ばないカレンにとって、この軽薄で騒々しい空気は日常の一部に過ぎない。
彼女は笑顔を絶やさず、カメラのレンズへと視線を送った。
司会者の傍らに立つ可憐な局アナが、番組の趣旨を説明し始める。
カメラがその女性へと向けられた僅かな隙に、カレンは聖仁へと視線を滑らせた。
彼は硬い笑顔を作り、客席の応援団の仲間たちへ手を振っていた。
(うふふ、仲間と力を合わせて、必死に考えて、意見を闘わせて作り上げた、努力と友情の結晶……それは決して報われない。彼を失意の底に突き落とす魔女というわけね。マスターも私に、損な役回りをさせてくれる)
プレゼンは、最も若い年代から順に行われることになった。
番組側は、まずは素人である高校生の拙いプランで、会場の空気を温めようという魂胆だろう。
だがカレンにとっては、いきなりクライマックスに挑むようなものだった。
彼女は表情を一切崩さず、内心で鋭く気を引き締め、任務への準備を整える。
(私の反応も重要よ。あくまで『彼のプランを心から気に入ったけれど、指示に従って別の人を選ばざるを得なかった』……その後の告白に真実味を持たせるために)
カレンは、多少大げさであっても、聖仁のプランを最大限に称賛する演技を用意していた。
しかし実際に始まった聖仁のプレゼンは、スタッフも観客も、そして彼女自身をも驚愕させるものだった。
聖仁が提示したのは、最新のAIを駆使してカレンの好みを分析し、その場で条件や希望に応じたデートプランを組み立てるシステムだった。
各プランの所要時間や費用を算出し、高校生の彼にも実現可能かどうかを判定するプログラムまで組み込まれている。
その仕組みを支えていたのは、学年の仲間たちが持ち寄った、数々のオリジナルプランだった。
AIはそれらをカレンの希望に応じて組み合わせ、移動時間や費用を検証しながら、新しいコースへと編み直していく。
その一例として映し出されたのは、カレンが出演した映画の一場面だった。
「もし、あの二人が別の選択をしていたら。カレンさんなら、どんな一日を過ごしてほしいと思いますか?」
彼女の希望が入力されると、画面の中の景色が変わった。
映画の雰囲気に似た、実在する街並み。
そこへ至る道順と、立ち寄れる場所が次々に繋がり、一つのデートコースが出来上がっていく。
「雨の日なら」「予算をもっと少なくしたら」。
条件を変えるたび、地図と費用、二人が過ごす一日を描いた映像が連動して組み直された。
仲間たちの案が新たな組み合わせで繋がり、カレン自身の発想から、用意された案にはなかったコースまで生まれていく。
映画の続きを演じるのではない。
その物語を出発点に、彼女が望む時間を、現実の一日に変える。
AIによる柔軟な提案と仲間たちの発想を組み合わせた仕組みは、プロの制作物と見紛うほどの完成度を誇っていた。
客席では、応援団のみならず、他の観客からも歓声が上がり、スタジオは熱狂の渦に包まれた。
圧倒的なクオリティのプレゼンが終了すると、会場には割れんばかりの拍手が響いた。
(……流石ね、マスターが推す聖仁君。私が褒める演技をする必要なんて、最初からなかったというわけね)
カレンは内心で苦笑しながらも、満面の笑顔で惜しみない拍手を送った。
しかし、その思考の端々には、別の懸念がよぎる。
(だけど……あらかじめ選ぶ予定の四十代の出演者のプランが、これを上回らないと……少し困ったことになるわね)
ステージの上で、聖仁は眩いほどの輝きを放っていた。
彼は期待に満ちた瞳でカレンを見つめ、そして応援団の仲間たちに向けて、大きく、力強く手を振った。
続いて、二十代から五十代の出演者たちによるプレゼンが始まった。
アイドルや実力派俳優といった、華やかな顔ぶれが次々とステージに立つ。
彼らが提示するのは、昨今では珍しいほど贅沢なロケ映像と、機材を駆使した内容だった。
特に、あらかじめ選ぶことになっている四十代の出演者のプランは、カレンの好みを巧みに捉えていた。
派手すぎず、かといって地味すぎない、選びやすい内容に仕上がっている。
(お金のかかった内容といい、マスターの支援が入っているようね……)
カレンは、次々と繰り出される豪華な演出を眺めていた。
(けれど、正直に言えば……私は聖仁君のプランを選びたいわ。聖仁君のプランが鮮烈すぎて、会場の空気も、彼の優勝を期待しているようだもの)
全員のプレゼンが終了し、休憩時間が告げられた。
休憩後には、カレンが誰を選ぶか発表しなければならない。
プロデューサーが緊張した面持ちで彼女に歩み寄ってきた。
彼は周囲に人がいないことを確認すると、カレンに耳打ちする。
「カレンさん……決定の件ですが……たった今、かなり上の方から、『絶対に四十代の俳優、高瀬秀一さんを選べ』とのお達しが入りました。言いづらいのですが……」
本当に申し訳なさそうに伝えるプロデューサーを見て、事情を知っているカレンの方がバツの悪さを感じた。
この指示も、マスターからの助け舟なのだろう。
後に聖仁へ「番組側から相手を指定された」と告げる際、その言葉は事実になる。
カレンは、プロデューサーを安心させるように答えた。
「……分かりました。大丈夫ですわ、指示通りにいたします。どうぞご安心を」
スタジオに戻ると、カレンは元いた解説席から、まるで女王が鎮座するかのような豪奢な椅子へと移動させられた。
その前に、プレゼンを行った男性陣が並ぶ。
彼らは一斉に、彼女の手の届く位置へと手を差し出した。
スタジオ全体の照明が落ち、カレンと、その前に並ぶ男たちだけに鋭いスポットライトが突き刺さる。
(古臭い演出だけど……これでは、選ばれなかった人の失意が強まるわね。これもマスターの指示かしら)
重々しいドラムロールが鳴り響く中、カレンは神妙な面持ちで、充分な間を取る。
観客の期待と緊張が極限まで高まったその瞬間、彼女は四十代の俳優の手を取った。
「私が選ぶのは……高瀬さんです」
数瞬の間、スタジオが静まり返る。
だが、事前に誰が選ばれても拍手するよう念押しされていたのだろう。
スタッフたちが舞台袖で必死に合図を送る中、タイミングのずれた大きな拍手が沸き起こった。
カレンは選んだ理由まで考えていたが、司会者が急ぐように締めに入った。
「優勝は高瀬さんでしたぁ! では皆様! またお会いするまで! ごきげんようぉぉお!」
強引な幕引きとともに、番組は終了した。
カレンは内心で苦笑しつつ、これからが本番だと気を引き締めた。
***
番組の熱狂が嘘のように、スタジオの裏手は重苦しい沈黙と、時折漏れる嗚咽に包まれていた。
応援団として駆けつけた二十人の友人たちは、敗北の衝撃に打ちひしがれている。
顔を覆って泣きじゃくる者、悔しさに唇を噛み締め、黙り込む者。
聖仁もまた落胆していたが、涙は見せず、生徒会長として、彼らを率いてきたリーダーとして、皆を宥めていた。
「……結果は残念だった、本当に。でも、あれだけのプランを作れたのは、間違いなく僕たち全員の、学年全員の誇りだよ」
聖仁は一人一人の肩を抱き、感謝を伝えた。
だが皆の失意は収まらず、次第にカレンやスタッフへ、疑惑を口にする者が出る。
「……これ、ヤラセじゃないのか。最初から決まってたんじゃないか?」
「スタッフも、あの俳優も、全部仕込みなんじゃ……」
端末を手に、SNSへ書き込もうとする者まで現れた。
空気が刺々しくなる中、聖仁が強い口調で呼びかけた。
「みんな、聞いてくれ!」
仲間たちの視線が、一斉に彼に集まった。
「悔しく思うのは当然だ! だけど、確かめてもいないことを決めつけて、番組スタッフやカレンさんを悪者にしちゃいけない! 僕らがそれをした瞬間、僕たちが一致団結して作り上げた、この最高の作品が、嫉妬や中傷で汚れてしまう! それはやってはいけない! 何よりも、自分たちのために!」
仲間たちは我に返り、騒ぎは収まった。
啜り泣きが聞こえる中、聖仁は再び穏やかな口調で語りかけた。
「……ありがとう。みんな、真剣に、全力でデートプランを作ってくれて。高瀬さんのプランも、凄く魅力的だった。僕たちも胸を張って帰ろう……」
遠巻きにその様子を窺っていたカレンは、改めて聖仁の統率力に驚く。
(この後、いつ電話をかけるか考えていたのだけれど……圧倒的なカリスマ性ね。将来が楽しみな男の子だわ……私に心を壊されなければ、だけど)
応援団と聖仁は、出口へと歩を進め始めた。
しかし、その途中で聖仁が足を止め、仲間たちに告げる。
「……ちょっと、トイレに行ってくる」
聖仁は皆から離れ、一人、歩き出す。
カレンは気づかれないよう、慎重に後を追った。
聖仁はトイレには向かわず、建物の脇にある非常口から外へ出る。
カレンが角を曲がると、彼は路地裏のコンクリートの上に座り込んでいた。
膝を抱え、顔を埋めたまま動かない聖仁。
その姿を見て、カレンは心の内で歓喜した。
(やはり、相当に無理をしていたのね。何て健気な子……でも大丈夫よ。今から貴方に、救いの手が差し伸べられるわ。その手を取ったら最後、私の虜になるけれど……ふふふ)
カレンは素早く端末を取り出し、聖仁の連絡先を選んで、発信ボタンを押した。
万が一にも発見されてはまずいと、カレンはコール音が鳴る中、その場を離れた。六度目の呼び出し音で、聖仁が出た。
「……あ、聖仁です。カレンさん、今日は……ありがとうございました……? ……カレンさん?」
聖仁の弱々しく、途切れそうな声が聞こえてくる。
しかしカレンは、自分から電話をかけたにもかかわらず、言葉を発しない。
ただ無言で、聖仁の声を待った。
「あ、あの……カレンさん……ですよね? どうか……されたんですか?」
その声に不安が混じったのを聞き取り、カレンは口を開いた。ひどくか細い声で。
「聖仁君……ごめんなさい……本当に……私……ごめんなさい……」
ようやく届いた、憧れの女性の声。
しかし、その弱々しく、縋るような響きに、聖仁は不安から声を荒らげた。
「どうしたんですか?! 何か、何か、あったんですか?!」
カレンはその声の変化を聞き逃さなかった。
狼狽する聖仁の反応に満足しながら、次の言葉を涙声に混ぜた。
「私……貴方に……酷いこと……あんなに素敵なプランだったのに、私……うぅ……っ!」
声を詰まらせ、言葉を止める。
聖仁はもどかしさと不安に駆られ、拳を握りしめた。
「カレンさん?! 落ち着いて……大丈夫ですか?」
彼が自分を案じる声を聞いてから、カレンは続きを告げた。
「最後の休憩中に……私……プロデューサーから……うぅ、高瀬さんを選んでくれって! 指示されて、逆らえなかったっ! ごめんなさい!」
「……っ?!」
衝撃の告白に、聖仁は頭が真っ白になった。
仲間たちが口にしていた選考への疑惑が、真実として突きつけられ、怒りと落胆が込み上げてくる。
電話越しに、「ふっ、ふっ」という、聖仁の短い息遣いが聞こえてきた。
カレンは、すぐには言葉を続けなかった。
告げた事実が聖仁の心に染み込むのを待つように、間を取る。
音を立てないよう、細く長く息を吸い、吐いた。
そして次の一言を、先ほどよりも切実な響きで差し入れる。
「でも……本当は……聖仁君のを選びたかったっ!」
「……え?」
呆けたような短い返答。
カレンはその響きを確かめ、声に切実さを重ねた。
「聖仁君のプランは、本当に素晴らしかったわ……! あんなに素敵なデート……貴方とできるなら、夢みたいだって……ドキュメンタリー番組が終わってから……ずっと思ってたことだから……!」
「……っ?!」
思いがけない言葉に、聖仁は絶句した。
二拍ほど間を置く。
カレンは電話の向こうの気配に耳を澄ませたまま、恋焦がれる年上の女性のためらいを声に滲ませた。
「変でしょう? 九歳も年が離れてるのに……馬鹿みたいよね……おかしいわよね……」
「あ……そ、んな……え……と……」
否定しかけた声が途切れるのを待ち、カレンは続けた。
「でも……抑えつけても……変だって、言い聞かせても……そうすればするほど、心の中で、どんどん貴方が大きくなっていった……もう自分に嘘がつけないの……っ」
「あ、う……」
聖仁は言葉を失った。
カレンはその沈黙に耳を澄ませ、最後の願いを、縋るような声で告げる。
「聖仁君……もし……もしもよ。私を許してくれるなら……もう一度、貴方と逢いたい……どうか、お願い……お願いします……」
全力で演技し、カレンは奇妙な脱力感と満足感に浸る。
対照的に、電話越しに聞こえる聖仁の呼吸は、混乱と高揚の狭間で激しく乱れた。
憧れの大女優、一色カレン。
絶世の美女と謳われ、街頭の大型ビジョンにも、駅や店頭の広告にも彼女の姿があり、見かけない日はない程の有名人。
一介の高校生である自分には、到底手の届かない、あまりに眩しすぎる存在。
(そんな人が……僕を好きに……なる?)
たった一度きりの撮影に協力しただけで?
(おかしい……そんなこと……あるわけが……)
聖仁の中に残された、最後の一筋の光。
それは、これまで彼を支えてきた、他者への深い思いやりと、冷静な判断力を司る理性の炎だった。
だが今、その炎は、生まれて初めて経験する強烈な高揚感と、身体の芯からマグマのように湧き上がる激しい劣情によって、吹き消されようとしていた。
(カレンさんと逢いたい……あの綺麗でしなやかな手を、もう一度握りたい……そして、その身体に触れて……もっと……もっと……!)
喉が酷く乾き、聖仁は熱を帯びて掠れる声を絞り出す。
だが、口をついたのは、彼自身も意図しなかった言葉だった。
「……僕は……父が……好きではありません」
「……っ?!」
電話の向こうで、カレンの呼吸が一瞬、止まった。
数瞬の沈黙が、カレンには永遠のように感じられる。
聖仁は彼女の思惑に気づかず、話を続けた。
「幼い頃から……父は留守がちで、家にはほとんどいませんでした」
聖仁の声は低く、震えていた。
「母に尋ねても、『お仕事が大変だから』としか言われない。母は一度も父を悪く言わなかったけれど……時折、一人で寂しそうに泣いている姿を見てきました」
どうやら、身の上話から父の話題になったらしい。
カレンは内心で、安堵の溜息をついた。
「それに……隠していても、分かるんです。怖くて直接聞いたことはありませんが……父には、母の他にも……女性がいます。母を放っておいて、いや、他の女性だって、たくさん泣かせている……そう思うと……僕は、父のようにはなりたくない。ずっと、そう思ってきました」
利発な少年は、とうの昔にマスターの女癖の悪さに気づいていたのだ。
自分を脅迫し、情欲を満たすために利用している男が、息子からこう思われている。
カレンはマスターへの僅かな憐れみと、因果応報の奇妙な爽快感を覚えた。
「だから……恋愛には、なるべく踏み込まないようにしてきました。興味がないわけじゃない。でも、僕の中に父と同じ血が流れている……そう思うと、怖くて。もしお付き合いするなら、一生その人だけを愛して、幸せにするって……自分に誓ったんです」
父親の女癖が原因で、その息子は女性を遠ざけてきた。
それなのに、その父親が息子に女性をあてがう。
むず痒いようなやりきれなさと、自分がその中心にいる迷惑さ。
カレンの心に宿っていた任務への高揚感が、冷水を浴びせられたように萎んでいく。
「僕は……カレンさんに逢いたい……逢いたくてたまらないです。でも……分からない……どうしたらいいのか……僕……ごめんなさい……っ」
言葉を詰まらせ、嗚咽を漏らす聖仁に、カレンは僅かな憐れみと自己嫌悪を感じた。
弱みを握られているとはいえ、彼を騙しているのは自分だ。
だが、自身の破滅がかかっている以上、ここで任務を投げ出すことはできない。
カレンは、とどめの一言を絞り出した。
「嬉しい……聖仁君が、そんなにも誠実な気持ちの人で……本当に嬉しいわ。私……聖仁君と一緒に幸せになりたい……逢いたいわ……逢ってください」
聖仁の嗚咽が、一瞬、止まる。
そして、大きく息を吸う音が聞こえた。
電話越しに歓喜の気配を感じ、カレンは彼の言葉を待たずに勝利を確信した。
「あ、あああ! カレンさん! 逢いたい! 逢いたいですっ! 僕、逢いたい! うぅ!」




