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聖者の行進  作者: いくらふじなみ
第一部 偽りの女神
2/25

第二話 盲目の魔女

朝の校庭には、機材を運ぶ台車の音と、スタッフたちが交わす声が響いていた。

大型の照明器具が運び込まれ、地面には黒いケーブルが延びている。


登校してきた生徒たちは足を緩め、用途も分からない撮影機材を指さしたり、友人と顔を見合わせたりしていた。

いつものグラウンドが撮影現場へと変わっていく光景に、誰もが目を輝かせている。


その傍らを、一人の生徒が歩いてきた。


清水聖仁。


身長百八十七センチと、ひときわ背が高く、肩幅があり、均整の取れた体格。

行く手を横切るスタッフがいれば足を止め、軽く会釈して先を譲った。


聖仁は、パイプ椅子に腰かけて、現場全体を見渡している男性の前で立ち止まる。


「おはようございます。大塚さんでしょうか」


顔を上げた男性は、聖仁の姿に一瞬目を見開いた。

しかし、その顔立ちに見覚えがあると気づくと、すぐに笑みを浮かべた。


「ああ、君が清水聖仁君だね!」


大塚は椅子から立ち上がり、聖仁を見上げた。


「写真は顔のアップだったから、こんなに体格のいい青年だとは思わなかったよ。いやあ、驚いた。今日のスタッフをまとめている大塚郡司です。よろしくね」


気さくな声につられ、聖仁の口元にも笑みが浮かんだ。


「清水聖仁と申します。この学校で生徒会長を務めています。こちらこそ、よろしくお願いします」


少し力の入ったお辞儀をしてから、顔を上げる。


「実は、昨夜は緊張して、あまり眠れませんでした」


照れたように笑い、聖仁は言葉を続けた。


「精一杯務めますので、不慣れなところは教えていただけると助かります」


挨拶を終えると小さく息をつき、大塚の返答を待った。


「緊張するのは当然だよ。あのカレンさんと一日中、付きっきりで過ごすことになるんだから」


大塚は聖仁の肩を軽く叩き、笑いながら言った。


「でも、大丈夫。君が演技をする必要はないんだ。戸惑ったり、失敗したりすることも、このドキュメンタリーでは大切な一場面になる。堅く考えなくていい。僕らも近くでフォローするから、安心して」


これほど多くのスタッフを率いながら、一人の生徒の緊張にも気を配ってくれる。

その気さくな態度に、聖仁は密かな敬意を覚えた。


「ありがとうございます」


深く頭を下げる青年。大塚は彼を待機場所へと案内した。


「始めるときに声をかけるので、ここで待っていてね。あ、それと、トイレに行くときは必ず近くのスタッフに声をかけてね。開始時間と重なると、みんなを待たせちゃうから」


「分かりました。必ずお声がけします」


聖仁は一人、校庭の隅に設置された仮設テントへ入った。

外からは、スタッフたちの忙しない声が聞こえてくる。


パイプ椅子に腰を下ろし、膝の上で握っていた手を緩めた。


(落ち着け…落ち着け…。普段見慣れた場所を案内するだけだ。何も問題はないさ)


目を閉じ、呼吸を整える。


校内の道順と、案内するときの説明を頭の中で繰り返していると、不意に両肩へ、そっと手が置かれた。

ほのかに甘い、上品な香りが首元を包む。


驚いて目を開けると、すぐ目の前で、一色カレンが微笑んでいた。


「あら、驚かせちゃったかしら?」


写真や画面で何度も見てきた顔が、手を伸ばせば触れられる距離にある。

聖仁は息を呑んだ。


「ごめんなさいね。じっと目を閉じていたから、疲れて眠っているのかと思って。大塚さんから、昨夜はあまり眠れなかったって聞いたものだから。ふふっ」


カレンは聖仁の顔を覗き込む。


「聖仁君ね? 今日はよろしくお願いします。一色カレンです」


「あ、あ……」


挨拶を返さなければと思うのに、言葉が続かない。

聖仁は椅子に座ったまま、目の前の顔を見つめていた。


カレンは微笑みを保ちながら、その反応を見定める。


言葉に詰まる様子も、赤くなっていく耳も、彼女にとっては相手の性格と弱点を測る材料だった。


(この狼狽ぶり……女性に興味が無い訳ではないわね。あくまでも、強い意志で抑え込んでいるだけ)


カレンの口元に、微かな笑みが浮かぶ。


(ふふふ、そこまで気を張る必要はなさそう。この子も、一皮むけば他の男と変わらないわ)


聖仁の頭からは、この日のために用意していた言葉が、全て吹き飛んでいた。

尊敬するカレンに会ったら何を伝えるか、挨拶は何度も練習してきたはずなのに。


自分の不甲斐なさを内心で嘆きながらも、椅子から勢いよく立ち上がる。


「清水聖仁と申します! こちらこそ、よろしくお願いします!」


聖仁の思った以上に大きな声がテント内に響き、カレンは穏やかに微笑んだ。


「ふふっ、元気なのね。それにしても、すごく逞しい身体をしているのね。何かスポーツをされているのかしら? 腕も立派で素敵だわ」


カレンは聖仁の二の腕に手を添え、制服越しに撫でるように掴む。


相手が自信を持つ身体の部位を褒め、さりげなく触れる。

体育会系の男を籠絡するときに、彼女がよく使う手だった。


「あ……その……テニスと水泳を、やっています!」


聖仁はカレンに触れられるがまま、ようやく答えた。

視線は落ち着かず、彼女の顔へ戻っては、また逸れる。


カレンは獲物を前にしたカマキリのように、その動きを見逃さず観察していた。


(胸を二回、脚を一回、顔は何度も見返しているわね……美人と、おっぱいが好きなのかしら)


マスターからは、母親とかなり仲がいいと聞いている。


(マザコン気質なのかも……。分かりやすくて可愛い子)


聖仁の狼狽は、カレンには見慣れた反応に思えた。


(さんざんマスターに脅されたけれど、何てことはない。もう既に私の虜よ)


相手を見定めたカレンは、満足げに微笑むと、「準備があるから」と短く告げてテントを後にした。


一人残された聖仁は、倒れ込むように椅子へ座り込み、深く息を吐いた。


(……情けない! 練習してきたのに、まともに話せなかった)


心臓の鼓動が、まだ耳の奥で響いている。

これから一日、自分が彼女を案内し、支えなければならないというのに。


聖仁は両手で頬を強く叩いた。ぱちん、と乾いた音が響く。


(しっかりしろ……!)


自らを奮い立たせ、再び目を閉じる。

外から聞こえるスタッフたちの声を背に、呼吸を整え、頭の中で案内の手順を確かめながら時を待った。


二十分ほどが経過した頃、大塚がテントに入ってきた。


「聖仁君、始まるよ。校舎のメインエントランスまで来てくれるかな」


「はい、すぐに行きます!」


聖仁は立ち上がり、駆け足で校舎へと向かう。

その入り口にカレンの姿を見つけ、思わず足を止めた。


そこに、『盲目の天使』がいた。


透けない純白の短いローブを纏ったカレンは、映画で見たときよりも儚げで美しい。

スクリーン越しに憧れていた姿が、今は手の届くところにある。


聖仁が見入っていると、カレンが声を漏らした。


「聖仁……さん……?」


目を閉じたまま、彼女がよろよろと歩み寄ってくる。

聖仁は我に返り、慌ててその手を取った。


長く美しい指が、掌に収まる。

肌の柔らかさと温かさに触れ、身体の内側から、これまで感じたことのない疼きが湧き上がった。


「『ありがとう、行きたいところがあるの。一緒に来てくれる?』」


映画の中で、カレンが口にした台詞。


その言葉を自分に向けられたことに、聖仁は感激していた。

彼女の手を握り、案内役としての使命を胸に、答える。


「お任せください!」


ドキュメンタリーの撮影では、映画とは異なり、カレンは不透明なアイマスクを着けて視界を遮った。

廊下を歩く二人の足音が、校舎に響く。


聖仁にとって、それは何気ない日常の行動のはず。

しかし、カレンの手を握り、慎重に歩を進める道のりは、緊張と官能に満ちていた。


カレンの手は、ただ握られているのではない。


美しく艶めいた指先が、聖仁の逞しい掌をなぞり、指の間に絡みつき、時に強く、時に軽く弄ぶ。

その感触に、聖仁の喉はひどく乾き、何度も唾を飲み込んだ。


(ただ、手を繋いでいるだけだ……)


必死に自分へ言い聞かせるが、身体の奥底から湧き上がる劣情は、鎮まらない。


(何てことだ……僕は、こんなにも卑猥な男だったのか! 情けない!)


教室に入り、二人は席に座った。


視界を遮られた闇の中にいながら、カレンは、繋いだ手から伝わる青年の震えや強張りを正確に捉えていた。

強い理性で必死に自分を律しようとする、健気な若者。


カメラが回る本番中であっても、彼女の手遊びは止まらない。

その反応に、カレンは満足していた。


教室を出て、二人は体育館へと向かう。


広い館内の中央には、パイプ椅子が二つ並べられている。案内されたカレンが座り、聖仁もその隣に腰を下ろす。そこで唐突にアイマスクが外された。


眩しさに一瞬、顔を曇らせた後、カレンは目を見開いた。

全校生徒だろうか、数えきれないほどの生徒たちが、二人から少し離れた位置で、円を描くように立ち並んでいた。


隣で緊張しきっていた聖仁が、静かに片手を挙げる。

それを合図に、歓迎の声が館内に響き渡った。


「一色カレンさん! 我が校へようこそ!」


撮影スタッフにも、詳細は知らされていなかったのだろう。

困惑と歓喜が入り混じった表情を浮かべながら、カメラを回し続けている。


「まあ、嬉しい。聖仁さん、これは?」


予想外の歓迎に、カレンは意表を突かれたように尋ねた。明るい笑顔で答える聖仁。


「この撮影が決まったとき、皆で何かできないか、という話になりまして。歓迎の気持ちを伝えたいという意見がまとまって、こうなりました」


聖仁の声には、喜びが溢れていた。


「皆、時間がない中、頑張ってくれて! 喜んでいただけて、良かったです!」


全身で喜びを表す聖仁。

その様子を見て、さらに湧き立つ生徒達。


カレンは、聖仁を含めた全生徒を見渡した。

一連のやり取りに、彼の統率力とカリスマ性が窺える。


(なるほど。マスターの言う「息子は優秀」というのも、あながち贔屓目では無いようね。生徒たちの表情に、少しも影がない。皆が、彼に心酔している)


本来、体育館では、広い空間で視界を遮られた場合に、移動にどのような難しさが生じるかを検証する予定だった。


カレンは再びアイマスクを着け、聖仁に手を引かれて歩き出した。

しかし先ほどまでの興奮の余韻からか、聖仁は彼女の手を強く引きすぎてしまった。


予期せぬ力に、カレンがよろめく。


「危ない!」


とっさに、聖仁は彼女を引き寄せ、抱き留めた。


二人の身体がぴったりと密着する。

衣服越しに、互いの体温と身体の感触が伝わった。


(見た目以上に引き締まった身体ね……)


カレンは、自分を抱き留めた青年の身体の硬さを感じながら、冷静にその能力を分析していた。


(マスターよりも、肉体の強さは上かもしれないわ)


一方の聖仁は、頭の中が真っ白になっていた。


全身に伝わる、極上の美女の身体の感触。

男の自分には想像もできなかった柔らかさと、間近に漂う蠱惑的な香り。


自身の責任感から遠ざけてきた女性との親密な接触に、内心は激しく揺さぶられる。


少しでも身じろぎすれば、自分の何かが壊れてしまうような未知の恐怖と、それに相反する歓喜や劣情が、聖仁を襲った。


「ぁ、ぅ……」


聖仁の喉から、小さな声が漏れた。


カレンは、密着した身体を通じて、彼の下腹部に生じた熱い反応を感じ取った。

その唇に、薄い笑みが浮かぶ。


思いがけないハプニングに感謝し、この任務の勝利を確信した瞬間だった。


「聖仁さん……助けてくれたのね。ありがとう」


微動だにできない聖仁に、助け船を出すようにカレンが声をかけた。

彼女はアイマスクを外し、自ら身体を離す。


聖仁は、耳朶まで真っ赤にしながら応えた。


「僕が急ぎすぎたせいで、カレンさんを転ばせてしまうところでした。本当にごめんなさい。以後、気を付けます!」


目を逸らさず、まっすぐに彼女を見つめる聖仁。


その迷いのない受け答えさえも、彼が自分への依存を深めた結果だと、カレンはこれまでの豊富な経験から判断した。


(……覚悟を決めたのね。私を欲しいと思っている自分を、認めた)


カレンの唇に、笑みが浮かぶ。


(あとはもう、どんなアプローチをしたって、自分に都合のいい方へ解釈してくれるだけよ)


スタッフたちが駆け寄ってきたが、カレンは「大丈夫ですよ」と穏やかに制し、場を鎮めた。


再びアイマスクを着け、彼女は聖仁の手を取った。

撮影が再開される。


先ほどまで遠慮がちに握っていた聖仁の手が、今はためらいなくカレンの美しい指に絡まり、力強く握ってくる。


ダイヤルが一つ、カチリと回ったような、確かな手応えをカレンは感じていた。


***


撮影が進むにつれ、二人の距離は急速に縮まっていく。


合間には互いの日常について語り合い、笑い声を交わすことさえあった。

当初の緊張した様子は消え、聖仁の話し方は柔らかく、それでいて知性を感じさせるものへと変わっていく。


カレンもまた、目標への着実な前進を実感し、彼とは異なる、甘美な高揚感を味わっていた。


最後の撮影場所は屋上だ。

そこへ至るには、狭く長い階段を上らなければならない。


スタッフが安全のため、アイマスクを外すよう促したが、カレンはそれを拒んだ。


「聖仁さんが連れていってくれるから、大丈夫よね?」


そう宣言すると、彼女は聖仁の腕に手を回し、密着する。

再びカレンの肢体が絡みつき、一瞬、聖仁の背筋に震えが走ったが、彼は呼吸を整えて答えた。


「はい! 少しずつ上りましょう。しっかり僕につかまっていてください。ゆっくりいきますよ」


自然な動きを装いながらも、カレンはわざと身体を擦り付けるようにして彼の腕に縋った。


一段、また一段と階段を上がるたび、聖仁の喉からは荒い吐息が漏れる。

それは疲労によるものではなく、内側から突き上げる熱情ゆえだった。


腕に伝わる、暴力的なまでに豊かで官能的な感触。

彼の心はカレンへの憧憬と、抗いがたい劣情により黒く塗り潰されようとしていた。


だが、その暗い衝動の底で、一筋の理性が微かな光を放つ。


(おかしい……)


聖仁は、強い欲望と期待を抑えつけ、思考を巡らせる。


(カレンさんは映画『盲目の天使』では、もっと狭い階段も自力で上っていた。勿論、あのときは本当に見えなかったわけじゃない。演出だったのかもしれない。でも……)


屋上に着く頃には、夕日が沈みかけ、空は朱色に染まっていた。


最終シーンの撮影を終え、スタッフが終了を告げると、カレンはアイマスクを外す。


周囲から一斉に拍手が湧き起こる。

聖仁もカレンも、今日一日のスタッフの働きを労い、拍手を送った。


やがて拍手は収まり、現場は慌ただしく撤収の準備へと移っていく。

その中で、カレンは聖仁を誘い、スタッフから少し離れた場所へ移動した。


「聖仁君、今日は本当にありがとう。あなたが親切に案内してくれたから、不安なく撮影できたわ。私、すごく感動しちゃった!」


全ては、次の撮影への布石。


カレンは勝利を確信していたが、手を緩めない。

女優としての自然な演技で、聖仁の献身を褒め讃えた。


「僕は感動しっぱなしでした! こちらこそ、本当に貴重な経験をさせていただき、ありがとうございました。今日のこと、一生忘れません!」


聖仁の目は、感激で潤んでいる。

カレンはとどめとばかりに、その手を握った。


「そう言ってくれると、本当に嬉しい! 聖仁君、もしまた共演できる機会があったら、そのときは必ず来てね! 社交辞令じゃないのよ? うふふ」


感激で再び身体を震わせる聖仁だったが、一拍の間を置き、カレンを真っすぐに見つめ返して尋ねる。


「あの……僕の父を……ご存じですか?」


心臓を掴まれ、揺さぶられるような衝撃が、カレンの内に走った。


並の人間なら、ここで激しく狼狽していたかもしれない。

だが彼女は演技を崩さず、困惑したふりをして応える。


「え?……聖仁君のお父様?……有名な方なのかしら?」


カレンの瞳に、自然な驚きが宿る。


「ごめんなさい。そういうことなら、事前にご挨拶するべきだったかしら。勉強不足だったわね」


そのあまりに自然な反応に、聖仁は安堵したように肩の力を抜いた。


「いえ! 全然、有名とかじゃないんです。僕、突然何を言ってるんだろう……! 失礼しました! あはは!」


彼の中に芽生えていた細く弱い違和感は、カレンへの憧憬に塗りつぶされていく。

二人で笑い合いながらも、カレンは内心で、青年の洞察力に恐れ慄いていた。


(舐めすぎたわ……疑われるだけでも危険なのに!)


(でも、この言い方だと、父親が何をしているのか、息子も詳しくは知らないみたい。一体、マスターは何者なの?)

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