第二話 盲目の魔女
朝の校庭には、機材を運ぶ台車の音と、スタッフたちが交わす声が響いていた。
大型の照明器具が運び込まれ、地面には黒いケーブルが延びている。
登校してきた生徒たちは足を緩め、用途も分からない撮影機材を指さしたり、友人と顔を見合わせたりしていた。
いつものグラウンドが撮影現場へと変わっていく光景に、誰もが目を輝かせている。
その傍らを、一人の生徒が歩いてきた。
清水聖仁。
身長百八十七センチと、ひときわ背が高く、肩幅があり、均整の取れた体格。
行く手を横切るスタッフがいれば足を止め、軽く会釈して先を譲った。
聖仁は、パイプ椅子に腰かけて、現場全体を見渡している男性の前で立ち止まる。
「おはようございます。大塚さんでしょうか」
顔を上げた男性は、聖仁の姿に一瞬目を見開いた。
しかし、その顔立ちに見覚えがあると気づくと、すぐに笑みを浮かべた。
「ああ、君が清水聖仁君だね!」
大塚は椅子から立ち上がり、聖仁を見上げた。
「写真は顔のアップだったから、こんなに体格のいい青年だとは思わなかったよ。いやあ、驚いた。今日のスタッフをまとめている大塚郡司です。よろしくね」
気さくな声につられ、聖仁の口元にも笑みが浮かんだ。
「清水聖仁と申します。この学校で生徒会長を務めています。こちらこそ、よろしくお願いします」
少し力の入ったお辞儀をしてから、顔を上げる。
「実は、昨夜は緊張して、あまり眠れませんでした」
照れたように笑い、聖仁は言葉を続けた。
「精一杯務めますので、不慣れなところは教えていただけると助かります」
挨拶を終えると小さく息をつき、大塚の返答を待った。
「緊張するのは当然だよ。あのカレンさんと一日中、付きっきりで過ごすことになるんだから」
大塚は聖仁の肩を軽く叩き、笑いながら言った。
「でも、大丈夫。君が演技をする必要はないんだ。戸惑ったり、失敗したりすることも、このドキュメンタリーでは大切な一場面になる。堅く考えなくていい。僕らも近くでフォローするから、安心して」
これほど多くのスタッフを率いながら、一人の生徒の緊張にも気を配ってくれる。
その気さくな態度に、聖仁は密かな敬意を覚えた。
「ありがとうございます」
深く頭を下げる青年。大塚は彼を待機場所へと案内した。
「始めるときに声をかけるので、ここで待っていてね。あ、それと、トイレに行くときは必ず近くのスタッフに声をかけてね。開始時間と重なると、みんなを待たせちゃうから」
「分かりました。必ずお声がけします」
聖仁は一人、校庭の隅に設置された仮設テントへ入った。
外からは、スタッフたちの忙しない声が聞こえてくる。
パイプ椅子に腰を下ろし、膝の上で握っていた手を緩めた。
(落ち着け…落ち着け…。普段見慣れた場所を案内するだけだ。何も問題はないさ)
目を閉じ、呼吸を整える。
校内の道順と、案内するときの説明を頭の中で繰り返していると、不意に両肩へ、そっと手が置かれた。
ほのかに甘い、上品な香りが首元を包む。
驚いて目を開けると、すぐ目の前で、一色カレンが微笑んでいた。
「あら、驚かせちゃったかしら?」
写真や画面で何度も見てきた顔が、手を伸ばせば触れられる距離にある。
聖仁は息を呑んだ。
「ごめんなさいね。じっと目を閉じていたから、疲れて眠っているのかと思って。大塚さんから、昨夜はあまり眠れなかったって聞いたものだから。ふふっ」
カレンは聖仁の顔を覗き込む。
「聖仁君ね? 今日はよろしくお願いします。一色カレンです」
「あ、あ……」
挨拶を返さなければと思うのに、言葉が続かない。
聖仁は椅子に座ったまま、目の前の顔を見つめていた。
カレンは微笑みを保ちながら、その反応を見定める。
言葉に詰まる様子も、赤くなっていく耳も、彼女にとっては相手の性格と弱点を測る材料だった。
(この狼狽ぶり……女性に興味が無い訳ではないわね。あくまでも、強い意志で抑え込んでいるだけ)
カレンの口元に、微かな笑みが浮かぶ。
(ふふふ、そこまで気を張る必要はなさそう。この子も、一皮むけば他の男と変わらないわ)
聖仁の頭からは、この日のために用意していた言葉が、全て吹き飛んでいた。
尊敬するカレンに会ったら何を伝えるか、挨拶は何度も練習してきたはずなのに。
自分の不甲斐なさを内心で嘆きながらも、椅子から勢いよく立ち上がる。
「清水聖仁と申します! こちらこそ、よろしくお願いします!」
聖仁の思った以上に大きな声がテント内に響き、カレンは穏やかに微笑んだ。
「ふふっ、元気なのね。それにしても、すごく逞しい身体をしているのね。何かスポーツをされているのかしら? 腕も立派で素敵だわ」
カレンは聖仁の二の腕に手を添え、制服越しに撫でるように掴む。
相手が自信を持つ身体の部位を褒め、さりげなく触れる。
体育会系の男を籠絡するときに、彼女がよく使う手だった。
「あ……その……テニスと水泳を、やっています!」
聖仁はカレンに触れられるがまま、ようやく答えた。
視線は落ち着かず、彼女の顔へ戻っては、また逸れる。
カレンは獲物を前にしたカマキリのように、その動きを見逃さず観察していた。
(胸を二回、脚を一回、顔は何度も見返しているわね……美人と、おっぱいが好きなのかしら)
マスターからは、母親とかなり仲がいいと聞いている。
(マザコン気質なのかも……。分かりやすくて可愛い子)
聖仁の狼狽は、カレンには見慣れた反応に思えた。
(さんざんマスターに脅されたけれど、何てことはない。もう既に私の虜よ)
相手を見定めたカレンは、満足げに微笑むと、「準備があるから」と短く告げてテントを後にした。
一人残された聖仁は、倒れ込むように椅子へ座り込み、深く息を吐いた。
(……情けない! 練習してきたのに、まともに話せなかった)
心臓の鼓動が、まだ耳の奥で響いている。
これから一日、自分が彼女を案内し、支えなければならないというのに。
聖仁は両手で頬を強く叩いた。ぱちん、と乾いた音が響く。
(しっかりしろ……!)
自らを奮い立たせ、再び目を閉じる。
外から聞こえるスタッフたちの声を背に、呼吸を整え、頭の中で案内の手順を確かめながら時を待った。
二十分ほどが経過した頃、大塚がテントに入ってきた。
「聖仁君、始まるよ。校舎のメインエントランスまで来てくれるかな」
「はい、すぐに行きます!」
聖仁は立ち上がり、駆け足で校舎へと向かう。
その入り口にカレンの姿を見つけ、思わず足を止めた。
そこに、『盲目の天使』がいた。
透けない純白の短いローブを纏ったカレンは、映画で見たときよりも儚げで美しい。
スクリーン越しに憧れていた姿が、今は手の届くところにある。
聖仁が見入っていると、カレンが声を漏らした。
「聖仁……さん……?」
目を閉じたまま、彼女がよろよろと歩み寄ってくる。
聖仁は我に返り、慌ててその手を取った。
長く美しい指が、掌に収まる。
肌の柔らかさと温かさに触れ、身体の内側から、これまで感じたことのない疼きが湧き上がった。
「『ありがとう、行きたいところがあるの。一緒に来てくれる?』」
映画の中で、カレンが口にした台詞。
その言葉を自分に向けられたことに、聖仁は感激していた。
彼女の手を握り、案内役としての使命を胸に、答える。
「お任せください!」
ドキュメンタリーの撮影では、映画とは異なり、カレンは不透明なアイマスクを着けて視界を遮った。
廊下を歩く二人の足音が、校舎に響く。
聖仁にとって、それは何気ない日常の行動のはず。
しかし、カレンの手を握り、慎重に歩を進める道のりは、緊張と官能に満ちていた。
カレンの手は、ただ握られているのではない。
美しく艶めいた指先が、聖仁の逞しい掌をなぞり、指の間に絡みつき、時に強く、時に軽く弄ぶ。
その感触に、聖仁の喉はひどく乾き、何度も唾を飲み込んだ。
(ただ、手を繋いでいるだけだ……)
必死に自分へ言い聞かせるが、身体の奥底から湧き上がる劣情は、鎮まらない。
(何てことだ……僕は、こんなにも卑猥な男だったのか! 情けない!)
教室に入り、二人は席に座った。
視界を遮られた闇の中にいながら、カレンは、繋いだ手から伝わる青年の震えや強張りを正確に捉えていた。
強い理性で必死に自分を律しようとする、健気な若者。
カメラが回る本番中であっても、彼女の手遊びは止まらない。
その反応に、カレンは満足していた。
教室を出て、二人は体育館へと向かう。
広い館内の中央には、パイプ椅子が二つ並べられている。案内されたカレンが座り、聖仁もその隣に腰を下ろす。そこで唐突にアイマスクが外された。
眩しさに一瞬、顔を曇らせた後、カレンは目を見開いた。
全校生徒だろうか、数えきれないほどの生徒たちが、二人から少し離れた位置で、円を描くように立ち並んでいた。
隣で緊張しきっていた聖仁が、静かに片手を挙げる。
それを合図に、歓迎の声が館内に響き渡った。
「一色カレンさん! 我が校へようこそ!」
撮影スタッフにも、詳細は知らされていなかったのだろう。
困惑と歓喜が入り混じった表情を浮かべながら、カメラを回し続けている。
「まあ、嬉しい。聖仁さん、これは?」
予想外の歓迎に、カレンは意表を突かれたように尋ねた。明るい笑顔で答える聖仁。
「この撮影が決まったとき、皆で何かできないか、という話になりまして。歓迎の気持ちを伝えたいという意見がまとまって、こうなりました」
聖仁の声には、喜びが溢れていた。
「皆、時間がない中、頑張ってくれて! 喜んでいただけて、良かったです!」
全身で喜びを表す聖仁。
その様子を見て、さらに湧き立つ生徒達。
カレンは、聖仁を含めた全生徒を見渡した。
一連のやり取りに、彼の統率力とカリスマ性が窺える。
(なるほど。マスターの言う「息子は優秀」というのも、あながち贔屓目では無いようね。生徒たちの表情に、少しも影がない。皆が、彼に心酔している)
本来、体育館では、広い空間で視界を遮られた場合に、移動にどのような難しさが生じるかを検証する予定だった。
カレンは再びアイマスクを着け、聖仁に手を引かれて歩き出した。
しかし先ほどまでの興奮の余韻からか、聖仁は彼女の手を強く引きすぎてしまった。
予期せぬ力に、カレンがよろめく。
「危ない!」
とっさに、聖仁は彼女を引き寄せ、抱き留めた。
二人の身体がぴったりと密着する。
衣服越しに、互いの体温と身体の感触が伝わった。
(見た目以上に引き締まった身体ね……)
カレンは、自分を抱き留めた青年の身体の硬さを感じながら、冷静にその能力を分析していた。
(マスターよりも、肉体の強さは上かもしれないわ)
一方の聖仁は、頭の中が真っ白になっていた。
全身に伝わる、極上の美女の身体の感触。
男の自分には想像もできなかった柔らかさと、間近に漂う蠱惑的な香り。
自身の責任感から遠ざけてきた女性との親密な接触に、内心は激しく揺さぶられる。
少しでも身じろぎすれば、自分の何かが壊れてしまうような未知の恐怖と、それに相反する歓喜や劣情が、聖仁を襲った。
「ぁ、ぅ……」
聖仁の喉から、小さな声が漏れた。
カレンは、密着した身体を通じて、彼の下腹部に生じた熱い反応を感じ取った。
その唇に、薄い笑みが浮かぶ。
思いがけないハプニングに感謝し、この任務の勝利を確信した瞬間だった。
「聖仁さん……助けてくれたのね。ありがとう」
微動だにできない聖仁に、助け船を出すようにカレンが声をかけた。
彼女はアイマスクを外し、自ら身体を離す。
聖仁は、耳朶まで真っ赤にしながら応えた。
「僕が急ぎすぎたせいで、カレンさんを転ばせてしまうところでした。本当にごめんなさい。以後、気を付けます!」
目を逸らさず、まっすぐに彼女を見つめる聖仁。
その迷いのない受け答えさえも、彼が自分への依存を深めた結果だと、カレンはこれまでの豊富な経験から判断した。
(……覚悟を決めたのね。私を欲しいと思っている自分を、認めた)
カレンの唇に、笑みが浮かぶ。
(あとはもう、どんなアプローチをしたって、自分に都合のいい方へ解釈してくれるだけよ)
スタッフたちが駆け寄ってきたが、カレンは「大丈夫ですよ」と穏やかに制し、場を鎮めた。
再びアイマスクを着け、彼女は聖仁の手を取った。
撮影が再開される。
先ほどまで遠慮がちに握っていた聖仁の手が、今はためらいなくカレンの美しい指に絡まり、力強く握ってくる。
ダイヤルが一つ、カチリと回ったような、確かな手応えをカレンは感じていた。
***
撮影が進むにつれ、二人の距離は急速に縮まっていく。
合間には互いの日常について語り合い、笑い声を交わすことさえあった。
当初の緊張した様子は消え、聖仁の話し方は柔らかく、それでいて知性を感じさせるものへと変わっていく。
カレンもまた、目標への着実な前進を実感し、彼とは異なる、甘美な高揚感を味わっていた。
最後の撮影場所は屋上だ。
そこへ至るには、狭く長い階段を上らなければならない。
スタッフが安全のため、アイマスクを外すよう促したが、カレンはそれを拒んだ。
「聖仁さんが連れていってくれるから、大丈夫よね?」
そう宣言すると、彼女は聖仁の腕に手を回し、密着する。
再びカレンの肢体が絡みつき、一瞬、聖仁の背筋に震えが走ったが、彼は呼吸を整えて答えた。
「はい! 少しずつ上りましょう。しっかり僕につかまっていてください。ゆっくりいきますよ」
自然な動きを装いながらも、カレンはわざと身体を擦り付けるようにして彼の腕に縋った。
一段、また一段と階段を上がるたび、聖仁の喉からは荒い吐息が漏れる。
それは疲労によるものではなく、内側から突き上げる熱情ゆえだった。
腕に伝わる、暴力的なまでに豊かで官能的な感触。
彼の心はカレンへの憧憬と、抗いがたい劣情により黒く塗り潰されようとしていた。
だが、その暗い衝動の底で、一筋の理性が微かな光を放つ。
(おかしい……)
聖仁は、強い欲望と期待を抑えつけ、思考を巡らせる。
(カレンさんは映画『盲目の天使』では、もっと狭い階段も自力で上っていた。勿論、あのときは本当に見えなかったわけじゃない。演出だったのかもしれない。でも……)
屋上に着く頃には、夕日が沈みかけ、空は朱色に染まっていた。
最終シーンの撮影を終え、スタッフが終了を告げると、カレンはアイマスクを外す。
周囲から一斉に拍手が湧き起こる。
聖仁もカレンも、今日一日のスタッフの働きを労い、拍手を送った。
やがて拍手は収まり、現場は慌ただしく撤収の準備へと移っていく。
その中で、カレンは聖仁を誘い、スタッフから少し離れた場所へ移動した。
「聖仁君、今日は本当にありがとう。あなたが親切に案内してくれたから、不安なく撮影できたわ。私、すごく感動しちゃった!」
全ては、次の撮影への布石。
カレンは勝利を確信していたが、手を緩めない。
女優としての自然な演技で、聖仁の献身を褒め讃えた。
「僕は感動しっぱなしでした! こちらこそ、本当に貴重な経験をさせていただき、ありがとうございました。今日のこと、一生忘れません!」
聖仁の目は、感激で潤んでいる。
カレンはとどめとばかりに、その手を握った。
「そう言ってくれると、本当に嬉しい! 聖仁君、もしまた共演できる機会があったら、そのときは必ず来てね! 社交辞令じゃないのよ? うふふ」
感激で再び身体を震わせる聖仁だったが、一拍の間を置き、カレンを真っすぐに見つめ返して尋ねる。
「あの……僕の父を……ご存じですか?」
心臓を掴まれ、揺さぶられるような衝撃が、カレンの内に走った。
並の人間なら、ここで激しく狼狽していたかもしれない。
だが彼女は演技を崩さず、困惑したふりをして応える。
「え?……聖仁君のお父様?……有名な方なのかしら?」
カレンの瞳に、自然な驚きが宿る。
「ごめんなさい。そういうことなら、事前にご挨拶するべきだったかしら。勉強不足だったわね」
そのあまりに自然な反応に、聖仁は安堵したように肩の力を抜いた。
「いえ! 全然、有名とかじゃないんです。僕、突然何を言ってるんだろう……! 失礼しました! あはは!」
彼の中に芽生えていた細く弱い違和感は、カレンへの憧憬に塗りつぶされていく。
二人で笑い合いながらも、カレンは内心で、青年の洞察力に恐れ慄いていた。
(舐めすぎたわ……疑われるだけでも危険なのに!)
(でも、この言い方だと、父親が何をしているのか、息子も詳しくは知らないみたい。一体、マスターは何者なの?)




