第一話 最初の女
夜の繁華街から隔絶された、高層ビルの一室。
窓の外、宝石を撒き散らしたような都会の灯りが、無慈悲なほど美しく瞬いている。
プレジデンシャルスイートに漂う重厚で静謐な空気の中では、それさえも遠い世界の光景に感じられた。
部屋の中央に置かれた巨大なベッドには、二人の男女がいた。
一色カレン。
その美貌に日本中が熱狂し、類いまれな演技に涙する大女優。
百七十五センチの長身に、細く引き締まった腰と、豊かで目を奪うような曲線を備えている。
いま、その身体は乱れたシーツの上へ力なく横たわり、長い髪が白い布地に黒々と広がっていた。
カレンは浅い呼吸を繰り返しながら、閉じていた瞼をゆっくりと持ち上げる。
傍らにいる男を、彼女は「マスター」と呼んでいた。
身長は百六十九センチ。カレンより明らかに小柄である。
それでも、鍛え上げられた身体には、受けた時期も原因も異なるであろう無数の傷痕が刻まれ、その姿から脆弱さを感じ取ることはできない。
彼は、ようやくカレンを解放すると、大人が三人横になっても余るほどのベッドへ、無造作に身体を投げ出した。
二人が部屋へ入ってから、いったい何時間が過ぎただろうか。
時計の針は、深夜一時を回っている。
カレンは荒い呼吸を整えようと努めながら、重い身体を起こした。
マスターへ言葉をかけることも、視線を向けることもしない。
床に落ちた衣服を拾うことさえ後回しにして、逃げ込むように浴室へ向かった。
扉が閉じる。
ほどなくして、シャワーの音が、静まり返った部屋へ響き始めた。
全身を襲うのは、底なしの疲労と、それ以上に重苦しい屈辱。
熱めの飛沫が、肌に刺さるように降り注ぐ。
カレンは目を閉じ、自分自身に言い聞かせるように思考を巡らせた。
(……これくらい、なんてことはない)
女優として頂点へと駆け上がる過程で、望まぬ男たちの要求に応じることなど、幾度となく繰り返してきた。
微笑みを作り、身体を差し出し、その代償として望んだ役や地位を手に入れる。
今夜のこの男も、その数ある「仕事」の一つに過ぎない。
そう自分に言い聞かせ、感情の波を無理やり抑え込もうとする。
だが、指先が男の触れた場所をなぞるたび、肌が粟立つような感覚が消えなかった。
洗面台に置かれた石鹸を手に取り、身体を洗う。一度、二度。
それでも、肌に残った感触は消えてくれない。
気付けば、洗うというより、剝ぎ取るような手つきになっていた。
男の指先が這った記憶も、そこに残る熱も、その全てを肌の奥から削り落とそうとするかの様に、カレンの手に力がこもっていく。
やがて、肌は摩擦で赤らみ、鈍い痛みを訴え始めた。
カレンは、そこでようやく手を止め、苛立たしげにシャワーを閉じる。
静寂が戻った浴室で、鏡の中の自分を見つめた。
そこにいる女は、常と変わらず美しく映っている。
だからこそ、カレンは腹立たしかった。
身支度を整えて寝室へ戻ると、マスターはベッドの上で半身を起こし、無関心に天井を眺めていた。
「……マスター。これをもって、今夜の用件は終了という事で、宜しいでしょうか」
カレンの声は、完璧な礼儀を保っていた。
今夜の出来事を、あくまで一つの「用件」として処理する。
それが彼に奪われた主導権を、僅かでも取り戻すべく、彼女が選んだ言葉だった。
マスターは、天井を見つめたまま短く答える。
「いや、まだだ。君に頼みたい事がある」
カレンの肩が、僅かに動く。
「……今夜のこと以外にも、まだ何か?」
その問いを受け、マスターは、ようやく彼女へ視線を向けた。
先程までの男としての熱は消え失せ、その眼差しには、乾いた知性が宿っている。
「君をここへ呼んだのは、単に私の欲を満たすためだけでは無い」
カレンは眉をひそめ、男を見つめ返した。
「……では、何のために?」
「私には、息子がいる」
あまりに唐突で、この場には似つかわしくない話題だった。
「十八になるが、女性にまるで関心を示さない。真面目なのは結構だが、いささか度が過ぎていてね」
「……それを、なぜ私に?」
「君に誘惑してもらいたい」
その言葉が、静寂の中へ重く落ちる。
カレンは、自分の耳が聞き間違えたのではと疑い、しばらく男の顔を見つめた。
「……はい?」
「息子にとって、最初の女になってくれ。一色カレン」
マスターの瞳に、冗談の色はなかった。
カレンは立ち尽くしたまま、低く震える声で聞き返した。
「……最初の、女?」
喉の奥からせり上がるのは、言葉にできないほどの嫌悪感だ。
これまで数多くの男たちと肌を重ねてきた。
倒錯した性癖を持つ者、権力を見せつけるために無理難題を要求する者。
その全てを、彼女は「仕事」として受け流してきた。
だが、今この男が口にしたのは、それらとは種類の異なる、あまりにも理不尽な命令だった。
自分を抱いた直後の男が、次は実の息子を誘惑しろと命じる。
その要求に、カレンの指先が微かに震えた。
彼女は必死に、大女優としての仮面を維持しようとする。
表情を崩さず、冷ややかな眼差しで男を見つめ返した。
だが、その瞳の奥に浮かぶ拒絶と困惑の色までは、隠しきれない。
マスターは、そんな彼女の反応にも動じず、ただ淡々と言葉を継いでいく。
「誤解しないでほしい。単なる情欲を満たすための、退屈な遊びではないのだ」
「私には、何人か子供がいる。だが将来、私の事業を継がせたいと思っているのは、あいつ、聖仁だけだ」
マスターは、自身の息子について語り始めた。
十八歳になるその少年――清水聖仁。
天才的な頭脳と、見る者を惹きつける容姿を備え、学校では生徒会長を務めている。
非公式のファンクラブまで存在するほどの人気を誇るが、彼に近づく少女たちはことごとく、その門前で退けられてきたという。
「……あいつは、あまりに真面目すぎる」
マスターは、呆れながらも、どこか面白がっているような奇妙な口調で続けた。
妻から聞いたという、聖仁が少女たちへ告げた言葉を、彼は再現してみせる。
「『僕はまだ勉学の途上にあります。今の僕には、あなたの人生を引き受け、幸せにするだけの器がありません。申し訳ありませんが、今は誰ともお付き合いするつもりはありません』……ふん。十八歳の少年が口にする台詞としては、いささか大仰だと思わないか?」
恋愛を一時の感情として扱わず、相手の人生に対する責任まで考え、答えている。
その誠実さは立派であると同時に、彼を同年代の少年少女が経験するような、甘い恋愛から遠ざけてもいた。
カレンは、言葉を失いながらも、思考を巡らせた。
少なくとも脅迫者の目的は、父子で同じ女を共有するという、倒錯した悦楽では無いらしい。
マスターは、極端なまでに生真面目な息子へ、恋愛や女性との関係を経験させたいと考えている。
話の表面だけを受け取るなら、そういう事と解釈できた。
(……これも、仕事だというのね)
カレンは、胸の奥に澱のように溜まった嫌悪感を押し殺し、思案する。
マスターが求めているのは、息子にあてがう、単なる夜の相手ではないらしい。
その瞬間、彼女の中でマスターに対する認識が、わずかに変化した。
彼は単に、好色で強欲な男というだけではない。
目的を達成するためなら、他人の人生も感情も、そして自分のような女の尊厳さえも平然と道具として扱う男なのだ。
その異様な合理性に、カレンは改めて警戒を深めた。
同時に、聖仁という少年の存在が意識に残る。
マスターの説明が正しいのなら、聖仁は父親とは似ても似つかない青年に思える。
だが、事情が分かったところで、最も大きな疑問は残されたままだ。
カレンは呼吸を整え、暗い瞳でマスターを見据えた。
「……事情は理解しました。ですが、他に相応しい女性は幾らでも用意できるはずです。何故、私なのですか?」
「……其処が気になるとは、流石だな」
マスターは、カレンの問いに小さく頷き、笑みを浮かべた。
「美しいだけの女なら、他に幾らでも用意できる。だが男を狂わせる容姿と、その男たちを手玉に取る知性――その両方を兼ね備えた女は、そう多くない。今回の役目には、これ以上ない人選だよ」
そこで僅かに間を置き、彼は意味ありげに片方の口角を上げた。
「それに、君でなければならない理由もある」
世辞や甘言には慣れきっているカレンは、表情一つ変えずに問いを重ねた。
「理由がある……? ご子息が私のファン、という事でしょうか」
「その通りだ」
マスターの声に、先程までの冷徹な響きとは異なる、奇妙な熱が混じった。
「だが、単に有名な女優へ憧れているというだけの、陳腐な話ではない」
マスターは、息子を観察してきた記録を披露するように、淡々と言葉を続けた。
「彼の部屋には、生活に必要な最低限の物と、目が痛くなるほど生真面目な本しかない。その年頃の少年なら、ベッドの下に色気のある雑誌が一冊や二冊あっても不思議ではないだろう? だが、あいつにはそれすらない」
カレンは眉をひそめた。男の言葉は、あまりに具体的だった。
「人を使って身辺も調べさせた。パソコンやスマートフォンの履歴に至るまで、部屋と同じように無味乾燥だ。SNSすら利用していない。女性の裸を保存しておけとは言わないが、十八歳の少年としては、いささか乾きすぎていると思わないか?」
マスターは、困ったものだと言わんばかりに肩をすくめた。
その仕草だけを見れば、息子の堅物ぶりを嘆く、ごく普通の父親にも見える。
「それで、少し探りを入れてみたんだ。『女の子と、そういうことをしたいとは思わないのか?』とな。からかえば、少しくらい本音を見せると思ったんだが……」
男の口元に、悪戯を思い出した少年のような笑みが浮かぶ。
「『そのような関係は、将来を誓い合える方と築くものだと思っています』と冷たい目で睨まれてしまったよ」
女性への冷淡さではなく、相手の感情も、その先にある人生も、軽々しく扱うことのできない誠実さ。
カレンには、その返答がそう聞こえた。
「……それで、私のファンだというのは?」
カレンが痺れを切らして本題を促すと、マスターは待ってましたと言わんばかりに身を乗り出した。
「そう、それだ!」
男の声が、ほんの一瞬、無邪気に弾んだ。
「参考書と専門書しかない、あの殺風景な部屋を、最近改めて調べたところ――なんと、君のグラビア写真集が見つかったんだ」
カレンの瞳が、わずかに揺れた。
「ほかにも、君に関する品が幾つかあった。母親との会話でも、あいつは珍しく興奮した様子で君のことを話題にしているらしい。普段はテレビすら碌に見ない聖仁がだ。これは快挙だよ!」
マスターの声には、隠しきれない高揚が滲んでいた。
(……なんて、迷惑な話なの)
カレンは内心で、小さく息をついた。
自分が選ばれた理由は理解できた。
だが、本人の知らないところでその関心を勝手に利用しようとする発想は、やはり尋常ではない。
それでも――身近な女性にも、華やかな芸能界にも関心を示さなかった青年が、自分の何かを気に入ったらしい。
任務への興味も喜びもないが、その事実だけが、カレンの胸に小さく引っかかる。
もっとも、心の大部分を占めるのは、この風変わりな親子の事情に巻き込まれた迷惑さだった。
内心では、頭を抱えてその場に蹲りたかった。
しかし目の前にいるのは、自らの致命的な秘密を握り、今の自分には抗う術のない支配者である。
カレンは震えそうになる呼吸を整え、努めて感情を排し、依頼の内容を確認した。
「……承知しました。つまり、ご子息に近づき、女性との恋愛や親密な関係へ目を向けさせる。それが私の役目ということですね」
一呼吸置き、さらに彼女は踏み込んだ確認を行う。
どれだけ好色な男でも、出会って間もないうちに身体の関係まで進むとは限らない。
ましてや聖仁の、今聞かされた極端なまでの生真面目さを考えれば、カレンが性急に迫りすぎることは、却って不自然さを露呈し、警戒を招く危険があった。
「……身体の関係については、あくまで成り行きに任せる、という事で宜しいでしょうか?」
しかし、マスターはあっさりと、そしてあまりにも無造作に、それを否定する。
「いや。童貞は、何としても奪ってもらう」
あまりに露骨で、品を欠いた断言。
カレンの眉が微かに動いた。
取り澄ました紳士の顔の下から、遠慮も節度もない、男の地金が覗いた瞬間だった。
だがマスターは、彼女の反応など意に介さず、より核心へ踏み込んでいく。
「正確に言えば、それだけでは足りない。君に夢中にさせろ」
マスターの瞳に、揺るぎない意志が宿った。
「君を失うことなど考えられない――そう思わせるほど、聖仁を虜にするんだ。それが、この任務の目標だ」
要求の度を越した重さに、カレンは訝しげな表情を隠せなかった。
少年の心へ入り込み、その後の人生まで左右するほどの執着を、自分へ向けさせろというのだ。
「……それが、本当に可能だと、お考えですか?」
カレンは、現実的な問題を突きつけた。
「ご子息が私へ多少の関心を持っているとしても、私は二十七歳の女優です。相手は十八歳の高校生。そんな二人が突然距離を縮めれば、何か裏があると疑うのが当然でしょう」
だが、マスターは動じることなく、むしろ予想通りといった様子で答えた。
「その通りだ。普通に近づけば、まず無理だろうな」
彼は、難題の条件を一つずつ確認するような、落ち着いた声で続けた。
「聖仁もまた、君と同じ切れ者だ。二十七歳の大女優が、何の理由もなく十八歳の高校生へ近づいてくる。そんな不自然さを、あいつが見逃すはずがない」
「裏の気配を察した瞬間、聖仁は心を閉ざすだろう。そうなれば、君がどれほど言葉を尽くしたところで、二度と信用を得ることはできない」
自ら難題であることを認めながらも、マスターの表情には、焦りも迷いも微塵もなかった。
マスターはベッドから起き上がると、鍛え上げられ、無数の傷痕が残る逞しい身体をさらしたまま、デスクに置かれた鞄へと歩み寄った。
分厚いファイルに綴じられた資料を取り出し、カレンへ差し出す。
「後で、隅々まで読み込んでおいてくれ」
「大女優・一色カレンが、一介の高校生と親しくなっても不自然ではない舞台を用意した。結論から言えば、二つのテレビ番組を利用する」
カレンは無言で資料を受け取り、その内容に目を通し始めた。
企画書、出演予定者、撮影日程、学校側との交渉記録、そして放送局上層部の承認。
指先がページをめくるたび、そこに記された名前の重みに、カレンの背筋に微かな戦慄が走る。
番組の制作責任者をはじめ、協力者の一覧には、芸能界や放送業界の中枢に位置する人物たちが名を連ねていた。
芸能界で確固たる地位を築いたカレンでさえ、容易には接触できない権力者たちである。
これだけの人間と組織を動かし、学校や放送局まで巻き込んだ舞台を、一体いつから準備していたというのか。
あまりにも緻密で、あまりにも大掛かりな工作。
カレンは驚きを隠しきれず、資料から顔を上げた。
マスターは静かに頷き、説明を始める。
「大まかな流れを話そう。まず一つ目の番組だ」
マスターの指が、資料の一ページを叩いた。
そこにはカレンが、かつて主演した映画の題名が記されている。
「舞台は、聖仁が通っている高校だ。視覚障害のある生徒が、学校生活の中でどのような不便や危険に直面するのかを検証する、至って真面目なドキュメンタリー番組。もちろん実際の当事者や専門家も参加し、番組全体の監修にも入ってもらう」
「そして、視聴者を企画へ引き込む案内役として、君に出演してもらう」
彼は、資料に記された映画の題名を指先でなぞった。
「君は以前、『盲目の天使』という映画で、視覚を失った女性を演じたな。聖仁が君に興味を持ったきっかけも、その映画だったらしい」
カレンの呼吸が、わずかに乱れた。
彼が用意した舞台は、偶然の出会いを装いながら、全てが緻密な必然によって組み上げられているようだった。
「番組では、君が『盲目の天使』の役へ再び向き合う、という名目を用いる。専門家の指導のもと、撮影中の一定時間、視界を完全に遮断した状態で、校内を移動してもらう」
「階段、廊下、教室、食堂……普段は意識することもない場所に潜む障害を君自身が体験し、視聴者へ伝える」
マスターの声に、次第に熱がこもっていく。
「そして、目の見えない君を校内で案内する相手として、生徒会長である聖仁が選ばれる」
カレンは注意深く話を聞いていたが、いつまでも全裸のまま、熱心に企画を語り続ける男へ次第に冷ややかな視線を向け始めた。
やがてクローゼットからバスローブを取り出すと、無言でマスターへと差し出す。
マスターは一瞬、きょとんとした顔を見せ、己の姿を見下ろした。
ようやく気づいたらしく、わずかに、しかし明らかに、ばつの悪そうな表情を浮かべてローブを受け取る。
その様子には触れず、カレンは再び企画書へ視線を戻した。
「……なるほど」
カレンは企画の意図を即座に読み取り、静かに口を開いた。
「視界を奪われた私は、彼の助けなしには校内を歩けない。彼は私の手を取り、危険のないよう一日を通して案内することになる……」
「番組の企画として自然に接触できるうえ、共同作業を通じて、互いの人柄を知る時間も得られる。最初の出会いとしては、これ以上ない舞台ですわね」
彼女の理解の速さに、マスターはローブの帯を締めながら、大仰に頷いた。
「その通りだ。ただし、この段階で君から誘惑を仕掛ける必要はない。手を取り、腕を貸し、言葉を交わす。それらは全て、番組の進行上、自然に生じるものだからな」
マスターは一歩、カレンへ歩み寄った。
その瞳には、先ほどまでの茶目っ気に代わり、揺るぎない命令の意志が宿っている。
「一つ目の番組の目的は、君と聖仁の間に不自然でない、最初の接点を作ることだ」
「君を画面の中にいる憧れの女優ではなく、実際に言葉を交わし、手を取った一人の女性として意識させる」
マスターの視線が、カレンの瞳を射抜いた。
「だから、くれぐれもやりすぎるなよ。あいつは頭が切れる。君が番組の意図を越えて近づこうとしていると悟られれば、その時点で計画は終わりだ」
マスターの強い念押しに、カレンは緊張を孕んだ面持ちで小さく頷く。
その様子を確認すると、マスターは一度話を止め、カウンターに置かれたクリスタル製のカラフェへ手を伸ばした。
冷えた水を二つのグラスへ注ぎ、その一つをカレンの手元へ滑らせる。
「……二つ目の番組は、一転して軽薄な内容のバラエティだ」
マスターは企画の題名を口にしかけ、わずかに照れを孕んだように表情を歪めた。
「『大女優・一色カレンは誰を選ぶのか!? デートを勝ち取れ! 年代別で挑む男たち!』……といった趣旨のものだ」
カレンはそれを聞き流し、冷静に資料のページをめくった。
「これは……十代から五十代まで、各年代を代表する男性が、自分の考えたデートプランを私へ提案し、その中から私が一人を選ぶ……という内容ですわね?」
「そうだ。ただし、二十代から五十代までの出演者は、全員こちら側の協力者だ。筋書きを知らされていないのは、十代代表の聖仁だけだ」
マスターは淡々と続ける。
「一つ目の番組を終える頃には、あいつは今よりも強く、君を意識しているはずだ。だが、あいつはあまりにも生真面目すぎる。放っておけば、こんな軽薄な番組からの依頼など、即座に断るだろう」
「そこで、君の力が必要になる」
マスターが指し示した指示書には、巧妙な仕掛けが記されていた。
「番組側からは、『一つ目の番組で信頼関係を築いた聖仁に、ぜひ十代の代表を務めてほしいという一色カレン本人からの強い希望』として依頼を出す。そして君からも、直接あいつに頼んでもらう」
「尊敬する女優から直々に求められれば、聖仁も無下には断れまい。悩んだ末に、自分なりの責任を持って引き受けるだろう」
「出演が決まった後は、こちらから細工する必要もない。聖仁は一度引き受けた以上、その日に向けて考え得る限りの努力を重ね、完璧なデートプランを仕上げてくるはずだ」
カレンは、まだ見ぬ少年の姿を想像した。
慣れない番組のために資料を集め、一色カレンという女が何を喜ぶのかを真剣に考え、不器用なまでに誠実なプランを作り上げようとする十八歳の青年。
その真剣な姿が、マスターの言葉を通じて、ぼんやりと脳裏に像を結んでいく。
しかしマスターは、その努力が決して報われないという残酷な筋書きを、あまりにも平然と告げた。
「そして――ここが、この番組の肝だ」
マスターの瞳から、温度が消えた。
「最後に君が選ぶ相手は、既に決まっている。四十代を代表して出演する、有名俳優のプランだ」
一拍。
マスターは、カレンの瞳を射抜くように見据えた。
「聖仁では無い。あいつは、君に振られるんだ」
カレンの指が資料の上で止まり、驚きに目を見開いて顔を上げる。
聖仁に本気で準備させ、その努力が最初から報われないことを知りながら、あえて公衆の面前で拒絶する。
それも、この計画の一部だった。
「親馬鹿と言われるだろうが、聖仁は幼い頃から、何事においても優秀だった」
マスターの声は、低く、重々しく響いた。
「あいつが本気で努力し、それでも望んだ結果へ届かなかった経験は、ほぼ無い」
「だからこそ、この敗北には意味がある。全力を尽くしたにもかかわらず、望んだものを手に入れられない。そんな初めての挫折を、あいつに味わわせる」
マスターは、カレンの手にある資料の先を指した。
「番組が終了し、失意の底に沈む聖仁へ、今度は君から直接電話をかける。伝えるべき内容は、そこに記してある」
カレンは素早くページをめくり、指示された項目へ視線を走らせる。
そこには完成された台詞こそないものの、少年の心を根底から揺さぶるための極めて精密な「筋書き」が記されていた。
――番組側から、最後に選ぶ相手を、判定の直前になって指定されたと明かすこと。
――それに逆らえなかったが、本当は聖仁を選びたかったと告白すること。
――最初の番組で出会って以来、彼のことを忘れられなかったと伝えること。
――九歳という年齢差に迷いながらも、抑えきれなかった感情を訴えること。
――そして、二人きりでの再会を求めること。
……希望を与え、全力で走らせ、期待が頂点に達した瞬間に全て奪い去る。
……そして直後に、救済という名の、甘美な毒を流し込む。
数多くの男を欺き、その欲望を利用してきたカレンだからこそ、この計略がどれほど強力で、同時に危険なものか理解できた。
「……恐ろしい案ですわね」
カレンは資料から顔を上げ、警告を込めてマスターを見つめた。
「一度絶望させた直後に、相手が最も望んでいた言葉を与える。これほど鮮烈な感情の落差を作られれば、普通の人間に抗うことは難しいでしょう……」
「ですが、もし後になって真相を知れば、ご子息の心を壊しかねませんわ。少なくとも、二度と私を信じることはないでしょう」
マスターは、その警告を意に介した様子もなく、涼しい顔を保っていた。
「……まあ、君の虜になった後のことは、その時に考えよう」
軽く言い流した直後、彼の瞳から茶目っ気が消え、凍てつくような冷徹さが戻った。
「ただし、勘違いするな。聖仁を哀れんで手加減することは許さない」
マスターは、カレンの胸へ刻み込むように、低く重い声で告げた。
「この任務の失敗は、そのまま君の破滅を意味する。そう思っておけ」




