第五話 すももの花
静まり返った仮眠室。夜特有の重苦しい静謐が、二人の間に横たわる。
控えめな照明は、影を長く引き延ばし、その光景をどこか現実味のないものへと変えていた。
聖仁への憧憬を瞳に宿していた李花は、一瞬だけ、耐えかねるように顔を背けた。
だが、再び向き直った彼女の貌には、既に情動の欠片も残っていない。
隙のない、冷徹なまでに完璧な副社長の表情。
その淡白な声が、静寂を切り裂いた。
「仮眠室のベッドは、この重役用を含め、計二十台ありますね。当ビル内の社員は六十名程ですので、交代で利用すれば、全員に仮眠を取っていただけます。予定通り、急ピッチで仮眠をワークシステムに組み込めそうです、社長」
あまりの早変わりに、聖仁は思考を奪われ、しばらく呆然とするしかなかった。
感情の揺らぎをすべて凍結させたような李花の瞳が、無言のまま彼を射抜く。
その冷ややかな視線に突き動かされるように、彼は慌てて言葉を紡いだ。
「あ、ああ、そうだね。皆、睡眠が足りないのは明白だった。ここを見れば、少しは気を持ち直してくれると思うよ」
たじろぐ聖仁を、李花は表面上は無視するように、冷徹なまでに淡々とあしらう。
明日の出社時間と、大まかなスケジュール。
それだけの情報を短く告げると、彼女は深々と礼をし、無機質な足音を残して去っていった。
静寂が戻った部屋に、聖仁の重苦しい溜息が響き渡る。
(ふうぅ……! ドッと疲れが来たな……。今日はもう早く帰ろう。でもカレンは遅くまで撮影だっていってた気がするな。今日は会えないかな……今はただ、カレンに逢いたい。ふぅ)
疲労か、心労か、あるいはあの鍼の余韻か。
鉛のように重い身体を無理やり起こし、彼はベッドから立ち上がる。
身支度を整え、彼は仮眠室を後にした。
ビルを出る前に、聖仁は再び社内を見回った。
夜十時近くになっているというのに、フロアには未だに照明が点き、疲労の色を隠せない社員たちが黙々と作業を続けている。
社長の姿を認めたフロアリーダーが、慌てて駆け寄ってきた。
「社長、遅くまでお疲れ様です。まだ仕事されていたのですか?」
「いや、食事も済ませて、仮眠室を視察した帰りなんだ。君たちこそ、遅くまでお疲れ様です」
進捗状況の確認や世間話を交えながら、聖仁は社員たちの様子に目を配る。
すると、リーダーがふと思い出したように声を弾ませた。
「そういえば先ほど、李花副社長がいらして、社長からの差し入れだと、凄く豪華な幕の内弁当を、全員分いただきました! 皆、最近ロクなものを食べてなかったので、あんなしっかりした食事は久しぶりで、大喜びでしたよ。本当に有難うございます、社長!」
残業中の社員たちのために、李花が事前に手配していたのだろう。
先ほど見せたあの冷徹なまでの切り替え、そして実務における驚異的なスピードと、こうした細やかな気配り。
彼女の頭の切れに、改めて尊敬の念を覚えるのだった。
喜びを露にするフロアリーダーに、聖仁は微笑を浮かべて答える。
「……副社長の提案でね。前線の皆を、少しでも労えたなら、何よりです」
夜十時を回り、ビルを出た聖仁の目に映るのは、静まり返ったオフィス街だった。
人通りは途絶え、街灯だけが虚空を照らしている。
端末でタクシーを探るも、配車待ちの表示は長く、なかなか捕まりそうにない。
(ふぅ……待ってる時間よりも、歩いたほうが早いかもな)
自宅までは、徒歩三十分ほど。
コートの裾を整え、彼は夜の街へと踏み出した。
静かな道を行きながら、思考は幾重にも重なる記憶の糸に引きずられ、一人の女性へと収束していく。
李花のことだ。
(……考えてみると、彼女とは昨日の夜に会ったばかりなんだな。何か色々ありすぎて、出会って一日なんて、信じられない)
昨夜の、傍若無人とも言える鮮烈な登場。
今朝からの、完璧と呼べるバックアップ。
そして今夜、父が介入したあの危険な試験。
色香を漂わせる麗人の貌と、氷のように沈着な天才秘書の顔。
そのあまりに劇的な変貌は、一人の人間の内側に、これほどまでの奥行きがあるのかと、彼を驚嘆させる。
彼女は、人の心を占めるのに十分すぎるほどの傑物だった。
(……参ったな。彼女の事が、頭から消えないよ。……はぁ、とにかくカレンに逢いたい。逢って、李花の事も正直に話そう。彼女の誘惑に負けなかったことを、褒めてもらいたい……ははは)
自嘲気味な笑いを漏らしながら、彼はただ、愛する妻の温もりを求めて歩き続けた。
***
マンションに到着し、自宅の扉を開ける。
玄関は暗く沈み、奥のリビングから漏れる灯りが、静かな夜の闇を切り裂いていた。
(カレン?! かなり遅くなるって言ってたけど、もう帰ってるのかな?)
期待に足を速めてリビングへ向かうと、そこには母・恵子が一人、ソファに身を預けて寛いでいた。
「あら、聖仁。お帰りなさい。遅くまで、ご苦労様」
「……あ、母さんか。カレンかと思ったよ、ふぅ……」
露骨に肩を落とし、落胆を隠そうともしない息子を見て、恵子はわざとらしく大げさに嘆いてみせる。
「二十歳の、大人になった聖仁君は、もうすっかりカレンさんラブになっちゃったのね! ちょっと前までは、『母さん、母さん』って、ママ大好きってしてくれてたのに……さみしいわ」
顔を真っ赤にし、必死に平静を装おうとする聖仁。
「い、いやいや! カレンに逢いたかったのは事実だけど! 母さんにも、会えてうれしいよ……ははは」
狼狽える息子の姿に、恵子はいたずらっぽく目を細めて笑った。
「息子の新婚家庭に、姑が入りびたるのはどうかと、私も思うわよ。でもカレンさんが、料理を教えてほしいって、凄く熱心に頼んでくれるのよ。二人とも忙しいだろうし、いつでも料理できるよう、食材も、ある程度用意しておこうと思って。今日も買い物してきた帰りなの」
母の言葉は、全てカレンへの、そして息子への慈しみからくるものだった。
聖仁は微笑を浮かべ、素直に感謝を伝える。
「そうだったんだ。カレンから聞いてるよ。昨日も彼女の手料理を、いただきました。ありがとう、母さん」
二言三言の会話を交わすと、恵子は風呂が沸いていることを告げ、彼を促した。
実家で幾度となく繰り返してきた、慣れ親しんだやり取り。
促されるままに浴室へ向かい、熱い湯に身を沈める。
湯から上がると、そこには温かい茶を用意して待つ母の姿があった。
「……よく髪を乾かしたの? ほら、まだ濡れてるじゃない。風邪ひくから、さぁちゃんと乾かしてきて!」
「はいはい……ふぅ、ドライヤー苦手なんだよな……」
何度となく繰り返してきた、ごく普通の、穏やかな日常。
その何気ない営みの中に、積み重なった疲労が溶け出し、解けていく感覚を、聖仁は静かに味わっていた。
髪を乾かし終え、リビングへ戻った聖仁の目に飛び込んできたのは、不安げな表情で端末を見つめ、溜息をつく母の姿だった。
「……あ、聖仁。今、カレンさんからメッセージがあって。撮影中に何か事故があったみたいよ。幸い、カレンさんは巻き込まれなかったようだけど……出演者の方へのお見舞いやら何やらで、今夜は帰れないって話よ」
予期せぬ報せに、聖仁の瞳が驚愕に見開かれる。
「ええ?! それは……大変だね。あ、僕の端末にも連絡が来てる……そうだね、今聞いた内容と同じだ。そっか、ふぅ」
露骨に肩を落とし、落胆の色を隠そうともしない息子を見かねて、恵子は労うように声をかけた。
「大げさね。カレンさんは全く無事って話だし、そこは安心していいんじゃない。もう、余程カレンさんに逢いたかったのね……今日も仕事で何かあったの? 貴方がそんな疲れた顔をするなんて、そうないものね」
相変わらず、心を見透かすかのような母の鋭い指摘に、聖仁は苦笑を浮かべ、力なく答える。
「ははは、まぁ、色々あったよ……凄くいろいろ……ね」
聖仁の思考を支配しているのは、何よりも李花の存在だった。
愛する妻に懺悔として語り尽くすつもりだった想いが、行き場を失い、胸の内で渦巻いている。
一人では抱えきれない重圧と、誰かに聞いてほしいという切実な欲求。
二十歳という若さゆえの、制御しきれない未熟さが、彼を突き動かしていた。
「……実は今日、父さんに会って、色々あってさ。いや、それはいいんだけど……昨日の夜、父さんが急に助っ人を会社に送り込んできて、その人がさ……もう、滅茶苦茶だったり、凄かったりで……」
カレンに逢えないショックも重なり、思考は混濁し、言葉は空回りする。
そんな息子を、恵子は穏やかに制した。
「落ち着きなさい。さあ、お茶を飲んで。大丈夫よ、母さん、ちゃんと聞くから。そうね、時系列で話すといいわ。昨日の夜が発端かしら?」
促されるまま、聖仁は熱い茶を一口すする。
深く息を吐き出し、乱れた思考の糸を一つずつ手繰り寄せ、整理していく。
「昨日、夜九時頃かな。突然、チャイナドレスを纏った女性が社長室に入ってきて……何事かと思ったら、父さんに言われて助っ人に来たっていうんだ。しかも、僕の先輩の株式を父さんが全部買い取って彼女に与えて、副社長として会社に入るっていわれて……もう、唖然としたよ!」
「チャイナドレス」という言葉を聞いた瞬間、恵子は眉間に深い皺を寄せた。
「それは驚くのも無理ないわね。……ねぇ聖仁、その方って……李花さんかしら?」
名前を当てられ、聖仁は息を呑んだ。
その驚きの表情を見て、恵子は確信したように頷く。
「やっぱりそうなのね。……李花さんは、葵さんと同じ時期に、お父さんが『私の秘書にするから色々教えてやってくれ』って、急に連れてきた人なの。まぁそれはいいんだけど、その後、研修の初日だけ顔を出して、すぐに来なくなっちゃったのよ」
李花が、葵と共に、父によって連れてこられた。
その事実に、聖仁の背筋に凍りつくような戦慄が走る。
葵が秘書となったのは、自分とカレンの披露宴直後の一か月前だ。
聖仁の会社に仕事が殺到しているのは、父の差し金だと、今は知っている。
だが仕事が受けきれなくなり、窮地にたたされることまで予測し、それを救う相手まで、あの頃から用意されていたのだとしたら。
李花の副社長就任も、あの甘美なハニートラップさえも、すべては父によって描かれた壮大なシナリオの一部だったのか……?
彼女の働きに救われ、惹かれ、心を揺さぶられた。
その自分の感情までもが、父の思惑に沿って動いていたのかもしれない。
そう思うと、聖仁は寒気に襲われた。
「なんてことだ……そんな前から、李花さんを僕の会社へ送り込むつもりだったのかな。仕事で追い込んで、彼女に助けさせて……今夜のことまで、全部……? 母さん、僕は、この瞬間も、父さんの手のひらで、踊らされてるのかもしれないね」
強大な父の影に、見えない糸で操られるような錯覚を覚え、聖仁は深く沈み込む。
そんな息子を、恵子は静かに、だが力強く励ました。
「父さんはね、深慮遠謀なフリをしてるだけよ。実は、いきあたりばったりなの。……でも、あの人が凄いのは、どんな風に事態が転んでも、実力で流れを変えちゃうことね。とにかく! 全て父の手の中だなんて、思っちゃダメよ。そんな事に振り回されずに、貴方はあなたの良いところを、伸ばしなさい!」
母の激励に、聖仁の顔が穏やかに変わっていく。
「……それはともかく、李花さんって、どんな人なのかしら? 礼儀正しい、頭のよさそうな人だったけど」
母聖仁は小さく息を吐き、重い空気を振り払うようにして顔を上げた。
李花の姿を思い出しながら、彼は静かに語り始めた。
「ありがとう、母さん。そうだね、李花さんは……母さんの言う通り、礼儀正しくて、頭が良い人だよ。だけど、それは仕事モードの時でさ。プライベートモードに切り替わった途端、お茶目というか、破天荒というか、別人みたいに親しみ易くなるんだよ。ああ、そういえば、父さんに似てるかもね!いつも自信たっぷりで、我が儘に振る舞うのに、周囲が許しちゃうところとか」
楽しげに、どこか熱を帯びて語る息子の様子を見て、恵子は察した。
彼が李花に対して、強い好意を抱いていることを。
彼女に初めて会った時の胸騒ぎが、一層強まっていく。
恵子には李花がたった一日で、誠実で利口な息子を懐柔してしまったように思えた。
母を相手に気を許し、熱を帯びた声で李花の魅力を語る息子。
その様子を見つめる恵子の瞳には、慈しみとともに、鋭い警告の色が混じっていた。
彼女は努めて穏やかに、だが逃れられない重みを持って、聖仁に言葉を投げかける。
「……ねぇ、聖仁。あなたは大勢の社員の人生を預かる社長であり、何より世界情勢をも左右しうるクロフォード家の後継者候補なのよ。貴方が、とても魅力的な男性へと成長したことは事実だけれど、決して自惚れてはいけないわ。広い世界には、途方もない悪意をもって近づき、貴方を狙う異性がいくらでもいるのだから。そのことを、片時も忘れないで頂戴ね」
明らかに特定の人物への警戒を滲ませる母の言葉に、聖仁は静かに目を閉じた。
一言一言を噛みしめるように、彼は低く、重い声で返す。
「……父さんが言ってたよ。母さんが、李花さんを快く思っていないってね。でも考えすぎだよ、母さん。……知ってる? 李花さんは、エデンの生まれなんだ」
聖仁は一度言葉を切ってから、続けた。
「エデンの倫理観はさておき、彼女はクロフォード家のために育てられた人物だ。エデン卒業生が、その後の人生も監視されていることを考えれば……僕はともかく、当主たる父さんに、彼女が敵対する立場にあるなんて、到底思えないよ」
李花を庇う息子の言葉は、恵子にとって、彼女がすでに聖仁の心に深く食い込んでいる証左でしかなかった。
警戒心は深まるばかりだが、ここで理詰めで問い詰めれば、息子との信頼関係にさざ波を立ててしまう。
恵子は思考を切り替え、別の話題で、この場を収めることにした。
「いずれにしても、カレンさんの前で、そんな風に鼻の下伸ばしちゃダメよ。彼女悲しむわ……。カレンさんは、世間で悪女みたいに言われてるみたいだけど、私が接しているカレンさんは、一途で健気な、とても良い子よ。彼女を泣かせたら、母さんが許しません!」
真顔で、諭すように言い放つ母の姿に、聖仁は飛び上がらんばかりに驚き、大慌てで両手を横に振った。
「な、何言ってるんだ! 誤解だよ! 浮気心なんて……す、少しも無いよ! 今日だってカレンがいれば、母さんに今言ったこと、全部打ち明けるつもりだったんだ。あくまでも、李花さんは! ……た、ただの優秀な仕事仲間だよ!」
***
李花との、あの熱い出会いから半年。
聖仁は父に予告した通り、自らのAIシステムをあらゆる分野へと浸透させることに成功していた。
平和への願いを込めて名付けた『March of the Saints』――略してMOS。
機械の構造と性能を理解し、与えられた目的に応じて自己学習する。
複雑な動作を一つずつ教え込まずとも、機械が持つ能力を最大限に引き出す汎用AI基盤。
MOSの名は今や日本中、そして世界へも余波を広げ、社会の基盤となりつつある。
ここ半年間、共に幾多の困難を乗り越え、唯一無二の相棒となった李花との絆。
それは、聖仁にとって何物にも代えがたいほどに深く、強固なものとなっていた。
「医療分野も、システムの再構築は完了したようだ。第一次産業、特に農耕部門へのMOSの浸透はどうなっている?」
実務的な問いに対し、李花は淀みなく答える。
「農耕、漁業、共に九十七%のシェアを達成しております。残り三%も集計時の誤差によるものかと」
会社は飛躍的な成長を遂げ、今や国内でも一、二を争う巨大企業となっていた。
しかし聖仁の執務室も、身を預ける椅子も、半年前と変わらぬ質素なままだった。
「社長、椅子が軋んでおります。そろそろ買い替えなさったら如何ですか?」
李花の指摘に、聖仁はどこか愛おしげに目を細める。
「え?ああ、何か愛着があってね……君と初めて逢った時、座っていた椅子だから」
熱を帯びた眼差しで、彼女を見つめる聖仁。
その視線を受け、李花もまた、潤んだ瞳で彼を射抜いた。
「……ズルイ人。そうやって、何度も私を誘惑するくせに。いつも奥様に操を立てて、結局何もしてくださらない」
李花がデスクの上で、聖仁の手をそっと包み込む。
顔を真っ赤にし、視線を彷徨わせながら、彼は押し寄せる熱い情動と劣情に耐えるしかなかった。
挑発的な、それでいて縋るような甘い言葉。
李花の指先が、聖仁の掌を這い、その熱は彼の理性をじりじりと焼き焦がしていく。
「や、やめてくれ! 前にも言ったろう、僕は……誠実なことだけが、唯一自慢できることなんだ。大切にしたい心の在り様なんだ……!」
自身の奥底から叫ぶ、獣の劣情を必死に抑え、聖仁は李花に告げる。
だが、彼女は構わず、デスク越しにさらに身を乗り出してきた。
「若き王は、正真正銘、誠実でいらっしゃいますわ……そんな貴方に惹かれ、この半年、私なりに精一杯、お支えしてきたつもりです」
聖仁への憧憬を隠そうともせず、熱い口調で迫る李花。
彼は彼女の瞳をまともに見られず、俯き加減で言葉を絞り出す。
「……勿論だ。君の支えが無ければ、これほど早くMOSを普及させることは、あり得なかった。君の機転に、何度助けられたか分からないよ……本当に感謝している」
聖仁が何気なく顔を上げると、すぐ目の前まで李花の貌が迫っていた。
もはや、彼女から目を逸らせなかった。
「……その功績に、報いていただけませんか? たった一度でいいの……愛じゃない、感謝の気持ちで構わない……お情けをくださいませんか……?」
既に互いの唇は、数センチの距離まで近づいている。
李花の身体から立ち昇る色香は、ブラックホールのような引力を秘め、二人の意識をその深淵へと引き摺り込んでいった。
李花はデスクを回り込み、聖仁の傍らへと歩み寄る。
彼女の手が彼の手に重なり、導かれるようにして、その掌は李花のしなやかな腰へと押し当てられた。
「……っ!」
促されるまま、聖仁は抗いきれぬ熱に突き動かされ、彼女の身体を強く抱き寄せる。
密着した二人の間で、互いの鼓動が重なり合い、熱い吐息が混じり合う。
聖仁は、眼前の美貌を、狂おしいほどの情欲と熱にうなされた瞳で見つめた。
「……おかしい。君はまた、僕に鍼を打ったんだね……そうでなきゃ、僕がこんなことを……あぁ、君は……本当に素敵だ……」
理性を焼き焦がすような、甘く、重い言葉。
李花は、彼の熱い吐息と眼差しを全身で受け止めながら、耳元で囁くように応えた。
「ええ、鍼を打ちましたわ。貴方が惑うのは、全部私の仕業ですの……嬉しい……聖仁様……私は二番でも三番でも、構わないわ。貴方のお傍に居られるなら、何だってします……貴方はただ、悪い女に騙されただけ。誠実な貴方のままですわ……」
彼女の熱烈な誘惑と、罪悪感を溶かすような甘美な言葉。
聖仁はもはや、崩壊寸前の堤防のように、陥落の一歩手前で踏みとどまっていた。
彼は最後の抵抗として、デスクに飾られたカレンの写真立てへと視線を投げた。
だが、その視線に気づいた李花は、すぐさま手を伸ばし、写真立てを伏せた。
「今だけは、私だけを見てくださいませ……」
もはや、逃げ場はないように思えた。
聖仁の指先が、李花の背中を強く、深く、引き寄せるように掴む。
カレンへの誠実さと、李花への抗いがたい情動。
その二つの奔流が、彼の内側で激しく衝突し、理性を削り取っていく。
聖仁の手が背中から移動し、李花の頬に触れようとして、止まった。
感激に瞳を潤ませた彼女を前に、彼はきつく目を閉じる。
「聖仁様……」
「……駄目だ」
魂の奥底から、絞り出すような声だった。
聖仁は李花を抱く腕をほどき、そっと両肩に手を添える。
「ごめん、李花。……これ以上は……できない……」
聖仁の目から、大粒の涙が流れる。
李花への熱い想いを、振り切るように告げた――その刹那だった。
『ドゴォォォオオオン!!』
社長室の重厚な扉が、内側へと爆ぜるように吹き飛び、二人のすぐ傍ら、床へと叩きつけられた。
凄まじい轟音と、舞い上がった埃が執務室を瞬時に満たしていく。
あまりに突発的な異常事態に、聖仁は李花の肩に手を添えたまま、二人とも石像のように硬直した。
「な、な!なん、だ?!」
「……っ!?!」




