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聖者の行進  作者: いくらふじなみ
第三部 救いを求める手
26/26

第六話 女帝裁判

凄まじい轟音と共に、吹き飛んだ執務室の扉が無残に転がっている。

霧のような埃が立ち込め、その中に人物のシルエットが浮かび上がった。


音が収まると、コツコツと硬質な靴音がゆっくりと近づいてくる。


やがて埃も収まり、侵入者の全体像が浮き彫りになった。


黒ずくめの全身タイツに覆面を纏っているが、その背丈は一八七センチの聖仁をも凌ぐ長身。

絶世の美女と謳われたカレンに対し、勝るとも劣らない、見事なボディライン。


その曲線から、侵入者が女性であることは見て取れる。

何より目を引くのは、隠そうともせずに溢れ出す、燃えるような赤毛――獅子の鬣(たてがみ)のごとき豪奢な髪だった。


侵入者は、この場にあまりにそぐわない陽気な声で、二人へ語りかける。


「こんばんは。私は人さらいです。時の人と話題の、聖仁社長を攫いに来たよ。……ふふふ、身代金はたっぷり頂けるかな?」


あまりの異常事態に、二人は互いに身を寄せたまま硬直している。

その様子を見て、侵入者は大げさに咳払いをした。


「……ウォッホン! おや、聖仁社長の奥様は女優の一色カレンさんだったね? ……んー、オフィスラブというやつかな。いけないなぁ、こんなことが世間に知れたら、色々と困ったことになるんじゃないかな?」


お道化た口調で一方的にまくしたてていた侵入者が、ふと口を閉ざした。

覆面をしたまま、聖仁と李花を無言で眺め回す。


聖仁には、その沈黙が、獲物を品定めする捕食者のそれに思えた。

喉元までせり上がる恐怖を無理やり抑え込み、怒鳴りつける。


「何者だ! このフロアの廊下は、常に警備室で監視されているぞ! すぐに警備員が駆けつけてくるっ!」


李花の前へ回り込み、その背中で彼女を庇い、精一杯の強気な声を出す。

だが侵入者は、平然とした態度で応じた。


「なんだって? それは困るね。警察まで呼ばれては、あまりにも間抜けだよ……。もっと話したかったが、それは後の楽しみに取っておくとしよう」


その瞬間――。

侵入者が聖仁の眼前へと肉薄した。


あまりの速さに、身構えることすら叶わない。

突如として身体から力が抜け、視界が暗転する。


聖仁は、その場に崩れ落ちた。


「ひっ……!」


李花が短い悲鳴を上げたのも、直後の出来事だった。

彼女もまた、聖仁と同じように深い闇へと沈んでいった。


侵入者は、倒れた二人を見下ろしながら、ゆっくりと覆面を脱ぎ捨てる。

窓から差し込む月光を受け、燃えるような真紅の髪が美しく輝いていた。


侵入者が、パチンと指を鳴らす。

すると廊下の方から、二人の巨漢が地響きを立てながら入ってきた。


「二人を運んでおくれ。丁重にな」


巨漢たちは無言のまま、丸太のように太い腕で、聖仁と李花を軽々と抱え上げた。


赤髪の美しい侵入者は満足そうに頷くと、悠然と退室する。

巨漢たちも、その後に付き従った。


***


心地よい微睡(まどろみ)の中、聖仁は薄く目を開けた。

眩い照明が網膜を射る。


同時に、女性たちの華やかな談笑が耳の奥へと流れ込んできた。

夫の様子に気づいたカレンが、声を上げる。


「あら、聖仁。気がついたみたいですよ、お義母様」


身体は重く、思考もどこか霧がかかったように気怠い。

どうやら、カレンの膝枕で眠っていたらしい。


「んぅ……夢……だったのか?」


「お早う、ねぼすけさん。来客中だから、顔を洗ってきなさい」


母の声は、優しく穏やかだった。

すると、聞き覚えのある豪放な声が響く。


「客だなんて、つれないな恵子。君の息子は私の息子同然だ。聖仁、遠慮はいらんぞ。そのまま愛妻の膝枕で寛ぐがいいさ」


驚きのあまり、聖仁は顔を上げ、声の方へと視線を走らせた。


執務室で見た、あの異様な侵入者の姿はない。

覆面も、黒いタイツも、すべてが消え失せている。

そこにいたのは、豪奢な赤いドレスを纏った、息を呑むほどに美しい女性だった。


彼女は慈しむような微笑を浮かべ、目を閉じた李花の頭をその膝に乗せている。

愛玩動物を撫でるが如く、その髪を優しく梳き続けていた。


聖仁は、カレンの膝を乱暴に押さぬよう気をつけながら、勢いよく身を起こした。

周囲を見渡すと、自宅だとわかる。


目の前で李花を愛でる美女に対し、思わず声を荒げた。


「どういうつもりだ?! 貴様が何故、自宅にっ!」


怒号が部屋に響き渡ると、恵子が血相を変え、大慌てで息子を制する。


「聖仁っ! あなた、マルガリタ様に向かって、なんて口の利き方を……! あぁ、あんなに良い子だったのに……! 聖仁が、不良になってしまったわ。うぅ……」


大げさに嘆き、肩を落とす母の姿に、聖仁は面食らった。


そのとき初めて、部屋に充満するアルコールの匂いに気づく。

どうやら、皆、酒が入っているらしい。


マルガリタもまた、恵子の嘆きに対し、お道化て便乗した。


「うーむ、そんな風に言われるとショックだ! 聖仁、私は君のオムツを交換したことだってあるんだぞ? あんなに可愛かった赤ちゃんが、こんなゴリラみたいにでかくなって……かなしい……よよよ」


大げさに悲しんでみせるマルガリタ。

カレンはそんな様子を、余裕のある微笑みで見守っていた。


「まぁ、マルガリタ様。彼はゴリラよりは、ずっと男前ですわ。ふふふ……」


母と妻は、この侵入者と酒盛りでもしていたというのか。

聖仁はひどく混乱した頭を、一度整理することにした。


まず、今いる場所は自宅だ。

李花も自分も、安全な場所にいて、お互い体も無事なようだ。


次に、侵入者の正体――先程「人さらい」と名乗った女は、父ルキウスの正妻であり、伝説の女帝であるマルガリタだろう。


記憶はまだ朧げだが、一切の抵抗も叶わず気絶させられた理由も、これで頷ける。

美貌に惑わされてはならない。

目の前の相手は、あの父ですら腕力で敵わない、怪物なのだから。


聖仁は努めて冷静を装い、声の震えを抑えて告げた。


「……マルガリタ様。……まずは李花を離していただきたい。彼女は僕の大切な『仕事』のパートナーだ」


聖仁の詰問に対し、マルガリタは呆けた顔を見せ、数瞬の沈黙を経てから答えた。


「……仕事のパートナー? おかしいな。私が君を攫いに行ったとき、確かに見たんだが……この子猫と君は、密着していたぞ? あの距離感は、仕事仲間とは到底思えなかったがなぁ……私はてっきり、愛妻公認の『二号さん』かと」


その指摘に、聖仁の身体がビクンと跳ね、硬直する。

恵子が「あらまぁ」と小さく声を漏らし、カレンは微笑を浮かべたまま無言で彼を見つめる。


聖仁は激しく狼狽し、必死に言葉を絞り出す。


侵入者から李花を庇ったのは事実だ。

だが、その前には自ら彼女を抱き寄せてもいる。

何より李花への好意を自覚しているだけに、後ろめたさから取り繕おうと試みる。


「な、な、何を言ってるんだ?! 突然、部屋の扉が吹き飛んだ異常事態だぞ! とっさに李花を庇っただけで……や、や、やましいことは、少し……も……」


最後になるにつれ、声は小さく尻すぼみになっていく。

嘘をつき慣れない誠実な若者にとって、平静を装い通すことなど到底不可能だった。


「……嘘がつけない、不器用で真面目なところも、好きよ。聖仁」


カレンの、慈しむような声が響く。

ニコリと笑う妻の顔を、聖仁は直視することができなかった。


浮気疑惑に翻弄され、しどろもどろになる夫。

そんな彼を、妻はあえて優しくフォローする。


あまりに滑稽で、愛おしいその光景に、マルガリタも恵子も堪えきれず、笑い声を爆発させた。


「ぷっ、ふふふ! まだまだ、お子様なんだから。カレンさん、許しちゃダメよ。調子に乗るわよ、ぷふふ!」


母・恵子の茶化すような声に、マルガリタも追い打ちをかけるように笑う。


「そう言うなよ、恵子。この子猫ちゃん、相当な美形だぞ! 正常な男として、手を出さないほうが不自然だ。ルキウスだったら、出会った直後にモノにしてるぞ。ぶはは!」


口々に好き勝手な言葉を浴びせられ、聖仁の顔は耳まで真っ赤に染まっていく。

だが彼は逃げるように目を逸らすのではなく、意を決したように妻へと向き直った。


「カレン、僕は何もしてないっ! 彼女……李花は、仕事の大切なパートナーだ! 彼女は本当に素敵な女性ではあるけど! 君を愛してる! 君を裏切ってなどいない! どうか信じてくれ!」


大真面目に、全員の前で愛を訴える夫。

そのあまりに真っ直ぐすぎる言葉に、カレンもたまらず吹き出した。


「もうっ! みんなの前で……! やめてちょうだい、あなたは真面目過ぎるわよ! ぷっ、ふふふ!」


大爆笑に包まれたリビング。

マルガリタは腹を押さえ、笑いを堪えながらも、ふと声を潜めた。


「まったく! 聖仁君をからかうのは面白くてたまらないが……今夜の主役を差し置いて、これ以上盛り上がるのはやめよう。そろそろ眠り姫にも起きてもらわないとな。今宵の宴は、これからが本番だ」


彼女は不敵に微笑み、独り言のように続ける。


「……うーん、当身が強すぎたかな。聖仁君よりも、大分加減したんだが。……よいしょっと!」


マルガリタが、膝枕している李花の脇腹を、長く美しい指で軽く押した。

すると、李花が「う、んっ」と小さく呻き、ゆっくりと目を覚ます。


「……あ、こ、ここは?! 聖仁様っ!」


一瞬、狼狽して視線を彷徨わせる李花だったが、全員の顔を捉えると、辛うじて落ち着きを取り戻す。


「ん、聖仁社長。これは一体……?」


「お早う。君は社長と一緒に、攫われてきたんだよ? ようこそ、人さらいのアジトへ。ふふふ」


マルガリタの茶化すような言葉に、恵子が笑いながら応じる。


「私たちも共犯ね。カレンさん」


「そのようですね。ふふふ……」


カレンもまた、楽しげな笑みを浮かべていた。


「さてさて! ニューフェイスの美人さんは、愛しい彼の隣が似合うだろう。色男の聖仁君の、左隣に座り給えよ。愛妻と愛人に囲まれて、男冥利に尽きるな! こいつめっ!」


女帝の軽薄な、それでいて抗いがたい言葉に、聖仁は凍りついた。

李花の顔も、カレンの顔も見られず、ただ俯くことしかできない。


わけもわからぬまま、李花も指定された場所へと無言で座るしかなかった。


聖仁を挟むようにして、右にはカレンが、左には李花が並ぶ。

そのさらに外側、李花の隣には恵子が腰を下ろした。


「李花さん、久しぶり。息子から話は聞いてます。会社が大変な時期に、支えてくださって有難う」


恵子が隣の李花へ、小声で感謝を告げる。

混乱の渦中にありながらも、李花は居住まいを正し、精一杯の礼節をもって応えた。


「いえっ! とんでもございません、恵子様。秘書研修の折、何も告げず研修を離れてしまい、誠に申し訳ありませんでした……」


蛇に睨まれた蛙(かえる)とは、まさにこのことか。

聖仁も李花も、無言で身をすくめ、次の動きを待つことしかできない。


マルガリタが大げさに咳払いをして、話し始めた。


「ウォッホン! さて! 攫われてきた御両人だが、我々の要求は、身代金ではないよ。欲しいのは、君たちがオフィスラブを本当にしていたかどうかの真実!……でもない。まぁ、そっちも気になるが、それは良かったら後で話してくれたまえ。ふふふ」


「それもぜひ、聞きたいですわね。ねぇ、カレンさん?」

恵子が楽しげに促す。


「お義母様、あまり虐めないであげてください。さっきから聖仁の震えが止まりませんわ。ふふふ……」

カレンもまた、微笑みながら追い打ちをかける。


魔女たちの戯れのような会話に、聖仁と李花はさらに深く俯いた。

だが――その直後、マルガリタの声から温度が消えた。


「要求は、李花君がクロフォード家に害となる人物かどうか、その裁判を行う事だ」


場を支配する空気が一変した。


全員が、彼女の纏う威圧感に息を呑む。

物理的な質量を持って押し寄せるかのような、女帝の覇気だった。


李花は、見えない手で髪を掴まれ、強引に顔を引き上げられたかのように、ビクリと身体を震わせて顔を上げた。


女帝以外の全員が、マルガリタの姿が赤髪の荒神へと変貌したかのような、強烈な威厳と圧力に圧倒されていた。

それにもかかわらず、その瞳から目を逸らすことなど誰にもできない。


聖仁も李花も、恵子やカレンすら、全身を小刻みに震わせながら、ただその威光に晒されるしかなかった。


身を乗り出していたマルガリタが、ゆっくりとソファの奥へと身体を沈め、深く腰を下ろす。

途端、空間を押し潰さんばかりの重圧が霧散し、全員の身体から力が抜けた。


「中々、便利なものだろ? ……あまり緊張してもらっても、話が進まないからな」


不敵に笑い、マルガリタは話を続けた。


「……さて李花君、単刀直入に聞こう。君は、他家のスパイかな?」


あまりに直球すぎる問い。

だが、李花は視線を逸らさず、真っすぐマルガリタを見つめ返して答えた。


「……いえ、違いますわ」


短く、毅然とした一言。

マルガリタは何度も頷き、言葉を重ねる。


「……二日前、恵子が私の所に手紙をくれた。色々と懐かしい内容だったが、李花君の事が書かれていてね。ルキウスも、聖仁君も、君を信頼しきっていると。だが恵子は、君に何らかの不穏な気配を感じ、信用しきれないとの事だった。……そうだな、恵子?」


全員の視線が、恵子へと集まる。

先ほどまで李花へ感謝を述べていた母は、今は一切の怯みを見せず、その瞳で李花を射抜くように見つめ返した。


「その通りです」


恵子の声には、迷いも揺らぎもない。


「李花さんが、何か怪しい事をしたというのではなく……母、妻、そして女としての勘ですわ」


母の言葉に、聖仁は驚愕の表情で食いついた。


「ま、待ってくれっ! 母さん、勘だって?! 冗談じゃないっ!」


声を荒らげ、必死に反論する。


「そんな曖昧な根拠で、彼女を……李花を、こんな一方的に吊るし上げてるっていうのかい? 酷すぎるっ! 何度も話したろう? 彼女が来てから、会社が、MOSシステムが! どれだけ救われたか! それは、紛れもない真実だよ!」


捲し立てるうちに、堪りかねて立ち上がる聖仁。

その語気は、ますます鋭くなっていた。


だが恵子は眉一つ動かさず、ただ静かに、慈しむような声で息子を制した。


「……落ち着きなさい、聖仁。話は、ここからよ」


聖仁は目を閉じ、静かに腰を下ろした。


マルガリタが小さく咳払いをする。


「……ンッ! 聖仁君は単なる勘と言うが、得てして、そういう言葉にできない不信感をきっかけに、綻びが見つかるものさ。プロのスパイというのはね」


マルガリタはソファの横に置かれた鞄から、一束の資料を取り出した。

その動作には、一切の迷いも、遊びもない。


「これはエデンから取り寄せた、李花君の出生から現在に至るまでの経歴が、詳細に書かれた資料だ」


李花の顔から血の気が引き、青ざめていく。

震える指先が膝の上で硬直した。


聖仁は隣に座る彼女の手をそっと包み込み、決して離すまいと強く握りしめる。

その様子を見つめ、恵子は重いため息をつき、カレンは無言のまま目を閉じた。


マルガリタが「ヒュゥー」と軽薄に口笛を吹く。


「お熱いことで。いいのかい? 愛妻の前で、愛人とイチャイチャするなんてさ」


女帝のからかいに対し、聖仁は彼女を強く睨み返し、言葉を叩きつけた。


「冷やかしは、もうたくさんです。李花は、かけがえのない、大切な仲間です。どうぞ、裁判とやらを進めてください。無罪であることは明白ですが!」


マルガリタは両手を挙げ、降参のポーズをとって笑う。

そして資料に視線を落とし、内容を読み上げ始めた。


「……ええと、李花がエデンで生まれたのは、私が十一歳の時か。御年三十二歳?! ひぇぇ! 実年齢より十歳は若く見えるよ。美人は、得だねぇ」


絶世の美女である自身を棚に上げた、あまりに軽薄な物言い。

その様子を見ながら、聖仁はふと父・ルキウスの姿を重ねた。


(似た者同士だな……強者の余裕だろうか。煩わしい……)


「……父は、中国籍の著名な生物学者。母は、フランス籍のオペラ歌手。その遺伝子を、クロフォード家ご自慢の遺伝子工学で……何か色々書いてあるが、よくわからんな……まぁ色々した結果、生まれた天才児というわけだ。幼少の頃から、数学と生物学に強い興味を示し、七歳にして、英国の大学四年課程を修了している?! ひぇー! 凄いねぇ」


マルガリタの軽薄な反応とは裏腹に、恵子は七歳で大学課程を修了したという李花の驚異的な能力に言葉を失い、その衝撃を隠せない。

カレンもまた、聞き及んでいたエデンの遺伝子操作と天才児の誕生が、目の前の女性の経歴として突きつけられ、戦慄していた。


聖仁は、俯いたまま微動だにできない李花に、優しく語りかけた。


「君の生まれなんて、全然関係ない。僕にとっては、この半年が全ての真実だよ。心配しないで。君を全力で守るからね」


聖仁の力強い言葉が、静寂の中に響く。

李花は顔を上げ、潤んだ瞳で彼を見つめた。


「聖仁様……っ!」


彼女もまた、聖仁の手を強く握り返す。

二人が互いの体温を感じ合うように見つめ合ったその時――マルガリタが何度目かの咳払いをして、場を切り裂いた。


「……オッホン! ええと、私がエデンを十八歳で卒業する頃に、李花は七歳というわけだ。であれば、一度ぐらいは会ってるはずだが……ごめん、正直あまり覚えてないな。書類の幼少期の人格評価には『地味で目立たない人物』とある。……ん? だけど、確か君には双子の姉がいたよね? そっちの子は覚えているぞ。明るくて活発な女の子だったような?」


マルガリタの指摘を受けた途端――

李花の身体が、ビクリと激しく痙攣した。


動揺を隠しきれない李花の様子に、マルガリタは一旦読み上げるのを止めた。

彼女は喉をさすりながら、恵子に向けて言葉を投げかける。


「んぅ、なんだか喉が渇いたな。……済まないが、恵子。紅茶を淹れてくれないか? 茶葉は持参したが、淹れ方が分からなくてね。こういうとき、世慣れない自分の不器用さを痛感するよ」


無言で頷き、席を立つ恵子。

カレンも「お義母様、手伝いますわ」と言い添え、その後に続いた。


二人がキッチンへと姿を消すのを見計らうと――マルガリタは突如として豹変した。


身を乗り出し、獲物に飛び掛かる大蛇のごとき速さで腕を伸ばし、李花の胸倉を掴んで強引に引き寄せる。

戦慄する李花と聖仁を尻目に、マルガリタは声を低くして、その耳元で告げた。


「改めよう。君はプロではなく、素人のスパイだな。鍵は、双子のお姉さんか」


先ほどよりも、さらに強烈で重いプレッシャーが放たれる。

李花はもちろん、傍らにいる聖仁ですらその威圧感に射すくめられ、震えながら身動き一つ取れなかった。


襟首を掴まれている李花。

その手に締め上げるほどの力はない。


にもかかわらず、女帝から放たれる質量を伴う圧倒的な威圧感により、彼女は呼吸困難に陥っていた。


「くひゅ……かひゅ……っ」


息も絶え絶えに、李花が苦しげな音を漏らす。


「やめろ! 彼女が窒息しそうだ! 離せっ!」


同じくマルガリタのプレッシャーに身動き一つできなかった聖仁だったが、李花の苦しげな息遣いに我に返り、彼女の襟首を掴む女帝の腕を引き離そうと、必死に手を伸ばす。


「今、いいところなんだよ。坊やは後でオムツを変えてあげるから、少し大人しくしていておくれ」


軽薄な口調で言い放ちながら、マルガリタは手首を掴まれた腕とは逆の手で、聖仁の喉元を軽く突いた。


その瞬間――

聖仁の身体から力が抜け、一切の身動きができなくなる。


「うぐっ……?! ど、どうして……? 身体が……動かないっ!」


驚愕に満ちた声が、静まり返った部屋に響いた。


「かはっ……ま、マルガリタ様っ……姉が、どう関係していると……? 姉がどこにいるのか、し、知りたいのは、こちら……ですわ……」


李花は言葉を紡いだまま、そのまま意識を失った。


ぐったりと力の抜けた身体を、マルガリタが支える。

彼女は両の掌を李花の鳩尾と背中に素早く添え、短く気付けを施した。


「がはっ……! ゴホッ、ゴホッ……!」


激しい咳き込みと共に、李花が意識を取り戻す。

マルガリタは再び彼女の襟首を掴み上げ、冷徹な眼差しで問い詰めた。


「気絶などさせん。答えろ。お前の双子の姉は、どう関係している? 他家に情報を流しているスパイ同士なのか?」


重圧が李花を襲う。呼吸が乱れ、涙に潤んだ瞳が絶望に揺れる。

その時――動けないはずの聖仁の手が、マルガリタの腕を掴み取った。


「……いい加減に……っしろっ! こ、これ以上の暴行は……許さないっ!」


額から汗が滴り、鼻からは一筋の血が伝う。

その凄まじい形相に、マルガリタは信じられないという顔で義理の息子を見つめた。


「……私の拘束術を破るとは。ルキウスですら不可能な事だぞ……武術の心得がない君が、大したものだ!」


マルガリタは李花の襟首を放し、その身体を聖仁へと無造作に押し出した。


「あ……っ!?」


受け止めようとした聖仁も体勢を崩し、二人は縺れ合うようにして床へ倒れ込んだ。

咳き込む二人を見下ろし、マルガリタは不敵に笑う。


「とりあえず、聖仁君に免じて休ませてやろう。二人とも、血やら何やらを拭き取り給え。キッチンの二人が帰ってきたら、私が怒られてしまうからな。ふふふ」


鉛のように重い身体を奮い立たせ、聖仁は李花を努めて優しく抱き起こした。


彼女をソファに座らせ、その顔についた涙と涎をタオルで丁寧に拭う。

そして、自身の鼻から流れた血も拭い取り、悲しげな表情で彼女へ語りかけた。


「済まない李花。守ると言いながら、このザマだ。マルガリタには、どうやったって勝てそうにない……」


聖仁の優しさに触れ、李花は顔を強張らせながらも、無理に微笑みを作った。


「せ、聖仁様。お気になさらず……っ」


聖仁は振り返り、余裕たっぷりで見下ろしているマルガリタを鋭く睨みつけた。


「……だけど、もう勝手はさせない。巧い手を思いついたよ」


マルガリタは一瞬、呆けた顔を見せたが、すぐに不敵な笑みを浮かべて応じた。


「ほうほう、私に勝手をさせないと。それは興味があるな! どんな手だい?」


からかうような女帝の声に対し、聖仁の口元に強張った笑みが浮かぶ。

彼は血を拭き取ったタオルの中から、隠し持っていた果物ナイフを取り出した。


そして、抜き身のままその刃を、自身の腹部へと押し当てた。

そのまま素早く服で覆い、ナイフが滑り落ちないよう、自らの手で守るように抱きしめる。


「……これでいい。マルガリタが暴れれば、このナイフが僕に刺さるだろう」


聖仁の瞳には、逃げも隠れもしない覚悟が宿っていた。


「僕は、貴方の義理の息子だ。少しでも僕を大切に思うなら、これ以上、李花に手を出さないでくれ」


己の命を盾にするかの如き聖仁の覚悟に、李花は涙を溜めて両手で顔を覆った。

マルガリタは目を丸くして、呆然とした様子で聖仁を見つめる。


「これは予想外だ……。聖仁君、一応言っておきたいんだが、李花を尋問しているのは、大方が君のためなんだぞ?」


驚愕の表情で、諭すように聖仁を詰問するマルガリタ。


「彼女がスパイなら、君の大事なMOSシステムの情報が他家に流れる。連中に、わざわざ妨害の手掛かりを与えることになるんだぞ? その辺りの事情、理解してくれてるかな?」


「……スパイならば、でしょう?」


聖仁は怯むことなく、静かに、だが力強く答えた。


「僕は李花を、信じています」


そう告げ、聖仁は李花の方へと向き直った。

李花は涙を堪えきれず、声を押し殺すようにして肩を震わせている。


二人のあまりに情緒的な様子に、マルガリタは呆れたような顔をし、ソファに乱暴に腰を下ろした。


「……まったく! 何か意気込んで尋問してた私が、馬鹿みたいではないか!」


女帝が吐き捨てるように言う中、奥からティーセットを抱えた二人が戻ってくる。


「マルガリタ様、お待たせいたしました」


恵子が静かに告げる。


「凄くいい香りの茶葉ですね! 流石はマルガリタ様持参の品ですわ。こんなに力強くて良い香り、初めて!」


カレンが華やかに応じた。


「あら? 聖仁、あなた鼻血出したの? タオルに血がついてるわよ」


目ざとく指摘する母の声に、聖仁は努めて穏やかに答える。


「あぁ、強く鼻をかんだら、何か出ちゃったんだ。咄嗟にタオルで拭いちゃったけど、ティッシュで拭けばよかったね。ははは」


恵子は、息子だけでなく李花も乱れている様子に、大方の事態を察していた。

だが表面には出さず、冷静に「そう」と一言で済ませ、皆にカップを配る。


カレンが慣れない所作ながらも、ポットで注いで回る。

茶葉の華やかな香りが、場を支配した。


自身のカップに注がれた琥珀色の茶の香りを確かめ、微笑を浮かべるマルガリタ。


「流石は、セラフィナ厳選の茶葉だな。申し分ない品質だ。さぁ皆で楽しもう。聖仁も李花も、さぞ喉が渇いたろう? 遠慮はいらないぞ。ふふふ」


極上の茶葉が放つ香りが、場を優しく包み込む。

尋問の際の張り詰めた空気が嘘のように静まり、マルガリタから暴行を受けた聖仁と李花ですら、一時の安らぎを得ていた。


談笑が交わされる中、カレンがふと思い出したように李花へ問いかける。


「……ところで李花さん。お父様は中国籍だと先ほど伺いましたが、今までは中国に滞在されていたのですか? チャイナドレスを好まれていると聞き及んでいますし」


おそらく純粋な好奇心によるものだろう。

聖仁も以前、似たようなことを尋ねた記憶がある。


李花は努めて穏やかな笑みを浮かべ、静かに答えた。


「いえ……実は私自身は、母と同じフランス国籍ですの。日本へ来るまでは、フランスに居ましたわ」


一呼吸置き、彼女は自らの装いについて言葉を継ぐ。


「チャイナドレスはただの趣味なのですが……ひょっとしたら、父を身近に感じていたいという、潜在的な願望……かもしれませんね」


皆のカップが空になり、それぞれが二巡目を迎える頃。

マルガリタは脇に置いてあった資料を再び手に取り、静かに眺め始めた。

誰に向けてでもなく、独り言のように、その驚異的な経歴を読み上げていく。


「……李花君は、七歳で大学課程を修了し、八歳になる前には計算機科学の博士号を授与されている。十歳では、分子遺伝学の博士号も授与。天才揃いのエデンでも、稀なほどの才女だ」


その声は低く、冷徹な分析者のそれだった。


「だが不思議な事だ。君の経歴に、双子の姉の記述が一切無い。これほど詳細な記録であるにもかかわらず、姉の影響や比較について、何一つ触れられていない……。そうした記載があっても、おかしくないはずだが?」


マルガリタの問いかけは、静かだが、李花の心臓を直接掴み取るような重みを持っていた。

ティーカップの縁に触れる指先が、微かに、だが隠しようもなく震えている。


俯き加減の李花は、消え入りそうなほど弱々しい声で応えた。


「私の姉は……十歳の時に……突然、いなくなりましたの」

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