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聖者の行進  作者: いくらふじなみ
第三部 救いを求める手
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第四話 最後の一線

呆然と立ち尽くす聖仁の肩や背中に、李花の手が触れる。


「さぁ、社長! まだ『お仕事』が残ってますわ。早く新設するブースを視察なさらないと」


周囲の客に向けた、あまりに無難で明るい声。


聖仁は自らの意識が遠くへ剥離していくような、奇妙な他人事感の中で、言われるがままに歩き出した。

李花の後ろを歩く足取りは重く、どこか頼りない。


会計さえも彼女の手によって鮮やかに済まされ、その全てがまるで水底の出来事のように、遠く、朧げだった。


新ブースのある人気のないフロアに辿り着くと、李花は逃がさぬよう聖仁の腕にしがみついてきた。

近すぎる距離に、聖仁は足を止める。

離れなければと思うのに、そのための動作がうまく繋がらない。


「うふふ、なんて逞しいお身体。若き王は既に、体力では偉大なお父様をも、凌いでおいでですのね。女として光栄ですわ、このような英雄に見初められるなんて」


見初めたわけではない。

そう否定しようとしても、言葉が形になるまでに、ひどく時間がかかった。

聖仁は、辛うじて唇を動かした。


「ぼ……く、は……見初めてなんか……うぅ」


頭を占める衝動を必死に振り払おうと、身体を捩る。

だが、李花に腕を取られたまま、思うように距離を取れない。

拒絶の言葉は喉につかえ、途切れた先が続かなかった。


廊下の先へ目を向けても、見慣れたはずのビルの輪郭が、どこか遠い。

聖仁は呆けたまま、空いている方の手を握り締めた。


「我慢なさらないで……もうすぐです。もうすぐ……楽園に到着しますわ」


聖仁の瞳は血走り、視界は熱に浮かされたように歪んでいた。

口端からは、飢えた猛獣のごとき涎が伝い落ちる。


(彼女が……欲しい……うぐっ……李花っ)


理性が、己の奥底から噴き上がるマグマのような劣情に、呑み込まれようとする。

意識が混濁し、最後の一線が踏み越えられる――その刹那。


壁に貼られた、大女優カレンが微笑む広告ポスターが、目に飛び込んできた。


魂の伴侶ともいうべき彼女。

聖女のごとき献身を捧げてくれた、愛する女性の姿。


その光景が、狂いかけた理性を猛烈に奮い立たせる。


(何をやってるんだ! 僕は!)


(あれほどに愛を誓った彼女を! 裏切るわけには……決していかない!)


聖仁の心の勢力図は、一気に理性優勢へと塗り替えられる。

にもかかわらず、身体は思うように動かない。


内側から突き上げる熱、全身を走るピリピリとした痺れ。

自由を奪うこの感覚が、あまりに異常で、あまりに不自然だ。


(……しかし、何故だ? 体が、体が言う事を聞かない……! これは……おかしい……カレン! 僕にどうか、力を!)


聖仁は、しなだれかかる李花を、残された全生命の如き力で突き放した。

その衝撃に、李花が目を見開き、驚愕に顔を歪める。


「……聖仁様?!」


荒い呼吸を吐き出しながら、聖仁は彼女を睨みつけた。

その唇から、震える声が漏れる。


「き……みは、なにか……したね……! 体が、何かおかしい!」


聖仁の鼻から、熱い血が滴り落ちた。


急激な鼓動の昂ぶり。

胸をかきむしるような苦悶。


彼はその場に崩れ落ち、蹲った。


李花は信じられないという表情を浮かべ、聖仁へと歩み寄る。

彼女の手が、震える彼の肩にそっと添えられた。


優しく、諭すように語りかける声。


「……聖仁様、いけません。劣情に逆らえば、血圧が一気に上昇いたしますよ。このまま誰もいない仮眠室で、全てを私にお任せになって。極上の快楽で、貴方様を癒しますわ」


肩に触れた李花の手を、聖仁は力任せに振り払った。


胸を押さえ、震えながらも立ち上がる。

引きずるような足取りで、彼は仮眠室へと向かった。


「きみは……くるなっ! 新ブースの視察だって? 僕が一人でするさ……そのまま仮眠も取らせてもらう! 勿論、ひとり……で、ね!」


聖仁は、狼狽する李花を背に、這うような足取りで仮眠室の扉を掴む。

荒い呼吸とともに扉を開くと、そこには予想だにしない人物が立っていた。


「……っ!?」


暗がりの中に佇む、父・ルキウス。


「聖仁?!……おまえまさか……李花を、拒絶できたのか?」


その驚愕の問いと、全身を突き抜けるような激痛に、聖仁は膝から崩れ落ちた。


「!? とう……さん……ぐぅ!」


父と李花が、同時に彼へと駆け寄る。


「……李花! この聖仁の様子……『獣欲の鍼』か?! おまえ! そこまでしろとは言ってないぞ!」


ルキウスの激しい叱責に、李花は顔を青くし、肩を震わせて縮こまった。


「……申し訳ありません! 加減して少しずつ、情欲を蓄積させたつもりでしたが、ご子息の意志が固く……打つ回数を見誤ったようです」


ルキウスは小さく、重い溜息をついた。


彼は懐から、銀色に鋭く輝く鍼を取り出す。

呻き、痙攣する聖仁の首筋や手のひらの数か所に、迷いなく鍼を打った。


「……これでよし。とにかく、一旦休ませよう」


ルキウスは、意識を失いかけた息子の身体を、優しく両腕で抱き上げた。


「……まぁ丈夫な子だしな。大事はないさ」


父の腕に抱かれたまま、聖仁の意識は混濁し、深い闇へと沈んでいった。


どれほどの時が流れたのだろうか。

重い瞼を押し上げると、そこには見慣れぬ天井と、微かな光があった。

身体の節々が鉛のように重く、思考もまた、泥の中に沈むように鈍い。


「聖仁様!? お目覚めになられましたか……ああ、本当によかった……!」


李花の震える声が、耳元で響く。

彼女は顔を寄せ、安堵の涙を浮かべながら、必死に彼を見つめていた。


「……ふう、問題なさそうだな。まったく大げさだな、李花は。言ったろう、丈夫な子だってさ。それにまだ二十歳だぞ? そう簡単にくたばるわけがない。この爺さんと違ってな、わはは!」


ルキウスの豪快な笑い声が、静かな室内を震わせる。

その傍らで、一人の老人が不満げに口を尖らせていた。


「わしだって、まだまだ若いわ! まったく、お前は何につけても火遊びが過ぎる。次代の王を、もう少しいたわってやれ!」


全身を支配する、重苦しい倦怠感。

指先一つ動かすのも億劫なほどに身体は重かったが、それ以外の不快感はない。

聖仁は無理やりに、身を起こした。


「聖仁様!? まだ寝ていらして……!」


李花が慌ててその肩を押し戻そうとするが、彼はそれを冷たくあしらい、彼女の瞳を射抜くように睨みつけた。


「……一体どういうつもりだ? 何をしたか知らないが、僕に毒を盛るような仕業をしておきながら! 心配するフリをするにも、あまりにわざとらしいぞ!」


一喝され、李花はビクリと肩を震わせ、項垂れた。

その背中が小さく丸まる。


間髪入れず、ルキウスが助け舟を出すように割って入った。


「すまん! お前を誘惑するよう、李花に命令したのは私だ」


聖仁の視線が、父に向けられる。


「……どうしても、そこの爺さんが『お前に王の器があるか見たい』などと、うるさくてな! 仕方なくハニートラップを仕掛けたんだよ」


その言葉に、翁が顔を真っ赤にして狼狽する。


「……え?! そ、そんなこと! い、いってないぞ! わしは!」


狼狽し、不満を漏らす翁の声を、ルキウスは意に介さなかった。

彼は瞳を輝かせ、感嘆とも揶揄とも取れる声で聖仁へ告げる。


「それにしても、おまえ、凄いな! 李花の打った『獣欲の鍼』は、戦場で拷問にも使われるぐらい強力な技だぞ。まさか抗える者がいるとはな。もし俺だったら、あのまま李花を滅茶苦茶に抱いていたろうな。わははは!」


道化のような、大げさで空々しい笑い声が室内に響き渡る。

聖仁は、胸の奥からせり上がってくる怒りを、氷のような冷静さで抑え込んだ。


「……そうでしたか。父さんのテストだったんですね。危うくカレンを裏切るところでしたよ。もしそうなっていたら、悲観して舌を噛んで死んでいたかもしれませんね」


聖仁の言葉には、温度がなかった。

無表情に、淡々と紡がれるその一言に、ルキウスは笑い声を止め、真顔になった。


「……お前がいうと、冗談に聞こえんぞ」


ルキウスの顔から血の気が引き、わずかに青ざめる。

翁は無言で彼の肩を叩き、それから満面の笑みで言い放った。


「色狂いの父と違い、清廉誠実な良い若者だのう! 母が余程の人格者とみえる。ぶははは!」


翁の豪快な笑い声が、静かな室内をかき乱す。


聖仁は冷めた瞳のまま、短いため息をついた。

彼は父を見据え、低く、刺すような声で問いかける。


「……それで? テストの結果は、不合格でしょうか。僕は李花さんの魅力と技に、負けていました。もしあの時、カレンのポスターが目に入らなければ、普段の父さんと同じように、獣の如き所業をしていたと思います」


痛烈な皮肉。


翁はそれを受け、再び腹を抱えて笑い転げる。

李花は気まずそうに視線を落とし、苦笑いを浮かべた。


ルキウスは冷めた眼差しでその毒をやり過ごそうと、平静を装って応じた。


「……お前たち日本組には、私も比較的誠実でいるつもりなんだぞ。……今までだって、恵子のところには、月に一度は顔を出してたろ? これでも俺は、クロフォード家の当主なんだぞ。スケジュール調整するの、結構大変なんだ」


一息つき、ルキウスは言葉を継ぐ。


「そこを頑張ったのはさ……恵子と、何よりお前に逢いたくてだなぁ……うん」


珍しく照れ、言いよどむ父の姿に、翁の笑いはさらに激しさを増す。

李花もまた、困惑したような苦笑を漏らした。


ルキウスは、さらに何かを言おうと口を開いた。

だが、翁がそれを制し、静かに、重みのある声で話し始めた。


「聖仁君には、自己紹介がまだだったな」


その声音から先ほどまでのおどけた調子は消え、一人の権威者としての風格が漂う。


「わしはクロフォード家の元老院に所属しておる、マスター・仁氏(ジンシ)と申す。次代の王にお会いできて光栄じゃ」


翁――仁氏は、聖仁を真っ直ぐに見据えた。


「わしは君の顔をみたかっただけで、テストなどした覚えはない。……だが、若き王は充分に合格だと思うよ。李花の鍼技にも屈しない、その意志の力! そこらのハニートラップなぞ、容易には屈せんだろうさ」


「……有難うございます。マスター・仁氏」


穏やかで丁寧な礼。

仁氏は慈しみのこもった眼差しを向け、深く、重々しく頷いた。


「うんうん、二十歳とは思えぬ落ち着きと礼節。並の者ではない。父親と違い、人格者の恵子さんに育てられて、本当によかったわい」


傍らにいる当の父親に聞こえるよう、わざとらしく大きな声で言い放つ仁氏。

ルキウスは、まるで苦虫を噛み潰したような顔で、忌々しげに応じた。


「まったく、あいかわらず口の悪い爺さんだな。元老委員とはいえ、功夫の師匠でなきゃ、吹き飛ばしてやるのに」


挑発的な言葉に対し、仁氏はさらに満面の笑みを浮かべ、軽快に返す。


「おうおう、やってみぃ! マルガリタに顔面パンダにされてた若造が、よく言うわい。わはは!」


ふと、仁氏が手首の時計に目をやった。時刻は二十一時を過ぎている。

彼は腰を庇うように、ゆっくりとした足取りで歩き出した。


「さてさて、若き王の生気にあてられて興奮してしもうたわい。老いぼれは、とうに寝る時間過ぎとる。退散するかのぅ」


腰を擦りながら扉へと向かう仁氏の背に、ルキウスが食い下がるように声をかける。


「待てよ。さっきの『若き王は充分合格』ってのは、アンタの一票は確実と思っていいんだな? 次代の王を選ぶ、選挙の時の」


憮然とした弟子の問いに、仁氏は振り返ることなく、穏やかな声で応じた。


「……お前が推す人物なら、儂は無条件で票を入れるさ。それも分かっていて呼んだんじゃろ? 他の元老委員への体裁のためか。……相変わらず回りくどいやり方じゃの。だからお前は、いつまでたっても、マルガリタに勝てんのじゃ。ひゃひゃひゃ」


緩慢な動きで歩いていた仁氏の姿が、突如として風のごとく掻き消えた。


一瞬の空白。

聖仁も李花も、何が起きたのか理解できず、ただ驚愕に目を見開く。


ルキウスだけは、忌々しげに舌打ちをし、独り言をこぼした。


「慎重と言ってほしいね……そっちこそ、相変わらず元気な爺さんだぜ」


仁氏が去り、静まり返った室内には三人だけが残された。

ルキウスは、勝利を確信したかのように聖仁に向き直る。


「ふぅ、まぁなんとか一票確保だな! ああは言ってたが、あの爺さん、結構頑固だからなぁ。お前が、李花の誘惑を跳ね除けた、意志の強さを見せたのは、大きかったぞ! さすが我が息子! やったぜ!」


子供のように無邪気に、力強く拳を突き出すルキウス。

聖仁は、その破天荒な振る舞いを眺めながら、ここ数年の邂逅を通じて見えてきた父の姿に思いを馳せた。


世界を統べる圧倒的な力と、それに見合わぬほど不器用な魂。

他者への配慮を置き去りにしてでも、己が望むものへと手を伸ばしてしまう、純粋で、あまりに幼い子供のような男に、今の聖仁には思えた。


「……僕が十八歳の時、父さんがカレンを脅迫して、僕を誘惑するよう差し向けた。その時、貴方の後継者になるかどうかは、全てを知ってから判断すると、僕は言いましたね。あの時はクロフォード家のことなど露知らず、父の経営する会社を引き継ぐ事かとも思いましたが」


過去の記憶を紐解く聖仁の声は、静かで、どこか遠い。

ルキウスは、その言葉にわずかな不安の色を滲ませ、問いかけた。


「……話が大きくなって、気が乗らなくなったか?」


父の問いに、聖仁はすぐには答えなかった。

視線を落とし、自らの内側にある重圧と向き合うように、しばし沈黙が流れる。


「……世界を動かすほどの権力を持つ人物の後継者。それだけ自身の決断に、多くの人々の命運がかかるとなると……恐いです」


その声は低く、震えはない。

ただ、その立場に伴う責任の重さを噛みしめるような響きがあった。


「僕は父さんや李花さんのように、天才ではありません。今の立場にいるのは、多くの人の助力と、寝る間を惜しんで勉強した成果だと思ってますから」


目を瞑り、一瞬だけ思案する聖仁。

そして目を開き、微笑を浮かべて話を続ける。


「……ですが天才ではない、凡人の王がいてもいいのでは、とも思えるのです。世の大多数の人々は、僕と同じ凡人ですから。優秀なトップの意思で強引に決断していくのではなく、凡人同士が手を携えて意見を出し合い、一つ一つ丁寧に進めていく……そんな世界に出来たらいいなと」


聖仁の言葉は穏やかだったが、その芯には確かな熱が宿っていた。

李花は瞳を潤ませ、感極まったように声を震わせた。


「聖仁様が王の座につけば、間違いなく、よりよき世界にしてくださいますね!」


ルキウスは不敵に笑い、挑むように言った。


「どうかな、弱気が過ぎるんじゃないか? もっと大胆に! 次々決断していかないと、世界の流れに追いつかないぞ。ふふふ」


李花とルキウスは顔を見合わせ、どちらからともなく笑い合った。

その二人の姿は、聖仁の目にはひどく純粋で、どこか遠いもののように映った。


エデン出身者は、皆こうなのだろうか。


ルキウスは不敵に笑い、聖仁の肩を軽く叩いた。


「まぁ一歩リードしただけで、まだ後継者決定ではないがな。とにかく聖仁よ、お前が今優先してやるべき事は、立ち上げたAI事業を一気に! スピード感もって! 他分野のシステムをも席巻し、飲み込むことだ。しばらく激務が続くが、なんとか耐えろよ。李花も引き続き、聖仁を支えてやってくれ。……あぁ、もうハニートラップテストは終わったから、彼女を抱いてもいいぞ、聖仁。ふふふ」


その言葉に、李花は顔を赤らめ、恥ずかしげに視線を泳がせる。

聖仁は、父の軽口を意図的に無視し、真っ直ぐにルキウスを見据えた。


「李花さんが対策を練ってくれたおかげで、今期は乗り切れそうです。……その間に体制を整え、一気に他分野への進出も加速させます。これから半年以内に、当社システム『MOS』を、その名を知らぬ者がいないほどに普及させます」


聖仁の瞳には、迷いのない決意が宿っていた。


「引き続き、私は元老院の票固めに動く。元老委員は七人だ。あと三人は手駒に欲しい。その辺の事は私に任せろ。お前は余計な事は考えず、引き続き会社を成長させ、足場を固めるんだ」


珍しく父親らしい力強い物言いに、聖仁は苦笑し、疑問を投げかけた。


「……ところで、クロフォード家の元老院というのは、どういった方々が就かれるのですか? 話を聞いていると、当主たる父さんでも、自由になる存在では無いようですが」


ルキウスは神妙な顔つきになり、頷いて答えた。


「元老院は、ある程度の貢献が認められた人物が選ばれるらしい。……だが、何故か歴代の当主は、引退後、元老委員には選ばれないようだ。そもそも選定基準も曖昧だからなぁ。……まぁ日本でいう、官僚の天下りみたいなものだろう。元老院の爺さん達が、適当に決めてる名誉職だろうさ」


ルキウスは背を向けたまま、片手を上げて挨拶し、部屋を後にした。


残されたのは、李花と聖仁。

重苦しい沈黙が支配する中、李花が俯き加減で、消え入りそうな声で言葉を零す。


「……あの、聖仁様。今日は本当に申し訳ありませんでした。まさか、聖仁様が『獣欲の鍼』に抗えるなんて! 思ってもみなかったので……仮眠室にお連れして、ルキウス様にご報告した後、すかさず中和する鍼を打つ、腹積もりでした。若き王を危険にさらしてしまい……面目もありません……」


李花は俯いたまま、顔を上げられずにいた。

聖仁は静かに目を閉じ、数瞬の沈黙の後、穏やかに問いかけた。


「……ハリって、あの鍼治療のだよね? 一体、いつ打ったんだ? 全く気付かなかったけど」


李花が、落ち着かない様子で視線を彷徨わせながら答える。


「定食屋の中で……脚を使って打ち始めました。店を出てからも、すぐに。エレベーターの中や、腕を組んだりしたときもです。聖仁様の様子を見ながら、何回かに分けたのですが、回数を見誤ったかもしれません……申し訳ありませんでした」


何度も頭を下げ、謝罪の言葉を繰り返す李花。

聖仁はふぅと重い溜息をつき、天を仰いだ。


「……そうなると、鍼のせいばかりにはできないな。今日一日、君と付きっ切りで過ごしてる間に、大分魅了されていたよ。……仕事のパートナーとしてだけでなく、女性としての魅力にね」


李花の顔が、一瞬にして沸騰したかのように赤く染まった。

彼女は言葉を失い、ただ目の前にいる、誠実で凛々しい男性を、潤んだ瞳で見つめることしかできない。


続いて、聖仁の顔もまた、火傷しそうなほど真っ赤に染まっていく。

彼は視線を泳がせ、たどたどしく、絞り出すように言葉を紡いだ。


「あ、あの定食屋での出来事……僕は、もしあのままだったら……鍼を打たれなくても、君に陥落していたと思う。……情けないよ。結婚してまだ一か月しか経っていないのに! 妻以外の女性の、その、ゆ、誘惑に負けるなんて……父さんを浮気者だと、バカにできないな……」


耳まで真っ赤にして、聖仁は力なく俯いた。


李花は、震える手で聖仁の手を強く握りしめ、吸い寄せられるように、ゆっくりと身体を彼へと寄せていく。


「……お父様が仰っていましたよね? テストは、もう終わったのだと。……この先は、裏の事情なんて、何ひとつありませんよ?」


聖仁は、強く唇を噛みしめた。

李花が握りしめるその手の上に、もう片方の手を優しく重ねる。

そして、熱を孕んだ瞳のまま、迷いのない眼差しで彼女を見つめ、言葉を紡いだ。


「……君は、本当に魅力的な女性だ。頭が抜群に良くて、とんでもなく美人だ。僕の男の本能が、正直に言うと……疼いて仕方がない」


その声には、抑えきれない衝動の熱が混じっている。

だが、彼は一歩も引かなかった。


「だけど! 僕は、カレンが悲しむことはしたくない。これは僕の精一杯で唯一のプライドなんだ。父さんにあらゆる面で勝てないけど、この誠実さだけは負けないと思ってる。だから、大切にしたいんだ……このたった一つの誇れるものを」


熱い吐息を漏らしながらも、その眼差しには揺るぎない意志が宿っている。

李花は、その強固な拒絶を受け入れ、寂しげに微笑んだ。

彼女はゆっくりと聖仁の手を離し、寄せていた身体を引いた。


「……残念ですわ。若き王の鋼のごとき肉体、味わえるのは奥様だけなのですね……」


李花は自嘲するように、しかしどこか艶然とした声で続けた。


「わたくし、初めて他の女性に嫉妬いたしましたわ」

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