第三話 差し伸べられた手
静寂を切り裂く、無機質でけたたましい電子音。
突如として鼓膜を震わせるアラームの響きが、二人の意識を現実へと引き戻す。
聖仁もカレンも、弾かれたように身を起こした。
枕元で狂ったように鳴り続ける時計が発信源だと判ると、カレンが慌てた手つきでそれを押さえ、静寂を取り戻す。
時刻は朝六時。
窓の外には、夜の帳がようやく剥がれ落ちようとする薄明が忍び寄っている。
「ご、ごめんなさい……っ! 今日は朝から仕事があるのに、目覚ましをかけていたのを忘れていたわ……」
カレンの声は微かに震え、寝起きの掠れた響きを含んでいた。
彼女は慌ただしくシーツを整えながら、聖仁の顔を覗き込む。
「聖仁は、ゆっくりできるならそのまま寝ていていいから。……ね?」
その言葉には、自身の多忙さよりも夫の休息を優先させようとする、不器用なまでの慈しみがあった。
当たり前だが、カレンにも予定がある。
もう少し一緒に過ごせると思っていた聖仁は残念に思いながらも、そんな彼女の気遣いに胸の奥が熱くなるのを感じた。
暗い寝室の中で、カレンの肌が朝の予感に微かに光っている。
彼はそっと、背後からそのしなやかな身体を抱き寄せた。
温かな体温と、彼女特有の甘い香りが腕の中に満ちる。
「……僕も起きるよ」
耳元で低く囁き、聖仁は甘えるように問いかける。
「……一緒にお風呂、入れそうかな?」
夫の、まるで幼子のような我儘な願い。
カレンは困ったように吐息を漏らし、自分を抱く腕に手を添えた。
「もう……あまりゆっくりはできないわよ? それでもいいなら……入りましょう」
二人は絡み合う手を取り、熱を帯びたまま浴室へと向かった。
立ち上る湯気のなか、互いに身体を洗い合う。
時折、悪戯をする聖仁を、カレンが「もう」と小さく嗜める。
短い戯れの後、二人は早々に浴室を後にした。
互いに身支度を整える。
カレンは、鏡の前で慌ただしく化粧と髪を整えていく。
一方、聖仁には時間がある。
李花から告げられたのは、午後一時頃の出社。
余裕はあるものの、カレンがいないとなると、時間を持て余しそうだった。
無為に過ごす時間は惜しい。
今から準備を済ませれば、朝の会議にも間に合うだろう。
「一緒に朝食を摂りたいけれど、ごめんなさい……」
カレンが、身支度を整える手を止めずに、申し訳なさそうに告げる。
「マネージャーが朝、車で迎えに来てくれるの。私は、車内で済ませるわね」
「気にしないで。僕も、会社に行くよ」
聖仁は彼女の忙しさを理解し、穏やかな声で応えた。
「カレン、仕事頑張ってね。昨日もそうだけど……いつも僕のために、本当にありがとう」
多忙な日々の中でも、自分に寄り添い、精一杯の愛と献身を注いでくれる妻。
その存在の大きさに、聖仁の胸に熱い感謝が込み上げ、震えた。
二人は最後に、短く、それでいて互いの体温を確かめ合うような、熱い抱擁と口づけを交わす。
慌ただしい朝のひととき、二人は静かに別れた。
***
横浜の朝は、海からの湿った風と、都市が放つ無機質な熱気が混ざり合っている。
聖仁は、自らが作り上げたAI事業の拠点へと向かうタクシーの車内で、静かに街並みを眺めていた。
窓ガラスに映る己の瞳に、カレンとの一時では忘れ去っていた重い現実が映り込む。
軽いため息をつき、聖仁は心の内で自身に問いかける。
(父さんはMOSを全産業に波及させるのを急務と考え、クロフォード家の伝手で、あらゆる産業から発注を促してくれたようだ。だけど、それが会社の通常業務をも圧迫し、全てが中途半端に進捗してしまっている。このままでは、会社全体が立ち行かなくなる……なんとかしなければ……なんとか……)
タクシーがビルのエントランスへと滑り込み、聖仁は無駄のない動作で車を降りた。
大型の自動ドアが開くと同時に、高度に管理されたオフィスの空気が彼を包み込む。
エレベーターに乗り込み、自社の入るフロアへと降り立つ。
そこには、静寂の中にサーバーの駆動音と、極限まで研ぎ澄まされた電子の鼓動が響き渡っていた。
社員たちは、まだ朝の準備に追われているのか、一様に緊張と疲労を滲ませた表情で、慌ただしく動き回っている。
聖仁は彼らに声を掛けようと、部屋のドアノブに手を掛けた。
だが、多忙な状況下において、最上位者である自分からの声かけは、却って煩わしいものになるのではと考え、思いとどまる。
彼は気付かれないよう、そっと階段へと足を向けた。
最上階の会議室。
重厚な扉の前に立ち、聖仁はドアの取っ手に手を掛けたまま、しばし思案にふける。
(昨日は父さんからの助っ人、李花という女性の勢いに押されて、重要な仕事を丸投げしてしまった……)
後悔と、拭いきれない疑念が脳裏をよぎる。
(考えてみると、もし彼女が悪意ある他社のスパイだったら、大変な損害になる。僕は、何てことをしてしまったんだ……。まぁ父さんの電話で、彼女は身元が確かなようだったけど……まだ油断できない)
会議室に足を踏み入れる聖仁。
時刻は、八時五十分。
定刻前であるにもかかわらず、李花と重役たちは既に全員が席についていた。
入室する社長の姿を捉え、李花が一瞬だけ驚きの表情を浮かべたが、即座に冷静さを取り戻す。
続いて、全員が一斉に立ち上がり、深々と会釈した。
「おはようございます、社長!」
重役たちと李花の唱和が響く。
「……おはよう。皆、本当にお疲れ様です。連日の多忙の中、お集まりいただき感謝します」
聖仁は一瞬だけ室内を見渡した。
そこに並ぶ顔ぶれには、一様に深い疲労の色が滲んでいる。
無理もない。
昨今の過剰な受注を考えれば、統括する役員たちの疲弊は、凄まじいと想像できた。
その責任の重さが、聖仁の肩に静かにのしかかる。
視線は李花へと向けられた。
昨夜の華やかなチャイナドレスとは打って変わり、彼女は隙のないビジネススーツを纏っている。
破天荒な振る舞いを見せた昨夜とは対照的に、今は極めて礼節正しい。
だが、慣れない資料整理と会議の準備に追われ、一睡もしていないのだろう。
化粧では隠しきれない隈が、彼女の目の下に落ちていた。
「……早速ですが、清水社長」
李花が、低く落ち着いた声で切り出した。
「直近六日間のクライアントデータを確認しましたが、業種が多岐にわたることが、従業員に大きな負担を強いています。私としましては、この部分の対策を軸に会議を進めたいと考えております。……ご許可いただけますでしょうか?」
昨夜とのあまりの豹変ぶりに、聖仁は内心で驚嘆した。
だが、重役たちの前で動揺を見せるわけにはいかない。
「お願いします」
短く応じ、聖仁は席に着く。
李花は、淀みのない動作で手元の端末を操作し始めた。
円卓の中央、虚空に青白い光が溢れ出す。
膨大なクライアントのログと、案件ごとの人員・作業時間の配分を示すグラフが、ホログラムとして浮かび上がった。
「……見ての通りです」
李花の声は低く、そして冷徹なまでに理知的だった。
「現在の受注形態は、AIによる自動処理を前提としています。ですが、顧客ごとにデータの形式や業務の手順が異なるため、そのままでは処理できません。現場では、案件ごとにデータを整え、AIの設定を調整し、結果を確認する作業が発生しています」
彼女の指先が、特定の赤いグラフを叩く。
その一撃は、現状の綻びを容赦なく突きつけるかのようだった。
「自動化するための準備と確認に、人手を取られているのです。業種の異なる案件を同時に増やせば、必要な知識も調整作業も増える。今の人数で個別に対応し続けるには、限界があります」
李花は、グラフの表示を切り替えた。
「まずは案件を業種と業務内容で整理し、共通する処理をまとめます。同じ調整を顧客ごとに繰り返すのではなく、一度作った仕組みを、複数の案件で使えるようにする。そのうえで、データを処理可能な形式に整える作業も、順次自動化していくことを提案します」
一瞬、彼女は言葉を切った。
李花の瞳が、真っ直ぐに聖仁を射抜く。
それは単なる部下による報告ではなく、社長としての決断を迫る、静かなる挑戦であった。
「……清水社長。ただし、仕組みを組み替えるには、一時的に人員と計算資源を集中させる必要があります。切り替えに伴い、一部の処理が停止するリスクもあります。目の前の案件を進めながらでは、簡単には着手できません」
そして、彼女は静かに言い切った。
「ですが、私は今、踏み切るべきだと考えます。現場の負担を減らさなければ、通常業務まで立ち行かなくなる。……決断を」
重役たちの視線が、一斉に聖仁へと集まる。
李花が示したリスクを受け入れ、改革という名の荒波へ踏み出すのか。
沈黙が支配する会議室で、全員の意識は、社長である聖仁の判断を待ちわびていた。
李花の理路整然、かつ画期的な提案。
聖仁は数拍の思考を挟み、そのリスクとリターンを脳内で精査した。
「……全リソースを、システム切り替えに投入してください」
トップによる、迷いのない決断。
だが、その言葉が会議室に響いた直後、一人の重役が慎重に手を挙げた。
「……しかし、社長。全リソースの集中投下は、あまりに博打が過ぎるのではないでしょうか?」
その声には、実務を預かる者特有の切実な懸念がこもっていた。
「営業や企画といった他部門の進捗が止まれば、受注のサイクルそのものが狂い、キャッシュフローに致命的な空白が生まれることが予測されます……」
それは極めて正当な、そして重い指摘だった。
会議室の空気は再び凍りつき、疲弊した重役たちの間に「やはり無理なのか?」という疑念の種が芽生えようとする。
聖仁は、その重役の瞳を真っ直ぐに見つめ、続いて会議室全体へと視線を巡らせた。
「仰る通りです。人的資源まで無条件に全投入すれば、営業や企画といった部門の進捗までストップさせかねません」
聖仁の声は、冷静かつ力強かった。
「もちろん、既存サービスの維持と顧客対応に必要な人員は確実に確保します。そのうえで、投入可能な最大限の人員と計算資源を集中させる。……それでも、他部門への影響は避けられないでしょう。ですが、このまま負担を増やし続けるより、今、改善に踏み切るべきだと判断しました」
彼は一歩も引かず、具体的な指針を示していく。
「切り替えの手順と各部署への影響を精査し、停止時間を最小限に抑えます。皆さんが管轄する部署へは、私も同行します。現場の皆様に、会社の現状とこれからの展望を丁寧に説明するためです」
聖仁の瞳に、強い意志が宿る。
「さらに、私個人の伝手がある人材派遣会社にも助力を働きかけます。周辺業務を支えてもらうことで、切り替えに必要な人員を確保できるよう努めます。……ここが正念場です! この場の一同、全員の力を、どうかお貸しください!」
的確な指示と、未来への展望。
そして、二十歳の若き天才は、年長者である重役たちに対し、敬意を込めて謙虚に頭を下げた。
静寂を破ったのは、李花の拍手だった。
彼女が真っ先に、賞賛を込めてその手を叩く。
続いて、堰を切ったように重役たちからも大きな拍手が沸き起こった。
***
聖仁と李花は、重役七名が管轄する現場を、当日中にすべて回った。
どの部署も、昼夜を問わず働きづめの現場ばかりだった。
そこには過大な受注による負担に耐えかねた、重い疲労感が澱のように沈んでいる。
聖仁は、統括する重役たちとともに深く静かに頭を下げ、現状について謝罪した。
それと同時に、MOSを幅広い業種へ迅速に普及させることの重要性を、一人ひとりの顔を見つめながら説いた。
そして業種や業務ごとに共通する処理を整え、個別対応の負担を減らすためのシステム切り替え方針を説明する。
「当ビルフロアを新たに借りて、他社からの応援人員が作業するブースを設けます」
聖仁の声が、疲弊した現場に響く。
「社外秘に当たらないデータ処理を担当していただき、皆様の負担を少しでも軽くいたします。また、当ビルの一部飲食店を、社員全員が無料で利用できるようにいたしました。さらに、新たなフロアには、専属の整体師二名に常駐していただく手配も進めています。空いた時間に、身体の疲れを和らげる施術を受けられるようにします」
それらの案は、すべて李花が昨夜のうちに作成した提案書に基づいたものだった。
絶望的な疲労感に包まれていた現場空気が一変し、あちこちで小さな歓声が上がる。
聖仁は、最後の一押しとして、全員の瞳を射抜くように言い放った。
「皆様の力をお貸しください。今を乗り切り、二か月後の決算では、皆様の貢献を賞与に反映し、利益を還元いたします」
その言葉が、現場の熱狂に火をつけた。
一斉に沸き起こる歓声と、若き社長の粋な采配に対する、惜しみない拍手。
七つの部署、全てを回りきった頃には、既に夜六時を過ぎていた。
合間に短い休息は挟んだものの、聖仁は朝から何も口にしていない。
傍らに控える李花も、おそらく同じだろう。
空腹と疲労が、静かに身体の芯を削っていく。
聖仁は、隣に立つ彼女を見やり、穏やかな声で語りかけた。
「……君を誤解していたようだ。李花さん、もしよければ食事をご一緒しませんか? 貴方の提案にあったビルの飲食店の、視察を兼ねてね」
その言葉に、李花の表情がパッと明るく綻んだ。
彼女は満面の笑みで応える。
「もちろんですわ、社長。……でも、誤解ですって? どのように私を誤解なさっていたのかしら。気になりますわね」
***
李花が選んだのは、会社と同じビル内にある、ごくありふれた定食屋だった。
地味なビジネススーツを纏っていても、その圧倒的な華やかさを隠しきれない美女。
そんな彼女が、ごく普通の定食屋を選ぶとは。
聖仁は微かな戸惑いを覚えたが、李花はそれを気にする様子もなく、軽やかな足取りで店内へと入っていく。
「二名です。あ、そこの二名席用の座敷で大丈夫ですよ」
慣れた様子で店員に応じ、李花は聖仁を誘うように小上がりの席へと導いた。
メニューを開き、彼女の瞳が子供のように輝き始める。
「日本の食べ物は、何でも美味しいですわね。こればかりは、どんな大国も敵わないでしょう」
その無邪気なほどに食への期待を膨らませる姿を見つめながら、聖仁はふと、ある疑問を口にした。
「……君は、日本人じゃないのかい? そういえば初めて会ったときは、チャイナドレスだったよね」
李花は、ゆっくりと顔を上げ、聖仁の瞳を真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、先ほどまでの無邪気な食欲とは異なる、深淵のような静謐さが宿る。
「……お父様に、私の素性は……聞いてらっしゃいますか?」
いつになく囁くような、慎重な問いかけ。
おそらく、エデン――父が『人間牧場』と呼んだ、彼女の出自に関わる話だろう。
聖仁も、低い声で応えた。
「エデン……父と同じ、人為的な天才だと聞いたよ」
その答えを聞き、李花の唇に不敵な笑みが浮かぶ。
彼女は愉しむように、小さく喉を鳴らした。
「ふふふ……そこまで、お話してるんですね」
艶やかな声が、狭い座敷の空気を震わせる。
「やっぱり貴方は、次代の王として期待されてるご様子。愛されてますね、ふふふ」
李花のからかうような口調に、聖仁は苦笑して返しつつ、小さく呟いた。
「愛されている……か」
父の愛を感じることは、幾度となくあった。
だが、あまりに規格外で、常識の範疇を遥かに超えたその愛情表現に、素直には喜べない。
その時、テーブルに運ばれてきた湯気の立つ定食の香りが、重苦しい思考を断ち切り、二人を日常へと引き戻した。
ごくありふれたメニューの内容。
だが、李花の目の前に供されたのは、驚くほどの特盛サイズだった。
彼女は手際よく箸を取り、まるで何事もなかったかのように白米を口に運んでいく。
その動作の一つひとつはあまりに優雅で、洗練されていたが、次々と料理を大胆に平らげていく様は凄まじい。
小柄な彼女からは想像もつかないほどの健啖ぶり。
聖仁は、ただ呆然と箸を止めるしかなかった。
「……そういえば、父も健啖家だったな。父がたまに帰ってくると、テーブル一杯の料理がすぐに無くなったよ……あっ! ご、ごめん」
女性に対して「大食いだ」と言ったのではないか――そう受け取られかねないと気づき、聖仁は慌てて言葉を飲み込んだ。
二十歳の若者らしい、あまりに未熟な振る舞い。
李花は下を向いて、堪えきれずに吹き出した。
「ぷっ! 考えてみると、聖仁様はまだ二十歳ですものね。そのテの洗練さは、望むべくもないですわ。お気になさらず……美女は人よりも多くカロリーを消費しますのよ? あなたのカレン様も、そうじゃありません?」
「……どうだったかな。量は、普通じゃない? 僕と同じぐらいだよ」
聖仁がたどたどしく答えると、李花は声を上げて笑った。
「身長百八十七センチの大男と同じ量を? あはは! 奥様も大概ですわね」
彼女の天才的な頭脳には、聖仁の身長もデータにある様子。
油断ならない相手なのだろうが、李花の屈託のない笑顔にほだされる聖仁だった。
二人は特盛の定食を難なく平らげ、一息つく。
熱い焙じ茶を一口すすり、聖仁は改めて李花を見つめた。
白磁の陶器のように完璧で艶やかな肌と、整った顔立ち。
それは絶世の美女と謳われた愛妻・カレンに勝るとも劣らない美貌に感じられた。
身長こそ長身のカレンとは真逆の小柄な李花。
だが、細身ながら豊かな曲線を描く肢体は、十人の男を十人とも振り向かせるに十分すぎるほどに官能的だ。
……聖仁は、胸の奥で仄かに燻る劣情を感じ、慌てて頭を振って追い出す。
対面の李花は、同じく熱い茶を啜りつつ、聖仁には目を向けずに一言だけ呟いた。
「……美女の蘊蓄でもう一つ。殿方の視線には、とても敏感ですのよ?」
李花の湯呑を持たない方の手が、卓上の聖仁の手へと重なり、熱が伝わる。
それと全く同時に、卓の下では、李花の脚が聖仁の身体に触れた。
「!?な、なにをするんだ?! やめてくれ……っ!」
予想もしない接触に、聖仁は狼狽し、周囲を気にして小声で告げる。
「場所を考えろ……っ! すぐ近くに、大勢の人が居るんだ……っ!」
体を引いて逃れようとする聖仁の手を、李花は卓上で掴み、距離を取らせなかった。
彼女は妖艶な笑みを浮かべ、誘うように囁いた。
「……あら、場所を変えれば、宜しいんですの? ……ふふふ」
卓の下で、李花の脚が聖仁の身体に触れ続けている。
その接触に、聖仁は背筋を強張らせた。
夕食時の定食屋は混雑を極めており、両隣からは他人の笑い声や食器の触れ合う音が絶え間なく流れ込んでくる。
聖仁の切迫した様子とは裏腹に、周囲では何事もなく食事が続いていた。
「た、たのむ……本当に! ひ、ひとに……きづかれ……」
聖仁は耳まで真っ赤にし、視線を逃すようにして顔を下に向ける。
声は震え、消え入りそうなほど小さかった。
李花は、そんな彼を愉しむように、低く艶やかな声で囁いた。
「ふふふ……そんなに慌てて……先ほどまでの落ち着きは、どうなさいましたの?」
周囲に気づかれることを恐れ、聖仁はただ俯くだけだった。
膝の上で、空いている方の手を強く握り締め、指が白くなるほど力を込める。
やめてくれと、もう一度言わなければならない。
だが、喉の奥まで出かかった言葉は、熱い吐息とともに霧散していった。
自分の意思を繋ぎ止めるだけで、精一杯だった。
目の前の湯呑も、周囲の喧騒も、すべてが遠く、現実味を失っていく。
ここを離れなければと本能が告げているのに、身体は一ミリたりとも動かせない。
潤んだ瞳で必死に耐える聖仁の様子を見つめ、李花は満足げに笑みを浮かべた。
そして突如として立ち上がり、静かに告げる。
その声は、今の聖仁には抗いがたい響きを帯びていた。
「……社長、どうでしょう? もっと静かな場所で、お話できませんか?」
彼女の瞳には、誘うような光が宿っている。
「私なりに場所を考えまして……新しく借りたフロアに、仮眠室を設けてあります。急ピッチで一日がかりで、作らせましたので……ふふふ」




