第二話 船と港
横浜の夜景が、宝石を撒き散らしたかのように煌めいている。
港の灯りも遠く、高層ビルの窓越しに広がる光景は、あまりに美しく、虚しい。
結婚式という祝祭の熱狂から、一か月程経過した夜。
しかし、この執務室を支配しているのは、祝福ではなく、底の見えない疲弊と不穏な予感だった。
「……先方に、確認したのかい?」
低く、刺すような声が静寂を裂いた。
清水聖仁は、デスクに置かれた手元を見つめたまま、顔を上げない。
連日の、徹夜じみた激務が、その端正な貌に深い隈と、隠しきれない苛立ちを刻み込んでいる。
「その件は、既にお断りしたはずだ。それなのに何故、話が進んでいるんだ?」
目の前に立つ青年は、聖仁より四歳年上で、大学を卒業したばかりだった。
人事部で選抜された、本来ならば頼りになるはずの優秀な部下である。
しかし今、その肩は小刻みに震え、額には脂汗が浮かんでいた。
「も、申し訳ありません……っ」
声が裏返る。
青年の指先は、タブレットを握りしめたまま白く強張っていた。
「お断りのメールを送ったつもりだったのですが、AIに送信のタイミングを任せたまま、送信済みか確認しておらず……待機状態になっている間に、先方が準備を進めてしまったようです!」
「…………」
聖仁は、重い沈黙を吐き出した。
多忙の中で生じた、わずかな確認漏れ。
その行き違いを収めるために、また時間を割かなければならない。
「……わかった」
顔を上げた聖仁の瞳には、怒りよりも、深い倦怠と自責の色が混じっていた。
「これからは気をつけて。先方には、僕と君で直接謝りに行くよ。とてもお受けできる現状じゃない……多忙過ぎるのも考え物だね」
窓の外では、宝石のような夜景が、変わらず輝き続けていた。
仕事が増えれば、一人当たりの負担も増える。
ならば人を増やすのが定石だが、AI関連の事業は、誰でもできる仕事ではない。
高度なセンスと、何よりも膨大な時間を要する教育が必要だ。
起業当初から、人材確保の重要性は常に頭にあった。
しかし、会社の成長速度が異常だった。
怒涛のような発注に対し、組織という器はあまりに小さく、全く追いついていない。
(……成長産業なのは判ってるけど、それにしたっておかしい)
聖仁は、デスクの上に散らばる書類を忌々しげに見つめた。
(……こんなにあちこちから、しかも業種を問わず、発注がくるなんて!)
その疑問が、疲れた頭の中を巡る。
あまりに急激な需要の拡大。
それは成功の証であると同時に、組織を内部から崩壊させかねない猛毒でもあった。
ふと、脳裏をよぎる仮説。
(……まさか、これは父さんの仕業? 『仕事を回す事が攻撃』なんて……そんな馬鹿な事あるわけないか……)
ルキウス・フォン・クロフォード。
彼が放った敵対宣言。
その真意を測りかねる聖仁の心に、疑念が燻る。
だが、すぐに彼はその思考を切り捨てた。
聖仁は頭を振って疑念を払い、眼前の仕事へ意識を戻す。
雑念に溺れる暇はない。
今はただ、この増え続ける仕事の奔流を、一刻も早く制御しなければならないのだ。
聖仁は、ふと時計に目をやった。
壁掛けの無音で針を進める時計が、午後九時を回っていることを告げている。
手元の資料を精査するだけでも、ゆうに三時間は要するだろう。
全てを終える頃には、日付は確実に変わる。
今日もまた、オフィスでの宿泊になるのだろうか……。
大女優たる魂の伴侶――カレンも、彼と同様に多忙な日々を送っている。
だが、結婚式を挙げた後、二人は固く約束していた。
どれほど多忙であっても、週に一度は必ず時間を空け、互いに家で過ごすことを。
(……今日、帰らなければ、一週間ずっと家に帰らないことになる)
聖仁の唇から、苦い独白が漏れた。
「結婚一か月で、いきなり約束を破るなんて……クソッ! どうすれば……カレンっ……」
指先が、デスクの上で震える。
仕事という名の責務と、最愛の女性への誓い。
その狭間で、彼はただ、やり場のない焦燥感の中にいた。
明日の会議には、資料作成が必須だ。
権限と能力の両面から、資料を作成できるのは、会社において自分しかいない。
だが、資料の作成に没頭すれば、カレンとの約束は無残に破られることになる。
先ほど届いた、彼女からのメッセージが脳裏を掠める。
『今日も夜遅いの? 逢いたいな。……ごめんなさい、お仕事頑張ってね!』
彼女は今も、自分が帰ってくるのを待ち続けているのだろうか。
どちらへ踏み出しても、足元が崩れ落ちるような選択肢。
聖仁は、出口のない苦悩の渦中にいた。
その時――オフィスの戸がノックされた。
「……どうぞ」
感情を削ぎ落とした、機械のような声で入室を許可する。
だが、現れたのは先ほど叱ったばかりの若い部下と……彼に妖艶に絡みつく、チャイナ服姿の美女だった。
青年は激しく狼狽し、顔を真っ赤にして報告を試みる。
「あ、あの、社長! し、失礼します! 実は……ムグッ!」
報告を遮るように、女性が不意に彼の唇を奪った。
突然の熱い感触に、青年は途端に脱力し、呆然と彼女を受け入れている。
聖仁は一瞬だけ視線を向けたが、すぐにデスクへと視線を戻した。
「……なんだろう。今忙しいんだ。そういうことは、会社以外でしてくれないか?」
切迫した状況下で、報告すら遮って口づけを交わす二人。
そのあまりに不謹慎な光景に、聖仁の胸中は、隠しきれない苛立ちが渦巻く。
聖仁の冷ややかな言葉にも構わず、二人は唇を重ね続けていた。
やがて青年はすっかり呆け、腰から力が抜ける。
女性は、崩れ落ちそうになる彼をその場に座らせると、淀みのない動作で聖仁へと向き直った。
艶やかな微笑が、彼女の唇に浮かぶ。
小柄ながらもチャイナ服に包まれた肢体は、夜の静寂の中で異様なほどに美しく、そして完成されていた。
「お初にお目にかかります。若き王、清水聖仁様」
その声は、甘く、それでいて芯の通った調べとなって響いた。
「この度新しく、清水征人様の秘書を務めることになりました『李花・デルフィーヌ』と申します。リンファと、気軽にお呼びください」
彼女の瞳が、聖仁を射抜くように見つめる。
「聖仁様も、我が主人と同じく、王の器でいらっしゃいますから……フフフ」
不敵な笑みと共に、彼女は聖仁をまっすぐに見つめていた。
李花の言葉に、聖仁は虚ろな顔を上げた。
あまりの不意打ちに、思考が追いつかない。
だが、積み上がった仕事と、刻一刻と過ぎる時間への焦燥が、彼を苛立ちへと突き動かした。
「……父の秘書が、何の用です?」
低く、刺すような声。
「とにかく今は忙しい。約束の無い来訪者に、構ってる暇は……?!」
しかし、李花は聖仁の言葉を意にも介さず、優雅な足取りでデスクへと歩み寄った。
そこにある社外秘の資料にまで、当然のような手つきで目を通し始める。
「……! 君は!」
あまりの傍若無人ぶりに、聖仁の怒りが爆発した。
「非常識にもほどがある! いくら父の伝手だろうと、勝手は許さない!」
彼は乱暴に資料を奪い取り、憤慨しながら彼女を睨みつけた。
だが李花は彼の激情など、どこ吹く風といった様子で、涼しい目で見つめ返す。
「ご安心を」
鈴の音のような声が、聖仁の怒りを冷ややかに撫でる。
「私は本日午後九時付で、貴社に役員待遇で迎えられることになりました。そのご挨拶も兼ねて、聖仁様に贈り物を差し上げるようにと、征人様たってのご希望です」
唐突すぎる役員就任の宣言。
呆れ果て、思考が追いつかないまま、聖仁は吐き捨てるように言った。
「……何を勝手な事を! 父に何の権限が? それに贈り物だって?……ロクなものじゃないことは確かだが」
李花は妖艶な笑みを浮かべ、聖仁の疲れ切った顔に、優しく手を添えた。
指先から伝わる熱と、甘い香りが、彼の思考をかき乱す。
「私の蠱惑的な身体全てを……と、申し上げたいのは山々ですが」
彼女の声は、耳元で囁くように低く、艶やかに響いた。
「征人様が『新妻と夜を過ごせない程、時間が作れないダメ息子に、暇をやってくれ』との仰せです。私が貴方様に代わって、本日の資料の吟味を引き受け、明日の会議には、社長――つまり貴方様の代理として出席するように、とのことでした」
彼女は聖仁の頬を撫でるようにして、さらに言葉を重ねる。
「ああ、役員待遇の件ですが、正確には副社長として、私は就任いたしました」
あまりに傍若無人な振る舞いと、耳を疑うような言い回し。
聖仁は頭が真っ白になり、混乱の中で声を絞り出した。
「……ええと、よくわからないな。副社長だって? 君は何の話をしてるんだ? 我が社の副社長は、既に他にいるんだ」
李花は、まるで当然の事実を述べるかのように、涼しい目で応じた。
「……貴方と共同で会社を立ち上げた方ですね。その点もご安心を。征人様が彼の役職を、持ち株ごと高値で買い取り、委任状も受け取ったそうですので」
あまりに強引すぎる、父の権力行使。
その言葉に、聖仁は一瞬、言葉を失った。
「なんだって?! そんなバカな!」
狼狽える聖仁の視線など意に介さず、李花は再び資料へと視線を落とした。
次々と資料に目を走らせるうちに、その美しい貌が、たちまちに歪む。
彼女は苛立ちを隠すことなく、冷徹なまでの皮肉を聖仁へと浴びせた。
「……これ、明日までに終わりますの? 四、五時間かかりそうですわね」
その声には、容赦のない評価が込められている。
「若き王は、偉大な父と比べて仕事が遅くていらっしゃる。……ええと、そこで伸びてるアナタ! とりあえず、熱い珈琲を持ってきてくださいます? その後は、社外秘以外の資料整理を、アナタも手伝ってください!」
「……は?! りょ、りょうかいですっ!」
李花のキスで呆けていた青年は、弾かれたように立ち上がり、給湯室へと駆け出す。
父を引き合いに出され、聖仁の顔には不満が色濃く浮かんだ。
だが、仕事が滞っているという事実に、彼は反論する術を持てない。
精一杯の抵抗として、彼は李花に疑問をぶつけた。
「……大体、君はAIの知識があるのか? ある程度のスキルが無いと、資料の整理すらままならないぞ」
挑発的な問いに対し、李花は表情一つ変えず、涼やかな笑みを浮かべて応じた。
「そのあたりはご心配なく。私も貴方と同じ、計算機科学の博士号を取得しておりますので」
「……?!」
聖仁の思考が、一瞬、完全に停止した。
目の前の奔放な女性が、自分と同じ分野の博士号を持っている。
その意外な返答に、言葉が続かない。
「……は、はは……」
乾いた笑いだけが、静まり返った執務室に虚しく響いた。
李花は、PC画面と山積みの資料を交互に見つめ続けていた。
その指先が刻むタイピングの音は、まるで精密な機械が奏でるリズムのように速く、そして正確だ。
画面に並ぶ情報と、山積みの資料を、彼女は淀みなく、鮮やかに捌いていく。
聖仁は、ただ呆然とその光景を見つめることしかできなかった。
あまりに非人間的なまでの業務処理速度。
その圧倒的な仕事の奔流を前に、彼は驚愕し立ち尽くす。
ふと、李花が顔を上げた。
横で微動だにせず自分を見つめている聖仁の視線に気づいたのか、彼女は冷徹なまでに事務的な声で言い放った。
「……社長、早くご帰宅ください!」
「オッパイの大きな新妻が、寂しくて泣いていますよ! 社長は夜の務めに向かってください。明日は、そうですね……午後一時頃には、ご出社くださいませ」
遠慮の一切ない、下世話で一方的な指示。
言い終えると同時に、彼女は再び資料へと視線を落とし、凄まじい勢いで仕事をこなしていく。
聖仁は、あまりに唐突で、あまりに強引な命令に、言葉を失った。
何か言い返そうと口を開きかけるが、喉の奥で思考が空回りし、結局何も出ない。
彼はただ、重い溜息とともに上着を羽織り、執務室を退出した。
廊下に出た聖仁は、端末を手にする。
(……父さんに電話をかけるか。一体なにがどうなってるんだ!)
端末の電話ボタンを押し、五度、六度とコール音が繰り返される。
だが、父・征人は出ない。
聖仁が諦めて通話を切ろうと指を動かした、その刹那――。
場違いなほど陽気で、どこか間の抜けた声が耳に飛び込んできた。
「んあ!? 聖仁か、すまんすまん!」
「どうせお前がぶーぶー言ってくると思ってたから、枕元に端末を置いてたんだが……取り込み中だったものでな! ふははは!」
父の笑い声の向こう側。
受話器越しに、艶めかしく、荒い女性の息遣いが漏れ聞こえてくる。
事態を察した聖仁の不機嫌は、もはや怒りへと加速していった。
「……相変わらず、母さん以外の女性と、逢瀬を楽しんでいらっしゃるようですね」
冷ややかな、突き放すような声。
「まぁ今さらどうでもよいですが。……それよりも! あの李花という女性は何です? いきなり副社長だなんて! 強引すぎます! なんのおつもりですかっ!」
聖仁の問いが、通信の向こう側へと叩きつけられた。
電話の向こうで、征人の声から一瞬だけ、遊び心が消えた。
女性の吐息が遠ざかり、代わりに底知れない威圧感が、電波を通じて聖仁の鼓膜を震わせた。
それは、一人の父親ではなく、世界の守護者としての「王」の重圧だった。
「何のつもりかだと? 聖仁よ」
低く、地を這うような声が響く。
「お前の可愛い『MOS』は、無限の可能性を秘めた代物だ。それはクロフォード家にとっても、未来の産業の柱となる。Windowsが席巻したOS業界しかり……こういうものは最初が肝心なのだ!」
一気にまくしたてられる、事業拡大の冷徹な論理。
「間髪入れず! 徹底的に! クロフォード家の息のかかったAIシステム『MOS』を、あらゆる産業に浸透させ、一気に席巻する必要がある! ……それはわかるな?」
父の描く事業拡大の構想が、畳みかけるように突きつけられる。
反論を挟む間もなく続いていた父の言葉が、ようやく途切れた。
口を挟めないまま息をのんでいた聖仁は、言葉を絞り出す。
「……それは、わかります」
沈黙する息子に対し、征人は途端に、慈しむような優しい口調へと変えた。
「……お前を次世代の王へと、クロフォード家の元老院に認めさせる。そのため、出来る限り、お前の実績が欲しい」
その声には、父としての、狂おしいほどの愛着と期待が混じっている。
「……そう思って、お前の会社に、じゃんじゃん仕事を回してやったというのに! お前の動きがどうも鈍い! だから助っ人を送っただけだ。これでも、大分手加減してるんだぞ?」
父の笑いを含んだ声が、再び耳を打つ。
「あまり露骨に俺が助け舟を出すと、元老院の爺ちゃんたちに、良い印象を与えんからな」
笑いを含んでいた征人の口調が、一抹の寂しさを含んだ声色に変わる。
「李花の情報処理能力は一流だが、お前の傍に置くことを、恵子には……よく思われていないようだ」
父の声は、わずかに沈み、静かな響きを帯びた。
「横で伸びてる葵と違ってな。どうもお前の母は、何事にも慎重な性格だから。知ってるだろう?」
今夜の父の相手が、かつて密かに憧れていた先輩・葵であること。
そして、人を思いやるがゆえに慎重になる、母・恵子の性格。
それらを同時に突きつけられ、聖仁の怒りは一気に沸点へと達した。
「……っ!? あなたにっ! 母の性格をうんぬん言われたくないっ!」
顔が熱くなり、血が頭に駆け上がる。
だが、征人は聖仁の激昂すら予測していたかのように、涼しい声で応じた。
「……それはともかく李花は、実は私と同じ、『エデン』出身の造られた天才さ」
その言葉に、聖仁の思考が凍りつく。
「恵子の、他家のスパイじゃないかという懸念は空振りだ。クロフォード家の人間牧場から、他家に人材が渡ると思うか? ……ありえないな。あそこは、絶対秘密主義の一族の秘部だ」
そこまで話して、征人の声から一転、重苦しい緊張が霧散した。
代わりに響いたのは、どこまでも明るく、軽快な父の笑い声だった。
「まぁとにかく! 今はお前のキャリアや会社、そしてクロフォード家全体にとっても、大事な時期だ」
「お前の魅力的な新妻には悪いが、まだしばらくは、お前は会社にカンヅメになるだろう。だから今日ぐらいは、家に帰してやりたいと李花に相談したら、自ら助っ人を買って出てくれたんだ。その気持ちを汲んで任せてやってくれ」
父との会話は、まるで感情のジェットコースターだ。
慈愛に満ちた優しさに心を解され、母への無遠慮な言及に怒りが燃え上がり、そしてまた、強引なまでの気遣いに翻弄される。
短時間のやり取りで、聖仁の精神は削り取られ、全身を重い疲労感が支配していく。
「……今夜は、父さんのお言葉に、甘えさせていただきます」
もはや反論する力すら残っていない。
連日の激務に、父との応酬が重なっていた。
「ああ、カレンさんに何か、甘いものでも買って行けよ! 女性に手土産は、妻と言えど必須だ。ふはは!」
言いたい放題の言葉を残し、通信は切れた。
通話が途切れた廊下で、聖仁はただ、重力に引かれるように立ち尽くしていた。
あまりの疲労感に、指一本動かすことさえ億劫だった。
***
聖仁とカレンの新しい愛の巣は、オフィスから歩いて三十分ほど。
今回の様にタクシーを使えば、十分とかからない距離。
それほど近い場所にありながら、一週間もの間、彼は帰宅できていなかった。
己の不甲斐なさと、仕事に追われ続けた日々への後悔が、重く胸を圧する。
(……もう午後十時か。カレン、怒ってるかな。……ふぅ、気が重いな)
弱気になる自分を奮い立たせるように、頬を叩き、彼は慎重に玄関の戸を開けた。
家の中は明るく灯されており、彼女が在宅していることを告げている。
「……ただいま」
恐る恐る声をかけると、奥からパタパタと慌ただしい足音が響いてきた。
駆け寄ってきたカレンの瞳には、涙が溜まっている。
彼女はそのまま、聖仁の胸へと飛び込んできた。
「……おかえりなさい! 逢いたかったわ……お仕事、お疲れ様です、あなた」
震える声で紡がれる愛の言葉。
聖仁は、父に言われて買ってきたケーキをそっと床に置き、ただ黙って彼女を強く抱きしめた。
感無量――その言葉さえ、今の彼にはあまりに軽すぎる。
最愛の女性の体温と、包み込まれるような慈しみ。
それだけで、全身を蝕んでいた重苦しい疲労が、雪解けのように溶けて消えていくのを感じていた。
引っ越し直後の、まだ生活感の薄い殺風景な玄関。
二人は、言葉を失ったまま、ただ互いの体温を確かめ合うように、長く、強く抱きしめ合っていた。
聖仁は心の中で、幾度も謝罪し、何度も感謝を捧げた。
そして、溢れんばかりの愛を囁こうとした。
だが、喉の奥が熱く、言葉は一滴もこぼれ落ちてこない。
ただ、視界が涙で歪み、震える唇からは嗚咽だけが零れ落ちる。
カレンもまた同じように、彼を強く、壊れんばかりに抱きしめ返していた。
「……ぐすっ、相当無理なさって、帰ってきてくれたのでしょう? 気を遣わせてしまって、ごめんなさい」
震える彼女の声が、聖仁の胸に深く突き刺さる。
女優としての仕事に加え、多忙な慈善活動にも身を投じている彼女。
その彼女でさえ、自分との時間を守るために、必死に時間を作り続けてきたのだ。
それなのに、自分はといえば――。
仕事という名の奔流に呑まれ、彼女の献身に応えることすらままならなかった。
そんな自分を、彼女は責めるどころか、ただ慈しみ、案じている。
「うぅ! カレン、ごめんね、ごめん……ありがとう、まってて、ぐすっ、う、くれてありがとう……うぅ」
感極まった聖仁の言葉は、子供のような、幼い謝罪と感謝の混濁だった。
謝罪も、感謝も、溢れる愛も、言葉になりきらないまま、熱い涙となって頬を伝い落ちていった。
しばらくの間、二人は玄関で互いの体温を確かめ合い、泣き続けた。
やがてカレンが、聖仁の上着を手に取り、彼の手を引くようにして家の中へと促す。
彼女に導かれるままダイニングへ辿り着くと、そこにはごく簡素な夜食が用意されていた。
温かいみそ汁、白米、漬物、そして焼き魚。
引っ越し直後の殺風景な部屋にあって、その湯気だけが、ここが二人の家であることを静かに示している。
「……実は、ついさっきまで、お義母様がいらしてたの」
カレンは少し照れたように、言葉を続けた。
「私、料理が苦手だから、最近、夜の空いた時間に、教えていただいていて……でもごめんなさい、魚はまだ上手く焼けなくて、焦げちゃったわ。これは食べないでおいてね」
カレンは、申し訳なさそうに俯く。
その不器用なまでの献身と、愛おしいほどの謝罪に、聖仁の胸が熱くなった。
彼は再び、愛妻を優しく抱き寄せた。
耳元で、甘く、茶目っ気たっぷりに囁く。
「……焦げた魚は、僕の大好物なんだ。さすが母さんだね、カレンによく教えてるよ。ふふふ」
「……もう、聖仁は! うふふ」
不器用な冗談が、二人の間の緊張と疲れを、温かな笑いへと溶かしていく。
夜の静寂の中で、ただ寄り添い、心からの笑みを交わす。
それは、あまりに尊く、暖かな時間だった。
質素な、だが温かな手料理。
焦げた魚の苦味さえも、二人にとっては生の実感を刻むための、愛おしいスパイスだった。
聖仁は、その一皿一皿に込められた彼女の不器用な熱量を感じ取りながら、静かに、そして深く、その味を噛み締めた。
食事の間、二人の間には絶え間なく言葉が溢れた。
カレンは、舞台の稽古の話や、最近できた気になる小物屋の話を、瞳を輝かせながら語った。
失敗してしまった料理の話題では、二人で顔を見合わせて笑い合い、その場に温かな空気が満ちる。
聖仁もまた、昼食に取った出前の些細な感想や、部下と趣味が合って意気投合した出来事を話す。
街で見かけた企業のポスターの話など、とりたてもない日常を、宝物のように紡いでいった。
互いの声に耳を傾け、共感し、頷き合う。
その穏やかで光輝くような時間は、何物にも代えがたい、二人だけの聖域だった。
「ごちそうさまでした! 凄く美味しかったよ、ありがとうカレン」
食後、聖仁は心からの充足感を込めて言った。
「本当に? また気を使って……」
照れ隠しに視線を泳がせる彼女の様子に、彼は茶目っ気たっぷりに笑い返す。
「何言ってるの、本当さ。食事に関して、僕は嘘はつけないよ! ……えへへ、今度は僕が作るね! 料理はしたことないけど、何とか勉強するよ」
食事が終わるまで、一時間ほどが過ぎていた。
帰宅する直前まで、自分の心を完全に支配していた重圧。
――父や李花、加速するAI事業、そして父が望む後継者への道――。
それらが、不思議なことに跡形もなく消え去っていた。
聖仁は自分が、それら全てを忘れていたことに気づき、驚く。
(……あれほどの事を、全部忘れられたなんて……!)
カレンの笑顔が、心に沈殿した暗い影をことごとく打ち消していく。
彼女の存在そのものが、彼にとっての救済であり、崇拝すべき女神だった。
胸を満たすのは、底知れない高揚感と、言葉にならないほどの感謝。
熱を帯びた聖仁の視線に、カレンは少し照れたように、小さく声を紡いだ。
「……お風呂入るでしょう? もうお湯が溜まってるから、先に入ってね! 私は後でいいから、貴方の着替えを……」
別の部屋へ向かおうとする彼女の手を、聖仁は唐突に掴んだ。
カレンは背を向けたまま、その場に立ち尽くす。
聖仁は彼女の手を握ったまま立ち上がり、背後からその豊かな肢体を包み込むように腕を回した。
「……疲れてるでしょ? 私に気を使って、無理しないでいいのよ……」
背中越しに伝わる、彼女の控えめで、慈愛に満ちた囁き。
聖仁は、その耳元へ顔を寄せ、甘えるように囁いた。
「うん、凄く疲れてるよ。だから、一緒にお風呂に入って、一緒にベッドに入って……何もしないで、ただ寝ようよ。……もっとも、君を前にして、僕が我慢できるとは思えないけど」
カレンは背を向けたまま、聖仁の手を強く握りしめ、彼を浴室へと引いていった。




