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聖者の行進  作者: いくらふじなみ
第三部 救いを求める手
22/26

第二話 船と港

横浜の夜景が、宝石を撒き散らしたかのように煌めいている。

港の灯りも遠く、高層ビルの窓越しに広がる光景は、あまりに美しく、虚しい。


結婚式という祝祭の熱狂から、一か月程経過した夜。

しかし、この執務室を支配しているのは、祝福ではなく、底の見えない疲弊と不穏な予感だった。


「……先方に、確認したのかい?」


低く、刺すような声が静寂を裂いた。


清水聖仁は、デスクに置かれた手元を見つめたまま、顔を上げない。

連日の、徹夜じみた激務が、その端正な貌(かお)に深い隈と、隠しきれない苛立ちを刻み込んでいる。


「その件は、既にお断りしたはずだ。それなのに何故、話が進んでいるんだ?」


目の前に立つ青年は、聖仁より四歳年上で、大学を卒業したばかりだった。

人事部で選抜された、本来ならば頼りになるはずの優秀な部下である。


しかし今、その肩は小刻みに震え、額には脂汗が浮かんでいた。


「も、申し訳ありません……っ」


声が裏返る。

青年の指先は、タブレットを握りしめたまま白く強張っていた。


「お断りのメールを送ったつもりだったのですが、AIに送信のタイミングを任せたまま、送信済みか確認しておらず……待機状態になっている間に、先方が準備を進めてしまったようです!」


「…………」


聖仁は、重い沈黙を吐き出した。


多忙の中で生じた、わずかな確認漏れ。

その行き違いを収めるために、また時間を割かなければならない。


「……わかった」


顔を上げた聖仁の瞳には、怒りよりも、深い倦怠と自責の色が混じっていた。


「これからは気をつけて。先方には、僕と君で直接謝りに行くよ。とてもお受けできる現状じゃない……多忙過ぎるのも考え物だね」


窓の外では、宝石のような夜景が、変わらず輝き続けていた。


仕事が増えれば、一人当たりの負担も増える。

ならば人を増やすのが定石だが、AI関連の事業は、誰でもできる仕事ではない。

高度なセンスと、何よりも膨大な時間を要する教育が必要だ。


起業当初から、人材確保の重要性は常に頭にあった。


しかし、会社の成長速度が異常だった。

怒涛のような発注に対し、組織という器はあまりに小さく、全く追いついていない。


(……成長産業なのは判ってるけど、それにしたっておかしい)


聖仁は、デスクの上に散らばる書類を忌々しげに見つめた。


(……こんなにあちこちから、しかも業種を問わず、発注がくるなんて!)


その疑問が、疲れた頭の中を巡る。


あまりに急激な需要の拡大。

それは成功の証であると同時に、組織を内部から崩壊させかねない猛毒でもあった。


ふと、脳裏をよぎる仮説。


(……まさか、これは父さんの仕業? 『仕事を回す事が攻撃』なんて……そんな馬鹿な事あるわけないか……)


ルキウス・フォン・クロフォード。

彼が放った敵対宣言。

その真意を測りかねる聖仁の心に、疑念が燻る。


だが、すぐに彼はその思考を切り捨てた。

聖仁は頭を振って疑念を払い、眼前の仕事へ意識を戻す。


雑念に溺れる暇はない。

今はただ、この増え続ける仕事の奔流を、一刻も早く制御しなければならないのだ。


聖仁は、ふと時計に目をやった。

壁掛けの無音で針を進める時計が、午後九時を回っていることを告げている。


手元の資料を精査するだけでも、ゆうに三時間は要するだろう。

全てを終える頃には、日付は確実に変わる。


今日もまた、オフィスでの宿泊になるのだろうか……。


大女優たる魂の伴侶――カレンも、彼と同様に多忙な日々を送っている。

だが、結婚式を挙げた後、二人は固く約束していた。


どれほど多忙であっても、週に一度は必ず時間を空け、互いに家で過ごすことを。


(……今日、帰らなければ、一週間ずっと家に帰らないことになる)


聖仁の唇から、苦い独白が漏れた。


「結婚一か月で、いきなり約束を破るなんて……クソッ! どうすれば……カレンっ……」


指先が、デスクの上で震える。


仕事という名の責務と、最愛の女性への誓い。

その狭間で、彼はただ、やり場のない焦燥感の中にいた。


明日の会議には、資料作成が必須だ。


権限と能力の両面から、資料を作成できるのは、会社において自分しかいない。

だが、資料の作成に没頭すれば、カレンとの約束は無残に破られることになる。


先ほど届いた、彼女からのメッセージが脳裏を掠める。


『今日も夜遅いの? 逢いたいな。……ごめんなさい、お仕事頑張ってね!』


彼女は今も、自分が帰ってくるのを待ち続けているのだろうか。


どちらへ踏み出しても、足元が崩れ落ちるような選択肢。

聖仁は、出口のない苦悩の渦中にいた。


その時――オフィスの戸がノックされた。


「……どうぞ」


感情を削ぎ落とした、機械のような声で入室を許可する。

だが、現れたのは先ほど叱ったばかりの若い部下と……彼に妖艶に絡みつく、チャイナ服姿の美女だった。


青年は激しく狼狽し、顔を真っ赤にして報告を試みる。


「あ、あの、社長! し、失礼します! 実は……ムグッ!」


報告を遮るように、女性が不意に彼の唇を奪った。

突然の熱い感触に、青年は途端に脱力し、呆然と彼女を受け入れている。


聖仁は一瞬だけ視線を向けたが、すぐにデスクへと視線を戻した。


「……なんだろう。今忙しいんだ。そういうことは、会社以外でしてくれないか?」


切迫した状況下で、報告すら遮って口づけを交わす二人。

そのあまりに不謹慎な光景に、聖仁の胸中は、隠しきれない苛立ちが渦巻く。


聖仁の冷ややかな言葉にも構わず、二人は唇を重ね続けていた。


やがて青年はすっかり呆け、腰から力が抜ける。

女性は、崩れ落ちそうになる彼をその場に座らせると、淀みのない動作で聖仁へと向き直った。


艶やかな微笑が、彼女の唇に浮かぶ。

小柄ながらもチャイナ服に包まれた肢体は、夜の静寂の中で異様なほどに美しく、そして完成されていた。


「お初にお目にかかります。若き王、清水聖仁様」


その声は、甘く、それでいて芯の通った調べとなって響いた。


「この度新しく、清水征人様の秘書を務めることになりました『李花・デルフィーヌ』と申します。リンファと、気軽にお呼びください」


彼女の瞳が、聖仁を射抜くように見つめる。


「聖仁様も、我が主人と同じく、王の器でいらっしゃいますから……フフフ」


不敵な笑みと共に、彼女は聖仁をまっすぐに見つめていた。


李花の言葉に、聖仁は虚ろな顔を上げた。


あまりの不意打ちに、思考が追いつかない。

だが、積み上がった仕事と、刻一刻と過ぎる時間への焦燥が、彼を苛立ちへと突き動かした。


「……父の秘書が、何の用です?」


低く、刺すような声。


「とにかく今は忙しい。約束の無い来訪者に、構ってる暇は……?!」


しかし、李花は聖仁の言葉を意にも介さず、優雅な足取りでデスクへと歩み寄った。

そこにある社外秘の資料にまで、当然のような手つきで目を通し始める。


「……! 君は!」


あまりの傍若無人ぶりに、聖仁の怒りが爆発した。


「非常識にもほどがある! いくら父の伝手だろうと、勝手は許さない!」


彼は乱暴に資料を奪い取り、憤慨しながら彼女を睨みつけた。

だが李花は彼の激情など、どこ吹く風といった様子で、涼しい目で見つめ返す。


「ご安心を」


鈴の音のような声が、聖仁の怒りを冷ややかに撫でる。


「私は本日午後九時付で、貴社に役員待遇で迎えられることになりました。そのご挨拶も兼ねて、聖仁様に贈り物を差し上げるようにと、征人様たってのご希望です」


唐突すぎる役員就任の宣言。

呆れ果て、思考が追いつかないまま、聖仁は吐き捨てるように言った。


「……何を勝手な事を! 父に何の権限が? それに贈り物だって?……ロクなものじゃないことは確かだが」


李花は妖艶な笑みを浮かべ、聖仁の疲れ切った顔に、優しく手を添えた。

指先から伝わる熱と、甘い香りが、彼の思考をかき乱す。


「私の蠱惑的な身体全てを……と、申し上げたいのは山々ですが」


彼女の声は、耳元で囁くように低く、艶やかに響いた。


「征人様が『新妻と夜を過ごせない程、時間が作れないダメ息子に、暇をやってくれ』との仰せです。私が貴方様に代わって、本日の資料の吟味を引き受け、明日の会議には、社長――つまり貴方様の代理として出席するように、とのことでした」


彼女は聖仁の頬を撫でるようにして、さらに言葉を重ねる。


「ああ、役員待遇の件ですが、正確には副社長として、私は就任いたしました」


あまりに傍若無人な振る舞いと、耳を疑うような言い回し。

聖仁は頭が真っ白になり、混乱の中で声を絞り出した。


「……ええと、よくわからないな。副社長だって? 君は何の話をしてるんだ? 我が社の副社長は、既に他にいるんだ」


李花は、まるで当然の事実を述べるかのように、涼しい目で応じた。


「……貴方と共同で会社を立ち上げた方ですね。その点もご安心を。征人様が彼の役職を、持ち株ごと高値で買い取り、委任状も受け取ったそうですので」


あまりに強引すぎる、父の権力行使。

その言葉に、聖仁は一瞬、言葉を失った。


「なんだって?! そんなバカな!」


狼狽える聖仁の視線など意に介さず、李花は再び資料へと視線を落とした。


次々と資料に目を走らせるうちに、その美しい貌(かお)が、たちまちに歪む。

彼女は苛立ちを隠すことなく、冷徹なまでの皮肉を聖仁へと浴びせた。


「……これ、明日までに終わりますの? 四、五時間かかりそうですわね」


その声には、容赦のない評価が込められている。


「若き王は、偉大な父と比べて仕事が遅くていらっしゃる。……ええと、そこで伸びてるアナタ! とりあえず、熱い珈琲を持ってきてくださいます? その後は、社外秘以外の資料整理を、アナタも手伝ってください!」


「……は?! りょ、りょうかいですっ!」


李花のキスで呆けていた青年は、弾かれたように立ち上がり、給湯室へと駆け出す。


父を引き合いに出され、聖仁の顔には不満が色濃く浮かんだ。

だが、仕事が滞っているという事実に、彼は反論する術を持てない。


精一杯の抵抗として、彼は李花に疑問をぶつけた。


「……大体、君はAIの知識があるのか? ある程度のスキルが無いと、資料の整理すらままならないぞ」


挑発的な問いに対し、李花は表情一つ変えず、涼やかな笑みを浮かべて応じた。


「そのあたりはご心配なく。私も貴方と同じ、計算機科学の博士号を取得しておりますので」


「……?!」


聖仁の思考が、一瞬、完全に停止した。

目の前の奔放な女性が、自分と同じ分野の博士号を持っている。

その意外な返答に、言葉が続かない。


「……は、はは……」


乾いた笑いだけが、静まり返った執務室に虚しく響いた。


李花は、PC画面と山積みの資料を交互に見つめ続けていた。


その指先が刻むタイピングの音は、まるで精密な機械が奏でるリズムのように速く、そして正確だ。

画面に並ぶ情報と、山積みの資料を、彼女は淀みなく、鮮やかに捌いていく。


聖仁は、ただ呆然とその光景を見つめることしかできなかった。


あまりに非人間的なまでの業務処理速度。

その圧倒的な仕事の奔流を前に、彼は驚愕し立ち尽くす。


ふと、李花が顔を上げた。

横で微動だにせず自分を見つめている聖仁の視線に気づいたのか、彼女は冷徹なまでに事務的な声で言い放った。


「……社長、早くご帰宅ください!」


「オッパイの大きな新妻が、寂しくて泣いていますよ! 社長は夜の務めに向かってください。明日は、そうですね……午後一時頃には、ご出社くださいませ」


遠慮の一切ない、下世話で一方的な指示。

言い終えると同時に、彼女は再び資料へと視線を落とし、凄まじい勢いで仕事をこなしていく。


聖仁は、あまりに唐突で、あまりに強引な命令に、言葉を失った。

何か言い返そうと口を開きかけるが、喉の奥で思考が空回りし、結局何も出ない。


彼はただ、重い溜息とともに上着を羽織り、執務室を退出した。

廊下に出た聖仁は、端末を手にする。


(……父さんに電話をかけるか。一体なにがどうなってるんだ!)


端末の電話ボタンを押し、五度、六度とコール音が繰り返される。

だが、父・征人は出ない。


聖仁が諦めて通話を切ろうと指を動かした、その刹那――。

場違いなほど陽気で、どこか間の抜けた声が耳に飛び込んできた。


「んあ!? 聖仁か、すまんすまん!」


「どうせお前がぶーぶー言ってくると思ってたから、枕元に端末を置いてたんだが……取り込み中だったものでな! ふははは!」


父の笑い声の向こう側。

受話器越しに、艶めかしく、荒い女性の息遣いが漏れ聞こえてくる。


事態を察した聖仁の不機嫌は、もはや怒りへと加速していった。


「……相変わらず、母さん以外の女性と、逢瀬を楽しんでいらっしゃるようですね」


冷ややかな、突き放すような声。


「まぁ今さらどうでもよいですが。……それよりも! あの李花という女性は何です? いきなり副社長だなんて! 強引すぎます! なんのおつもりですかっ!」


聖仁の問いが、通信の向こう側へと叩きつけられた。


電話の向こうで、征人の声から一瞬だけ、遊び心が消えた。


女性の吐息が遠ざかり、代わりに底知れない威圧感が、電波を通じて聖仁の鼓膜を震わせた。

それは、一人の父親ではなく、世界の守護者としての「王」の重圧だった。


「何のつもりかだと? 聖仁よ」


低く、地を這うような声が響く。


「お前の可愛い『MOS』は、無限の可能性を秘めた代物だ。それはクロフォード家にとっても、未来の産業の柱となる。Windowsが席巻したOS業界しかり……こういうものは最初が肝心なのだ!」


一気にまくしたてられる、事業拡大の冷徹な論理。


「間髪入れず! 徹底的に! クロフォード家の息のかかったAIシステム『MOS』を、あらゆる産業に浸透させ、一気に席巻する必要がある! ……それはわかるな?」


父の描く事業拡大の構想が、畳みかけるように突きつけられる。


反論を挟む間もなく続いていた父の言葉が、ようやく途切れた。

口を挟めないまま息をのんでいた聖仁は、言葉を絞り出す。


「……それは、わかります」


沈黙する息子に対し、征人は途端に、慈しむような優しい口調へと変えた。


「……お前を次世代の王へと、クロフォード家の元老院に認めさせる。そのため、出来る限り、お前の実績が欲しい」


その声には、父としての、狂おしいほどの愛着と期待が混じっている。


「……そう思って、お前の会社に、じゃんじゃん仕事を回してやったというのに! お前の動きがどうも鈍い! だから助っ人を送っただけだ。これでも、大分手加減してるんだぞ?」


父の笑いを含んだ声が、再び耳を打つ。


「あまり露骨に俺が助け舟を出すと、元老院の爺ちゃんたちに、良い印象を与えんからな」


笑いを含んでいた征人の口調が、一抹の寂しさを含んだ声色に変わる。


「李花の情報処理能力は一流だが、お前の傍に置くことを、恵子には……よく思われていないようだ」


父の声は、わずかに沈み、静かな響きを帯びた。


「横で伸びてる葵と違ってな。どうもお前の母は、何事にも慎重な性格だから。知ってるだろう?」


今夜の父の相手が、かつて密かに憧れていた先輩・葵であること。

そして、人を思いやるがゆえに慎重になる、母・恵子の性格。

それらを同時に突きつけられ、聖仁の怒りは一気に沸点へと達した。


「……っ!? あなたにっ! 母の性格をうんぬん言われたくないっ!」


顔が熱くなり、血が頭に駆け上がる。

だが、征人は聖仁の激昂すら予測していたかのように、涼しい声で応じた。


「……それはともかく李花は、実は私と同じ、『エデン』出身の造られた天才さ」


その言葉に、聖仁の思考が凍りつく。


「恵子の、他家のスパイじゃないかという懸念は空振りだ。クロフォード家の人間牧場から、他家に人材が渡ると思うか? ……ありえないな。あそこは、絶対秘密主義の一族の秘部だ」


そこまで話して、征人の声から一転、重苦しい緊張が霧散した。

代わりに響いたのは、どこまでも明るく、軽快な父の笑い声だった。


「まぁとにかく! 今はお前のキャリアや会社、そしてクロフォード家全体にとっても、大事な時期だ」


「お前の魅力的な新妻には悪いが、まだしばらくは、お前は会社にカンヅメになるだろう。だから今日ぐらいは、家に帰してやりたいと李花に相談したら、自ら助っ人を買って出てくれたんだ。その気持ちを汲んで任せてやってくれ」


父との会話は、まるで感情のジェットコースターだ。


慈愛に満ちた優しさに心を解され、母への無遠慮な言及に怒りが燃え上がり、そしてまた、強引なまでの気遣いに翻弄される。

短時間のやり取りで、聖仁の精神は削り取られ、全身を重い疲労感が支配していく。


「……今夜は、父さんのお言葉に、甘えさせていただきます」


もはや反論する力すら残っていない。

連日の激務に、父との応酬が重なっていた。


「ああ、カレンさんに何か、甘いものでも買って行けよ! 女性に手土産は、妻と言えど必須だ。ふはは!」


言いたい放題の言葉を残し、通信は切れた。


通話が途切れた廊下で、聖仁はただ、重力に引かれるように立ち尽くしていた。

あまりの疲労感に、指一本動かすことさえ億劫だった。


***


聖仁とカレンの新しい愛の巣は、オフィスから歩いて三十分ほど。

今回の様にタクシーを使えば、十分とかからない距離。


それほど近い場所にありながら、一週間もの間、彼は帰宅できていなかった。

己の不甲斐なさと、仕事に追われ続けた日々への後悔が、重く胸を圧する。


(……もう午後十時か。カレン、怒ってるかな。……ふぅ、気が重いな)


弱気になる自分を奮い立たせるように、頬を叩き、彼は慎重に玄関の戸を開けた。

家の中は明るく灯されており、彼女が在宅していることを告げている。


「……ただいま」


恐る恐る声をかけると、奥からパタパタと慌ただしい足音が響いてきた。

駆け寄ってきたカレンの瞳には、涙が溜まっている。


彼女はそのまま、聖仁の胸へと飛び込んできた。


「……おかえりなさい! 逢いたかったわ……お仕事、お疲れ様です、あなた」


震える声で紡がれる愛の言葉。

聖仁は、父に言われて買ってきたケーキをそっと床に置き、ただ黙って彼女を強く抱きしめた。


感無量――その言葉さえ、今の彼にはあまりに軽すぎる。


最愛の女性の体温と、包み込まれるような慈しみ。

それだけで、全身を蝕んでいた重苦しい疲労が、雪解けのように溶けて消えていくのを感じていた。


引っ越し直後の、まだ生活感の薄い殺風景な玄関。

二人は、言葉を失ったまま、ただ互いの体温を確かめ合うように、長く、強く抱きしめ合っていた。


聖仁は心の中で、幾度も謝罪し、何度も感謝を捧げた。

そして、溢れんばかりの愛を囁こうとした。


だが、喉の奥が熱く、言葉は一滴もこぼれ落ちてこない。

ただ、視界が涙で歪み、震える唇からは嗚咽だけが零れ落ちる。


カレンもまた同じように、彼を強く、壊れんばかりに抱きしめ返していた。


「……ぐすっ、相当無理なさって、帰ってきてくれたのでしょう? 気を遣わせてしまって、ごめんなさい」


震える彼女の声が、聖仁の胸に深く突き刺さる。


女優としての仕事に加え、多忙な慈善活動にも身を投じている彼女。

その彼女でさえ、自分との時間を守るために、必死に時間を作り続けてきたのだ。


それなのに、自分はといえば――。

仕事という名の奔流に呑まれ、彼女の献身に応えることすらままならなかった。

そんな自分を、彼女は責めるどころか、ただ慈しみ、案じている。


「うぅ! カレン、ごめんね、ごめん……ありがとう、まってて、ぐすっ、う、くれてありがとう……うぅ」


感極まった聖仁の言葉は、子供のような、幼い謝罪と感謝の混濁だった。

謝罪も、感謝も、溢れる愛も、言葉になりきらないまま、熱い涙となって頬を伝い落ちていった。


しばらくの間、二人は玄関で互いの体温を確かめ合い、泣き続けた。

やがてカレンが、聖仁の上着を手に取り、彼の手を引くようにして家の中へと促す。


彼女に導かれるままダイニングへ辿り着くと、そこにはごく簡素な夜食が用意されていた。


温かいみそ汁、白米、漬物、そして焼き魚。

引っ越し直後の殺風景な部屋にあって、その湯気だけが、ここが二人の家であることを静かに示している。


「……実は、ついさっきまで、お義母様がいらしてたの」


カレンは少し照れたように、言葉を続けた。


「私、料理が苦手だから、最近、夜の空いた時間に、教えていただいていて……でもごめんなさい、魚はまだ上手く焼けなくて、焦げちゃったわ。これは食べないでおいてね」


カレンは、申し訳なさそうに俯く。

その不器用なまでの献身と、愛おしいほどの謝罪に、聖仁の胸が熱くなった。


彼は再び、愛妻を優しく抱き寄せた。

耳元で、甘く、茶目っ気たっぷりに囁く。


「……焦げた魚は、僕の大好物なんだ。さすが母さんだね、カレンによく教えてるよ。ふふふ」


「……もう、聖仁は! うふふ」


不器用な冗談が、二人の間の緊張と疲れを、温かな笑いへと溶かしていく。

夜の静寂の中で、ただ寄り添い、心からの笑みを交わす。


それは、あまりに尊く、暖かな時間だった。


質素な、だが温かな手料理。

焦げた魚の苦味さえも、二人にとっては生の実感を刻むための、愛おしいスパイスだった。

聖仁は、その一皿一皿に込められた彼女の不器用な熱量を感じ取りながら、静かに、そして深く、その味を噛み締めた。


食事の間、二人の間には絶え間なく言葉が溢れた。


カレンは、舞台の稽古の話や、最近できた気になる小物屋の話を、瞳を輝かせながら語った。

失敗してしまった料理の話題では、二人で顔を見合わせて笑い合い、その場に温かな空気が満ちる。


聖仁もまた、昼食に取った出前の些細な感想や、部下と趣味が合って意気投合した出来事を話す。

街で見かけた企業のポスターの話など、とりたてもない日常を、宝物のように紡いでいった。


互いの声に耳を傾け、共感し、頷き合う。

その穏やかで光輝くような時間は、何物にも代えがたい、二人だけの聖域だった。


「ごちそうさまでした! 凄く美味しかったよ、ありがとうカレン」


食後、聖仁は心からの充足感を込めて言った。


「本当に? また気を使って……」


照れ隠しに視線を泳がせる彼女の様子に、彼は茶目っ気たっぷりに笑い返す。


「何言ってるの、本当さ。食事に関して、僕は嘘はつけないよ! ……えへへ、今度は僕が作るね! 料理はしたことないけど、何とか勉強するよ」


食事が終わるまで、一時間ほどが過ぎていた。


帰宅する直前まで、自分の心を完全に支配していた重圧。

――父や李花、加速するAI事業、そして父が望む後継者への道――。

それらが、不思議なことに跡形もなく消え去っていた。


聖仁は自分が、それら全てを忘れていたことに気づき、驚く。


(……あれほどの事を、全部忘れられたなんて……!)


カレンの笑顔が、心に沈殿した暗い影をことごとく打ち消していく。

彼女の存在そのものが、彼にとっての救済であり、崇拝すべき女神だった。


胸を満たすのは、底知れない高揚感と、言葉にならないほどの感謝。

熱を帯びた聖仁の視線に、カレンは少し照れたように、小さく声を紡いだ。


「……お風呂入るでしょう? もうお湯が溜まってるから、先に入ってね! 私は後でいいから、貴方の着替えを……」


別の部屋へ向かおうとする彼女の手を、聖仁は唐突に掴んだ。


カレンは背を向けたまま、その場に立ち尽くす。

聖仁は彼女の手を握ったまま立ち上がり、背後からその豊かな肢体を包み込むように腕を回した。


「……疲れてるでしょ? 私に気を使って、無理しないでいいのよ……」


背中越しに伝わる、彼女の控えめで、慈愛に満ちた囁き。

聖仁は、その耳元へ顔を寄せ、甘えるように囁いた。


「うん、凄く疲れてるよ。だから、一緒にお風呂に入って、一緒にベッドに入って……何もしないで、ただ寝ようよ。……もっとも、君を前にして、僕が我慢できるとは思えないけど」


カレンは背を向けたまま、聖仁の手を強く握りしめ、彼を浴室へと引いていった。

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