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聖者の行進  作者: いくらふじなみ
第三部 救いを求める手
21/24

第一話 楽園に届いた手紙

北東グリーンランド。


地図上では空白、あるいは凍てついた沈黙として扱われる極地。

そこにおいて時間は、氷河の進む速度よりも遅く、そして残酷に流れている。


名もなきフィヨルドの入り口の、荒れ狂う海面の下。

そこには、海底岩盤を穿って築かれた巨大な居住施設が、深淵の闇に沈むようにして横たわっている。


その頂点の氷海上に、一滴の涙の如く、透明な半球状ドームが姿を現している。


夜空は、神の筆致による狂乱の絵画だった。


緑と紫のオーロラが、天の帳を激しく揺らし、星々をその光のヴェールで塗り潰す。

流氷の向こう側では、白熊が音もなく歩を進め、極北の静寂を分かつこともなく、ただ凍てつく闇へと溶けていく。


その静寂を切り裂くのは、海底に張り巡らされた真空磁気軌道の微かな唸りだけだ。


外界との最速の交通手段である軌道を、数百キロ先の秘密の港から射出された耐圧カプセルが駆け抜ける。

レールガン方式の加速によって、暗い海中と地下の回廊を抜け、居住施設へと迫っていた。


カプセルが基地の心臓部へと滑り込み、静かにその扉が開かれる。


そこには外界の極寒から隔絶された、狂おしいほどの「常春」が満ちていた。

湿り気を帯びた温かな空気が、肌にねっとりと絡みつく。


森林庭園からは、生命の奔流を感じさせる土と樹木の香りが立ち上り、温水プールから立ち昇る湯気が、視界を白く、甘美に霞ませていく。

極北の氷の下に、これほどまでに豊穣で、これほどまでに贅沢な楽園が隠されているという事実は、もはや現実感すら希薄だった。


その常春の静寂を破り、一人の女が歩みを進める。


マルガリタ・フォン・アルテミシアス。


彼女の背後で、カプセルの扉が重厚な音を立てて閉ざされる。

深紅のドレスが、湿った床の上で蛇のように滑る。


ドームの最上部、透明な天蓋の向こうでは、オーロラの光が、まるで巨大な生き物のように、紫と緑に明滅しながら、この楽園を包み込んでいる。


凍てつく死の世界と、豊穣な生の世界。

その境界に、彼女の住まう楽園はあった。


***


ドームの天蓋を覆うオーロラは、狂乱の如く紫と緑の光を撒き散らし、その残像が水面に揺らめいては消えていく。


熱を帯びた湯気が、重厚な静寂の中に白く立ち昇る。

マルガリタは、温水ジャグジーに身を沈め、琥珀色の水面から肩を覗かせていた。


誰もが目を奪われる彼女の肢体を、覗き見るのは、時折通り過ぎる白熊のみ。


世俗の垢。

それらをすべて、熱い湯が溶かし、洗い流していく。

女帝の肌を撫でる水は、まるで絹のように滑らかで、同時に彼女の支配権を誇示するかのような重みを持っていた。


静寂を破り、規則正しい足音が近づいてくる。

一歩、また一歩と、その音は迷いなく、そして完璧なリズムを刻んでいた。


「マルガリタ様、湯加減はいかがでしょうか」


涼やかな、しかし芯の通った声が響く。

現れたのは、銀色の髪を夜の闇に輝かせた、一人の女だった。


セラフィナ・ノワール。

マルガリタが十八歳でエデンを卒業した時から、長年連れ添う相棒であり、彼女に仕える秘書。


百七十センチメートルの長身と、その均整の取れたプロポーションは、隙のないビジネススーツの上からも隠し切れない。

艶やかな褐色の肌が、銀髪の輝きと鮮烈なコントラストを描いている。


マルガリタは瞳を細め、低く、愉悦を含んだ声を漏らした。


「ん、適温だ。……私が到着する時間も読んでいたとは、相変わらず仕事が早いな」


「恐縮です。お食事の用意も整っておりますので、その際はお声がけを……っ!?」


セラフィナが言葉を紡ごうとした瞬間、世界から音が消えた。


水面を割って、マルガリタの手が、驚くべき速さで伸びる。

熱く、湿った指先が、セラフィナの細い手首を、逃げ場のないほど強く、強引に掴み取った。


「あ……っ」


抗う間もなく、セラフィナの身体は水際へと引き寄せられる。

その勢いに、彼女の視界が激しく揺れた。


次の瞬間、唇を塞いだのは、逃れようのない、貪るような口づけだった。


それは慈しみというにはあまりに強烈で、略奪というにはあまりに甘美な、魂を削り取るような接吻。

熱い吐息が混ざり合い、二人の境界が溶けていく。


「ん……ふ……っ」


セラフィナの喉から、押し殺したような、震える吐息が漏れる。

強烈な口づけに、セラフィナの腰は、まるで熱に浮かされたように、ぐにゃりとくだけてしまった。


マルガリタの口づけは、獅子を思わせる強引さを帯びていた。

整然と紡がれていた秘書の言葉さえ、その一瞬にさらわれてしまう。


「お、おゆるしを……っ!」


重厚な静寂の中に、セラフィナの声が零れ落ちる。

つい先ほどまで、隙のない装いとともに保たれていた平静。


その綻びを前に、マルガリタは僅かに唇を離し、低く、愉悦に満ちた声を響かせた。


「何を許すんだ?」


白い湯気が、二人の間をゆっくりと横切っていく。


マルガリタは、セラフィナの耳元へと顔を寄せた。

その唇には、悪戯を楽しむような笑みが浮かんでいる。


「食事の用意が出来ていると君は言ったぞ。すぐにでも食べたい……」


一拍の沈黙。

食卓へ案内するはずだった秘書を見つめる瞳に、捕食者を思わせる輝きが宿る。


「――君をな」


その大胆な言葉とともに、再度、セラフィナの艶やかな唇を捕食する女帝。

白く立ち昇る湯気の向こうで、紫と緑の光が水面に揺らめいていた。


***


マルガリタは、力なく項垂れたセラフィナの身体を、壊れ物を扱うような優しい手つきで抱きかかえた。


滴る水滴が、二人の肌を伝い、床に幾何学的な模様を描いていく。

ジャグジーの熱気を背に、彼女は寝室へと歩を進めた。


ベッドが濡れるのも構わず、セラフィナをそっと横たえる。

彼女はまだ、気絶したままだった。


マルガリタは、その美しい顔立ちを覗き込む。

そして慈しむように、あるいは愛おしむように、柔らかな布で彼女の身体を丁寧に拭い、乾かしていった。


「ふふ……相変わらず、ふるいつきたくなるほど、良い女だ」


低く、甘やかな声が、静まり返った寝室に溶けていく。

マルガリタは、セラフィナの頬を指先でなぞり、愉悦に満ちた溜息をついた。


「気絶した姿も美しい……いつまでも愛でたくなるが、それは流石に怒られるな」


自らの身体も手早く拭い上げると、マルガリタは艶やかなシルクのローブを纏い、音もなく寝室を後にする。

さほど時間を置かず、静寂を切り裂くように、セラフィナが跳ねるようにして身を起こした。


「……ん、は?! ま、まるがりた様は?!」


彼女は物音のするダイニングへと向かった。

重厚な扉の向こうから聞こえてくるのは、銀食器が陶器に触れる、あまりに平然とした音。


そこには、何事もなかったかのように、豪華な食事に喰らいつく女帝の姿があった。


「おはよう、セラフィナ。料理が冷めると困るから、先にいただいてるぞ。ふふふ……」


銀食器が陶器を叩く、軽やかな音。

マルガリタは、愉悦に満ちた瞳で、呆然と立ち尽くす秘書を見つめていた。


セラフィナの頬は、熱を帯びて朱に染まっていた。

自らの痴態、そして主人の前での失態。その羞恥が全身を駆け巡る。


しかし、主人と命運を共にして二十五年。その長い付き合いが、彼女に即座に冷静さを取り戻させた。


セラフィナは、全裸のまま、背筋を伸ばし、深々と頭を下げた。

その動作には一点の淀みもなく、声にも、もはや震えはなかった。


「失礼致しました。すぐに身支度を整えてまいります」


マルガリタは何も言わず、ただ目くばせで応じた。


二分と経たぬうちに、セラフィナは戻ってきた。

乱れ一つない完璧なビジネススーツに身を包み、銀髪も一点の曇りなく整えてある。


その姿は、先ほどまで寝室で気絶していた女とは、到底思えない完成度だった。

マルガリタは、手にしたフォークを止め、感嘆の吐息を漏らした。


「……早すぎる。お前、まさか……スーツが濡れる事も、読んでたのか?」


その問いに、セラフィナは表情一つ変えず、静かに応じる。


「長いお付き合いですので。……スープを温めなおして、お持ちします。しばしお待ちを」


一礼し、彼女は再び背を向ける。

マルガリタは、空のワイングラスを見つめながら、唇の端を僅かに吊り上げた。


健啖家であるマルガリタは、並べられた豪華な料理を三人前ほど平らげると、満足げに背もたれに身を預けた。

ワインのボトルも一本空けられたが、その瞳に酔いの翳りは微塵もなく、むしろ研ぎ澄まされた明晰さを保っている。


熱い茶が欲しくなり、ふと視線を向けた先には、既に湯気の立つティーセットを携えて控えるセラフィナの姿があった。


言葉を発する前にすべてを察し、用意する。

その完璧なまでの献身は、もはや呼吸と同じほどに自然なものだった。


「……お前と結婚する男は、堕落の一途を辿るだろうな」


マルガリタは、悪戯っぽい笑みを浮かべ、からかうように呟いた。


「目覚めから、再び眠るまで、何一つ思考せずに済みそうだ」


「恐縮です」


セラフィナは表情一つ変えず、淡々と応じた。

手際よく熱い茶を注ぐ。


マルガリタは、差し出された茶器を手にし、その熱を指先で確かめながら一口啜る。

主人が寛ぎ、静寂が戻るのを待つように、セラフィナは一呼吸おいて語り掛けた。


「……マルガリタ様。お寛ぎの所、恐縮ですが、一つ宜しいでしょうか?」


マルガリタは無言で頷く。


「私が統括する秘書チームについてですが……日本支部リーダーの清水恵子から、マルガリタ様宛に、手紙で直訴文が届いております」


セラフィナは落ち着いた声で続けた。


「読み上げても、宜しいでしょうか?」


セラフィナの問いに、マルガリタはすぐには答えなかった。


彼女はゆっくりと瞳を閉じ、思考の深淵へと沈み込んでいく。

数拍、あるいは数十秒。重厚な静寂がダイニングを満たし、刻一刻と過ぎゆく時だけが、二人の間に流れていた。


セラフィナは、主人が思索の海に潜っている間、微動だにせず、ただその帰還を待つ彫像のように佇んでいる。

急かすことも、沈黙を恐れることもない。


長い沈黙の果て、ようやくマルガリタが重い口を開いた。


「……最後に逢ったのは、十八年前か」


低く、遠い記憶を手繰り寄せるような声。

彼女は目を閉じたまま、愉悦とも追憶ともつかぬ笑みを漏らした。


「ふふ、穏やかだが芯の強い美人だ。確か……ルキウスの初めての側室だったな?」


その問いに、セラフィナは静かに一礼し、淀みない声で応じる。


「はい。当主殿の最初の側室で、最初に御子を賜った女性です。第一子の男子、清水聖仁様も、今年で二十歳になられたとか」


「……あの時の子が、もう二十歳か。早いものだ」


マルガリタは目を閉じたまま、独り言のように言葉を紡いだ。


「報告書ではなく、直訴文とはな。ふふふ、面白そうだ。読み上げてくれ」


「……拝啓、偉大なるマルガリタ・フォン・アルテミシアス様。貴方様のご威光に私が最初に触れたのは、二十年ほど前でしょうか」


セラフィナの声は、静謐なダイニングに、遠い日の記憶を解き放つように響いた。

マルガリタの反応を慎重に見極めながら、一言ずつ、丁寧に言葉を紡いでいく。


「当時、私は清水征人――ルキウス・フォン・クロフォードに、意に沿わぬ関係を強いられ、泣き咽ぶ日々を送っていました。住んでいた小さなアパートの一室に、貴方様がいらしたとき……別の世界に迷い込んだような錯覚を感じたこと、今でも鮮明に思い出されます」


マルガリタは、目を閉じたまま動かない。

その瞼の裏に、かつて訪れた小さなアパートの一室が、静かに甦っていた。


「……訳も分からず『どなたですか?』と尋ねる私に、貴方様は突然、額を床につけ、日本式の『土下座』をなさり、こうお話しくださいました」


セラフィナの言葉が、重厚な沈黙を切り裂く。


「『ルキウスは私の夫だ。私の夫が君を孕ませたようだ。夫の罪は私の罪。如何様にもしてくれたまえ』と……私はそのお姿に、暗く悲しい日常を一筋の光が切り裂き、瞬く間に闇を照らしていくような光景を見たのです」


マルガリタの指先が、手にしたティーカップの縁を、無意識のうちになぞった。


「清水征人は、こんなに素晴らしい女性と結婚している。それであれば、本当は悪い人ではないかもしれないと……不思議な感覚でした。貴方様のおかげで、彼を見る目が、百八十度変わったのです……」


セラフィナはそこで、一度言葉を止めた。

重苦しいほどの沈黙が、二人の間に横たわる。


マルガリタは目を閉じたまま、遠い日の情景を反芻するように、ただ深く、深く、呼吸を繰り返していた。


セラフィナは、敬愛する主の静かな様子を伺いながら、丁寧に続きを紡ぎ始めた。


「……両手を床につけ、深く頭を下げる貴方様の後ろから、顔をパンダのように痣だらけに腫らし、不満そうに、むくれている征人が出てきました」


静謐なダイニングに、セラフィナの声が響く。


「貴方様に促され、『申し訳なかった。私と結婚して欲しい。子供も面倒見るから、産んでほしい』と、棒読みする男性……そんな征人のあまりの情けないプロポーズに、私は思わず、吹き出して笑ってしまいました」


それは、かつて絶望の中にいた女が、救いを見出した瞬間の記憶だった。


「……あの時からの光り輝く、穏やかな年月は、全て太陽の化身、マルガリタ様のご威光の賜物あると、現在も日々、噛みしめております……」


ここまで読み終えたセラフィナは、主の様子を伺い、黙した。

ダイニングには、再び重厚な沈黙が降りてくる。


マルガリタは、手にしたティーカップをテーブルに置いた。

カチリ、という小さな音が、静寂の中に鋭く響く。


「……ふふっ」


低く、掠れた笑い声が、彼女の唇から零れ落ちた。

それは嘲笑ではなく、愛おしい過去への、深い慈しみを含んだ吐息だった。


「……あの頃、エデンを卒業したばかりのルキウスは、零か百かしかない、極端な男だった」


マルガリタの声は低く、遠い記憶の澱(おり)を掬い上げるように響いた。

彼女は目を閉じたまま、かつての青年の面影を反芻するように言葉を紡ぐ。


「無理もない。十五歳までは、私に勝つことで頭が一杯だったし、そこからは私に、クロフォード家の当主を押し付けられ、激務と自学に追われる日々……。一般的な常識など知らない、優秀なだけの子供だった」


ふっと、彼女の唇から愉悦の混じった吐息が漏れた。


「ふふふ、セラフィナよ。あいつがエデンを卒業した翌日だ。私にプレゼントだと言い、ルキウスが一枚の書類を持ってきた。……何が書かれていたと思う?」


問いかけに対し、セラフィナは数瞬、思考の海へ沈んだ。

そして、一礼して静かに答える。


「当主殿の御深慮、凡人たる私には想像もできず……判りかねます」


マルガリタは苦笑を浮かべ、話を続けた。


「世界中の美女の個人情報が、びっしりと書いてあるリストだった。暇を見つけては、必死に調査していたらしい。……奴はこう言ったよ。『とりあえずここまで調べたよ。何人でも攫ってくるから、いつでも言ってくれ』とな」


「奴には冗談が通じないことを、久々にわからせられたよ。ははは!」


高らかな笑い声が、静まり返ったダイニングに響き渡り、やがて夜の闇へと溶けていった。


「女性を攫ってはいけない。そういうことを真面目に教えねばならないほど、常識の欠落した人間……」


マルガリタは自嘲気味に、しかしどこか愛おしげな響きを込めて、独り言のように言葉を紡いだ。


「卒業後も教育を続けていたが、そうするうちに奴は、女性を騙すようになった。金、権力、笑顔、甘言で、篭絡し、心を弄ぶ外道にな……ふふふ。そんな時期だ。恵子が、ヤツの毒牙にかかったのは」


マルガリタの静かな告白に、セラフィナは表情一つ変えず、ただ黙してその言葉を全身で受け止めるように聞き入っていた。


「ヤツは満面の笑みで私にこう言った。『日本に君好みの素敵な女性がいたよ。今度紹介するね。凄く優しくて、外国人にも親切なんだ!僕の子供ができて泣いてたけど、僕は何とも思ってないから!気にしないで遊んでね』だとさ……」


マルガリタは呆れたように肩をすくめ、そして、腹の底から突き上げるような笑い声を上げた。


「全く、大した奴だよ。明鏡止水の境地にある私を、二度も戦慄させたのは奴だけだ。はははは!」


高らかな笑い声が、凍てつく極北の夜に溶け、消えていった。


主の衝撃的な告白にも、セラフィナは一切動じない。

ただ、静かな呼吸音だけが、彼女の艶やかな唇から微かに漏れている。


マルガリタは、その揺るぎない様子を慈しむように一度見つめ、微笑を浮かべて視線を前に戻した。

そして再び瞳を閉じ、遠い歳月を振り返るように、言葉を紡ぎ出す。


「……恵子を側室に迎え、私と恵子でルキウスを教育していった」


その声は、もはや笑いを含まず、深く静かな慈愛に満ちていた。


「恵子の腹の中で子供が育つうちに、ルキウスにも他者を……私以外の人間を、思いやる心が芽生えていったような気がするよ。彼女は手紙で、私を恩人のように書いていたが……私やルキウスにとっては、彼女こそ恩人かもしれないな……ふふふ」


恵子への感謝を滲ませた、静かな笑い。


マルガリタはそこで言葉を切り、セラフィナに改めて向き直った。

そして、手紙の続きを促すように、静かに目配せをする。


セラフィナは無言で、深く頷いた。


一文字一文字を刻み込むように、静かに手紙の続きを読み上げ始めた。


「……その穏やかな日々に、いささかの不穏な影を感じ、筆をとった次第です」


彼女の声は、静かに、重く響く。


「我が夫、ルキウス・フォン・クロフォードは、我が息子、清水聖仁を後継者に推し、クロフォード家の元老院に対し、挑戦する姿勢を見せております。息子は二十歳になり、妻を娶り、穏やかな日々を過ごしておりましたが、ここ数か月間、夫からの『後継者への試練』と称した攻勢を受け、疲労しきっております」


マルガリタは瞼を開き、その瞳を微かに、鋭く光らせた。


「また、日本の秘書チームに、最近二人の新人が、ルキウスによって配属されました。一人は身元が確かですが、もう一人には他家の尖兵の匂いがするのです……私の感覚が、そう訴えております」


セラフィナは一度、言葉を切り、内容の重さを噛みしめるように間を置いた。


「……元老院に対する無謀なる挑戦、性急すぎる夫の試練、他家によるクロフォード家への妨害工作の恐れ……長くなりましたが、三つの懸念を抱え、なにとぞマルガリタ様のご威光を賜りたく。遠い日本の地から、天へと祈り申し上げております……清水恵子。……以上です」


読み終えたセラフィナは、静かに一礼し、手紙を閉じた。

ダイニングには、重苦しい沈黙が再び降り積もる。


マルガリタは、目を閉じ、その内容を脳裏に刻み込んでいた。


閉じた瞼の奥、微かな火が灯る。

瞼が勢いよく開かれると、それは瞬く間に、荒れ狂う業火へと膨れ上がり、彼女の瞳を灼熱の色に染め上げた。


マルガリタは勢いよく立ち上がる。

その動作は、静寂を粉砕する一撃のようだった。


「ルキウスめ!相変わらず、退屈させないやつだ!」


高らかな、そして歓喜すら感じさせる声が響く。

彼女は傍らに立つセラフィナを見据え、命じた。


「セラフィナ!遠征の手配だ!日本へ行くぞ!」


「……承知いたしました」


セラフィナは深く一礼し、迷いなく、足早にその場を去っていく。


女帝は、動かなかった。

ただ、狂乱の如く明滅するオーロラが、透明な天蓋の向こうで夜空を裂き、光の奔流を描き出すのを、射抜くような視線で見据えていた。


***


時は少し遡り、日本。

静寂が支配する室内で、清水恵子は書き終えたばかりの手紙を見つめ、深く、重い溜息を吐いた。


「ふぅ……」


その肩は、目に見えて疲弊し、沈み込んでいる。

彼女の瞳には、幾多の情景と、重い現実が澱(おり)のように沈んでいた。


「ご多忙なマルガリタ様へは、電子メールを送ったところで、目に留まることすら叶わないでしょう……。クロフォード家の秘書チームを統括されるセラフィナ様に、手紙でお送りすれば・・・時間はかかれど伝わるはず」


独り言のような呟きは、誰に届くこともなく、静かな部屋の空気に溶けていく。

かつて自分を闇から救い出し、夫ルキウスと共に歩む道を示してくれた恩人――マルガリタへ宛てた、切実な祈りの書。


恵子の心身を蝕んでいるのは、あまりに急激すぎる、周囲の情勢の変化だった。

聖仁の結婚式後、祝祭の熱が冷めぬうちに、事態は加速し、混沌へ突き進んでいく。


藤崎葵という、夫の新しい側室を、秘書としても迎え教育する。


そこまでは、まだ問題無い。

だがそれさえも、ルキウスという男が引き起こす嵐の、序曲に過ぎなかったのだ。


あろうことか、夫・ルキウスは、その直後にさらにもう一人、秘書に加えてくれと、ある女性を連れてきた。


李花(リンファ)――艶やかなチャイナドレスを纏った美女を。

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