幕間二 北風と太陽
地中海の陽光が、パレルモの石畳を容赦なく焼き付けている。
その熱気を遮るようにそびえ立つ、重厚な石造りの邸宅。
マフィア・ファミリーの本拠地は、外の世界の喧騒を拒絶するように、沈黙と威圧感を纏っていた。
執務室の中では、イタリアン・マフィアの巨頭、ヴァレンティーノがその端麗な顔に険しさを湛え、部下たちと向き合っている。
勢力拡大の策、血と硝煙の匂いが漂う野心的な計画。
重苦しい空気が室内を満たし、男たちの低い声だけが、支配の行方を刻むように響いていた。
その静寂を突如、暴力的なまでの轟音が引き裂く。
分厚い鉄板が仕込まれた入口の扉が、轟音と共に室内へと吹き飛んだ。
凄まじい衝撃音と共に、舞い上がった砂埃と瓦礫が視界を白く塗り潰す。
「――ッ!」
男たちの間に、電光石火の緊張が走る。
四人の部下は即座に懐へ手を伸ばし、隠し持った拳銃の冷たい感触を指先に捉えた。
ヴァレンティーノ自身もまた、隠し持った拳銃に手を掛ける。
だが砂埃舞い散る中、薄っすらと形作る姿を認めた瞬間、ヴァレンティーノは自らの手を止めた。
その手が、部下たちを制するように空を切る。
部下たちの荒い呼吸さえも、主の静かな拒絶によって凍りついた。
砂埃の向こう側から、一人の影が歩み寄ってくる。
塵が晴れ、光が差し込む。
そこに立つのは、深紅のドレスを纏った、天をも畏れさせる絶世の美女であった。
二メートル近い長身は、その場にいる男たちの威厳すら、一瞬で塗り替えてしまう。
太陽の如く燃え盛る赤髪は、獅子の鬣のごとく豪奢に、そして荒々しく波打っている。
覇気に満ちた瞳。
その顔には、獲物を前にした猛獣のような笑みが浮かんでいた。
圧倒的なプロポーションと、神話から抜け出してきたかのような美貌は、暴力的なまでの生命力に満ちている。
ヴァレンティーノは、拳銃からゆっくりと手を離し、苦笑を浮かべた。
彼の内心には、不安と恐怖が燻っているが、努めて明るい口調で、侵入者を迎える。
「……相変わらず騒々しい女だな。マルガリタよ」
吹き飛んだ扉の残骸が、床の上で虚しく転がる。
舞い上がった砂埃は、彼女が歩を進めるたびに、まるでその神々しさに跪くかのように左右へと割れていく。
マルガリタは、壊れた入口を何事なく通り抜け、執務室の奥へと進む。
その足取りには、一分の迷いも、一塵の重さもない。
彼女が纏うのは、戦場に咲く一輪の大花のような、圧倒的なまでの生命力と、天真爛漫なまでの明るさだ。
満面の笑みを浮かべ、彼女はマフィアの長へと、気さくに声をかける。
「やあ、ヴァレンティーノ。近くのパン屋に用があったものでね。君にも会いたくて、寄らせてもらったよ。八年ぶりかな?」
まるで旧友と再会したかのような、軽やかで男勝りな口調。
ヴァレンティーノは、その眩いばかりの笑顔を凝視しながら、苦笑を深める。
「君ならいつでも大歓迎だ。八年前、君の尻を触って捻り上げられた手首は、まだ痛むがね」
マルガリタの背後から、重苦しい地響きのような足音が近づいてくる。
扉の枠を埋め尽くさんばかりの巨躯――身長二メートルを超え、まるでゴリラの如き筋肉の塊のような男たちが二人、遅れて部屋へと踏み込んできた。
彼らはそれぞれ左右の手で一人ずつ、ヴァレンティーノの執務室の前に控えていた護衛たちの襟首を、まるでゴミ袋でも扱うかのように無造作に掴んでいる。
四人の護衛たちは、ただ呻き声を上げるだけで、抵抗もできないほどに痛めつけられ、床を引きずられてきた。
ヴァレンティーノは、無残な姿となった部下たちを一瞥し、それから再びマルガリタへと視線を戻した。
彼は皮肉たっぷりに、しかしその声の端々に潜む緊張を隠しながら、言葉を紡ぐ。
「……君が来るとは知らず、護衛が失礼したようだな。知らせてくれれば、空港でもどこでも、迎えに行ったんだがね」
マルガリタは、男たちの暴力的なまでの強さを背後に従えながらも、その表情には微塵の動揺もない。
彼女は余裕たっぷりに、まるで散歩途中で立ち寄ったかのような軽やかさで応じる。
「お忍びで来てたのでね。君に会うかどうかは迷ってたんだが、顔も見たかったし、それに少し尋ねたいこともあってね」
「君の縄張りと、クロフォード家の縄張りの境目に……一軒のパン屋があるのを知ってるだろう?」
ヴァレンティーノの背筋に、冷たい戦慄が走る。
彼は喉を鳴らし、冷や汗を隠しながら、努めて冷静な声で返した。
「君のアマンテ(愛人)が看板娘を務める店だ。知らない訳がないさ。私もよく買っているよ。混ぜ物のない小麦を使った、いい店だ」
マルガリタの問いかけが、重苦しい執務室に響く。
「私の記憶が間違っているなら、訂正してほしい」
「あのパン屋は君が縄張りを主張し、みかじめ料もクロフォード家ではなく、ヴァレンティーノ家が取ることになった。そして……愛する彼女に私が護衛をつけたいと申し出たが、ヴァレンティーノ家が護衛をつけると言い張った。君の顔を立て、任せたと記憶しているが?」
一言一句、逃げ場を奪うような問いかけ。
ヴァレンティーノの喉が、ごくりと鳴る。
かつて、クロフォード家という巨大な影に対抗し、少しでもヴァレンティーノ家の威厳を示そうとしたあの時の自分。
虚勢を張った末に、自ら引き受けた取り決めだった。
「……間違いない」
ヴァレンティーノは絞り出すように答えた。
「彼女の護衛代は月二万ドルだ。対して、みかじめ料は月百五十ドルだがね」
内心に燻る恐怖を、彼は必死に抑え込んでいた。
マルガリタの顔から、ふわりと陽光が消えた。
満面の笑みは剥落し、代わりに現れたのは、底の見えない深淵のような、冷徹なまでの真顔。
その表情の変化に、ヴァレンティーノは全身の血が逆流するような錯覚を覚え、反射的に身構える。
本題が来る……。
「久々に彼女の体温が恋しくなってね、昨日訪ねてみたら留守だった。店主の父親に聞くと、彼女は一昨日怪我をして、入院中だと言う。君は……知らなかったのか?」
ヴァレンティーノの視界が、一瞬、白く明滅した。
護衛の落ち度によって、彼女が深刻な傷を負ったのではないか。
その予感が、冷たい汗となって背中を伝う。
彼は即座に、隣に控える腹心の部下へ事情を尋ねた。
部下は狼狽しながらも、昨日提出した報告書に、記載がある事を告げる。
ヴァレンティーノは、慌てて報告書を確かめた。
紙面に記された文面を追うにつれ、彼の呼吸が次第に落ち着いていく。
『――階段で足を滑らせ転倒。鼻骨骨折、全治一週間』
「……ふうっ、……はぁ……」
ヴァレンティーノは、膝から崩れ落ちんばかりの安堵感に、大きく息を吐き出した。
致命傷ではない。
護衛の落ち度でもなく、ただの不運な事故だ。
「マルガリタ、すまない!昨日の報告書にあったよ。護衛の話では、彼女は不幸にも、階段で足を滑らせ転倒し、鼻骨骨折。全治一週間とある。災難だったな、後で見舞いの品を贈らせてもらうよ」
ヴァレンティーノの声には、先ほどまでの戦慄の代わりに、心からの安堵と、どこか救われたような響きが混じっていた。
「それは嬉しいな。彼女は日本のリンゴが大好きだ。可能なら、それを頼むよ」
「ところで……!」
マルガリタが言葉を紡いだ、その刹那。
眼前に優雅に佇んでいたはずの、深紅の影が突如として視界から消失した。
まるで世界から彼女という存在だけが、一瞬で剥ぎ取られたかのような錯覚。
直後、凄まじい衝撃音が執務室を震わせた。
ヴァレンティーノから最も遠い位置にいた部下が、目に見えぬ質量によって弾き飛ばされ、デスクの角へと鼻を強打した。
「ガハッ……!」
あまりの痛みに、男は呻くことすらままならず、その場に崩れ落ちる。
「野郎!」「このアマ!」「舐めやがって……クソアマ、ぶっ殺してやる!」
残った三人の部下たちが、怒号とともに隠し持っていた拳銃を抜き放つ。
銃口が、一瞬にして彼女へと向けられた。
「?! よ、よせっ!!」
ヴァレンティーノの悲鳴に近い制止は、あまりに遅すぎた。
マルガリタは、もはや人の目では追いきれない神速の軌跡を描いた。
二人の男の鳩尾へ、空気を切り裂くような掌底が叩き込まれる。
同時に残る一人の拳銃を、鋼鉄の鞭の如きしなやかな脚が容赦なく蹴り上げた。
「――ッ!?」
鳩尾を抉られた二人は、声にならない悲鳴を漏らしてその場に蹲り、肺から空気をすべて絞り出されたように悶絶し、倒れる。
銃を弾き飛ばされた男は、何が起きたのか理解できぬまま、虚空を見つめて呆然と立ち尽くしていた。
竜巻のような暴力の後、静寂が訪れる。
「……君だけは、私を男扱いしてくれたね。特別に配慮したよ」
マルガリタは、呆けきった部下の肩に手を置き、微笑を浮かべた。
その間も、背後に控える二人の巨躯の男たちは、微動だにせず、ただ静かにそこに立っている。
彼らは護衛ではない。
護衛の必要は、この女神には無いのだ。
ヴァレンティーノは、背中に氷柱を入れたような、凍てつく戦慄を味わう。
暴力の女神は、鼻を押さえて蹲る男の髪を、容赦なく掴み上げた。
無理やり顔を上向かされた男が、苦悶の表情で宙を仰ぐ。
「ヴァレンティーノ、これを見てほしい」
彼女の声は、驚くほど穏やかで、優しく諭すような調べを帯びていた。
だが、その瞳には凍てつくような鋭利な光が宿っていた。
「彼の鼻は、彼女と同じように折れている。けれど、そこは問題じゃない。この頬を見てくれ……」
「四本の指の痕のような、青あざが、薄っすらとあるのが分かるだろう? これは、彼女の頬にあった痣と、全く同じなんだ。……ヴァレンティーノ、私が何を言いたいのか、分かるかな?」
その言葉は、静かな、しかし逃れようのない宣告のように、ヴァレンティーノの耳に響いた。
「階段で足を滑らせた」という、先ほどまでの『不運な事故』の仮面が、彼の中で音を立てて剥がれ落ちていく。
ヴァレンティーノの顔から、さらに血の気が引いていく。
指先が微かに震え、喉の奥からせり上がる戦慄を、彼は必死に押し殺した。
「……っ、……」
呼吸を整えることさえ忘れ、彼はマルガリタの瞳を見つめる。
ヴァレンティーノは、震えそうになる声を必死に取り繕い、問いかけた。
「……彼女は、誰かに殴られた、というのかい?」
「彼女の見舞いに行った際、私はすぐに違和感に気が付き、事の真相を問うた」
マルガリタの声は、低く、そして残酷なほどに澄んでいた。
男の髪を掴み、その顔を無理やり引き上げている彼女の手 は、微塵の揺らぎもない。
「ところが彼女は、階段で転んだという主張を曲げず、頑として譲らない……ヴァレンティーノ、何故だと思う?」
問いかけられたヴァレンティーノの脳裏に、不穏な思考が濁流となって駆け巡る。
「……いや、わからんね……あ、いや、わかったよ」
彼は思い至ったように、呻くような声で言葉を継いだ。
喉の奥が焼け付くような感覚に、彼は顔を歪める。
「……庇ってるんだな。誰かを……」
「その通りだ」
マルガリタの唇から、氷のような笑みがこぼれる。
「彼女はこともあろうに、自分を殴った相手を庇っている。私や君に、彼女を殴ったことがバレてみろ。そいつは只じゃ済まないからな」
ヴァレンティーノの背筋を、凍りつくような戦慄が駆け抜けた。
「……一体、だれが殴ったんだ?」
震える声で、ヴァレンティーノは絞り出すように問いかけた。
マルガリタは、男の髪を掴んでいた手を無造作に離し、背筋を伸ばした。
そして、一歩、また一歩と、ヴァレンティーノの方へと歩み寄る。
その足取りは優雅でありながら、逃れようのない死神が近づく重圧を伴っていた。
「入院中の彼女を問い詰めるような真似はしたくなかったので、彼女とはキスだけして、その場は去ったよ」
マルガリタの言葉が、ヴァレンティーノの鼓膜を冷たく叩く。
「そして、ここへ来る前に、君が彼女に付けてくれた月二万ドルの護衛たちに話を聞いたら、答えてくれたよ。……最近加わった護衛の一人が、酔って彼女に絡み、彼女に頬を張られたらしい。それに怒って、ソイツは彼女を殴ったと。その際に彼女は転倒して、鼻をぶつけてしまったんだとさ」
ヴァレンティーノの視界が、ぐらりと歪む。
護衛側の落ち度という最悪の予感が、あまりにも残酷な現実となって彼を襲った。
胃の底からせり上がる吐き気と、全身を支配する強烈な緊張感。
ヴァレンティーノは、鼻を押さえて蹲る部下を、獣のような形相で怒鳴りつけた。
「おい! トマジーノ!! 彼女の護衛に入れ替わりがあったのか!? 報告にはねぇぞ!!」
「す、すいません……ッ!」
鼻を押さえ、顔を歪ませながらも、トマジーノは必死に声を絞り出した。
「ロッゾが……喧嘩で腹を刺されちまって! 四日前に、一時的に代わったんです!!」
「馬鹿野郎!!」
ヴァレンティーノの怒声が、執務室の天井を震わせる。
「その男に!彼女が、マルガリタのアマンテ(愛人)だってことは教えたのか!?」
「は、はい……! 必ず伝えるようには言ったんですが……っ! 彼女の事は、全て護衛らに任せてるんで……確かかどうかは……ッ!」
「くっ……!!」
狼狽を隠し切れないヴァレンティーノを、マルガリタは慈しみの眼差しで見つめた。
先ほどまでの氷のような冷徹さは霧散し、その瞳には、すべてを包み込むような穏やかさと、陽光のごとき温かさが宿る。
彼女の声もまた、まるで春の陽だまりのように、優しく、暖かく、ヴァレンティーノの凍てついた心を溶かしていく。
「……なぁ、ヴァレンティーノ」
その声は、あまりに慈愛に満ちていた。
「彼女が庇っているのは、殴った相手だけじゃない。君もだよ。……日頃から安いみかじめ料で町の治安を守り、部下を連れて気さくに買い物に来てくれる君に、彼女は憎からぬ想いを抱いているようだ。そんな君へ、私が責任を追及し、激怒して害をなす事を恐れてるのさ」
突如として訪れた、あまりに柔らかな空気。
ヴァレンティーノの胸に重く沈んでいた恐怖が、その温かさの中で緩んでいく。彼は絞り出すような声で応えた。
「……そう言ってもらえると、ありがたいね。……マルガリタよ、俺に落ち度があったことは認める。彼女を殴った相手は、必ずケジメをとる!だから……」
言葉を継ごうとした、その瞬間だった。
マルガリタの表情から、一瞬にして温もりが剥落する。
代わりに現れたのは、目の前の男を圧殺せんとする、絶対的な強者の威圧感。
彼女はヴァレンティーノの言葉を無慈悲に遮り、冷徹な宣告を突きつけた。
「ああ! その必要は無い」
その声には、もはや慈しみなど微塵も残っていない。
冷徹な宣告を揺るがせぬ、静けさがあった。
「殴った彼は、病院の彼女の、すぐ横のベッドに寝ているよ。……全身の骨を百本折られてね」
「?! あ、あうあ……ッ!!」
ヴァレンティーノは、言葉を失い、ただ呆然と、そのあまりに凄絶な結末を前にして、喉の奥で音にならない悲鳴を上げた。
「鼻骨骨折、全治一週間の彼女だが……殴った彼は、全身百か所の骨折、全治八か月だそうだ」
マルガリタの声は、まるで明日の天気でも告げるかのように、平熱で、あまりに淡々としていた。
「半年間ほどは、高熱と全身を襲う激しい鈍痛が彼を苛み、強い睡眠薬なしには眠れない日々が続くと聞く。彼は今、横にいる彼女に向けて、うわごとのように謝り続けているそうだよ」
その言葉の一つひとつが、ヴァレンティーノの心臓を容赦なく抉っていく。
「……クロフォード家の家訓でね。『目には百個の目を。歯には百本の歯を』。中々大変だったぞ? 死なないように、正確に、骨を百本折るのは」
あまりに凄絶な、そしてあまりに精密な暴力の記録。
ヴァレンティーノは、全身を突き抜けるような戦慄を、奥歯を噛み締めることで辛うじて抑え込んだ。
額から流れる冷や汗が、視界を白く濁らせる。
「……マルガリタ。旧知のよしみで、頼みがある」
震える声を、絞り出すようにして彼は言葉を紡いだ。
「ん? なんだい?」
「……二人きりで、話せないか? 互いの部下を、引かせて欲しい」
「いいだろう」
マルガリタが指先をパチンと鳴らす。
その乾いた音を合図に、背後に控えていた巨岩のごとき二人の男たちが動き出した。
彼らは床に転がる六人の男たちを、まるで羽毛でも扱うかのように軽々と抱え上げ、無造作に部屋の外へと運び出していく。
ヴァレンティーノの指示により、トマジーノと、拳銃を失った部下もまた、逃げるようにその場を退いた。
男たちの足音が遠ざかり、執務室に静寂が訪れる。
二人きりになった途端だった。
「――ッ!!」
ヴァレンティーノは、自らの頭を、勢いよくデスクの硬い木目に叩きつけた。
ゴツッという鈍い音が響き、彼の額から鮮血が流れ、デスクの上を赤く汚していく。
その痛みさえも無視するように、彼は狂ったような形相で許しを請うた。
「す、す、すまない……ッ! マルガリタ!!」
額から流れる血が、彼の顔を赤黒く汚していく。
「こ、今回だけは……ッ! 許してくれっ!! 二度と……二度と! 不始末はしねぇ!!」
吹き荒れる暴風のごとき暴力で魂を震わせ、同時にすべてを包み込む陽光の如き慈愛で相手を照らす。
彼女の前に跪く者は、神の神託を受けた信徒のように、あるいは嵐が過ぎ去った後の、ただ従順な羊のように、心底から平伏すことしかできなくなる。
「……さっきも言ったろう、彼女は君への報復を望んでいない」
マルガリタの声は、先ほどまでの冷徹さを脱ぎ捨て、慈しみに満ちた調べとなってヴァレンティーノの耳に届く。
額から流れる血を拭うことも忘れ、震えながら見上げる彼を見つめ、彼女は静かに言葉を紡いだ。
「殴った当事者に、私が報復したのはね……君から、彼を守るためだよ」
「……っ?」
「君は、あいつをきっと有無をいわせず殺してしまうだろう? それで私自身が、先んじて制裁したってわけさ。だから、これで彼へのケジメは終わりだぞ。……まぁ、彼女にはこっぴどく怒られたがね」
ふっと、マルガリタの全身から放たれていた圧倒的な圧力が霧散する。
代わりに現れたのは、悪戯っぽく不敵に笑う、一人の美しい女性の顔だった。
そのあまりに慈悲深く、太陽神のごとき温かな微笑みに、ヴァレンティーノは魂を救われたような錯覚を覚える。
死の淵から引き戻された安堵が、全身の震えを溶かしていく。
彼は、溢れ出す涙と血を拭いもせず、ただその慈愛に満ちた光を見つめ続けた。
マルガリタは、さらに優しく、まるで日常の世間話でもするかのように話を続ける。
「ヴァレンティーノ家の縄張りを、地図から消すのは止めることにしたよ」
「……ああ……ありがたい……マルガリタよ……」
「ああ、それとは関係なく。君の縄張りからの収益の二・五パーセントをクロフォード家に上納する決まりだが……二・五パーセントという数字は中途半端じゃないか? この際、切りのいい三パーセントにしよう。どうかな?」
あまりに唐突な、実利的な提案に、ヴァレンティーノは思考を停止させた。
「……え?!」
極限の恐怖から、一転して底なしの安堵へ。
そのあまりに急激な精神の揺り戻しは、ヴァレンティーノの思考能力を根こそぎ奪い去っていた。
目の前の女神が提示した「三パーセント」という数字。
それがもたらす負担を前にしても、提案を撥ねつける気力は、今の彼には残されていない。
ただ、死の淵から生還した安堵感と、全身を支配する弛緩だけが、彼の意識を混濁させていた。
彼は呆けたまま、まるで操り人形のように震える手を伸ばし、彼女が差し出した書類へとペンを走らせた。
額から流れる血が、デスクの端を伝い、署名された紙面を汚していく。
「……うん、確かに! ありがとう!」
マルガリタは、満足げに声を弾ませた。
その瞳には、勝利を確信した捕食者のような、美しくも残酷な輝きが宿っている。
「ヴァレンティーノ家とクロフォード家は、これからも支え合う大切なパートナーだ。この地における君の、名君としての変わらぬ治世を祈っているよ」
彼女の声は、聖母の慈愛のように優しく、それでいて逃れられぬ運命の重みを持って、ヴァレンティーノの耳に響いた。
呆然と、ただ虚空を見つめることしかできない彼に対し、マルガリタは最後の手向けのような、温かいねぎらいの言葉を投げかける。
そして、彼女は一度も振り返ることなく、優雅な足取りで執務室を後にする。
背後には、血と、失われた富と、一人の男の、あまりに空虚な呼吸だけが残された。




