↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
聖者の行進  作者: いくらふじなみ
第二部 世界の扉
20/26

幕間二 北風と太陽

地中海の陽光が、パレルモの石畳を容赦なく焼き付けている。

その熱気を遮るようにそびえ立つ、重厚な石造りの邸宅。


マフィア・ファミリーの本拠地は、外の世界の喧騒を拒絶するように、沈黙と威圧感を纏っていた。

執務室の中では、イタリアン・マフィアの巨頭、ヴァレンティーノがその端麗な顔に険しさを湛え、部下たちと向き合っている。


勢力拡大の策、血と硝煙の匂いが漂う野心的な計画。

重苦しい空気が室内を満たし、男たちの低い声だけが、支配の行方を刻むように響いていた。


その静寂を突如、暴力的なまでの轟音が引き裂く。


分厚い鉄板が仕込まれた入口の扉が、轟音と共に室内へと吹き飛んだ。

凄まじい衝撃音と共に、舞い上がった砂埃と瓦礫が視界を白く塗り潰す。


「――ッ!」


男たちの間に、電光石火の緊張が走る。


四人の部下は即座に懐へ手を伸ばし、隠し持った拳銃の冷たい感触を指先に捉えた。

ヴァレンティーノ自身もまた、隠し持った拳銃に手を掛ける。


だが砂埃舞い散る中、薄っすらと形作る姿を認めた瞬間、ヴァレンティーノは自らの手を止めた。

その手が、部下たちを制するように空を切る。

部下たちの荒い呼吸さえも、主(あるじ)の静かな拒絶によって凍りついた。


砂埃の向こう側から、一人の影が歩み寄ってくる。


塵が晴れ、光が差し込む。

そこに立つのは、深紅のドレスを纏った、天をも畏れさせる絶世の美女であった。


二メートル近い長身は、その場にいる男たちの威厳すら、一瞬で塗り替えてしまう。

太陽の如く燃え盛る赤髪は、獅子の鬣(たてがみ)のごとく豪奢に、そして荒々しく波打っている。


覇気に満ちた瞳。

その顔には、獲物を前にした猛獣のような笑みが浮かんでいた。


圧倒的なプロポーションと、神話から抜け出してきたかのような美貌は、暴力的なまでの生命力に満ちている。


ヴァレンティーノは、拳銃からゆっくりと手を離し、苦笑を浮かべた。

彼の内心には、不安と恐怖が燻っているが、努めて明るい口調で、侵入者を迎える。


「……相変わらず騒々しい女だな。マルガリタよ」


吹き飛んだ扉の残骸が、床の上で虚しく転がる。

舞い上がった砂埃は、彼女が歩を進めるたびに、まるでその神々しさに跪くかのように左右へと割れていく。


マルガリタは、壊れた入口を何事なく通り抜け、執務室の奥へと進む。


その足取りには、一分の迷いも、一塵の重さもない。

彼女が纏うのは、戦場に咲く一輪の大花のような、圧倒的なまでの生命力と、天真爛漫なまでの明るさだ。


満面の笑みを浮かべ、彼女はマフィアの長へと、気さくに声をかける。


「やあ、ヴァレンティーノ。近くのパン屋に用があったものでね。君にも会いたくて、寄らせてもらったよ。八年ぶりかな?」


まるで旧友と再会したかのような、軽やかで男勝りな口調。


ヴァレンティーノは、その眩いばかりの笑顔を凝視しながら、苦笑を深める。


「君ならいつでも大歓迎だ。八年前、君の尻を触って捻り上げられた手首は、まだ痛むがね」


マルガリタの背後から、重苦しい地響きのような足音が近づいてくる。


扉の枠を埋め尽くさんばかりの巨躯――身長二メートルを超え、まるでゴリラの如き筋肉の塊のような男たちが二人、遅れて部屋へと踏み込んできた。


彼らはそれぞれ左右の手で一人ずつ、ヴァレンティーノの執務室の前に控えていた護衛たちの襟首を、まるでゴミ袋でも扱うかのように無造作に掴んでいる。

四人の護衛たちは、ただ呻き声を上げるだけで、抵抗もできないほどに痛めつけられ、床を引きずられてきた。


ヴァレンティーノは、無残な姿となった部下たちを一瞥し、それから再びマルガリタへと視線を戻した。

彼は皮肉たっぷりに、しかしその声の端々に潜む緊張を隠しながら、言葉を紡ぐ。


「……君が来るとは知らず、護衛が失礼したようだな。知らせてくれれば、空港でもどこでも、迎えに行ったんだがね」


マルガリタは、男たちの暴力的なまでの強さを背後に従えながらも、その表情には微塵の動揺もない。

彼女は余裕たっぷりに、まるで散歩途中で立ち寄ったかのような軽やかさで応じる。


「お忍びで来てたのでね。君に会うかどうかは迷ってたんだが、顔も見たかったし、それに少し尋ねたいこともあってね」


「君の縄張りと、クロフォード家の縄張りの境目に……一軒のパン屋があるのを知ってるだろう?」


ヴァレンティーノの背筋に、冷たい戦慄が走る。

彼は喉を鳴らし、冷や汗を隠しながら、努めて冷静な声で返した。


「君のアマンテ(愛人)が看板娘を務める店だ。知らない訳がないさ。私もよく買っているよ。混ぜ物のない小麦を使った、いい店だ」


マルガリタの問いかけが、重苦しい執務室に響く。


「私の記憶が間違っているなら、訂正してほしい」


「あのパン屋は君が縄張りを主張し、みかじめ料もクロフォード家ではなく、ヴァレンティーノ家が取ることになった。そして……愛する彼女に私が護衛をつけたいと申し出たが、ヴァレンティーノ家が護衛をつけると言い張った。君の顔を立て、任せたと記憶しているが?」


一言一句、逃げ場を奪うような問いかけ。

ヴァレンティーノの喉が、ごくりと鳴る。


かつて、クロフォード家という巨大な影に対抗し、少しでもヴァレンティーノ家の威厳を示そうとしたあの時の自分。

虚勢を張った末に、自ら引き受けた取り決めだった。


「……間違いない」


ヴァレンティーノは絞り出すように答えた。


「彼女の護衛代は月二万ドルだ。対して、みかじめ料は月百五十ドルだがね」


内心に燻る恐怖を、彼は必死に抑え込んでいた。


マルガリタの顔から、ふわりと陽光が消えた。


満面の笑みは剥落し、代わりに現れたのは、底の見えない深淵のような、冷徹なまでの真顔。

その表情の変化に、ヴァレンティーノは全身の血が逆流するような錯覚を覚え、反射的に身構える。


本題が来る……。


「久々に彼女の体温が恋しくなってね、昨日訪ねてみたら留守だった。店主の父親に聞くと、彼女は一昨日怪我をして、入院中だと言う。君は……知らなかったのか?」


ヴァレンティーノの視界が、一瞬、白く明滅した。


護衛の落ち度によって、彼女が深刻な傷を負ったのではないか。

その予感が、冷たい汗となって背中を伝う。


彼は即座に、隣に控える腹心の部下へ事情を尋ねた。

部下は狼狽しながらも、昨日提出した報告書に、記載がある事を告げる。


ヴァレンティーノは、慌てて報告書を確かめた。

紙面に記された文面を追うにつれ、彼の呼吸が次第に落ち着いていく。


『――階段で足を滑らせ転倒。鼻骨骨折、全治一週間』


「……ふうっ、……はぁ……」


ヴァレンティーノは、膝から崩れ落ちんばかりの安堵感に、大きく息を吐き出した。


致命傷ではない。

護衛の落ち度でもなく、ただの不運な事故だ。


「マルガリタ、すまない!昨日の報告書にあったよ。護衛の話では、彼女は不幸にも、階段で足を滑らせ転倒し、鼻骨骨折。全治一週間とある。災難だったな、後で見舞いの品を贈らせてもらうよ」


ヴァレンティーノの声には、先ほどまでの戦慄の代わりに、心からの安堵と、どこか救われたような響きが混じっていた。


「それは嬉しいな。彼女は日本のリンゴが大好きだ。可能なら、それを頼むよ」


「ところで……!」


マルガリタが言葉を紡いだ、その刹那。

眼前に優雅に佇んでいたはずの、深紅の影が突如として視界から消失した。


まるで世界から彼女という存在だけが、一瞬で剥ぎ取られたかのような錯覚。


直後、凄まじい衝撃音が執務室を震わせた。


ヴァレンティーノから最も遠い位置にいた部下が、目に見えぬ質量によって弾き飛ばされ、デスクの角へと鼻を強打した。


「ガハッ……!」


あまりの痛みに、男は呻くことすらままならず、その場に崩れ落ちる。


「野郎!」「このアマ!」「舐めやがって……クソアマ、ぶっ殺してやる!」


残った三人の部下たちが、怒号とともに隠し持っていた拳銃を抜き放つ。

銃口が、一瞬にして彼女へと向けられた。


「?! よ、よせっ!!」


ヴァレンティーノの悲鳴に近い制止は、あまりに遅すぎた。


マルガリタは、もはや人の目では追いきれない神速の軌跡を描いた。

二人の男の鳩尾(みぞおち)へ、空気を切り裂くような掌底が叩き込まれる。

同時に残る一人の拳銃を、鋼鉄の鞭の如きしなやかな脚が容赦なく蹴り上げた。


「――ッ!?」


鳩尾を抉られた二人は、声にならない悲鳴を漏らしてその場に蹲り、肺から空気をすべて絞り出されたように悶絶し、倒れる。

銃を弾き飛ばされた男は、何が起きたのか理解できぬまま、虚空を見つめて呆然と立ち尽くしていた。


竜巻のような暴力の後、静寂が訪れる。


「……君だけは、私を男扱いしてくれたね。特別に配慮したよ」


マルガリタは、呆けきった部下の肩に手を置き、微笑を浮かべた。

その間も、背後に控える二人の巨躯の男たちは、微動だにせず、ただ静かにそこに立っている。


彼らは護衛ではない。

護衛の必要は、この女神には無いのだ。


ヴァレンティーノは、背中に氷柱を入れたような、凍てつく戦慄を味わう。


暴力の女神は、鼻を押さえて蹲(うずくま)る男の髪を、容赦なく掴み上げた。

無理やり顔を上向かされた男が、苦悶の表情で宙を仰ぐ。


「ヴァレンティーノ、これを見てほしい」


彼女の声は、驚くほど穏やかで、優しく諭すような調べを帯びていた。

だが、その瞳には凍てつくような鋭利な光が宿っていた。


「彼の鼻は、彼女と同じように折れている。けれど、そこは問題じゃない。この頬を見てくれ……」


「四本の指の痕のような、青あざが、薄っすらとあるのが分かるだろう? これは、彼女の頬にあった痣と、全く同じなんだ。……ヴァレンティーノ、私が何を言いたいのか、分かるかな?」


その言葉は、静かな、しかし逃れようのない宣告のように、ヴァレンティーノの耳に響いた。

「階段で足を滑らせた」という、先ほどまでの『不運な事故』の仮面が、彼の中で音を立てて剥がれ落ちていく。


ヴァレンティーノの顔から、さらに血の気が引いていく。

指先が微かに震え、喉の奥からせり上がる戦慄を、彼は必死に押し殺した。


「……っ、……」


呼吸を整えることさえ忘れ、彼はマルガリタの瞳を見つめる。

ヴァレンティーノは、震えそうになる声を必死に取り繕い、問いかけた。


「……彼女は、誰かに殴られた、というのかい?」


「彼女の見舞いに行った際、私はすぐに違和感に気が付き、事の真相を問うた」


マルガリタの声は、低く、そして残酷なほどに澄んでいた。

男の髪を掴み、その顔を無理やり引き上げている彼女の手 は、微塵の揺らぎもない。


「ところが彼女は、階段で転んだという主張を曲げず、頑として譲らない……ヴァレンティーノ、何故だと思う?」


問いかけられたヴァレンティーノの脳裏に、不穏な思考が濁流となって駆け巡る。


「……いや、わからんね……あ、いや、わかったよ」


彼は思い至ったように、呻くような声で言葉を継いだ。

喉の奥が焼け付くような感覚に、彼は顔を歪める。


「……庇ってるんだな。誰かを……」


「その通りだ」


マルガリタの唇から、氷のような笑みがこぼれる。


「彼女はこともあろうに、自分を殴った相手を庇っている。私や君に、彼女を殴ったことがバレてみろ。そいつは只じゃ済まないからな」


ヴァレンティーノの背筋を、凍りつくような戦慄が駆け抜けた。


「……一体、だれが殴ったんだ?」


震える声で、ヴァレンティーノは絞り出すように問いかけた。


マルガリタは、男の髪を掴んでいた手を無造作に離し、背筋を伸ばした。

そして、一歩、また一歩と、ヴァレンティーノの方へと歩み寄る。


その足取りは優雅でありながら、逃れようのない死神が近づく重圧を伴っていた。


「入院中の彼女を問い詰めるような真似はしたくなかったので、彼女とはキスだけして、その場は去ったよ」


マルガリタの言葉が、ヴァレンティーノの鼓膜を冷たく叩く。


「そして、ここへ来る前に、君が彼女に付けてくれた月二万ドルの護衛たちに話を聞いたら、答えてくれたよ。……最近加わった護衛の一人が、酔って彼女に絡み、彼女に頬を張られたらしい。それに怒って、ソイツは彼女を殴ったと。その際に彼女は転倒して、鼻をぶつけてしまったんだとさ」


ヴァレンティーノの視界が、ぐらりと歪む。


護衛側の落ち度という最悪の予感が、あまりにも残酷な現実となって彼を襲った。

胃の底からせり上がる吐き気と、全身を支配する強烈な緊張感。


ヴァレンティーノは、鼻を押さえて蹲る部下を、獣のような形相で怒鳴りつけた。


「おい! トマジーノ!! 彼女の護衛に入れ替わりがあったのか!? 報告にはねぇぞ!!」


「す、すいません……ッ!」


鼻を押さえ、顔を歪ませながらも、トマジーノは必死に声を絞り出した。


「ロッゾが……喧嘩で腹を刺されちまって! 四日前に、一時的に代わったんです!!」


「馬鹿野郎!!」


ヴァレンティーノの怒声が、執務室の天井を震わせる。


「その男に!彼女が、マルガリタのアマンテ(愛人)だってことは教えたのか!?」


「は、はい……! 必ず伝えるようには言ったんですが……っ! 彼女の事は、全て護衛らに任せてるんで……確かかどうかは……ッ!」


「くっ……!!」


狼狽を隠し切れないヴァレンティーノを、マルガリタは慈しみの眼差しで見つめた。


先ほどまでの氷のような冷徹さは霧散し、その瞳には、すべてを包み込むような穏やかさと、陽光のごとき温かさが宿る。

彼女の声もまた、まるで春の陽だまりのように、優しく、暖かく、ヴァレンティーノの凍てついた心を溶かしていく。


「……なぁ、ヴァレンティーノ」


その声は、あまりに慈愛に満ちていた。


「彼女が庇っているのは、殴った相手だけじゃない。君もだよ。……日頃から安いみかじめ料で町の治安を守り、部下を連れて気さくに買い物に来てくれる君に、彼女は憎からぬ想いを抱いているようだ。そんな君へ、私が責任を追及し、激怒して害をなす事を恐れてるのさ」


突如として訪れた、あまりに柔らかな空気。

ヴァレンティーノの胸に重く沈んでいた恐怖が、その温かさの中で緩んでいく。彼は絞り出すような声で応えた。


「……そう言ってもらえると、ありがたいね。……マルガリタよ、俺に落ち度があったことは認める。彼女を殴った相手は、必ずケジメをとる!だから……」


言葉を継ごうとした、その瞬間だった。


マルガリタの表情から、一瞬にして温もりが剥落する。

代わりに現れたのは、目の前の男を圧殺せんとする、絶対的な強者の威圧感。


彼女はヴァレンティーノの言葉を無慈悲に遮り、冷徹な宣告を突きつけた。


「ああ! その必要は無い」


その声には、もはや慈しみなど微塵も残っていない。

冷徹な宣告を揺るがせぬ、静けさがあった。


「殴った彼は、病院の彼女の、すぐ横のベッドに寝ているよ。……全身の骨を百本折られてね」


「?! あ、あうあ……ッ!!」


ヴァレンティーノは、言葉を失い、ただ呆然と、そのあまりに凄絶な結末を前にして、喉の奥で音にならない悲鳴を上げた。


「鼻骨骨折、全治一週間の彼女だが……殴った彼は、全身百か所の骨折、全治八か月だそうだ」


マルガリタの声は、まるで明日の天気でも告げるかのように、平熱で、あまりに淡々としていた。


「半年間ほどは、高熱と全身を襲う激しい鈍痛が彼を苛み、強い睡眠薬なしには眠れない日々が続くと聞く。彼は今、横にいる彼女に向けて、うわごとのように謝り続けているそうだよ」


その言葉の一つひとつが、ヴァレンティーノの心臓を容赦なく抉っていく。


「……クロフォード家の家訓でね。『目には百個の目を。歯には百本の歯を』。中々大変だったぞ? 死なないように、正確に、骨を百本折るのは」


あまりに凄絶な、そしてあまりに精密な暴力の記録。


ヴァレンティーノは、全身を突き抜けるような戦慄を、奥歯を噛み締めることで辛うじて抑え込んだ。

額から流れる冷や汗が、視界を白く濁らせる。


「……マルガリタ。旧知のよしみで、頼みがある」


震える声を、絞り出すようにして彼は言葉を紡いだ。


「ん? なんだい?」


「……二人きりで、話せないか? 互いの部下を、引かせて欲しい」


「いいだろう」


マルガリタが指先をパチンと鳴らす。


その乾いた音を合図に、背後に控えていた巨岩のごとき二人の男たちが動き出した。

彼らは床に転がる六人の男たちを、まるで羽毛でも扱うかのように軽々と抱え上げ、無造作に部屋の外へと運び出していく。


ヴァレンティーノの指示により、トマジーノと、拳銃を失った部下もまた、逃げるようにその場を退いた。


男たちの足音が遠ざかり、執務室に静寂が訪れる。

二人きりになった途端だった。


「――ッ!!」


ヴァレンティーノは、自らの頭を、勢いよくデスクの硬い木目に叩きつけた。


ゴツッという鈍い音が響き、彼の額から鮮血が流れ、デスクの上を赤く汚していく。

その痛みさえも無視するように、彼は狂ったような形相で許しを請うた。


「す、す、すまない……ッ! マルガリタ!!」


額から流れる血が、彼の顔を赤黒く汚していく。


「こ、今回だけは……ッ! 許してくれっ!! 二度と……二度と! 不始末はしねぇ!!」


吹き荒れる暴風のごとき暴力で魂を震わせ、同時にすべてを包み込む陽光の如き慈愛で相手を照らす。

彼女の前に跪く者は、神の神託を受けた信徒のように、あるいは嵐が過ぎ去った後の、ただ従順な羊のように、心底から平伏すことしかできなくなる。


「……さっきも言ったろう、彼女は君への報復を望んでいない」


マルガリタの声は、先ほどまでの冷徹さを脱ぎ捨て、慈しみに満ちた調べとなってヴァレンティーノの耳に届く。

額から流れる血を拭うことも忘れ、震えながら見上げる彼を見つめ、彼女は静かに言葉を紡いだ。


「殴った当事者に、私が報復したのはね……君から、彼を守るためだよ」


「……っ?」


「君は、あいつをきっと有無をいわせず殺してしまうだろう? それで私自身が、先んじて制裁したってわけさ。だから、これで彼へのケジメは終わりだぞ。……まぁ、彼女にはこっぴどく怒られたがね」


ふっと、マルガリタの全身から放たれていた圧倒的な圧力が霧散する。

代わりに現れたのは、悪戯っぽく不敵に笑う、一人の美しい女性の顔だった。


そのあまりに慈悲深く、太陽神のごとき温かな微笑みに、ヴァレンティーノは魂を救われたような錯覚を覚える。

死の淵から引き戻された安堵が、全身の震えを溶かしていく。


彼は、溢れ出す涙と血を拭いもせず、ただその慈愛に満ちた光を見つめ続けた。

マルガリタは、さらに優しく、まるで日常の世間話でもするかのように話を続ける。


「ヴァレンティーノ家の縄張りを、地図から消すのは止めることにしたよ」


「……ああ……ありがたい……マルガリタよ……」


「ああ、それとは関係なく。君の縄張りからの収益の二・五パーセントをクロフォード家に上納する決まりだが……二・五パーセントという数字は中途半端じゃないか? この際、切りのいい三パーセントにしよう。どうかな?」


あまりに唐突な、実利的な提案に、ヴァレンティーノは思考を停止させた。


「……え?!」


極限の恐怖から、一転して底なしの安堵へ。

そのあまりに急激な精神の揺り戻しは、ヴァレンティーノの思考能力を根こそぎ奪い去っていた。


目の前の女神が提示した「三パーセント」という数字。

それがもたらす負担を前にしても、提案を撥ねつける気力は、今の彼には残されていない。


ただ、死の淵から生還した安堵感と、全身を支配する弛緩(しかん)だけが、彼の意識を混濁させていた。


彼は呆けたまま、まるで操り人形のように震える手を伸ばし、彼女が差し出した書類へとペンを走らせた。

額から流れる血が、デスクの端を伝い、署名された紙面を汚していく。


「……うん、確かに! ありがとう!」


マルガリタは、満足げに声を弾ませた。

その瞳には、勝利を確信した捕食者のような、美しくも残酷な輝きが宿っている。


「ヴァレンティーノ家とクロフォード家は、これからも支え合う大切なパートナーだ。この地における君の、名君としての変わらぬ治世を祈っているよ」


彼女の声は、聖母の慈愛のように優しく、それでいて逃れられぬ運命の重みを持って、ヴァレンティーノの耳に響いた。

呆然と、ただ虚空を見つめることしかできない彼に対し、マルガリタは最後の手向けのような、温かいねぎらいの言葉を投げかける。


そして、彼女は一度も振り返ることなく、優雅な足取りで執務室を後にする。


背後には、血と、失われた富と、一人の男の、あまりに空虚な呼吸だけが残された。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。