幕間一 かぞくになろうよ
瓦礫の山が、灰色の空の下で沈黙を守っている。
硝煙と埃が混じり合い、視界を白く濁らせる荒野。
その崩れ落ちた頂に、一人の男が佇んでいた。
顔面は炭で黒く塗られ、その表情を窺い知ることは出来ない。
ただ戦場を見下ろす、その背中だけが、静謐を湛えていた。
男は無造作に胸ポケットから葉巻を取り出し、慣れた手つきで火を灯した。
紫煙が風に弄ばれ、灰色の空へと溶けていく。
ゆっくりと、深く、その香りを味わう間、男の視線は戦場の一点に縫い付けられたままだった。
「ボス、こっちの死者は、やっぱりゼロでしたよ。みんな運が悪いやつばっかりでさぁ。まだまだ楽になれそうにありません。がっはっはっは!」
重々しい足音と共に、全身を包帯で巻いた大男が近づいてくる。
その豪快な笑い声が、死の静寂を切り裂くように響き渡った。
ボスと呼ばれた男は、報告を受ける間も、視線を戦場から逸らすことはない。
ただ、燻る葉巻の赤光だけが、彼の沈黙を物語っていた。
「……それにしても、本当にこんな僻地へ来るんですかい? 山奥ですぜ? 滑走路は…あるっちゃあるけど、いくらなんでも……!?」
その言葉が終わらないうちに、大気を震わせる轟音が、遠い空を裂いて迫ってきた。
小さな点だったものが、瞬く間に巨大な質量となって視界を埋め尽くす。
未来の造形を思わせる流線形の航空機が、風を切り、滑走路へとその巨体を滑り込ませていく。
激しい風圧と爆音。
大地が震え、瓦礫が踊る中、ボスたる男は、一切の動揺なく戦場を眺めていた。
航空機の咆哮が引き、重々しい音を立ててタラップが降りてくる。
一人の搭乗員が、足元をふらつかせながらも、ボスと呼ばれた男へと歩み寄った。
彼は背筋を伸ばし、敬礼しながら報告する。
「ルキウス殿! 超音速旅客機『VF-R1』、お届け完了いたしました! 引き継ぎを、お願いします!」
その報告を受け、男は初めて戦場から視線を逸らした。
口にくわえた葉巻を地面に吐き捨て、彼も敬礼で応える。
「時速三千キロの旅、ご苦労だった! 君も帰りは、客室で寛いでくれたまえ! 私が操縦しよう」
搭乗員は驚愕に目を見開いたが、即座に敬礼を返し、客室へと戻っていった。
傍らで見守っていた包帯男が、声を挟む。
「……凄まじい機体ですね。見たこともねぇ形だ。だがボス、こんな代物を本当に扱えるんですかい? さっきの奴も、随分とふらついてやがったぜ」
包帯男の懸念に、ルキウスは不敵な笑みで応えた。
「ゴメス、大丈夫だって! ほらこの前、お前と賭けたフライトシミュレーター勝負。俺が勝っただろ?……1点差だったけどな」
その余裕に満ちた笑い声を聞いた瞬間、ゴメスの顔から血の気が引いていった。
彼は天を仰ぎ、静かに祈りを捧げ始めた。
***
雷鳴のような轟音が、羽田空港のVIP専用滑走路を震わせた。
超音速旅客機『VF-R1』が、その巨体を滑り込ませる。
大勢のスタッフが駆け寄り、タラップから降りてくるルキウスを出迎えた。
ルキウスは軽く片手を挙げて応え、近くの大型トレーラーの荷台へ足を踏み入れる。
荷台の中は、様々な衣服や化粧台が完璧に揃った控室となっていた。
身支度を整えるためのスタッフたちが音もなく控えている。
空の旅による疲労など微塵も感じさせないルキウスは、椅子に深く腰掛け、気さくに声をかけた。
「まずは顔の炭を落としてくれ。肌が突っ張っていかんよ。ふぅ・・・ところで、発射場までは、どのくらいで着く?」
スタッフの手際よい動きに身を委ねながら、彼は問いかける。
「そうですね・・・五分、かからないかと」
淀みのない返答を聞き、ルキウスは満足げに目を細めた。
「そうか、充分に間に合いそうだなぁ・・・ふふふ」
トレーラーは滑走路を離れ、先進的な外観を誇る巨大な建築物の中へと吸い込まれていった。
停車と同時に、ルキウスは荷台から軽やかな身のこなしで飛び降りる。
迷いのない足取りでスタッフたちの間をすり抜け、彼は待ち構えていたエレベーターへと乗り込んだ。
表示板のランプが「B10F」を示し、重厚な扉が開かれる。
地下十階。
そこには、大勢のスタッフと、一人の背広姿の男が待ち構えていた。
ルキウスは迷いなく歩を進め、その人物の前で、端然とした敬礼を捧げる。
「要人専用の試作機、ありがたく拝借いたします。ご尽力に感謝申し上げます」
ルキウスの洗練された所作に、背広の男も深く、敬意を込めて敬礼で応えた。
「クロフォード家の御当主をお迎えでき、光栄の至りでございます!……しかし、このレールガン・カタパルトは、あくまで試作段階。人を乗せての稼働には成功しておりますが、そのテスト要員は、鍛え抜かれた軍人でありながら、丸一日、酩酊したような状態に陥りました……」
男の声には、隠しきれない懸念が混じっていた。
「失礼を承知で申し上げます。本当に、こちらへ搭乗なさるおつもりですか? ご子息の披露宴会場への移動であれば、VIP専用車にて、より安全なルートをご用意いたしますが……」
その言葉に、ルキウスは満面の笑みで応えた。
「かっこいいじゃないですか!未来の乗り物、大好きですので!」
***
弾丸のごとき速度で、地下の暗闇を突き進むカプセル。
十五キロメートルという距離を、約一分で踏破する超高速の移動。
ハッチが開き、ルキウスは飛び降りる。
大勢のスタッフに迎えられながらも、彼は片手を軽く挙げて応え、平然とした歩みで地上へと向かう。
地上の路上では、屋根に赤色灯を載せた黒塗りのハイヤーが、獲物を待つ獣のように静止していた。
ルキウスは飛びつくような速さで車内へ乗り込む。
運転手は、無言のまま車を発進させた。
赤色灯が点滅を繰り返し、サイレンが午後の喧騒をねじ伏せる。
五分と経たぬうちに、ハイヤーは聖仁の披露宴会場へと到達した。
停車と同時に、ルキウスは弾かれたように車外へ飛び出す。
不敵な笑みを浮かべつつ、早足で会場入りを果たした。
ルキウスは、聖仁へのサプライズに向けた最終調整を行うため、その部屋へと急ぐ。
しかし、広大な通路の真ん中で、華やかな礼服に身を包んだ若者たちが、一団となって立ち往生しているのが見えた。
歩みを緩め、遠目からその様子を窺う。
近づくにつれ、酔った女性の叫び声が耳を打った。
周囲の友人と思われる者たちが、必死に声を張り上げている。
「葵ちゃん!だめよ、もう本当に!追い出されちゃうわよ!」
「と、とにかく落ち着こう。誰か水持ってない?少しでも酔いを薄めなきゃ、埒が明かないよ」
友人たちの必死の宥めも虚しく、中心で床に座り込み、顔を紅潮させた女性――葵は、叫び続けていた。
「うわあああああん!やだぁ!聖仁君!結婚しちゃ!やだあよおおお!すきなのおお!だいすきなのおおお!うわあああん!」
どうやら、聖仁の披露宴参加者のようだ。
ルキウスは言葉の内容から、全てを察する。
息子も、罪な男になったものだ。
不敵な笑みが、彼の唇に浮かぶ。
そして足を速め、その場を通り過ぎようとした。
その時、叫び声が不意に止み、代わりに呆けたような、間抜けた声が通路に響く。
「あれぇぇ?! ねぇ! そこのひとぉ! あなたぁ……聖仁君のぉ……おとうさんじゃなぁい?!」
突如として大声で呼び止められ、ルキウスは歩みを止めた。
無視するわけにもいかず、葵へと向き直る。
「……何故、私が父親だとわかる?」
低く、重厚な問いかけ。
周囲の友人たちは、一瞬にして空気が凍りつくような錯覚を覚えた。
ルキウスが放つ、常人にはない威厳と、肌を刺すような圧力。
彼らはその雰囲気に気圧され、青ざめて声も出せない。
だが当の葵は、平然と言葉を紡ぎ続けた。
「だぁってぇ、あなた……経済紙に顔が載ってたものぉ……。わたし、経営学を専攻してるからぁねぇ……全部ちぇっくしてるんだぁ……。わたし、あたまいいのよぉ? せいじんくんにだって、才女だって、何度も褒められたしぃ……なのに! あなたのむすこはぁ! わたしを、ふったのよぉおお! うぅ……うわああああん!」
再び、子供のような泣き声が通路に溢れ出す。
ルキウスは、素早く葵に目を走らせた。
床に投げ出された、長く美しい脚。
均整の取れたボディ。
涙で化粧が落ちてはいるが、整った顔立ち。
そして、美しく清楚な長い黒髪。
ルキウスは心の内で微笑む。
(なるほど、今日の私は運がいい。今夜の枕が、早くも見つかったようだ・・・)
ルキウスは、周囲を威圧するような重苦しい気配を霧散させた。
代わりに、慈しむような、すべてを包み込むかのような柔らかな笑みを浮かべ、葵の元へと歩み寄る。
「そうだったんだね。小さな会社だが、確かに少し前、取材を受けたことはあったな。覚えていてくれて、ありがとう」
その低く甘い声が、通路に響く。
「それに聖仁……彼がどうも、迷惑をかけたようだ。頑固な程に真面目な男だが、女性には酷く臆病でね。息子に代わって、お詫びを……?!」
ルキウスが優しく語り掛けていた、その時だった。
葵が突如として弾かれたように立ち上がり、猛然と彼へと突進した。
「う、う、うげええええええ!」
抱き着いた瞬間、彼女の喉からせり上がったのは、言葉ではなく、凄まじい勢いの吐瀉物だった。
「うわああああ! な、なんてことを!」
「キャアアアアア! 葵ちゃんっ! あああ……酷い……」
友人たちの悲鳴が響き渡る中、ルキウスの端正な礼服も、葵の華やかなドレスも、見る影もなく吐瀉物にまみれていく。
しかし、ルキウスの瞳には、一瞬の動揺も混じらなかった。
周囲の友人たちが恐怖と困惑で立ちすくむ中、彼はただ慈しむような笑みを浮かべ、片手を挙げて「問題ない」と示した。
吐き気が収まるまで、彼は葵の背を優しく、一定のリズムで撫で続ける。
彼女の激しいえづきが止んだ瞬間、ルキウスは手際よく端末を取り出し、指先で指示を飛ばした。
間髪入れず、近くの部屋から四人の護衛が、音もなく駆けつける。
「済まないが、床の清掃を頼む。それと私の控室に、替えの礼服を持ってきてくれ。ああ、この女性の替えのドレスも頼む」
あまりの手際の良さに、呆然と立ち尽くす、葵の友人たち。
ルキウスは、再び柔らかな笑みを向けた。
「心配はいらないよ。ただ、彼女には少し休息が必要だ。私が責任を持って介抱しよう。君たちは安心して、自分たちの控室へ戻るといい」
その言葉に救われたように、友人たちは安堵の表情を浮かべ、足早にその場を去っていった。
静まり返った通路で、ルキウスは力なく自身に体重を預けてくる葵を、軽々と抱き上げる。
不敵な笑みを唇に刻み、彼は彼女を連れて、自らの控室へと歩みを進めた。
***
一般客の喧騒から切り離された、要人専用の控え室。
ルキウスは葵を抱えたまま、手慣れた動作で室内へ入った。
重厚な扉が閉ざされると、外界の騒音は一瞬にして消え去り、静寂が支配する空間へと変わる。
豪奢なベッドへと、葵を優しく横たえる。
吐き疲れたのか、彼女は眠っているように見えた。
ルキウスは、浅い溜息とともに、その端正な顔に思案の色を浮かべる。
(さて、このまま眠り姫を手籠めにするのも悪くないが、後で聖仁にバレると厄介な事になるな。あまり時間は無いが・・・ここは搦手でいくとするか)
彼は汚れた礼服を脱ぎ、上半身を露わにした。
続いて、葵の汚れきったドレスに手をかける。
丁寧に布地を解き、彼女の下着はそのままに、ベッドに用意されていた柔らかなバスローブを着せた。
そして、脱いだ礼服の懐から、銀の鍼を取り出す。
ルキウスの指先が、静かに、かつ正確に動いた。
首元、手の指の間、足の裏の数か所に、鍼で刺激を与える。
「これで、大分酔いが醒めるだろう……」
銀の鍼を収め、ルキウスは言葉を続けた。
「さてさて、酒精から解放されつつある御姫様は、私の上でどんな声を聞かせてくれるか、楽しみだ。ふふふ」
ルキウスは、葵の脇腹を人差し指で軽く突いた。
その刺激に反応し、葵の表情が微かに歪み、ゆっくりと瞼が開かれる。
焦点の定まらない瞳が、ぼんやりと周囲を見渡す。
視界に飛び込んできたのは、上半身を露わにし、鍛え上げられた肉体に無数の傷跡を刻んだ男の姿だった。
「ひっ……!」
短い悲鳴が漏れる。
しかし、男の顔を見た瞬間、彼女の瞳に宿った恐怖は、安堵へと塗り替えられた。
「あ……聖仁君の、お父様……ですよね?」
「お早う。仰る通り、聖仁の父、清水征人と申します」
ルキウスこと征人は、慈しむような笑みを崩さず、静かに応じる。
「貴方が通路で酔いつぶれてたので、見過ごせなくて。やむをえず、私の控室に連れてきました」
葵は、先ほど自分が起こした醜態を朧げな記憶の中に思い出し、顔を赤らめて俯く。
そして、自身がバスローブ姿であることに気づいた。
「あっ!? こ、これ……っ!?」
「すまない。君の召し物が、あまりにも酷い汚れだったのでね」
征人は動じることなく、淡々と告げる。
「そのまま休ませるのも気が引けて、悪いとは思ったが、着替えさせてもらったよ。君のドレス……あれはもうクリーニングしても駄目かもしれない。残念だが、捨てた方がいいね」
葵は俯きながらも、征人の姿をチラチラと見ていた。
聖仁とよく似た、端正な貌。
鋼のように引き締まった胸板に刻まれた、無数の傷跡。
それら全てが、否が応でも、雄の魅力を主張する。
頬を朱に染め、葵は言葉を絞り出した。
「あ、あのう・・・どうしてお父様は、裸なのですか?」
その問いに、征人は一瞬きょとんとしたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべて応えた。
「ああ、君が倒れそうになってね。咄嗟に助けようとしたんだが……ちょうどその時、君がもどしてしまった。私の服も、ひどく汚れてしまってね。替えの衣裳が届くまで、やむを得ずこうしているんだ」
穏やかで、どこか宥めるような声。
だが、その言葉を聞いた瞬間、葵の顔から血の気が引いていった。
先ほど、彼に抱きつき、盛大に吐いてしまったあの光景。
聖仁の父に、自分が吐きかけてしまったという事実。
「あ、ああ・・・私、なんてことを・・・!よりによって、聖仁君のお父様に!こんな大事な日に・・・!あ、ああ・・!」
葵の狼狽ぶりに、征人の瞳が怪しく光る。
彼はあくまでも穏やかな笑みを崩さぬまま、慈しむように言葉を紡いだ。
「私の礼服も、クリーニングを頼んだのだが……君のと同じで、どうやら無理らしい。だが、ちょうど近くに知り合いのデザイナーがいてね。急遽用意させたんだ。随分と高くついたが、まあそういうこともあるさ。ふふふ」
その声は、どこまでも優しく、慈愛に満ちている。
だが責任感の強い葵は、狼狽したまま、征人へと縋るように訴えた。
「あ、あの! せめて、私にお支払いさせてください! そうでないと……! 聖仁君にも、申し訳なくて……顔向けできませんっ!」
必死の訴えを聞き、征人は内心で不敵に笑った。
そして彼女には、穏やかな笑みを向けたまま続ける。
「そうかい? 君はとても律儀な人だね。こんな人が聖仁を好きになってくれて、何だか誇らしいよ。……わかった! 君の顔を立てて、この場は甘えようかな。どれ、請求書があったはずだ……これだよ」
征人は、汚れた礼服のポケットから、一枚の書類を取り出し、葵へ手渡した。
その書類に目を落とした葵の顔が、一瞬にして凍りついた。
「え?! ・・・・あ、あ・・・せ、せん、にひゃくまん・・・千二百万円!?」
葵の激しい狼狽にも、征人の表情は凪いだ海のように穏やかだった。
「特注品だからね。息子の晴れ舞台だ、つい張り込みすぎたよ。……それにしても、君は凄いな。経営学を専攻していると話していたが、聖仁と同じように起業家なのかい? それとも、ご実家が相当裕福なのかな?」
軽やかな口調の質問。
葵は青ざめ、小刻みに震えながら、絞り出すように答えた。
「そ、そんな!・・・うちは母子家庭で・・・とてもそんな余裕はありません・・・大学の学費も、奨学金を借りて・・・私が働きながら・・・何とか支払って・・・うぅ!」
彼女の瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
あまりに重すぎる現実。
千二百万円という数字が、彼女の細い肩を容赦なく押し潰そうとする。
泣きじゃくる葵に、征人は静かに歩み寄り、慈しむようにその肩へ手を添えた。
「……そうだったんだね。しかし、困ったな……君が言いづらいなら、私の方から親御さんに…お話ししようか?」
征人の言葉に、葵は激しく頭を振り、必死に訴えた。
「?!そ、それは!それだけは!許してください!母は・・・私をこれまで、必死になって育ててくれました!こ、これ以上!負担をかけるなんて!絶対にできませんっ!」
征人は、ベッドの上で泣きじゃくる葵から、静かに距離を取った。
数拍の沈黙を置き、語り掛ける。
「葵さん。私も、小さな会社ではあるが経営者だ。この礼服の代金を自分で負担するのは非常に痛いが……負担できない額ではない」
征人の声は、どこまでも冷静で、理性的だった。
「君にも、君のお母様にも、お金の負担をかけず、解決する方法があるのだが……どうかな?」
泣きむせんでいた葵の表情が、一瞬で明るくなる。
彼女は縋るように答えた。
「そ、それは!どんな方法ですか?!どうか、どうかお願いします!私に他にできることならっ!何でもいたしますっ!」
その言葉を聞くや、征人はベッドの上の葵へ、一気に距離を詰める。
そして腰を抱き、葵の眼前に自身の顔を近づけ、宣言した。
「君が欲しい。君が私の愛人になるのだ」
『愛人』
その言葉が鼓膜を震わせた瞬間、葵の身体に雷が落ちたような衝撃が走った。
止まっていた震えが、再び全身を激しく襲う。
あまりの恐怖と困惑に、眼前に迫る征人の顔から、視線を逸らすことさえできない。
征人は慈しむような瞳で彼女を見つめ、諭すように語りかける。
「君が私に、その身を捧げてくれるなら……。私の心も軽くなり、君の罪からも目を背けられる。どうかな? 悪い話ではないはずだ」
征人の指先が葵の頬をなぞる。
「ふふふ……怯えた表情まで、君は美しいな。聖仁も見る目がない……」
そう言うと、征人は葵にキスをした。
葵は震える唇で、征人を受け入れる。
征人は、葵の心が挫けたと判断し、勝利を確信した。
だが征人が、そのまま身体を葵へと預けようとした、その瞬間だった。
葵は顔を逸らし、キスから逃れる。
そして征人の身体を突き飛ばし、乱れたバスローブの合わせを、震える手で強く引き寄せた。
大粒の涙が頬を伝い、床に落ちる。
しかし、その瞳には、先ほどまでの怯えとは異なる、鋼のような光が宿っていた。
「弁償します!一生をかけて!お支払いしますっ!」
葵は毅然とした表情で、叫ぶように告げた。
征人は、驚愕に目を見開く。
彼女の心の動きを、完全に掌握しているつもりだった。
全ては計算通り、誘導通りに運んでいた。
にもかかわらず、最後の最後で、葵の内なる意志の力に敗れたのだ。
だが、征人の胸に沸き上がったのは、屈辱でも落胆でもない。
全身を駆け巡るのは、狂おしいほどの高揚感と、震えるような歓喜だった。
(……今日の私は、本当に幸運だ。まさか、こんなところに……! 供物が眠っていたとはな!)
狂乱の如き歓喜に沸く心を、彼は必死に抑え込んだ。
そして突如として、葵に向かって深く、深く、頭を下げる。
呆気にとられる彼女の前で、征人は叫ぶように告げる。
「葵さん! 本当に、ごめんなさい! 弁償の話は……嘘ですっ!」
「……え?」
一瞬の空白。その言葉に、葵の全身から力が抜ける。
その隙を、征人は見逃さなかった。
再び瞬時に距離を詰め、彼女の身体を強く抱き寄せた。
「なっ!? 何をするんですかっ!」
驚きと混乱に身をよじらせて抵抗する葵を、征人は再び、あっさりと解放した。
そして、顔を赤く染め、告白する。
「本当に……ごめんなさい。貴方が……あまりに綺麗で……素敵だったから。どうしても欲しくなってしまった。何が何でも、貴方を手に入れたくて……卑怯な手を使ってしまった。……恥ずかしい。ごめんなさい!」
バツが悪そうに、はにかみながら語る征人。
その言葉と笑顔を前に、葵は自身の胸の鼓動が、制御不能なほど、激しく高鳴るのを感じ、困惑した。
葵は顔を真っ赤にし、俯いたまま動けずにいた。
頭の中では、聖仁の笑顔が何度もよぎる。彼への想いは嘘ではない。
ずっと、彼だけを追いかけてきた。
その自分まで否定することになるようで、征人に心が動いていることを認めたくなかった。
征人はその隙を見逃さず、再び熱を帯びた身体を彼女へと寄せる。
「……止めてください……人を……人を呼びますよ……」
葵の消え入りそうな、か細い声。
征人は葵の耳元へ唇を寄せ、熱い吐息と共に囁いた。
「構わない。君が一時でも手に入るなら……捕まったっていい。聖仁に嫌われたっていい。その後どうなろうと……君だけが欲しいんだ」
そのあまりに重く、狂おしい愛の言葉に、葵の身体からすべての力が抜けていく。
崩れるように征人の胸へと身を預ける彼女は、震える声で、祈るように告白した。
「私……初めてなんです。聖仁君のために……私……」
その告白に、征人は慈しむような眼差しを向け、静かに応えた。
「私には、君を聖仁の妻にする力はない。だが……君を、聖仁の家族にはできるよ」
「……え?」
葵の問いに、征人は言葉を続けた。
「私は、聖仁の父親だ。その私と一つになれば、君は聖仁の母親同然……怖がらなくていい。全て私に任せて。君が好きだ。大事にすると誓うよ……」
抗いようのない愛の旋律が、彼女の理性を溶かしていく。
葵はゆっくりと瞳を閉じ、その熱の中に、すべてを委ねた。




