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聖者の行進  作者: いくらふじなみ
第二部 世界の扉
18/26

第十話 開かれた扉

朝靄が窓の外を白く塗り潰し、静謐な光が寝室に満ちていた。


情事の余韻は、熱を帯びた肌と重なり合う吐息の中に溶け込み、二人の境界を曖昧にしている。

互いのすべてを曝け出し、膿を出し切った後の充足感は、底知れぬ安らぎとなって二人を包んでいた。


聖仁もカレンも、一刻たりとも離れることを拒むように、絡めた指先を強く、固く結び合ったまま、重力に身を任せてシーツの海へと沈み込んでいく。

互いの鼓動が重なり合い、一つのリズムを刻む。


その静寂を、硬質な音が引き裂いた。


(ゴトリ)


ベッドサイドから滑り落ちたのは、昨夜、父から受け取ったあの名刺だった。


カレンは微睡みの中、手探りに指先を伸ばし、床に転がる冷たい輝きを拾い上げた。

仰向けになったまま、眼前に掲げた、その一片の光を見つめる。


「……綺麗ね。こんな名刺があるなんて」


カレンが、宝石のような輝きを瞳に映しながら呟く。

指先で重みを確かめるように弄び、ふふっ、と喉を鳴らすような笑い声を漏らした。


「でも、これじゃあ重すぎて、そうそう持ち歩けないわね」


聖仁は、彼女の無邪気な感想に、苦笑を浮かべた。


「あはは……そこに刻まれた名前の重さを考えれば、これくらい威厳があってもいいのかもしれないね。……父さんの、真の名前が書いてあるから」


カレンは名刺に刻まれた文字をなぞるように、凝視した。

その指先が、冷たいダイヤモンドの感触を辿っていく。


「ル・キ・ウ・ス……フォン……クロフォード……? ドイツ語かしら。以前、台本でも見たことがあるわ。なんて長い名前……下にもまだ、続きがある。カストゥス・オービス……難しい名前ね」


彼女は唇を噛み、その一文字一文字を噛みしめるように読み上げた。

そして、ふと視線を上げ、隣で横たわる聖仁の顔を見つめた。


「でも、お義父様は、見た目は日本人そのものよね」


聖仁は小さく頷き、カレンの柔らかな髪を指先で愛おしげに梳きながら答えた。


「確か……母親がドイツ人で、父親が日本人だって、父さんは言ってたね。もっとも、顔も見たことがないらしいけど。『エデン』っていう、子供だけの国の出身者だって」


聖仁は髪を撫でながら、言葉を続ける。


「そこにいる子供達は、優秀な遺伝子を人為的に交配して生み出されたらしいんだ。世界を裏から牛耳るクロフォード家の……人材確保のためのね」


カレンの瞳が驚きに大きく見開かれ、彼女は弾かれた様に聖仁へと身体を向けた。


聖仁の表情から、先ほどまでの慈しむような笑みが消え、真顔になる。

その様子に、カレンは彼が冗談で言っているのではないと悟った。


手にした名刺を再び見つめ、ゆらゆらと揺らしながら口を開く。


「……普通なら、とても信じられない御伽噺だけど。あのお義父様が仰ったなら、ありうる話ね」


カレンは思考を巡らせるように、視線を落とした。


「体中の傷跡も凄いけど、何ていうか……筋肉の質がね、もうとんでもなく引き締まってるというか。トレーニングで見た目のために鍛えた物と、全然触った感じが違うのよ。普段は柔らかいんだけど、力むと鋼に変わるみたいに……?!」


義父の肉体の感想を淡々と語るうちに、カレンは聖仁の表情が不吉なものに変わっていくことに気づいた。

そこでようやく、自分が何を口にしていたのかに思い至る。


聖仁はカレンを真顔で見つめたまま、言った。


「……へぇ。父さんの身体に、そぉんなにいっぱい、触ったんだね。体中の傷も、よぉくご存じですね。ふぅん」


しかし聖仁は、突如として無邪気な笑顔をカレンに向けた。


瞳に悪戯っぽい光が宿り、彼は一転して、カレンの脇腹へと指先を潜り込ませた。


「もう!許さないっ!えいっ!くすぐりの刑に処す!ふふふ」


「や、やめてぇ!あははは!ご、ごめん!謝るわ、謝るからぁ!あははははっ!」


カレンの身体が跳ね、シーツが激しく波打つ。

くすぐられるまま、彼女は涙が出るほど声を上げて笑い転げた。


聖仁の手が止まったのは数瞬後のことだ。

荒い呼吸を繰り返しながら笑い続けるカレンに、聖仁は慈しみの眼差しを向ける。


「僕が嫉妬深いのは知ってるだろう?カレンが他の男の人と触るのも、話すのも禁止だ!……この台詞、カレンのドラマに出てた束縛系彼氏が言ってたよね。彼は、こんな想いだったのかなぁ、親近感湧くなぁ……ふふふ」


カレンは息をつきながらも、茶目っ気たっぷりに彼を睨みつけた。


「聖仁君、怖い!貴方がいうと、冗談に聞こえないわよ!……うふふ」


聖仁は仲直りの印として、彼女の熱を帯びた額に、羽毛のような口づけを落とす。

その慈しみに誘われるように、カレンは満面の笑みを浮かべ、彼へと縋り付くように強く抱きついた。


二人の間に流れる空気は、甘く、穏やかだった。

聖仁が静かな、それでいて逃れようのない重みを持った声で語り始めるまでは。


「……父さんは、クロフォード家の一員……いや、『クストス・オルビス』の称号を持つ、当主なんだ。言うなれば、彼は世界の頂点に立つ男だよ」


「……っ!?」


あまりに突如として突きつけられた真実の重圧に、カレンは息を呑み、その身体を激しく震わせた。

瞳には驚愕の色が走り、思考が白く塗り潰されていく。


聖仁は、震える彼女の背中に腕を回し、強く抱き寄せた。


「父さんはエデンで育つ中で、マルガリタという女性と出会い、恋に落ちた……。マルガリタは武術の達人で、彼女に勝てたら、その……父さんのものにしていい、と約束したらしい。それから八年。父さんは彼女に挑み続け、彼女が十八歳を迎える直前、命を懸けた最後の一戦で、ようやく勝利を掴んだんだ」


聖仁の淀みない早口な説明は、非現実的な内容で、カレンの理解を置き去りにする。

彼女はただ、大きく見開いた瞳で彼を見つめることしかできなかった。


「……何が何だか、さっぱりわからないわ……」


カレンは震える唇を噛み、困惑したように首を振った。


「お義父様は、幼い頃に恋した女性に、その……挑むの? 武術で? 喧嘩でもするみたいに? 愛しているのに、どうして戦うなんてことができるのかしら……」


聖仁は、茫然と自分を見つめるカレンの頬に、そっと、慈しむように掌を添えた。

その指先が彼女の熱を確かめるように、優しく滑る。


「マルガリタという女性は……武術だけじゃない。あらゆる面で卓越していて、エデンの王のような存在だったらしいよ」


聖仁の声は低く、どこか遠い物語を語るような響きを帯びていた。


「父さんは、彼女がいたからこそ、自分を磨き続けられたんだって言っていた。武術も、学問も……。彼女は早くから父さんを絶望させたくなくて、言いそびれたのかもしれないって。……自分がレズビアンであることを、最後の勝負が終わるまで、父さんに告げられなかったらしいんだ」


「え……っ!? そ、それって……お義父様……可哀想だわ……」


カレンの瞳が大きく見開かれた。


「八年も……必死に戦って……そんなこと……」


聖仁は、父からその勝負の顛末を聞いた時のことを思い出していた。


八年もの間、一途な想いを捧げ続けた男が、その結末に味わった絶望。

自分自身もまた、父のあまりに重すぎる愛と、それが最初から報われないという残酷な事実に、言いようのない憤りと、やり場のない無力感を覚えたのだ。


カレンの瞳にも、同じような憐憫と驚愕が混じり合うのを聖仁は見逃さなかった。

彼は深く頷き、静かに言葉を紡ぐ。


「父さんは……あまりのショックで食べ物を受け付けなくなり、衰弱しきってしまったんだ。だけど、死を目前にした父さんの元に、エデンを卒業してクロフォード家の当主となっていたマルガリタが現れて……彼女は父さんに当主の座を譲り、妻になると約束したんだ」


「えええっ!? す、すごいわ! とんでもない……なんて大胆な女性なの……。ねえ、女性でいいのよね? ちゃんと、女性よね?」


あまりに非現実的な展開に、カレンは間の抜けた問いを投げかけながらも、その瞳には驚嘆の色を浮かべていた。

聖仁は、彼女の突飛な確認に小さく頷き、言葉を続ける。


「そのことで父さんは、やる気を取り戻して一命を取り留めたようだ。……恩返しをしたいと尋ねたら、マルガリタは、世界中の美女を手にする手伝いを、父に頼んだそうだ」


「はぁああ!? な、なにそれ……! ふ、ふざけてるわ!」


カレンが呆然と声を上げる。

聖仁もまた、苦笑を浮かべながら同意した。


「……同感だよ。父さんは、八年間も、命がけで一人の女性を想い続けるほどの一途な男だったのに。その最愛の女神は……あまりに不誠実な女神だった。困ったもんだよ。僕の女神とは、雲泥の差だ」


聖仁は、カレンの自分に対する一途さと、その清らかな愛を讃えるつもりで、最大限の慈しみを込めてそう告げた。

だが、カレンの反応は彼の予想とは正反対のものだった。


彼女は目を細め、聖仁を睨みつけた。


「……え? それって……皮肉? 私だって、昔は男を利用してきたのよ。それを知ってて、『雲泥の差』だなんて……! まさか、泥が私で、雲がマルガリタってこと?!」


予想外の反応に、聖仁は顔を赤くし、狼狽えながら必死に言葉を紡いだ。


「ち、違うよ! カレンが雲だよ、雲! ……き、君は僕に一途な気持ちを捧げてくれてるからっ! だから、僕にとっての女神なんだよっ! それを讃えたくて……って、ふぅ。カレン……」


弁明する聖仁を前に、カレンの肩が小刻みに震え始めた。

彼女は顔を覆い、必死に笑いを堪えている。


その様子を見て、揶揄われているのだと悟った聖仁は、途中で言葉を飲み込み、力なく肩を落とした。


「……もっと僕も、落ち着かないといけないな。父にも君にも、手のひらに乗せられて、コロコロ転がされてる気がするよ。はぁ……」


「ぷぷっ、ご、ごめんってば! あたふたしちゃう聖仁、可愛いんだもん。ぷぷっ……」


カレンは涙目になりながらも、楽しげに笑い声を漏らした。


不満げな表情のまま、聖仁は彼女の髪をゆっくりと撫でる。

彼は一度、深く、重いため息をつき、再び静かな声で語り始めた。


「……父は当主になった。そこまでの話をしてくれた後で、何故か僕の『敵』になるって言われて、それで喧嘩したんだ」


聖仁の瞳に、昨夜の戦いの記憶が、暗い影を落とす。


「父はそのとき、僕を怒らせるために、君や母さんを侮辱した。僕は全力で向かっていったけど……まるで歯が立たなかった。父さんは、僕に無力さを知らせたことが、本当の結婚祝いだって……それで、昨日からの自己嫌悪さ」


「……怖い人ね。権力や暴力もそうだけど、聖仁の心の動きが、まるで透けて見えているみたいに振る舞うところが」


カレンは、窓の外から差し込む光を背に受けながら、どこか遠い目をして呟いた。


「貴方との出会いに使った、あのテレビ番組の企画も……あれ、凄く良くできてたわよ。シナリオの台本はもう捨てちゃったけど、見せてあげたかったな。貴方の心の動きを、凄く重視した内容だったもの」


聖仁はカレンの言葉に深く頷きながら、思考を巡らせていた。

しかし、ふとした瞬間に脳裏をよぎった事実に、彼は弾かれたように顔を上げる。


「……っ! あ、そうだ! 母さん! 母さんが危ない!」


「え? お義母様が?」


聖仁は慌ててベッドから出て、乱れたシーツを跳ね除けて外服へと手を伸ばした。

着替えながら、呼吸を荒らげて言葉を吐き出す。


「そうなんだ……! 実は、父さんと別れ際に、葵さんがやってきて……その……父さんの愛人になったらしいんだ!」


「!? ……っ」


カレンは驚きのあまり、声すら出せなかった。


『葵』という名で思い当たるのは、披露宴の終わりに酔って聖仁に絡んできた、高校時代の友人という情報だけだった。

おそらく、聖仁とは浅からぬ知り合いなのだろう。


それが一夜にして、実の父の手にかかるとなると、彼の心境の複雑さが想像できる。


「それは……なんて言うか……あ、お義母様は? どう関係するの? まぁ、夫が新しい愛人を作っただけで、一大事でしょうけど……」


「いや! そうじゃないんだ!」


聖仁はシャツのボタンを掴みながら、叫ぶように言った。


「父さんが葵さんと連れだって去る前に、母さんが父さんに呼ばれたって……カレン、君もそう言ってたろう!?」


「…………っ! あ!」


「ま、まさかとは思うけど! それを確かめないと……! あの悪魔のような男のことだ、一刻だって油断できない! 全く安心できないんだ!」


カレンもまた、大慌てで外出の支度を始めた。


聖仁は手早く服を着替えると、カレンの身支度を待つ間に、端末を手に取り、母・恵子へと連絡を取った。


一回、二回……三回、四回と呼び出し音が響き、五度目のコールで通信がつながった。


「母さん! 無事かい?!」


聖仁は、相手の言葉を待つ余裕もなく、切迫した声をぶつけた。


『……おはよう、聖仁。なぁに? こんなに朝早くから電話してきたかと思ったら……無事に決まってるじゃない。何かあったの?』


受話器越しに聞こえてくるのは、あまりに平穏で、何事もない母の声だった。


その声を聞いた瞬間、張り詰めていた緊張が音を立てて崩れ、聖仁は肺の奥から絞り出すような、大きな溜息をついた。

肩の力が抜け、全身を襲っていた熱い不安が、急速に引いていく。


彼は呼吸を整え、努めて冷静なふりをして言葉を選んだ。


「いや……別に何もないんだけど。母さんと、しばらく会ってなかったから。心配になっちゃって。あはは」


あまりに稚拙で、下手な誤魔化し。


そんな息子を、恵子は慈愛に満ちた、柔らかな口調で見守るように応じた。


『えぇ? 最後に会ってから、一日だって経ってないわよ。もう、そんなママ、ママ言ってると! 花嫁さんに逃げられるわよ! しっかりしなさい! 全く……ふふ、でも嬉しいけれど』


母の笑い声が、聖仁の荒ぶる心を静めていく。


『そうだ、もう朝食会場は開いてるみたいだから、福崎さんたちもお呼びして、皆で食事にしない? そうね……8時集合は、どうかしら? 二人も来なさいよ』


「……そうだね。カレンに話してみるよ。……うん、わかった。8時ね。OK」


通話を終え、聖仁はふっと浅い息を吐いた。


丁度そのとき、身支度を整えたカレンがリビングへと戻ってくる。

聖仁は彼女の顔を覗き込み、安堵の色を滲ませながら告げた。


「カレン、とりあえず母さんは何事もなさそうだったよ。父さんとのことは……はっきりとは聞けなかったけどね。それで、8時に福崎のお義父さんとお義母さんを誘って、朝食に行かないかってさ」


「そうなんだ。わかったわ、2人に電話してみるね」


カレンはバッグから端末を取り出し、自身の両親へと指を滑らせた。


「……あぁ、お母さん? ……うん、今起きたところよ。それでね、恵子お義母さんが、一緒に朝食はどうかって……え?! うそ! ……あぁ……うん……わかった、そういうことなら伝えとくね。ううん、大丈夫……じゃぁね、また連絡してね」


通話中、カレンの表情は次第に硬くなり、その瞳には困惑と、どこか言いようのない不穏な色が混じり始めた。


横でその様子を注視していた聖仁が、眉をひそめる。


カレンは小さく溜息をつき、肩の力を抜くようにして話し始めた。


「聖仁。……何て言うか、ちょっと驚いたわ。昨日の夜のうちに、2人は実家に帰ったらしいの」


「何でも、住んでいる村役場からお母さんに電話があって、村で火事騒ぎがあったんですって。延焼で二件ほど焼けたそうよ。あ、でも実家は無事で、住人もすぐに気づいて逃げたみたいだから、被害も少なかったみたいだけど……」


カレンは言葉を切り、少しだけ声を潜めた。


「ただ、お父さん、村長でしょう? すぐにでも顔を出さないとって言い張ったみたいで。そうしたら、何と! お義父様が、夜中だったのに、すぐハイヤーを手配してくれたみたいよ。『よくお礼を言ってくれ』って……」


両親不在の事実に、カレンは申し訳なさに沈んだ表情を浮かべ、視線を落とす。


聖仁は彼女の隣に寄り添い、その細い肩へ優しく、それでいて確かな重みを持って掌を置いた。


「夜中に大変だったね。……こっちのことは、心配しないで大丈夫だよ」


聖仁の声は低く、穏やかで、彼女の不安を溶かすような温かさを湛えていた。

彼はカレンの瞳を見つめ、努めて明るい響きを混ぜて続ける。


「まぁ、お腹は空いたし。僕らだけでも行こうよ」


カレンはふっと顔を上げると、瞳の奥に茶目っ気のある光を灯した。


「そうね!……よし、気を取り直して。ねえ、朝食ってブッフェスタイルかしら? 私、結構大食いだから。お義母様に呆れられないか心配だわ。ふふっ」


冗談めかして笑う彼女の姿に、聖仁はこぼれるような笑みを向けた。


彼はカレンの腰にそっと手を回し、その柔らかな曲線を引き寄せるようにして、二人で朝食会場へと歩みを進めた。


***


会場に到着すると、早朝だというにもかかわらず、そこには既に多くの客による雑多な喧騒が渦巻いていた。


銀食器が触れ合う音、多種多様な言語の話し声、そして華やかな社交の熱気。

各テーブルには名札が置かれ、席はあらかじめ指定されているようだ。


聖仁が周囲を見渡すと、テーブル席に座る恵子が、こちらを指して大きく手を振っているのが見えた。

二人は案内人のホテルマンに一言断りを入れてから、彼女の元へと歩み寄る。


「聖仁、カレンさん……さっき歩さんから電話があったのよ。もう聞いてるかしら? ご実家の近くで火事があって、お二人とも夜中に帰られたんですって。大変だったわね」


恵子の言葉に、聖仁とカレンは顔を見合わせ、小さく頷いた。


「はい、お義母様。私も先ほど知らされたところです……」


カレンが、申し訳なさと感謝の入り混じった表情で、丁寧に言葉を繋ぐ。


「何でも、お義父様が夜中に車を手配してくださったとか。父はひどく酔っていましたから、本当に助かりました。どうか、よろしくお礼をお伝えください……ありがとうございます」


カレンが深く頭を下げるのを、恵子は両手を軽く振り、優しく制した。


聖仁は、そんな二人の穏やかなやり取りを、慈しむような眼差しで見守っていた。


ブッフェスタイルの朝食会場には、色とりどりの料理が並び、その香りと華やかさが食欲をそそる。

カレンは恵子に一言断りを入れると、弾むような足取りで料理を取りに席を立った。


恵子もまた、立ち上がって自らトレイを手に取ろうとする。


その背中を見つめながら、聖仁は意を決したように、低く、静かな声で問いかけた。


「母さん……昨日の夜さ。父さんに呼ばれたってカレンから聞いたんだけど。……昨日は、父さんと同じ部屋で過ごしたの?」


恵子の身体が、(ぴくり)と一瞬、微かに震えた。


一拍の間。


まるで思考を整えるかのような、不自然な沈黙が流れる。

やがて彼女は、何事もなかったかのように、平然とした声で応じた。


「そうよ? 父さんも酔ってふらふらしていたから、介抱するのが大変だったわ。飲ませすぎよ、貴方たちはもう」


嘘だ。

だが、彼はあえて深く追及することなく、「そうなんだ」とだけ短く返し、彼女を解放した。


聖仁もまた席を立ち、ブッフェへと向かう。

空腹に促されるまま、聖仁は料理を皿に次々と盛り付けていった。


テーブルに戻ると、カレンは既に恵子と共に、食事を始めていた。


「美味しそうな料理ばかりで、迷うね。二人にコーヒーを持ってきたよ。どうぞ」


聖仁が温かいコーヒーを差し出すと、カレンは満面の笑みで応えた。


「ありがとう、聖仁。それにしてもこのホテル、最高ね! 私、すっかり気に入っちゃったわ!」


愛妻の弾むような声に、聖仁の表情も自然と和らぐ。


「本当だね。豪華で上品だし。空間の広い造りも、贅沢だよね」


「そうね。でも……一番いいのは、この客層かしら?」


カレンはコーヒーを一口啜り、どこか誇らしげに、また愉快そうに目を細めた。


「信じられる? 私、誰にも声かけられなかったのよ! 普通なら、ブッフェなんて夢のまた夢だもの。食べ進める暇もないくらい、あちこちから声をかけられちゃうのに……ふふふ!」


カレンの言葉に、聖仁は背筋を凍らせるような強烈な違和感を覚えた。


(おかしい……)


周囲の喧騒、華やかな笑い声、行き交う人々。そのすべてが、まるで作り物のように空虚に感じられる。


自分はともかく、カレンほどの美貌と名声を持つ女性がここにいるというのに、誰一人として彼女に視線を投げない。

気づいていないどころか、存在そのものを無視しているかのような、不自然なまでの静寂が周囲を覆っている。


聖仁は戦慄し、弾かれたように立ち上がった。


視界の端で、何かが決定的な違和感を伴って動き出す。

会場の入り口から、一組の男女がこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。


父だ。そして、その隣には――葵がいた。


「……っ!?」


驚愕と、胃の底を掻き乱されるような不快感。


聖仁の拳は白く、硬く、小刻みに震え始めた。

あまりに理不尽な光景に、呼吸さえもままならない。


彼の異変に気づいたカレンが、慌ててその腕を掴む。


「……どうしたの? 聖仁。あんまり目立つことすると、居づらくなっちゃうわよ……? 貴方ももう、ちょっとした有名人なんだから……っ!?」


カレンの声が途切れる。


彼女の視線もまた、近づいてくる二人へと向けられた。

父と葵が、まるで何事もなかったかのように、当然の権利を行使するようにこちらへ歩いてくる。


カレンは、手にした銀のスプーンを震える指でテーブルに置き、逃げ場のない衝撃に備えるように、小さく肩をすぼめて俯いた。


「やぁ! なんだなんだ、三人だけでそんな楽しそうに食事して! 私たちも混ぜてくれよ。なぁ、葵?」


征人の声は、どこまでも朗らかで、あまりに自然だった。

その隣で、葵が艶然とした笑みを浮かべ、優雅に一礼する。


「ふふふ、美味しそうなお料理ですわね。征人様」


母の前で、あろうことか別の愛人を連れてくる父。


そのあまりに無遠慮な振る舞いに、聖仁の頭は沸騰しそうな怒りに支配された。

視界が赤く染まり、心臓の鼓動が耳元で爆音のように鳴り響く。


崩れ落ちかけた理性の糸を、かろうじて手繰り寄せ、震える声で父を睨みつけた。


「あなたはっ……! あなたというひとはっ……! 貴方が色に狂うのは勝手だ。だけど、僕にとって! 母は! 唯一無二の女性だ! 侮辱するのも、いい加減にしろ……っ!」


聖仁の拳が、テーブルの上で白くなるほど強く握りしめられる。


怒りに震え、声を荒らげる息子に対し、征人は眉一つ動かさず、涼しい顔で応じた。


「もちろんだ。恵子を侮辱するなど、あり得ないことだよ。昨日も言っただろう? 恵子は……君の母さんは、最高の女だ。今でも変わらず、深く愛している」


「……そのことを疑っているのは、君だけだと思うがね。どうだ、恵子。私の言葉を信じてはくれないか?」


視線の先、問われた恵子は、驚くほどに静かな、そして透き通った表情で応じた。


彼女の瞳には、動揺も、怒りも、ましてや疑念すらも微塵も存在していなかった。


「貴方を疑ったことなんて、結婚してから一度もありませんわ」


「ただ……聖仁はまだ二十歳。あまり揶揄わないであげてくださいな。この子の誠実さと、貞操観念は、貴重で守るべき素質の一つです」


毅然とした母の言葉に、聖仁は喉の奥で煮えくり返る怒りを無理やり抑え込み、席に座り直した。


聖仁は荒々しく、次々と料理を口へと放り込んでいく。

味など、一欠片も感じられない。


ただ、一刻も早く席を離れるために、機械的に咀嚼し、飲み込む。

作法も、品位も、今の彼には無意味だった。


「父さん……それで? わざわざ僕が起きるのを待ってから、会場入りするなんて。何か仰りたい事でもあるのですか?」


聖仁は、砂を噛むような食事を口に運びながら、父に言い放った。


「昨夜の『敵になる』という宣言の件なら……受けて立ちますよ」


カレンは青ざめ、震える手でフォークを握りしめている。

その隣では、葵が恍惚とした表情で征人を凝視していた。


そんな彼らを見つめる恵子と征人の瞳には、怒る息子への慈しみと、どこか愛おしさが混じった穏やかな光が宿っている。


「ほらほら、そんなに慌てて食べたら、喉に閊えてしまうわよ」


恵子が、まるで幼い子供を諭すような、柔らかな声でたしなめる。

征人は、聖仁の荒々しい食卓を眺めながら、ふっと低く笑った。


「ふむ……昨日お前に渡したプレゼント。もう無くなってしまったと見えるな」


「強くなったな、聖仁。わはは!」


余裕たっぷりに、無邪気に笑う父。

その態度が、聖仁の胸奥に澱(おり)の如く溜まった怒りに、さらに油を注いだ。


彼は、喉を焼くような不快感を押し殺し、震える唇から毒を含んだ言葉を吐き出す。


「……ふぅ、父さん。母さんは父さんと昨夜一緒だったと、僕に気を使ってくれましたが……やはり、葵さんと一緒だったようですね。葵さんも、母さんと同じで、その他大勢の女性の一人というわけですか!」


言葉の端々に、制御しきれない怒りと、やり場のない皮肉が混じる。

だが征人は、眉ひとつ動かさず、平然とした顔で応えた。


それは聖仁にとって、地獄の底へ突き落とされるような、最も聞きたくなかった言葉だった。


「何言ってる? 勿論、恵子も一緒だったぞ。三人で仲良く寝たんだ」


その言葉を聞いた瞬間、聖仁は椅子から立ち上がり、目前の父の胸倉を両手で掴む。

怒りに震えながら、至近距離で征人を睨みつけた。


「貴様っ……! ……人間じゃないっ……!!」


あまりの出来事にカレンと、そして葵も狼狽し、顔から血の気が引いていく。


「やめて。聖仁、落ち着きなさい」


息子の様子を見た恵子が、穏やかではあるが、強い声で窘めた。


「母さん……!? こんな、こんなやつ……! 許せない……っ! 母さんを……母さんを……っ!!」


聖仁は尚も、父の胸倉を強く締め上げる。


その姿を見つめ、さらに恵子は口調を強めて言い放った。


「落ち着きなさい、と言っているの」


「貴方はもう、組織を率いる長なのよ。あなたの行動一つで、大勢の人生を狂わせてしまう。公の場で、感情で動くなんて、あってはならないことよ。甘えないで」


あくまで穏やかで、静謐な声。

だが背筋を伸ばし、姿勢を崩さず座る恵子の凛とした姿には、威厳さえ感じられた。


聖仁は、喉元までせり上がってきた怒りの熱を、肺の奥へと無理やり押し戻した。

父の胸倉から手を放し、荒い呼吸を整え、震える指先を膝の上で固く組んで、静かに席へ戻る。


征人は、何事もなかったかのように服の乱れを整えた。

その表情には、一抹の動揺すら浮かんでいない。


「少し揶揄いすぎたかな? 愛息子に嫌われる役は、どうにも嫌なもんだ」


征人は、まるで午後のティータイムを楽しむような軽やかさで言った。


「ちょっとトイレにいって、頭を冷やしてくるよ」


その背中が、優雅な足取りで会場の喧騒へと消えていく。


父の姿が見えなくなったことを確認すると、聖仁は大きく一度、頭を振った。

そして、隣に座る葵を、射抜くような真剣な眼差しで見つめた。


「……葵さん。あいつは世界中に愛人を持つような、野獣です。貴方のような高潔な方が、一緒にいていい男じゃないんだ。目を覚ましてください! ……それとも、まさか、あいつに何かされたのですか? あいつは脅しも平気でする男だ……!」


唐突に投げかけられた聖仁の言葉に、葵は一瞬、呆然と虚空を見つめた。


だが、その瞳から霧が晴れるようにして、かつて生徒会副会長として彼を支えた、凛々しく、隙のない淑女の光が戻ってくる。


彼女は、ふっと、はにかむような微笑みを浮かべた。


「…そうね。征人様は……私の弱みにつけこんで、身体を捧げろと、私を脅したわ」


「なんだって!? やっぱり、そうだったのか! 許せない……っ!」


自分のために声を荒らげ、拳を握りしめて憤る聖仁。

その姿を、葵は慈しむような、どこか切なさを孕んだ瞳で見つめていた。


「私ね、聖仁君のことが、ずっと好きだったわ」


静かな、それでいて確かな熱を帯びた声が、彼女の唇から零れ落ちる。


「片思いだってことは自分でもわかってた。けれど、どこかで夢を見ていたの……いつか、貴方に振り向いてもらえるんじゃないかって。だから、自分の初めてだけは……処女だけは守ろうって。馬鹿みたいに、誓っていたのよ」


微笑を浮かべながらも、その言葉はあくまで冷静で、凛としていた。


あまりに重すぎる告白と、彼女が守り抜こうとした純潔の記憶。

居た堪れない思いに、聖仁は力なく俯き、唇を噛んだ。


「だから……お父様に脅されても、屈しなかったわ」


葵は、一呼吸置いて言葉を続ける。

その瞳には、かつて見たことのないような、熱い恍惚が宿り始めていた。


「でも、お父様は……私の心の動きを、すべて見透かしていらしたの。君がどうしても欲しくて、卑怯な手を使ってしまった……『すまない』って。お父様は、悪戯がバレたときの男の子のような笑顔を見せてくださったわ。それを見た時……私、体も心も、すべてが蕩けてしまったの」


恍惚とした表情で語る葵に、聖仁は開いた口が塞がらなかった。

しかし、その光景を見つめる恵子とカレンは、理解していた。


理性ではどうしようもなく、抗いようのない征人の、底知れぬ魅力を。


「……相変わらず、恐ろしい人ね」


恵子が、どこか感嘆したような、それでいて慈しむような声で呟く。


「征人さんは、貴方の心の動きを完璧に理解しているわ。脅された後で謝られて、気が緩んだところに母性本能をくすぐられたら……無理ね」


恵子から同意を得て、柔らかな微笑を浮かべる葵。

そのまま不満げに肩を落としている聖仁へと向き直った。


その瞳には、慈しみと、冷静な観察の色が宿っている。


「……私思うんだけど、聖仁君にだけじゃないかな?」


彼女の声は低く、諭すように響いた。


「お父様があんなにからかったり、敵意を匂わせたりする相手は。まだほんの数時間しか御傍にいないけれど……あんなに強くて優秀な方なら、大抵の人間は『敵』にすらならないもの」


かつて名門高校の生徒会長候補として、その美貌と優秀さで学園のトップだった葵。

聖仁の副会長として、その才知で彼を支えた淑女は、父・征人について冷静に分析していた。


「『愛息子』……あのお言葉も、冗談じゃないと思うな」


恵子は葵の言葉に深く頷き、その瞳に慈愛と、どこか遠い記憶を辿るような色を浮かべて語り始めた。


「……征人さんに、聖仁には言うなって口止めされてるけれど。彼が側室に…つまり私のことだけど、新しい女性を紹介するのは、その女性を側室にしたいと思った時だけなのよ」


恵子の声は低く、重みを持って響いた。


「愛人と側室は、彼にとって全く別物。一緒に子供を作りたいと思えるほどの女性だけが、側室になれるの。ほかの……一夜だけの関係の女性とは違うというわけ」


一言一言が、葵の胸に深く刻み込まれていく。


「だから、葵さん。貴方は彼に余程気に入られたのね。聖仁が言った通り、貴方が高潔な女性だったからこそだわ」


葵は言葉を失った。


視界が熱い涙で歪み、大粒の雫が次々と頬を伝い、テーブルへと零れ落ちていく。


彼女はただ、震える手で口元を覆い、嗚咽さえ漏らさぬよう、溢れる喜びと感動に身を委ねるしかなかった。


「嬉しい……っ、ああ、嬉しい……! 私……私……っ!」


言葉にならない歓喜が、葵の全身を突き抜けていく。

彼女は嗚咽のような笑い声を漏らしつつ、溢れ出す涙を止めることができなかった。


その時、間抜けなほど軽快な声と共に、征人が戻ってくる。


「ふぅ、スッキリ爽やかだ……」


征人は、まるで散歩から帰ってきたかのような、無防備で呑気な様子だった。

彼はテーブルの傍らで泣き崩れる葵を見て、不思議そうに首を傾げる。


「どうしたんだ、葵? 何でそんなに泣いている? 聖仁に虐められたのか?」


そのあまりに場違いな明るさに、聖仁は怒る気力すら削がれ、ただ父を睨みつけた。


一方の葵は、嗚咽しながらも、征人の姿を捉えた瞬間、吸い寄せられるように彼へと身を乗り出し、その首に縋りついた。


「よしよし、可哀そうに……」


征人は、愛らしい子猫でもあやすように、彼女の背中を優しく叩きながら笑う。


「聖仁よ、女性を泣かせるのは男子最大の罪だぞ。私へ怒るのは構わんが、彼女にぶつけるのは感心せんな」


「……泣かせたのは、貴方ですがね」


聖仁は、低く、刺すような声で言い放った。


「それよりあまり騒ぎを大きくすると、周囲に注目されて、貴方にとっても、体裁悪いのではありませんか?」


皮肉たっぷりに、しかし静かに父を睨みつける息子に、征人は相変わらず涼しい顔で、事もなげに言い放った。


「ああ、それなら問題ない。この視界にいる全ての人物は、始めから私の手のものだけだからな」


「……っ!?」


あまりに強大で、あまりに理不尽な言葉。


聖仁とカレンは、征人の力に圧倒され、声すら出せずにいた。


そんな二人を見つめ、恵子はふぅ、と小さく溜息をついた。

彼女は動揺することなく、毅然とした態度で征人へと向き直る。


「……征人さん。息子の晴れ舞台で興奮なさるのは分かりますけれど、あまり権力を振りかざすのは自重なさってください。聖仁もカレンさんも、まだその重さに耐えきれていませんよ」


恵子の静かな、しかし逃げ場のない諫めに、征人は肩をすくめて小さく笑った。


「……少しハッスルしすぎたかな。カレンさんに結婚祝いを贈りたくてね」


「……私に、ですか?」


カレンが呆然と問い返す。

その瞳には、まだ驚愕の色が色濃く残っていた。


「君ほどの人だ。大抵の品物は、自分自身で何でも買えるだろうから、選ぶのも一苦労だったよ。だから、何とか私独自のものを……『無関心』の人々を、用意してみたのだ」


「……っ!?」


カレンは息を呑んだ。


かつて自分を脅迫し、蹂躙した憎むべき男。

その彼が、周囲に声をかけられず、ブッフェを楽しめる状況を、自分への結婚祝いとして用意したという。


その事に気づいた瞬間、カレンの全身を、形容しがたい歓喜が電流の如く駆抜けた。

彼女の瞳には熱い涙が浮かび、喜びの表情を隠すことができなかった。


喜びと驚愕が混じり合った表情を浮かべる妻を見て、聖仁は慌てて立ち上がり、二人の間に立った。


「……父さん! 妻を誘惑するのは、止めていただきたいですね。さすがに節操がないと思いませんか?」


歓喜に震え、咽び泣く葵。

そして、自分への結婚祝いに瞳を潤ませ、喜びを隠せないカレン。

それを見守る恵子は、穏やかな笑みを浮かべている。


美女三人からの歓心に、征人は聖仁へとバツが悪そうに、照れた笑みを向けた。


「……なんだか照れるな。よしよし葵、もう泣かないでおくれ。……ふむ、そろそろ退散して、食事は別の場所で摂ろうかな。ここにいると、聖仁の嫉妬に狂った目があって、味も何も判らなくなりそうだしな」


「?! 誰が嫉妬に狂いますか!」


聖仁は、怒りと困惑が混ざり合った声を荒らげた。

その瞳には、あまりに理不尽で、あまりに非現実的な光景に対する、剥き出しの拒絶が宿っている。


「貴方はただ、女性の扱いが巧いだけだ! 葵さんも、さっきから何を喜んでるんです!? 理解できない! この男は……母も、貴方も、それだけじゃない! 他に何人もの女性を、身籠らせると宣言してるんだ! 皆、狂ってる! この男の瘴気に当てられて、おかしな事になってるんだ!」


征人と恵子は、ただ慈しむような眼差しで、息子を静かに見つめていた。


その沈黙を破ったのは、先ほどまで泣きじゃくっていた葵だった。


「……普通の男性なら、喜んだりしないわ。世界でただ一人、お父様……征人様だから、嬉しいの」


葵は、静かに、だが力強く言葉を紡ぐ。


「世界中の女性から、この方に選ばれた。その事実が、私の今までの……人生全てを肯定してくださるの」


葵の、鋭い理性と狂気的なまでの信仰が混じり合ったような告白。

そのあまりに重く、あまりに純粋な言葉を前にして、聖仁はただ呆然と立ち尽くし、反論する術さえ失っていた。


思考が停止し、ただただ圧倒される聖仁。

征人は「ゴホン」と一つ、大きく咳払いをした。


常に余裕を崩さず、すべてを見透かしているような男が、珍しく顔を赤らめ、照れた表情を隠そうともせずに、聖仁へ話しかける。


「……あ~……まぁその、なんだ。モテる男は幸せだなぁ、聖仁よ。わはは! じゃぁな!」


征人は、泣きじゃくる葵の腰を抱き寄せ、悠々とその場を去っていく。

恵子もまた、静かに立ち上がった。


「聖仁、あの二人だけじゃ色々と不安だから、私も行くわ。……じゃぁね、カレンさん。息子をよろしくお願いしますね」


足早に去っていく母の背中に、聖仁は手を伸ばす。

だが、その指先は届かない。


聖仁は、その場に崩れ落ちた。


カレンが慌てて駆け寄る。

聖仁は彼女を抱きしめ、呟いた。


「……父さん、貴方には! 絶対に負けない!」

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