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聖者の行進  作者: いくらふじなみ
第二部 世界の扉
17/26

第九話 心の純潔

重厚な遮光カーテンの隙間から、細い光の糸が忍び込み、静寂を切り裂くように床へ伸びていた。

その光は刻一刻と角度を変え、白く清潔なシーツに覆われたキングサイズのベッドの上を、ゆっくりと、執拗に這い進んでいく。


聖仁は、瞼を刺す熱量に顔を僅かに歪ませ、意識の底から引きずり出されるようにして目を覚ました。

半身を起こし、隣を見やる。そこには、愛する女が横たわっていた。


一色カレン。


本名:福崎加恋から、清水加恋になってくれた、最愛の女性。

その寝顔を眺める聖仁の胸に、奇妙な既視感が込み上げる。


(……なんだか、カレンにプロポーズした時みたいだ)


あの幸福な朝の光景が、脳裏を掠めては消えていく。

彼はそっと手を伸ばし、カレンの肩を指先でつついた。


反応はない。

微かな寝息だけが、静まり返った室内で規則正しく刻まれている。


彼女は深い眠りの淵に沈んでいるようだった。


(……ふふふ。あの時は寝たふりしてて、悪戯されたからな)


聖仁の唇に、笑みが浮かぶ。

あの朝、彼女は寝たふりをして彼を翻弄した。


その愛らしくも小悪魔的な仕草さえ、今は愛おしい記憶の一部だ。

指先が触れる肌の白さは、神が慈しみをもって形作った彫像のように美しかった。


(……あの時と変らず、本当にカレンは綺麗だ。絶世の美女というのも、過大評価じゃないな。……でも、カレンは……父さんとも……)


その感嘆は、突如として胸の奥を突き刺す鋭い痛みに塗りつぶされた。

指先から伝わる熱が、一瞬にして凍りつくような錯覚。


昨夜、父――ルキウスが語った、神話のごとき過去の数々。

それらは聖仁の心に深く響いたが、今、胸に湧き上がるのは、暗く、重苦しい嫉妬だった。


二年前、父はカレンを脅迫し、自分を罠にかけるために彼女を利用した。

だが、カレンという美女を前に、あの好色な父は、他に何をしたか。


それは聖仁自身、薄々感じていたことだった。


昨夜の父の挑発は、聖仁にとって、疑念を確信へと変える最後の一撃だった。

心臓の裏側を棘でつつかれるような、もどかしく、やり場のない痛み。


(……わかっていたことだ。改めて聞かなかっただけだ)


カレンにも父にも、関係があったかどうか、確かめたことはない。

だが昨夜、父が放った言葉によって、聖仁にとって、それは確定事項になっていた。


(……情けない。カレンほどの美女だ。僕に出会うまでに、どれだけの男性が、彼女を求めたか……それは、ごく自然の事だ。何も不思議じゃないし、咎められることでもない……ははは、どこかで聞いた台詞だな)


聖仁は、再びカレンを見つめた。


神格化されたかのような美貌。

そして肌の下で脈打つ、生命の奔流を感じさせる、完璧なまでのプロポーション。


仄かな劣情が胸を掠める。

だが、それとともに、彼女を失うことへの恐怖が、胸の奥で燻り始めた。


聖仁は、耐えきれずに視線を落とした。


(……僕は二年前の高校生の時よりも、ずっと成長した。それには自信がある)


自らに言い聞かせるように、思考が巡る。


(だけど……とても父さんには及ばない。何がどうとか、もう考えつかないぐらい全てが負けている。それなのに、嫉妬心だけは一人前にあるなんて。ははは……僕はこんなに駄目な男だったのか)


敗北感と無力感、そして自己嫌悪が、泥濘のように心に絡みつき、呼吸を重くする。


自身の両手を見つめ、強く握りしめた。

その拳は、小刻みに震えている。


震える拳を前に、聖仁の視界が涙で歪んだ。


(……父さんが本気になって、僕からカレンや母さんを、奪おうとしたら……!守りきれるのか?……守れるはずがない……)


「……っ、あ……」


声にならない嗚咽が漏れる。

一滴、また一滴と、熱い雫がシーツに落ちていく。


(嫌だ……二人と別れるなんて、考えられない!……うぅ!嫌だ!嫌だ!)


両手で顔を覆い、肩を震わせる。

指の隙間から溢れ出す熱い涙が、掌を伝ってシーツへと沈み込んでいく。

声を殺しても、嗚咽の断片が喉の奥でせき止まり、苦しげな呼吸となって漏れ出してしまう。


静寂に満ちた寝室に、その微かな、けれど重苦しい震えだけが響いていた。


「……聖仁……?」


すぐ傍らから、夢の淵を漂うような、か細い声が聞こえた。

意識の混濁した、熱を含んだ吐息のような声。


「……泣いてるの……? どうしたの……?」


聖仁は、涙に濡れて重くなった瞼をゆっくりと押し上げた。

視界は白く霞み、焦点の合わない瞳が、すぐ隣で身を起こそうとしているカレンを捉える。


彼女は寝ぼけ眼のまま、聖仁の顔を覗き込み、驚きのあまり目を見開く。

その瞳に、深い困惑と、それ以上に強い、痛切なまでの心配が宿る。


「……っ、あ……」


言葉にならなかった。

溢れ出す感情の行き場を失った聖仁は、そのまま彼女の身体へと縋りついた。

震える腕を彼女の背中に回し、抱きしめる。


「聖仁! ……っ、どうしたの!? 何があったの……!?」


カレンは驚きに息を呑み、一瞬だけ身体を硬直させたが、すぐにその温もりを感じ取ると、彼を包み込むように腕を回した。


「ああ……もう、こんなに泣いて……。大丈夫よ、聖仁。大丈夫……」


彼女の指先が、聖仁の髪を優しく撫でる。


「大丈夫……ずっと一緒にいるわ。私たちは、二人……ずっと一緒よ……」


訳も分からぬまま、カレンは祈るように彼を抱きしめ、その背中を優しく、何度も叩き続けた。


聖仁は何も言えなかった。

ただ、彼女の肌の温もりと、胸に伝わる鼓動だけを頼りに、声を殺して泣き続けた。


慈しむような、温かな手のひら。

その掌から伝わる体温と、包み込むような心遣いに、聖仁の荒ぶる呼吸は次第に凪いでいった。

胸を掻き乱していた激しい動揺が、彼女の静かな愛撫によって、ゆっくりと溶かされていく。


「……ありがとう、カレン。もう、大丈夫だよ」


掠れた声でそう告げると、カレンは慈しむように彼を抱いていた腕をほどき、その身体を解放した。

だが聖仁は、離れようとする彼女の腰に再び手を回し、今度は祈るような強さで、自ら彼女を抱き寄せた。


「ありがとう……愛してるよ、カレン」


耳元で、熱を帯びた囁きが零れる。


「昨日のことを思い出して……少し、弱気になってしまったんだ。考えれば考えるほど、暗い底へ沈んでいくような気がして……泣いてしまった。自分が情けなくてね。はは……自己嫌悪だよ」


自嘲の混じった乾いた笑い。

その言葉に、カレンは動じることなく、ただ穏やかで、どこまでも優しい声で応えた。


「……貴方は最高の人よ。でも、落ち込む時だってあるわ。大丈夫。いつだって、傍にいるから」


聖仁は、カレンから腕を放すと静かに離れ、ベッドの上に座り込んだ。

そして、彼女の瞳を見ることができず、ただ俯いて視線を床へと落とした。


「『最高の人』? ……買いかぶらないでくれ」


低い声で、聖仁は言った。

唇を噛んだ。


「今、僕が何を考えているか……分かるかい? 君には言えないことさ。……言ったら途端に嫌われるような事だよ」


背を向けた自分への嫌悪が、聖仁をさらに深い暗い沼へと引きずり込んでいく。


慈しみで包み、懸命に激励してくれた彼女の温もりにさえ、今の自分は拒絶という形で応じた。

その身勝手さが、自己嫌悪の泥濘をより深く、重くしていく。


だが、カレンは離れなかった。

再び背後から、聖仁を抱きしめた。


「何を考えているのか、全部吐き出してちょうだい」


耳元で、抗いがたいほど穏やかで、確信に満ちた声が響く。


「きっと貴方を嫌いになるわ。一度、嫌いになって……それから、貴方が私にしてくれた、今までの全てのことを思い出すの。そうして――再び、貴方を愛します」


その慈愛に満ちた言葉に、聖仁は再び嗚咽に呻き、肩を震わせる。

喉の奥からせり上がる感情が、熱い塊となって溢れ出していく。


「……っ、あ……ああ……!」


絞り出すような、掠れた声。


「……昨日、父さんから……聞いたんだ……」


一言、言葉を紡ぐごとに、聖仁の身体は折れそうなほど震える。


「二年前……君を……脅迫して……凌辱していたことを……っ! 薄々気づいていたのに……自分からは、聞けなくて……!」


嗚咽が混じり、言葉が途切れる。


「そうしたら……君ほどの美女だったら……今までどれだけの男性と……そういうことを考えてしまって……ッ! 嫉妬で、狂いそうになったんだ……っ! は、はは……酷いものさ……」


自嘲の笑いが、涙と混ざり合って歪な音を立てる。


「君を気遣うわけでもなく……ただただ、自分の独占欲だけで……狂って、泣いてた……最高どころじゃない……最低の人間だよ……っ! は、はは……ッ!」


己の口から溢れ出した醜い言葉が、刃となって聖仁自身の胸を何度も突き刺す。


誠実で、清廉で、理想の自分でありたいと願っていた。

このどろりとした独占欲と嫉妬は、あまりに不釣り合いで、救いようのない汚濁に思えた。


どれほど涙を流しても、その自己嫌悪の泥濘から抜け出すことはできない。

ただ、情けなさに身を震わせ、嗚咽を繰り返すことしかできなかった。


そんな彼を、カレンは壊れ物を扱うような慈しみで抱きしめ続けていた。

やがて、彼女の唇から、静かで、どこか祈るような声が零れ落ちる。


「……貴方がそう思うのは、当然だわ」


その一言に、聖仁の動きが止まる。


「ううん……私はきっと、そう思われるのが怖かったのよ」


カレンの声は震えていなかった。

ただ、あまりに静かで、深い悲しみを湛えていた。


「嫉妬されて、汚れた女だと思われて……貴方に嫌われ、ののしられるのが、怖くて……。だから、私も、言えなかった。ごめんなさい……」


「そんなっ……! 汚いだなんて! 思ってない!」


聖仁は弾かれたように顔を上げ、縋るような瞳でカレンを見つめた。

先ほどまでの絶望的な沈み込みが嘘のように、焦燥と、必死の弁明が彼を突き動かす。


彼は震える手で、カレンの両手を強く、壊れぬよう、けれど確かな熱量を持って握りしめた。


「君ほどの人なら、たくさんの恋愛経験があって! 当然だよ! それもわかってるのに! 僕が……ただただ理不尽に嫉妬してるだけだ……」


聖仁は、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ、必死に言葉を紡ぐ。


「君は、何も悪くない……っ。カレン!」


聖仁の必死な弁に、カレンの瞳から大粒の涙が溢れ出した。

彼女は聖仁の胸に顔を埋め、縋りつくようにして、震える声で紡ぎ出す。


「……聖仁、私、怖い……」


その声には、怯えが滲んでいた。


「貴方に話していないことがあるの……これを言ったら、私こそ、貴方に嫌われてしまうから……でも、貴方は話してくれた……だから、私も、話さなきゃいけないわね……でも、怖い……怖いのよ……うぅ……っ」


嗚咽が彼女の肩を激しく揺らす。

聖仁は、その震えを全て受け止めるように、強く、深く、彼女を抱きしめ返した。


「……話してほしい」


聖仁の声は、低く、けれど確かな熱を持って響いた。


「僕の弱さを包み込んでくれた君を、嫌いになるわけがないさ。嫌いになるような男なら、それこそもう救いようがないよ……救われない男だ」


その言葉に、カレンは一度深く、震える息を吸い込み、絞り出すように語り始めた。


「……田舎から上京してきて……演技には自信があったけれど、情熱だけで他は何もない小娘だったの……でも、やっぱり芸能界は厳しくて……初めの二年ぐらいは、全く芽が出なかったわ……」


カレンは顔を上げることができなかった。

視線はシーツの白さに囚われたまま、震える唇から、嗚咽に混じった言葉が零れ落ちていく。


「……そんな時だったわ。お金もなくて……ホステスをしていた頃……ある有名なテレビプロデューサーが来店して……私のことを見つけて……誘ってきたの。『端役なら、私の裁量で何とでもなるから、愛人にならないか』って……」


その言葉が鼓膜を叩いた瞬間、聖仁の身体が、びくりと震えた。


カレンは、その震えを敏感に感じ取った。

彼女の呼吸がさらに乱れ、言葉を紡ごうとするたびに、喉の奥から苦しげな嗚咽がせり上がってくる。


聖仁は、己の反応が彼女を傷つけたことを悟り、猛省した。

彼は震える彼女の背中を、壊れ物を扱うように優しく、けれど力強く撫で、穏やかな声で語りかける。


「……大丈夫だよ。全部、吐き出して。僕を信じてほしいんだ……お願いだよ、カレン」


その決意に満ちた、祈るような声音。

カレンは、消え入りそうなほど小さく頷くと、堰を切ったように言葉を紡ぎ出した。


「私は……その話に、飛びついたわ。躊躇なんて、一秒もなかった……どんなことでもして、チャンスを掴むんだって……前のめりに、承諾したの……」


彼女の声は、暗い底へと沈んでいくような重みを帯びていく。


「それからは……堕ちていくのは、驚くほど早かったわ。その人だけじゃない……他の局のプロデューサーや、力のある男たちを調べ上げて、誘惑した……既に愛人がいる相手にさえ接近して、奪い取るように……」


「それだけじゃないわ……恋人がいる他の女優さんに近づいて、仲良くなって……その人の恋人を誘惑して……その女優さんの心を病ませて、役を奪い取ったこともある……。女の武器を、これ以上ないくらい、目一杯使って……」


カレンは一度言葉を切り、絞り出すように続けた。


「……私は、正真正銘の、悪女なのよ」


カレンは涙を堪え、引き攣ったような、それでいてどこか哀しげな自嘲の笑みを聖仁に向けた。


「どんなことをしても……何を失ったって……絶対に女優として成功する。それだけを、私のすべてにしていたわ。他は何も、省みなかった……」


彼女の視線は聖仁を捉えたまま、だがその意識は遠い、暗い過去の情景へと彷徨っていた。


「ある時……政財界の大物たちが集うパーティーがあったの。私も、招待されたわ。皆が、狂ったように酒を煽って……やがて、会場は欲望にまみれた乱痴気騒ぎへと変わった。女性たちが、男たちに襲われ始めたの……」


カレンの声が、恐怖と屈辱でかすかに震える。


「私は、怖かった……。一刻も早くここから逃げ出したいって、必死に……でもその時、あるプロデューサーが私の耳元で囁いたの。『ここで逃げたら、君は終わりだよ。逆にここを頑張れば、君は映画の主役にだってなれる』……私は……残ることを選択したっ、うぅ……!」


衝撃的な告白。

カレンの言葉は、喉の奥で引き千切られたような悲鳴となって、嗚咽へと変わった。


聖仁は、全身を突き抜けるような衝撃に、指先が震えるのを必死に抑え込んだ。


(……ここで動揺してはいけない)


思考が白く染まりそうになるのを、彼は理性の力でねじ伏せた。


(彼女を傷つけてしまう・・・それだけは絶対に避けねばならないっ!)


「参加した女性陣の中では……立場は、私が一番上だったわ」


カレンの声は、もはや嗚咽ですらなく、空虚で、凍りつくような響きを帯びていた。


「あの時……大物たちに向かって、毅然とした態度を取れるのは、私だけだったと思う……たとえ彼らに睨まれることになったとしても……私が皆をかばって! はっきりと、拒絶するべきだったのよ! ……でも私は……怖くて……チャンスに目がくらんで……言いなりになった!」


カレンの肩が、激しく上下する。


「参加した女性たちは……皆、不幸になったの……芸能界を去った人、心を病んでしまって休業中の人……自殺未遂をした子だっている……」


カレンは、喉の奥からせり上がる笑い声を、無理やり引きずり出した。

痛々しい自嘲が、その声に滲む。


「そして私は? ふふふ……その一件すら、大物たちへの脅迫材料に使ったのよ。のし上がるステップ台にしたの……ふ、ふふふ……」


彼女が吐き出す言葉の一つひとつが、鋭利な刃となって、彼女自身の心臓を深く、何度も切り刻んでいく。

聖仁は、彼女を抱きしめる力を強めずにはいられなかった。


「……マスター、お義父様に脅迫されたのは、その時のことよ。録画や音声データを、持っているって……」


カレンの声は、虚ろに響いた。


「再生された動画を観て……私、思わず笑っちゃったわ。嬉しそうに……下卑た男たちに奉仕する自分の姿にね! ……っ!」


そこまで言い放つと、カレンは聖仁の胸に顔を埋め、声を上げて泣き叫んだ。

嗚咽が、絶叫が、彼女のすべてを削り取るようにして溢れ出す。


聖仁はただ、黙して彼女を抱きしめることしかできなかった。

その腕の中に伝わるのは、震える肉体と、引き裂かれた魂の鼓動だけだ。

寝室の静寂を切り裂くような、長く、重い慟哭が、いつまでも続いた。


やがて、激しい泣き声が、細い啜り泣きへと変わっていったとき。

カレンは突如として聖仁の腕から離れた。


「……っ!」


聖仁が驚き、手を伸ばそうとした瞬間。

カレンは両腕を大きく左右に広げ、自らの白く、完璧な裸体を、カーテンの隙間から差し込む朝の光の中に晒した。


「聖仁! 見て! 私の身体!!」


切実な叫び。


「どの場所も、どこをとったって……男の触れてない場所なんて、一箇所もないのよ! 貴方のお父様なんて、ほんの一部に過ぎないわ! 手垢に塗れた、汚い、汚い身体なのよっ!!」


聖仁は、瞳に大粒の涙を溜めたまま、カレンを凝視していた。

目の前にあるのは、神が丹精込めて作り上げたかのような、変わらぬ女神の如き美貌と、美しい身体。


だが、彼女の痛々しいまでの叫びを聞きながら、聖仁の胸に劣情が宿ることは、微塵もなかった。

ただ、彼女を何とかして救ってあげたい。その一心で自分を奮い立たせようとする。


(動け! 彼女を救うんだ! 何か、言わなきゃ……カレンを、救う言葉をっ!)


目の前で、愛する女が泣き叫び、その神聖なまでの裸体を晒している。

一刻も早く駆け寄り、その震える身体を強く抱きしめ、すべてを包み込んで安心させねばならない。


なのに、聖仁の身体は、まるで鉛を流し込まれたかのように重く、動かない。


膝が、小刻みに震えて止まらない。

立ち上がろうとする意志とは裏腹に、足の力は虚空へと霧散していく。


(……救われない)


再び襲いかかる、底なしの無力感。

それは父との戦いで感じたものよりも、さらに深く、残酷なほどに彼の魂を侵食していった。


(救いようが無い男だ……ここで動けないなんて……一体僕は、何が誠実だ! 何がカリスマだ! ……最低の男だ)


震えながら、ただ座ったまま動けない自分。

その情けなさが、心臓を握りつぶすような苦痛となって彼を苛む。


やがて、カレンは力尽きたようにその場に両手をつき、蹲った。

嗚咽の合間に、彼女は途切れ途切れの言葉を零し始める。


「……どんなに洗っても……擦っても……汚れは落ちなかったわ……」


震える声が、静かな寝室に虚しく響く。


「私は、忘れたくて……増々悪女ぶるようになって……大物ぶるようになって……世間からの評判とは程遠く、周囲からは嫌われていく……そんな、最悪の悪循環だったわ……」


カレンは嗚咽を漏らしながら、言葉を繋ぐ。


「そんな時……お義父様から、脅迫があって……でも、いつも通りだって、私は思っていた……彼に命じられたことも、女を使えばいいだけだって……」


彼女は一度、大きく息を吸い込み、震える肩を上下させた。


「……でも、貴方に逢えて……すべてが、変わったのよ……」


カレンは、涙に濡れた顔をゆっくりと上げた。

そして、聖仁に向けて、優しく、慈しむような微笑みを浮かべた。


「初めて貴方に逢った時……私は、世間知らずのお坊ちゃんだって、内心で馬鹿にしていたわ。私にかかれば、すぐに篭絡できる、そんな子供だと思ってね」


カレンは自嘲気味に笑い、視線を落とした。

その瞳には、過去の自分を蔑むような色が混じっている。


「でも、貴方と過ごすうちに……知性と人望がある子だとわかったけれど、それでも、私にとっては緊張感が増すだけだったわ。……けれど、心が限界だったのかもしれない」


彼女の声が、震えながら熱を帯びていく。


「貴方に映画を褒められて、あなたの純粋さと優しさに触れて……もう、耐えられなかったのよ。お義父様に逆らってでも、全てをぶちまけて、嫌われて……女優も引退して、逃げたくなっちゃった。ふふふ……」


「カレン……っ……」


聖仁の声は、嗚咽に震えていた。

彼女の告白が、彼の胸を激しく掻き乱す。


「でも、貴方は怒るどころか、嫌うどころか……私を愛したままでいてくれた。……あの時、この話をすべきだったわね。ふふふ……でも怖かったのよ。怖くて、たまらなくて……っ! うぅ……ッ!」


聖仁の金縛りがようやく解けた。


彼は弾かれたように立ち上がり、カレンへと駆け寄った。

そして、素早く肩を抱き寄せ、強く抱きしめた。


「……結局、今まで過去の事は言えなかった。けれど……せめて、貴方に相応しい女になりたくて……自分を変えるために、色々なことを始めてみたの」


カレンは聖仁の腕の中で、震えながらも言葉を紡ぎ続ける。


「チャリティーに力を入れたり、今まで自分が陥れたり、被害を与えた人たちに、謝りに行ったり……。でもね、ほとんどの人は怒り狂っていたわ。『今さら何だって、自己満足はやめろ』って……水をかけられ、頬を殴られたわ。ビール瓶で殴られそうになったときは、さすがに逃げたけれど……ふふふ……」


聖仁の脳裏に、バラバラだった記憶の断片が、激しい熱を伴って結びついていく。


自分と出会ってから、カレンの表舞台への露出は目に見えて減っていた。


「最近、ちょっと疲れちゃったから、休みを増やしてるの」


そう言って、おどけて笑っていた彼女の言葉。

今、その記憶が、目の前の告白とパズルのように繋がっていく。


彼女は、自分自身を変えようと努力していたのだ。


「……この前ニュースになってた、『俳優活動を支える基金設立』の件さ」


聖仁は、震える声を必死に抑え、努めておどけた声を出した。

少しでも、カレンを元気づけたかった。


「世間では、陰ってきた女優業のための人気取りだって……嫌な記事だったね。ふふ、それも……そういうことだったんだね」


不器用に笑みを浮かべる聖仁に、カレンも笑顔で応えた。


「……俳優に憧れている子供たちが……私みたいに、悪い女にならないように、何かしたくて。ふふふ」


笑顔は、一瞬で消え失せた。


カレンは再び嗚咽を漏らし、小刻みに震え始めた。

聖仁から拒絶される未来を思う恐怖が、その身体を震わせていた。


「……私は、嘘ばかりついてきた……人を騙してきたわ……」


震える声が、絶望の色を帯びていく。


「だから、信じてなんて……言える立場じゃない。どんなに謝ったって、どれほど善行を重ねたって、過去の悪行は消えない……。でも、聖仁……お願い……一つだけ……一つだけは、信じてほしいことがあるの……」


聖仁は何も言わなかった。

ただ、彼女の背中を壊れ物を扱うように、けれど決して離さないという強い意志を込めて、強く抱きしめ返した。


「私は今まで……男なんて、利用するものだと思ってた……欲望のままに襲い掛かってくる、獣だと……そう思わなきゃ、自分の心を守れなかったから……!」


カレンは聖仁の胸に顔を押し付け、絞り出すように言葉を紡ぐ。


「でも……貴方に告白した時、分かったの……これが初恋だって。初めて男の人を好きになれたのよ……身体に触れられて、心から安心できたのは、貴方が初めてだった……」


彼女の熱い涙が、聖仁の肌を濡らす。


「この二年間……貴方に夢中だった間、他の男の人に身体を許したことは、一度も無いの……! 貴方に好かれたくて……貴方に追いつきたくて……激しくののしられても、偽善だって言われても、耐えられたわ……。体の汚れが、落ちていく気分になれたの……っ!」


「貴方を……聖仁を、心から愛してます……ッ!!」


『愛してる』


この二年間、互いの唇から、幾度となく零れ落ちたその言葉。

それは今、聖仁の魂を根底から震わせる神聖な福音へと変貌していた。


カレンが背負ってきた罪、彼女が流してきた涙、そして彼女が自分に捧げた心の純潔。


大女優である彼女に並び立つため、自分は必死に努力してきた。


だが彼女もまた、聖仁自身が何よりも誇りとする『誠実さ』に並び立つため、必死に自分を変えようと努力していたのだ。


その事実を理解したとき、聖仁の胸を満たしたのは、かつてカレンに告白された夜とは比較にならない程の、圧倒的な全能感だった。


聖仁は、カレンを強く抱きしめたまま、震える声を絞り出した。


「……僕は馬鹿だ。自分が傷つくことを恐れて、君の過去を聞けなかった。ましてや、父との関係に嫉妬してたなんてッ!」


その声には、もはや迷いはなかった。


「でももう自己嫌悪は止めるよ。僕は最高の男だ。それは僕の能力が、どうこうじゃない。君ほどの人に好かれているという事実。どんな相手だって負けない! どんな事だって可能だ! 今、父に及ばなくとも、いつかは超えられる。君といれば、不可能なんてないんだ!」


聖仁はカレンの瞳を真っ直ぐに見つめ、魂を刻みつけるように告げた。


「ありがとう。もう何も怖くない。君がいれば、もう何も恐れない! 愛してるカレン!」


もはや言葉は、二人の間に流れる熱情の前では無力だった。

重なり合う吐息と、混ざり合う涙。


二人は互いの存在を確かめ合うように、深く、長く、熱い口づけを交わした。

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