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聖者の行進  作者: いくらふじなみ
第二部 世界の扉
16/26

第八話 お祝いに、無力感を

ガスランプの揺らめく灯火が、壁に映るルキウスの影を不規則に引き伸ばし、また縮ませている。


その不気味な光の戯れは、父の言葉が孕む不穏さと、共鳴しているかのようだった。

にもかかわらず、父の口調は、依然として穏やかなままだった。


「……馬鹿な」


聖仁の声は、自身の内側から湧き上がる戦慄によって、微かに震えていた。


奥歯を噛み締め、喉元まで上がってくる恐怖と動揺を、強靭な意志で押し留める。

視界が熱を帯びるのを堪え、努めて冷静な眼差しを父へと向けた。


「なぜ、父さんと敵対しなければならないのですか? 僕は……ようやく、貴方を尊敬し始めたというのに。そんな僕に対して『敵』を宣言するなんて、あまりにも悪趣味だ!」


若さゆえの感情を滲ませながらも、その抗議は当然のものだった。


ルキウスは聖仁に向き直り、愛おしいものを見つめるような慈しみの瞳を向けた。

その眼差しはどこまでも穏やかで、先ほどまでの「敵」という言葉の重みさえ、霧散させてしまいそうなほどに優しかった。


「……その通りだな。せっかく息子の尊敬を得たのに、悪趣味が過ぎる」


ルキウスは、聖仁の言葉を肯定するように、静かに頷いた。


「分かった。敵になるのは止めよう」


その一言に、聖仁の胸には安堵が広がった。

張り詰めていた肩の力が抜け、肺の奥まで酸素が満たされるような感覚。


だが、その救いはあまりにも短く、あまりにも空虚だった。


ルキウスの口角が、不意に吊り上がった。


慈愛に満ちていた瞳の奥で、何かが弾け、底知れない愉悦が顔を出す。

彼は聖仁を見据えたまま、低く、重厚な声で言い放った。


「ならば、こうしよう。お前は私の『手下』にしよう」


「……え?」


ルキウスの笑みが、不敵なものへと変わる。


「取り急ぎ、カレン。あの女は、お前のような小僧には勿体なさすぎる美女だ。私とマルガリタで、あの肢体を滅茶苦茶にしてやることにするよ。お前を屈服させ、奪い取ることにする。楽しみだよ。二年前の彼女との夜も、実に素晴らしいものだったからな! ふはは!」


聖仁の思考が、真っ白に焼き切れた。


心臓が爆ぜるような鼓動。


耳の奥で、血流が荒れ狂う音が鳴り響く。

愛する女の名を、その肢体を、父という男が、まるで玩具のように弄ぶ言葉。


「……っ!!」


怒りはもはや、言葉になる以前の熱量となって、聖仁の全身を突き動かした。


弾かれたように立ち上がった聖仁は、もはや周囲の家具など目に入っていなかった。

ソファもテーブルも、ただの踏み台に過ぎない。


彼は狂乱の如き勢いでそれらを踏みつけ、獲物を屠る獣のごとき跳躍で、ルキウスへと肉薄した。


怒りに血走った瞳。

視界の端々までが赤く染まり、思考を焼き尽くすような熱情が、聖仁を支配する。


誰に対しても誠実で、その根底に優しさを抱え続けてきた彼。

荒事の経験も、暴力の作法も、何一つ知らなかった。


ただ、愛する女性を弄ばれた屈辱と、父への憤怒が、彼の理性を剥き出しの衝動へと変えた。

聖仁は、己の全質量を乗せた肉弾となって、ルキウスへと飛び込んだ。


「――っ!!」


正面から衝突した衝撃。

だが、その重圧を真っ向から受け止めながら、ルキウスは微動だにせず、むしろ驚嘆の声を上げた。


「おお! 強くなったな、聖仁!」


ルキウスの笑い声が、静かなラウンジに響き渡る。


「六歳の時に、川に落ちただけで泣いていた子とは思えないぞ! わはは!」


「黙れッ!!」


聖仁は獣のような咆哮を上げ、拳を強く握りしめた。

一撃、また一撃と、渾身の力を込めてルキウスの胸元へ、顔へと、何度も叩きつける。


だが、その拳が捉えるのは、鉄壁のごとき掌だった。

ルキウスは、飛来する全ての打撃を、慈しむように、その手の平で受け止めていく。


怒りが収まらない息子を見つめる父の瞳には、冷酷さなど微塵もなく、ただ深い慈愛が宿っていた。


「……いいパンチだ! だが、殴り慣れていないな」


ルキウスは、聖仁の拳を包み込むようにして、静かに告げた。


「拳が傷つくのを恐れ、本能から力を加減してしまっている。お前は昔から優しい子だったからな。喧嘩も碌にしたことがない証拠だ。ふふふ……」


「うるさいっ!!」


聖仁の叫びは、もはや言葉というより、魂の震えそのものだった。


「お前に! 絶対! カレンは渡さないっ!」


喉の奥から絞り出されたその言葉は、震えながらも、鋼のような決意を孕んでいた。


聖仁の拳が空を切り、虚空を叩く。

ルキウスは神速の体捌きで、まるで陽炎のようにその位置を入れ替えた。


一撃、また一撃と繰り出される重い打撃に対し、彼は軽やかなステップで距離を取り、踊るように間合いを支配する。

掴みどころのない父の姿を追い、聖仁はただ空虚な熱量だけを振り回していた。


不敵な笑みを浮かべたルキウスが、煽るような声で語りかける。


「おいおい、そんなに怒るなよ、聖仁。安心しろ」


その声はどこまでも軽やかで、まるで夜の散歩でも楽しんでいるかのような余裕さえ感じさせた。


「二年前みたいに、カレンと素敵な夜を過ごした後……ちゃんと恵子も可愛がってやるさ。お前の母さんは、最高の女だぞ?」


聖仁の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。


「エデンを出て間もない頃、日本の暮らしに不慣れだった私に、彼女は凄く親身になってくれたんだ。綺麗で、優しくて……あの時は本当に、嬉しかったなぁ……ふふふ」


ルキウスの瞳に、一瞬だけ懐古の情が宿る。

だが直後、彼は残酷なまでの無邪気さで、決定的な言葉を突きつけた。


「――そんな母さんを、私は無理やり! 手籠めにしたんだがな!」


聖仁が、最も聞きたくない言葉。

父はそれを、まるで今日の食事の話でもするかのように、一切のためらいなく言い放った。


「……っ!!」


あまりの怒りと、脳を直接掻き乱されるような衝撃に、聖仁の視界が真っ赤に染まる。


鼻腔から熱い液体が伝い、一筋の血となって唇を濡らした。

呼吸はもはや制御できず、肺が焼け付くような苦しさを伴って、その胸が激しく上下する。


「貴様あぁああ!!」


獣のごとき咆哮を上げ、聖仁は再び、父へと飛び掛かった。


全力の拳を、ルキウスの掌が受け止め、重く、激しい音が響き渡る。

だが、嵐のような連打を浴びても、その動作は羽毛を受けるかのように平然としていた。


嵐のような打撃の最中にあって、ルキウスの声は、驚くほど静謐で、どこまでも穏やかだった。


「……フィジカルは本当に恵まれているな。さらにスポーツのおかげか、よく鍛錬されている。うむ、基礎は出来ている」


ルキウスは、聖仁の無我夢中な一撃を見つめる。


「だが、致命的に技術と経験が足りない。動きに無駄が多すぎて、呼吸が乱れすぎだ。今の二十分の一の力で動けるはずなのに、すべてを浪費している」


聖仁は、喉の奥からせり上がる熱い吐息とともに、拳を振り抜き続けた。


怒りは、彼を突き動かす唯一の燃料だった。


だが、その怒りに身体がついていかなくなっていた。

激しい打撃音は、次第に重さを失い、虚空を叩く様な頼りないものに変わっていく。


拳の勢いは削げ、筋肉は悲鳴を上げ、全身の血液が鉛のように重く、熱く、身体の隅々までを蝕んでいく。


「……っ、はぁ、……あ、……っ!!」


ついに、聖仁の脚から力が抜けた。

崩れ落ちるようにして、彼は冷たい床に膝をついた。


荒い呼吸が、静まり返ったラウンジに、苦しげなリズムを刻む。

肩は激しく上下し、聖仁は必死に息を整えようとした。


ルキウスは、膝をついた息子を見下ろし、穏やかな声で語りかけた。


「怒りは場合によって、重要な活力となる」


その言葉は、聖仁の耳元で低く、重く響く。


「だが戦闘においては、邪魔でしかないんだ。……命のやり取りをするような真剣勝負ではな。よく覚えておくといい」


「……はぁ、……っ、……あ、……っ!!」


膝をついたまま、聖仁は肺の奥から絞り出すような、掠れた声を漏らした。

視界は涙と汗で歪み、全身を襲う疲労が思考を泥沼のように重く沈めていく。


それでも、その瞳に宿る怒りの炎は衰えていなかった。


「だ、だまれ……! かれんも……かあさんも……!」


震える唇から、言葉が零れ落ちる。


「貴様なんかに! 絶対に! 渡さないぞ!」


残された全生命力を、その一撃に注ぎ込む。

聖仁は、折れそうな身体を強引に跳ね上げ、最後の一撃を求めて父へと肉薄した。


だが、ルキウスは穏やかな微笑を湛えたまま、動かない。

ただ流れるような動作で、指先をそっと、突進してくる聖仁の胸元へ添えた。


「――っ!?」


触れられた瞬間、聖仁の世界は反転する。


重力を失ったかのように、身体が虚空へと放り出される。

まるで巨大な質量に弾き飛ばされたかのような衝撃。


聖仁の身体は数メートル吹き飛び、重厚な装いのソファへと叩きつけられた。


ズゥン!と重い音が、部屋中に響き渡る。

重いソファの設置位置が、ずれるほどの衝撃が、ラウンジを揺らす。


だが、その激しい衝突にもかかわらず、聖仁の身体には傷一つ、痛み一つなかった。


「……っ、…………」


呆然と、宙吊りになったような感覚の中で、聖仁はただ呼吸を忘れ、身じろぎもせずにいた。


「日本の合気道に、マルガリタが独自の変化を加えた技だ」


ルキウスの声が、静かに降り注ぐ。

彼は落ち着いた様子で、息子を見つめていた。


「聖仁よ……この程度の挑発で、激昂するようでは、とてもトップには立てんぞ」


あまりの出来事に、聖仁の思考は停止する。


指先一つで、自分は文字通り『投げ飛ばされた』のだ。

父が語った武勇伝は、単なる誇張でも作り話でもない。


それが紛れもない真実であったことを、聖仁の全身が理解していた。


ルキウスは、呆然と座り込む息子を、慈しみの眼差しで見つめていた。

彼は優雅な所作で、聖仁の向かいにあるソファに腰を下ろす。


そして、手慣れた動作で極上のブランデーをグラスに注ぎ込む。

クリスタルの触れ合う、澄んだ音が静寂の中に響く。


ルキウスは、琥珀色の液体が満たされたグラスを手に取り、ゆっくりと嗜んだ。

アルコールに焼けた熱い吐息が、彼の唇から零れ落ちる。


「……怒らせて、すまなかったな」


穏やかな声が、重苦しい空気を震わせる。


「カレンさんを、どうこうというのは、もちろん冗談だよ。仲良くなった福崎さんにも悪いしな。娘と結婚した男の父親に手籠めにされちゃ、たまらないだろうさ。ふふふ……」


軽口を叩きながら、ルキウスは愉悦さえ感じさせる余裕で笑う。


だが、聖仁は父の軽口に応じることもできなかった。


目の前で、圧倒的な力を見せつけられた聖仁の心には、底なしの無力感が泥のように沈殿していた。

智謀、財力、圧倒的な行動力、そして抗いようのない絶対的な暴力。


何一つとして、この男には及ばない。


これまで、自らの才能と努力によって、あらゆる壁を乗り越えてきた。

才能豊かであるがゆえに、挫折の経験が少なかった聖仁。


だが目の前にいる父は、どれほど手を伸ばしても届かない、あまりにも巨大で、理不尽な『絶壁』だった。


その事実は、恐怖となって彼の脊髄を駆け上がり、震えとなって全身を支配する。

自分がいかに矮小であるか。自分がどれほど無力であるか。


「……っ、ふ……っ、はぁ……!」


悔しさと、情けなさが混ざり合い、聖仁の喉を突き上げる。

溢れ出した涙と嗚咽が、止まることなく、静かなラウンジに虚しく響き渡った。


「……ふっ……ふぅ! う、うぅ……っ!!」


父を睨みつけながらも、溢れ出す悔しさと恐怖に抗えず、嗚咽を漏らし続ける息子。

その姿を見つめ、ルキウスは小さく、深く頷いた。


「いいぞ、聖仁」


その声には、慈しみと、峻烈な教えが混ざり合っていた。


「お前が今感じているその『無力さ』こそが、お前が次代の王へと駆け上がるための、最初の産みの苦しみだ」


聖仁の嗚咽は、止まらない。

彼はただ、己の小ささに打ちひしがれ、震えていた。


ルキウスは、残りのブランデーを飲み干すと、満足げにグラスをテーブルへ置いた。


「お前に、本当の結婚祝いを贈れてよかった」


「自分以上の人間が、他にいるという事実をな。今は父を嫌っても、いつかこれが、お前にとって必要な事だったと分かってくれることを、期待しているぞ」


突然、ルキウスは懐から端末を取り出すと、事も無げに、誰かへと通話を始めた。

数分もしないうちに、静まり返ったバーラウンジの奥から、一人の女性が歩み寄ってくる。


その姿が視界に入った瞬間、聖仁は弾かれたように立ち上がった。


「……っ!?」


そこにいたのは、先程、酔いに任せて、聖仁へと不満をぶつけていた彼女。

かつて高校時代、生徒会副会長として自分を支えてくれた先輩――藤崎葵だった。


呆然と立ち尽くす聖仁をよそに、ルキウスは諸手を上げ、満面の笑みで彼女を迎え入れる。

葵は、恍惚とした表情を浮かべ、吸い寄せられるように、ルキウスの腕の中へと収まった。


披露宴の時から着替えたのか、体のラインが際立つ、黒の豪奢なドレス姿。

その艶やかな肢体と、熱を帯びた瞳。


かつての凛々しい先輩の面影を残しながらも、今は一人の女として、父の腕に抱かれていた。


呆然とする息子を見つめ、ルキウスは愉快そうに笑う。


「聖仁、聞いたぞ! お前、彼女を振ったんだってな? 可哀想に……」


その言葉が、聖仁の胸を鋭く抉る。


藤崎葵は、高校一年で生徒会長に選ばれた際の対抗者だった。

敗れた後も、副会長として献身的に支えてくれた、知性と美貌を兼ね備えた先輩。


当時、聖仁自身、密かに憧れていた。


だが、彼女から告白されたとき、聖仁は十五歳の己の未熟さと、勉学やスポーツの多忙を理由に、その想いを断っていた。


「彼女、酔っ払って『付き合ってくれると約束したのに!』と泣き叫んでいたぞ。甲斐性の無い息子の代わりに、私が責任を取って、彼女を貰い受けることにしたのだ」


自信に満ちたルキウスの言葉に、腕の中の葵は、妖艶な笑みを浮かべて聖仁を見る。


「聖仁くん……貴方に振られたのは、ショックだったけど……」


彼女の声は、甘く、蕩けるように響いた。


「お父様に……征人様に、見初められて……私、嬉しかった。うふふ」


父への怒りも、己の無力さへの絶望も、全て呆然とした虚無へと塗りつぶされる。

聖仁は口を半開きにしたまま、言葉を探すが、声は出てこなかった。


思考の回路は焼き切れ、脳裏には真っ白なノイズだけが走っている。

かつて自分を支えてくれた、あの凛々しく、清廉だった先輩の姿はどこにもない。


葵は、呆然と立ち尽くす聖仁から視線を逸らした。


彼女の瞳に映るのは、目の前の男――ルキウスだけだ。

その表情には、かつての敬愛とは異なる、熱を帯びた官能的な色が浮かんでいる。


「うふふ……誠実で真面目な彼より……お父様の方が、ずっと素敵」


葵の吐息が、甘く蕩けるようにルキウスへと向けられる。


「強くて、優しくて、紳士的で……すべてがスマートなんだもの」


言葉とともに、彼女の手がルキウスの頬を愛おしげに包み込んだ。

そして、吸い付くような熱い口づけを、彼の唇へ捧げる。


聖仁は、その光景を直視できず、ただ力なく俯いた。


「じゃあな! おやすみ、聖仁」


ルキウスは、優しく聖仁に話しかけた。


「カレンさんと仲良くな! 葵……さっきは時間が無かったが、今からは大丈夫だ。長い夜になるぞ……ふふふ」


ルキウスは、腰を抱き寄せた葵の背に手を添え、優雅な足取りでバーを後にする。

二人の影が、暗いラウンジの奥へと消えていく。


静寂が戻った場所で、聖仁はただ、呆然と虚空を見つめていた。


父の真名――ルキウス・フォン・クロフォード。

称号《クストス・オルビス》。


仮の名、清水征人として知っていた父から、真名を明かされたことも衝撃だった。

だが、その後の出来事が次々と重なり、聖仁の思考は混沌の極致にあった。


全身の血液が凍りつき、指先一つ動かせないほどの疲労と衝撃。

だが、その思考の濁流の底で、一筋の光が閃いた。


カレン。そして、母さん。


父が二人にも、何か仕掛けてはいないか。

その懸念が、聖仁を突き動かした。


聖仁は、震える膝に力を込め、折れそうな精神を無理やり繋ぎ止めた。

二人を案じ、疲れ切った身体を奮い立たせる。


(……とにかく、二人の所に戻ろう)


震える指先が、冷たい端末の画面を虚しく叩く。


思考は混濁し、身体は鉛のように重い。

それでも、聖仁はカレンへと通話を開始した。


一回、二回――。

静寂に響く呼び出し音が、彼の心臓の鼓動と不気味に同期する。


二コールほどで、端末から彼女の声が溢れ出した。

艶やかで、それでいて慈しむような、優しく穏やかな響き。


その声を聞いた瞬間、張り詰めていた緊張が、わずかに緩んだ。


「カレン……っ」


聖仁は、喉に詰まった熱い塊を無理やり飲み込み、震える声を絞り出した。


「父さん……征人父さんと、福崎のお義父さん……二人とは、今別れたよ。すぐ、そっちに向かうから……っ」


呼吸が乱れ、言葉が途切れる。彼は必死に、自分自身を落ち着かせようと努めた。


「お義父さんは……酷く酔っぱらってしまってね。スタッフの人に頼んで、用意した部屋へ送らせたよ。征人父さんは……うん、まぁ……その、あとで話すから……」


一息つき、彼は震える声で問いかけた。


「……それで、母さんは? 母さんも、一緒にいるんだよね?」


端末から聞こえた返答に、聖仁は息を呑んだ。


「ああ、福崎のお義母さんは、部屋に帰ったんだね・・・え?! 僕の母さんは、父さんに呼ばれて、カレンとは、別れたの!?」


聖仁の思考が、真っ白な閃光に貫かれた。


母さんは、父に呼ばれた?


葵と共にいたはずの父が、なぜ母を呼び寄せたというのか。

愛人と愛人を、引き合わせるというのか?


「……あ、ああ……っ! うん、わかった……とにかく、すぐ、逢って話そう……!」


そう告げ、聖仁は通話を終えた。


おぞましい父の思考はさておき、今はカレンだけでも守らねばならない。


聖仁は、折れそうな脚に鞭を打ち、駆け出していた。


***


扉が乱暴に開かれ、聖仁が部屋へと飛び込む。


「カレン! 無事かい?!」


荒い呼吸を吐き出しながら、彼は縋るような眼差しで彼女の安否を確認した。

だが、そこにいたのは、何事もなかったかのようにベッドに腰掛け、驚きに目を見開く美しき花嫁――一色カレンだった。


「聖仁!? どうしたの……そんなに慌てて」


彼女の声は、驚きを含みつつも、どこまでも優しく穏やかだった。

その瞳には、彼への心配と、戸惑いが混じり合っている。


「電話でも話したけれど、お義母様は随分前に、お義父様に呼ばれたっておっしゃって、別れたの」


聖仁の脳裏に、冷たい思考が走る。

一刻を争うような焦燥感の中で、彼は必死に時間軸を測った。


「……それは何時ごろか、わかる?」


「……そうね、たしか、一時間ぐらい前かしら」


(一時間前……)


混乱する頭をフル回転させ、聖仁は思考の糸を繋ぎ止める。


一時間前なら、葵との接触とは重なっていないのかもしれない。

であれば、母と葵が、同時刻に同じ場所で父の毒牙にかかるという、あのおぞましい想像は外れていそうだ。


「……そうなんだ。いや! 何でもないんだ」


聖仁は、溢れ出しそうな混乱を、無理やり喉元で押し留めた。


「ふぅ……何だか、気が抜けたら……どっと疲れたな。はぁ……」


壁の冷たさが、背中を伝って這い上がってくる。

聖仁はそのまま、力なく床へと崩れ落ちた。


安堵と、それ以上に重くのしかかる疲労が、彼の全身から熱を奪っていく。

視界がぐらりと揺れたその時、温かな体温が彼を包み込んだ。


カレンが駆け寄り、膝をついて、聖仁の顔を両腕で優しく包み込んでいる。


彼女の指先が、震える彼の髪を慈しむように撫でた。

その手のひらから伝わる熱は、まるで傷ついた幼子を癒やす母のような、深く、静かな慈愛に満ちていた。


「……っ、カレン……」


胸の奥が、熱い塊で押し潰されそうになる。


聖仁は、彼女の胸に顔を埋め、感激に胸を満たされながら、彼女の背に腕を回した。

彼女の香りと、確かな鼓動に、心から安らいでいく。


「……愛してる。カレン」


絞り出すような声は、震えながらも、魂の底から溢れ出たものだった。


「……私もよ、聖仁」


彼女の声は、甘く、優しく、彼の耳元で溶けていった。

混乱した思考が、嘘のように解きほぐされていく。


二人の間には、ただ静謐な愛の余韻だけが漂っていた。


その時――。


ゴトリ、と。

静寂を切り裂くような、鈍い音が響いた。


二人が弾かれたように視線を向けた床の上には、一筋の、あまりにも鮮烈な光が落ちていた。

それを、カレンが思わず手を伸ばし、拾い上げた。


「……これは?」


指先に触れたのは、冷たく、硬質な感触。

ダイヤモンドを削り出したかのような、美しい輝きを放つ名刺だった。


「っ! ――それ!」


聖仁が、弾かれたように彼女の手からそれを奪い取り、掌の中に隠す。

カレンの瞳に、怪訝さと不安が混じった色が浮かぶ。


その表情を見た瞬間、聖仁は覚悟を決めたように、深く、重い息を吐き出した。


「これは……父さんからもらった名刺なんだ」


聖仁の声は、低く、震えていた。


「……父さんの本当の名前が書かれている。この名前を知ると、父の関係者と見なされて、危険な目に遭うこともあるらしい」


「……聖仁」


聖仁は、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。

彼の眼差しには、誠実さと優しさ、そして凛々しさが宿っていた。


「カレン。僕は君を、必ず守って見せる。あらゆる危険からね。だから……一緒に背負ってくれるかい?」


一瞬の静寂。

そして、カレンは、満面の笑みを浮かべた。


「……ずっと一緒よ、聖仁。貴方なら心から信じられるわ。……教えて頂戴。お父様のこと。今日あった全てのことを」


カレンの慈愛に満ちた笑顔は、聖仁の荒れ狂う心を静かに凪がせていく。


聖仁は、彼女の頬を両手で包み込み、熱い口づけを交わした。

長いキスの後、自然に唇が離れる。


互いの額を触れ合わせ、二人の吐息が混ざり合う。


「……何から話していいのか」


彼は、震える声を押し殺すようにして語り始めた。


「あまりにも色々聞きすぎて、知りすぎて、ありすぎて……上手く整理できない。カレンと逢うまでは、叫び出したいぐらいに、混乱と恐怖で一杯だったから。……ふぅ。カレンごめん。君に話す前に、先にシャワーを浴びたいな。そこで頭を一度整理するよ。」


「……わかったわ」


カレンは聖仁の胸に顔を寄せ、優しく頷いた。


「でも、貴方が来る前からお湯を溜めてあったのよ。ゆっくり浸かって、疲れを癒してね」


「……ありがとう、カレン」


二人は重なり合うようにして立ち上がった。

カレンは聖仁の顔を覗き込み、甘えるような、それでいて誘うような瞳で見つめる。


その指先が、彼の逞しい胸元を愛おしげになぞった。


「……ねぇ、私も一緒にお風呂入りたいな」


彼女の声は、熱を帯びて低く、艶やかに響く。


「さっき、お義母様から誘われて受けたマッサージが、凄く気持ちよかったから……貴方にもしてあげたいの……ダメ?」


聖仁は顔を赤らめ、一瞬だけ俯くと、照れを振り切るようにカレンへ向き直った。

彼女の頬にキスをして、そのまま二人は手を取り合い、湯気の立ち込める浴室へと、静かに歩みを進めた。

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