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聖者の行進  作者: いくらふじなみ
第二部 世界の扉
14/26

第六話 女神の神託

ガスランプの灯火が、重厚な影を壁に刻みつけている。


ホテルのバーラウンジは、夜の静寂と琥珀色の光に包まれ、外界の喧騒を拒絶するような気品を湛えていた。


ゆったりとソファに身を預け、大ぶりのクリスタルグラスを傾ける男――ルキウス。


その向かいでは、聖仁が硬い表情で座り、膝の間で両手を組み、前のめりでいる。

傍らでは、豊が深い眠りに落ち、規則正しい寝息を刻んでいた。


ルキウスは、手にしたグラスから琥珀色の液体を飲み干すと、重々しい溜息とともに言葉を紡ぎ出した。その声は低く、どこか遠い時代の物語を語るような、奇妙な響きを帯びていた。


「……我が一族には、秘密の園がある。もっと露骨な言い方をすれば、選別された種を育むための『人間牧場』だ」


その言葉が放たれた瞬間、ラウンジの空気が凍りついた。


「そこは、極めて優秀な遺伝子を人為的に交配させ、生み出された子供だけで構成される国。教育を司る、ごく僅かな大人を除けば、全て子供たちの手によって自治され、運営されている。……呼び名は『エデン』」


「私は、そこの出身者だ。先ほど、ドイツ人の母と日本人の父の血を引くと話したが……それはあくまで遺伝子の記録に過ぎない。私は、両親の顔を一度も見たことがないのだよ」


あまりに非現実的な、神話か悪夢のような告白。


聖仁は、驚愕のあまり、何も言葉を返せない。


思考が真っ白に塗りつぶされ、指先から冷たい汗が伝い落ちる。

喉の奥が焼け付くように乾いていた。


彼は、ウィスキーを一滴だけ垂らした水が入ったグラスを掴み、一気にあおった。

空になったグラスをテーブルに置くと、カチリと硬質な音が静寂を裂いた。


ルキウスは表情一つ変えず、そのグラスを手に取る。


カラフェからチェイサーの水を静かに注ぎ、聖仁へと差し出した。

その動作には一切の無駄がなく、優雅ですらあった。


ルキウスは再び、重い沈黙を破るように言葉を重ねた。


「クロフォード家の後継……それは、単なる血筋の継承ではない。当主がその任を終える時、その時点で最も優れた資質を持つ者が選ばれるのだ」


「不測の事態への備え、そして一族へ絶えず優秀な人材を供給するための仕組み……それこそが、あの『人間牧場』というわけだ」


その瞬間、聖仁の脳裏を、雷鳴のような衝撃が駆け抜けた。


(……まさか、僕もなのか?)


自分も、その『人間牧場』で、緻密な計算と遺伝子の配合によって生み出された子供なのではないか。

これまで母として慕ってきた恵子とは、血が繋がっていないのではないか――!?


顔から血の気が引き、聖仁は真っ白な仮面を被ったように硬直した。

俯いた視界の先で、両手の指が膝の布地を強く、白くなるほどに掴む。体が小刻みに震えだす。


「……ああ、お前は違うよ?」


息子の動揺に気づいたかのように、ルキウスは慌てた素振りで言葉を継いだ。


「恵子と私が愛し合って産まれた、何の意図もない、ごく普通の子供だ。お前の持つ才能や知性は、確かに先天的な要素もあるだろうが、お前自身が積み上げてきた努力の結果だ。安心しろよ、聖仁」


それは、動揺する我が子を気遣う、ごく普通の父親の言葉。


だが、その姿に、聖仁は父の恐ろしさの根幹に触れた気がした。


父――ルキウスの飄々とした態度。

自らの言動や欲望を、隠そうともしない姿勢。


彼には、嘘や詭弁を弄する『必要がない』のではないか。


どんな状況、どんな立場に陥ろうとも、自らの実力で覆すことができる。

その絶対の自信があるからこそ、こうも飾らずにいられるのではないか。


欺瞞という、人間が生きるために必要とする「仮面」すら、彼には不要な装飾なのかもしれなかった。


聖仁は、膝を掴む両手に力を込め、その震えを抑えた。

深く息を吸い、動揺を鎮める。


「……失礼しました」


掠れた声を整え、聖仁は顔を上げて、父の瞳を見据えた。


「どうか……続きをお聞かせください」


聖仁の動揺が収まり、静寂が再びラウンジを支配する。

ルキウスは慈しむような、それでいてどこか遠い記憶を手繰り寄せるような、穏やかな声で語り始めた。


「……エデンにおいて、大人は両手の指で数えられるほどの、ごく僅かな者たちだけだ。自治の主役はすべて子供たち。年長者が年下の子を導き、揉め事を仲裁し、秩序を管理する……そんなシステムによって、その国は回っている」


ルキウスは一度言葉を切ると、瞼を閉じ、しばし追憶にふける。


「私が初めて彼女に出会ったのは、七歳の時だ。十歳にして、その国のリーダー的存在だった少女――」


手にしたウィスキーのグラスをテーブルに置き、懐から一本の葉巻を取り出した。

優雅で淀みのない所作で火を灯し、紫煙がゆらりと立ち上る。


ルキウスは天井を見つめ、深く、重厚な煙を吐き出した。

その一連の動作は、まるで神話の一節を読み解く儀式のようでもあった。


「……もう三十年以上前のことか。だが、あの時の光景は、今も網膜に焼き付いて離れない……」


紫煙がラウンジの暗がりに溶け込み、ルキウスの瞳には、遠い過去の残像が宿っているようだった。


「燃えるような、鮮烈な赤毛。ライオンの鬣(たてがみ)のごとき、威厳に満ちた髪。十歳にして、その容姿は完成された美を誇り、同時に見る者を圧倒する華やかさを纏っていた」


ルキウスの声が、わずかに熱を帯びる。


「そして……何よりも、あの瞳だ。自信に満ち、抗いがたい強大な意志を宿した、輝く瞳……!彼女は絶世の美女でありながら、その顔立ちには、絶対的な強者としての凄みがあった」


「エデンにおいて、満十八歳で卒業する決まりだ。その後の進路は一族全体が判断し、適性に応じた場所へと送り出される」


ルキウスは、紫煙の向こう側で、かつての驚異を語る。


「上限が十八だから、彼女より年上の子供たちは大勢いた。それなのに、十歳の少女が王として君臨していた……。今思えばあり得ないほど凄いことだが、彼女はそんな違和感すら微塵も感じさせないほどに優秀だった」


その声には、畏怖と、どこか誇らしげな熱が混じっていた。


「智謀、圧倒的な美貌、そして存在感……おまけに武術の達人で、喧嘩でも誰も敵わない。まるで突然変異のモンスターだ。……はははっ!」


静謐なラウンジに、ルキウスの心底愉快そうな笑い声が、重く、長くこだました。


だが、笑い声はすぐに霧散し、再び深い沈黙が訪れる。


「誰もが彼女を畏怖し、同時に羨望の眼差しを向けていた……。思春期の男たちは、こぞって彼女に愛を告白したが、その全てが玉砕に終わっていたな」


ルキウスは、ふっと視線を落とした。


「……そして、告白した最年少の男が――私だ」


そこまで語ると、彼はゆっくりと目を閉じた。

先程までの豪放な笑みは消え、その表情には、一抹の寂寥が影のように差している。


聖仁は、その表情から目を逸らすことができなかった。


「このあたりの記憶は、霧の向こう側のように朧げだが……七歳で彼女に出会った瞬間、『結婚してください! お姉ちゃん!』と叫んだらしい。馬鹿な子供だろ?」


ルキウスは、自嘲気味に笑った。


「彼女はそれを一笑に付し、『大きくなったら、また挑戦してくれ』と軽くあしらったという……ひどいものさ。自分だって十歳の子供だったというのに」


ルキウスは、四十歳の男らしからぬ、ふくれっ面をしてみせた。

その表情はどこか愛らしく、あまりに人間臭い。


聖仁は、これも演技ではなく、本心からのものだ、などと無駄な分析を巡らせながら、気を落ち着かせていた。


「……だが、私は諦めなかった。毎日毎日、彼女に縋りつき……好きだ、愛している、結婚してと、愛の言葉を連呼していた……」


「……とうとう、彼女も煩わしくなったのだろうな。ある時、私にこう告げたのだ。『君が私を組み敷くことができたら、私は君のモノになろう』とね。その言葉を聞いた瞬間――! 私は、彼女に飛び掛かったよ。モノになるという意味も分からぬままに……!」


ルキウスは思い出を噛みしめるように、ゆっくりと葉巻を味わった。

俯き、静かに紫煙を吐き出す。


「これは後から聞いた、その場面の話だが……」


「私の突進を、彼女は軽く躱した。そして、ほんの少しだけ、私の身体に指を添えた……」


「その瞬間、私はエデンの草むら目掛けて数メートル吹き飛ばされ、意識を失ったそうだよ」


ルキウスは、指先で葉巻を弄びながら、再びその瞳を閉じた。

数拍の間を置き、話を再開する。


「……数時間後だっただろうか、私はベッドで目を覚ました」


その声が、紫煙の合間を縫って響く。


「痛みは微塵も感じず、体には傷一つ残っていなかった。気の強かった私だ。喧嘩はしょっちゅうしたし、負けたのも初めてじゃなかったが……あの時は、あまりの悔しさに、涙が止まらなかったのを覚えている」


ルキウスは一度言葉を切り、また数瞬の間を置いた。


「翌日、彼女の前に現れた私は、こう告げたのだ。『手加減してくれて、どうも有難う! 君が手加減してくれるなら、何度でも挑戦できるね!』……とね」


「そして、その場ですぐさま彼女に飛びかかった。……結果は、同じだったがな」


ルキウスは葉巻の火を消し、クリスタルの灰皿にそれを静かに置いた。

そして、目の前の聖仁を見つめ、穏やかな声で語り続ける。


「……毎日、彼女に飛びかかっては数時間意識を失う。そんな繰り返しだ。やがて、数時間が二時間になり、一時間になり……とうとう私は、受け身を取れるようになり、気絶することが無くなった」


ルキウスの瞳に、かつての戦いへの熱量が宿る。


「気絶せず、その場で再び彼女に挑めるようになった時、彼女は笑って言った。『おめでとう。少しだけ強くなれたね』と。そして指先で吹き飛ばす代わりに、その場に私を転がしたのだ。……その衝撃は、草むらへ吹き飛ばされた時のものとは比べ物にならないほど、重く、激しいものだったよ!」


ルキウスは自嘲の笑みを浮かべたかと思うと、ふっと表情を変えた。

それは、悪戯を思い出す子供のような、悪戯っぽい笑顔だった。


「……そして再び、数時間気絶した。しかも今度は、目が覚めたとき、全身のあちこちが悲鳴を上げるように痛んだのだ」


ルキウスは声を潜め、その言葉に熱を込める。


「頭では分かっていた。今まで彼女がどれほど優しく、傷を負わせぬよう手加減していたかを、その痛みによって思い知らされた……。だが、私は同時に、全身の芯が震えるような歓喜を感じていたよ!」


「彼女の余裕を、一つ奪ったのだとね」


ルキウスは空のグラスに、ウィスキーをなみなみと注いだ。


乱暴に放り込まれた氷が、カランと乾いた音を立ててぶつかり合う。

溢れ出す琥珀色の液体を厭うこともなく、彼は半分ほどを一気にあおった。


グラスを乱暴にテーブルへ置く。

重々しく、鋭い音が静まり返ったラウンジの空気を震わせた。


ルキウスは、グラスに手を添えたまま、数拍の間を置いた。


「……八歳、九歳、十歳と、三年が過ぎる頃には、もはや転ばされることすらなくなった」


「だが代わりに彼女は、打撃を使うようになった。気絶する頃には、体中が痣だらけ……顔も倍ほどに膨れ上がり、四日間も熱を出して寝込んだこともあったな!」


「あの時期、エデンでの私のあだ名は、『パンダくん』だった。わはははははっ!」


心底愉快そうに、喉を震わせて笑い出す父。

その豪放な笑い声が、重厚なラウンジの空気をかき乱していく。


だが聖仁は、到底笑うことなどできなかった。


幼い少年が、これほどまでの執念と情熱を注ぎ込んだ、赤毛の少女。

その話の凄まじさに、彼はただ、底知れぬ戦慄を覚えていた。


「……エデンの実務や勉学で多忙な彼女が、これほどまでに私に付き合ってくれたのは……今思えば、周囲への見せしめにもなっていたのかもしれないな」


ルキウスは、グラスの縁を指でゆっくりとなぞりながら、語った。


「圧倒的な暴力によって、覇者としての力を誇示する。そして何より――」


一瞬の沈黙。


「自分に愛を告白してくる男除けでな。実際、私が彼女に飛び掛かるようになってからは、そうそう男は近寄らなくなった……。そして私は、それも嬉しかったのだよ。ふふふ……」


低く、喉の奥から漏れるような笑い声が響いた。


あまりに純粋な、一人の少年の独占欲が漏れ出した音に、聖仁には聞こえる。

父のその表情を凝視したまま、言葉を失った。


暴力と、愛。


その二つが分かちがたく結びつき、互いを高め合っていったかのような。

狂おしいほどに純粋な幼少期の記憶――聖仁には、そう思えた。


「……十一歳、十二歳。そして私は十三歳になった。その頃には、顔を腫らすことも無くなり、彼女以外には、私に敵う者はいなくなっていた。暴力は勿論のこと、勉学や実務でもね。だが相変わらず、彼女を組み敷くことはできない。最後には負けて、気絶してしまう……」


ルキウスは一層深く、豪奢なソファにその身を沈め、肺の奥まで空気を吸い込んだ。

それから、ふっと悪戯っぽく笑いながら、聖仁の方へと身を乗り出す。


「ああ、その頃にはもう、『モノにする』の意味くらいは理解していたぞ? ふふふ……。なぁ聖仁、父さんってハンサムだろ? お前もモテモテだろうし、顔もよく似ているんだからな」


自信に満ちた笑み。

聖仁は苦笑を浮かべ、ただ黙るしかなかった。


「……だから、その頃には私も、女性から何度もアプローチされたさ。だが、以前のお前と同じ――動機こそ違えど、対応は同じだった」


「私の目には、赤毛の少女……マルガリタしか映っていなかったのだから」


『マルガリタ』


その名を口にした時、ルキウスの表情に浮かぶ寂寥が、一層濃くなった。

聖仁は不穏な気配に、思わず身構えた。


その動揺を敏感に感じ取り、ルキウスはおどけた調子で言った。


「ああ、彼女は今も生きてるよ? ピンピンしてるさ。元気すぎて困るぐらいだ。わははは!」


聖仁は肩透かしを食らい、恨めしそうに父を見つめた。

だがルキウスは、その視線など意に介さず、静かに、しかし確かな熱量を持って言葉を紡ぎ続けた。


「……私が言いたかったのはな。その頃の私は、お前と同じように、一途で真面目だったということだ」


「他の女になんて、目もくれなかった。女性が好きだったのではない。マルガリタ……彼女が好きだったのだから。彼女に追いつくために――勉強も、功夫の修行も、実務で成果を上げることも、何一つとして苦ではなかった」


ルキウスは、半分ほど残ったウィスキーを静かに飲み干した。

彼はゆっくりと息を吐き、言葉を紡ぎ出す。


「……十四歳、十五歳になった。その頃、彼女は十八歳の誕生日を間近に控えていた。エデンからの卒業――それは、広大な世界へと旅立つことを意味する。彼女が旅立てば、二度と逢えないかもしれない……。思い詰めた私は、一つ策を練った」


ルキウスは不敵に笑い、聖仁を見つめた。

その表情に、聖仁は、かつて最愛の人を支配した父の影を感じた。


「……何か卑怯な手でも使ったのですか?」


久方ぶりに口を開いた聖仁の声は、低く、鋭い刺を含んでいた。

彼は父の瞳を真っ向から睨みつけ、言葉を重ねる。


「……カレンの弱みを握り、支配したように」


息子からの強い非難に、父の表情が、寂しそうな笑顔に変わる。


「……これは信じてもらうしかないが、あの頃の私は純粋だった」


ルキウスは、静かに言葉を継いだ。


「策と言うのは、背水の陣を敷くことだ。私は彼女に、最後の勝負を挑んだのだよ……『この勝負に負けたら、僕はその場で命を絶ちます』と、そう宣言してな」


驚愕の表情を浮かべる息子を前に、ルキウスは、震える拳を強く握りしめる。


彼は一度、ゆっくりと瞼を閉じ、追憶の深淵へと沈み込んだ。

そして再び目を見開き、聖仁を真っ直ぐに見つめ、語り始める。


「……彼女の誕生日の前夜だ。指定した場所へ向かうと、彼女は既にそこにいた」


「傍らに持参したナイフを置き、一歩、また一歩と彼女へ歩み寄る。……彼女は相変わらず、まともに構えもしなかったが、その全身からは緊張が伝わってきた。私はもう、彼女が油断できる相手では無くなっていたからな」


「満月の光が降り注ぐ中、十八を目前にした彼女は……圧倒的なプロポーションと、神々しいまでの美貌、輝く覇者のオーラを放っていた」


「その女神を前にして、私の心は、不思議なほどに静まり返っていたよ。師の説いた『明鏡止水』……あの境地に至ったのは、この時が最初で最後かもしれないな。ふふふ……」


「死を前にして、妙に心静かだったのを覚えている。この人を愛し、そして叶わずに死ぬのなら、それはそれでいいとさえ、思わせられたよ」


ルキウスが語る、命を賭した決戦の予感。


聖仁はさらに身を乗り出し、喉を鳴らし、その続きを渇望していた。

物語の熱量が最高潮に達しようとした、その時――。


「んあ……? いかん、少し眠ってしまいましたか」


傍らで眠りこけていた豊が、むにゃむにゃと声を上げながら起き上がった。

夢見心地の、間の抜けた声が静寂を破る。


「征人さん、聖仁くん……失礼しました」


ルキウスは笑顔を浮かべ、穏やかに応じた。

その傍らで、聖仁は思わず、豊を強く睨みつけてしまった。


「……んぅむぅ、少し、お手洗いに……」


ふらふらと、いそいそとトイレへ向かう豊の背中を見送り、ルキウスは苦笑混じりに聖仁を見た。


「さてと、よい休憩が入ったし……今夜はここで、やめにしとくか?」


聖仁は父の軽口を聞き流し、強い口調で応えた。


「……冗談でしょう。続きをお願いします」


息子の鋭い眼光に苦笑しつつ、ルキウスは、新たな葉巻に火をつけた。

ゆらりと立ち上る紫煙が、ラウンジの重厚な空気を塗りつぶしていく。


「……不思議だな。遠い昔のことなのに……あの闘いのことは、一挙手一投足まで、鮮明に覚えているんだ」


彼は、火のついたままの葉巻を、クリスタル製の灰皿に置いた。


そして、前のめりに身を乗り出し、聖仁と真正面から向き合う。

その瞳には、鋭く熱い光が宿っていた。


「……彼女に歩み寄り、最接近する。そして、その肩を掴もうとした」


ルキウスの声は、低く、震えるような熱を帯びていく。


「彼女はその手を、自身の手の甲を軽く添わせるようにして払う。私は同時に、もう一方の手で、彼女の腰を掴み取ろうとする……だが、彼女はしなやかに身をひるがえし、その手を躱した」


ルキウスは、まるで今この場で戦っているかのように、指先を動かした。


「一見すれば、静かな始まりに見えたろう。だが二人にとって、内容は苛烈そのものだった。武術を極めた者同士の対決は、一つ一つが重い選択の結果であり、その全てが一瞬の出来事なのだ」


ルキウスの語りが、次第に熱を帯びていく。


聖仁もまた、自らの内側から湧き上がる熱い感情に突き動かされる。

固く拳を握りしめ、その言葉を、一字一句漏らさぬよう聞き入った。


「攻防が続き、ふと互いに射程から外れる位置になった。そこまで、おそらく二分も経っていなかっただろう」


「にもかかわらず、無限の体力があろうという二人共に、既に息が上がっていた。極限の緊張感の中での激しい読み合い……精神が、削られていくのだ」


ルキウスの表情に、再び寂寥の影が宿った。

彼は自嘲気味に笑い、聖仁を見つめたまま言葉を紡ぐ。


「……短く、激しい攻防。その中で私は悟ったのだ。やはり、彼女には勝てないと」


「負ければ、用意したナイフで自らの胸を突き、命を絶つ。そんな覚悟だったよ。……恐怖は不思議なほどになかった。ただ、彼女と永遠に別れる前に、感謝を伝えたくなったのだ。これまでの全てに対して、ありがとうとな」


その言葉が、聖仁の胸を貫き、熱い塊となって喉元までせり上がってきた。

目頭が熱くなり、視界が歪む。聖仁は耐えかねたように、両手で顔を覆った。


(……父さんは、八年間も……)


(僕は十八歳でカレンと出会い、彼女に釣り合う男になりたいと、二年間、必死に努力した。充実した日々だったけど、本当につらいこと、苦しいこと、思い通りにならないことも、いっぱいあった……)


(……父さんは七歳から十五歳まで……八年間も、あれほど過酷な挑戦を続けた……たった一人の女性のために!)


(それなのに……手に入らなくとも、感謝だなんて! 果たして、僕にそれが言えるのか?……父さんは一体……どういう心境で……!)


聖仁は、顔を覆った手の奥で、激しく打ち寄せる感情の波に身を委ねていた。


「……満月の光が、汗に輝く彼女の肌を銀色に照らし出し、その瞳は真剣な熱を帯びて私を見つめていた。まさに女神だったよ」


ルキウスの声は、震えるような情熱を帯びる。


「私はできる限り近くで、その言葉を伝えたかった。一歩踏み出し、深く頭を下げる……そして顔を上げ、訝しげな表情の彼女にこう告げたのだ。『今まで本当にありがとう、お姉ちゃん。貴方を心から愛しています』とな……」


聖仁は、溢れ出す嗚咽を抑えることができなかった。

胸の奥が焼けるような、痛切な感動。


母を蔑ろにした父への憤りは、依然燻っている。


だが、幼き日の想いを貫き、叶わぬと悟った瞬間にさえ「感謝」を捧げようとした一人の少年の姿。

聖仁は、抗いようのない敬意を感じていた。


感涙に咽び泣く息子を見つめ、ルキウスは慈しむような、優しい声で語りかけた。


「……お前は、本当に優しい子だ。今の汚れた私ではなく、昔の私に泣いてくれたのだとしても……それは、とても嬉しいことだよ」


ルキウスは懐から、白く柔らかな絹のハンカチを取り出し、聖仁へと差し出した。

聖仁は戸惑いながらも、それを受け取り、顔を濡らす涙を拭った。


「……その言葉を聞いたマルガリタは、激しく動揺した。明鏡止水の境地を極め、百年に一人の天才と謳われた彼女が、初めて私の前で見せた、決定的な『隙』……」


ルキウスの瞳に、勝利への昂揚が宿る。声のトーンが一段、跳ね上がった。


「私の身体は、思考を追い越して動いていた。足を払い、腰を軸に回転させ――彼女を組み敷き、その自由を奪い取ったのだ!」


ルキウスは興奮のままに拳を振り上げ、勝利の瞬間を語った。


「……そして――」


「……ふぅ、いやぁ、今日はたのしくて、つい飲みすぎましたな」


不意に、間の抜けた声が響いた。

豊が、トイレからふらふらと戻ってきたのだ。


豊の帰還を予測していたのか、聖仁は動じなかった。

先ほどのように豊を睨みつけることもなく、ただ冷静に、その場を収めるように声をかける。


「……お義父さん、部屋を用意してあります。お身体に障りますから、今夜はお休みください」


聖仁は、手元の端末に指を滑らせた。

青白い光が彼の端正な顔立ちを照らし出し、数分も経たぬうちに、音もなく一人のホテルマンが姿を現した。


事情を伝え、豊を部屋へと導くよう依頼する。

スタッフが、ふらつく豊の肩を支え、静かにラウンジを去っていく。


再び、二人きりになった。

熱を帯びた期待が、二人の間に満ちている。


聖仁は、前のめりに身を乗り出し、父を見つめた。


「……父さん。続きを、お願いします」


促す声は低く、切実だった。

ルキウスは、そんな息子の様子を愉しむように、悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「……ここで止めたら、お前……怒るよな?」


聖仁は、父の瞳を真っ直ぐに見据えたまま、表情一つ変えずに応じた。


「……続きを、お願いします」


ルキウスは不敵な笑みを浮かべ、背もたれに深く身体を預けた。

そしてゆっくりと瞼を閉じ、遠い記憶の深淵へと沈み込んでいく。


数拍の静寂の後、重々しい声が再び響いた。


「……今ならわかる。彼女が動揺したのは、罪悪感からだったのだ。当時の自分は、露ほども気付かなかったがね」


ルキウスは自嘲気味に笑い、その瞳を聖仁へと向けた。


「あの日、私に組み伏せられた彼女は、信じられないというような表情で、ただ私を見つめていた……。私はしばらく彼女を拘束していたが、一言、『約束』とだけ呟き、拘束を解いた」


ルキウスの語り口が、熱を帯びて低く沈んでいく。


「そして、彼女の身体に縋りついた。何をどうしていいか分からず、ただ思いのままにな・・・」


「彼女は、一切、抵抗しなかった。私を跳ね飛ばすことなど、造作もないはずだったのに。幼い私は、性の知識も、その意味すら知らぬまま、ただ思春期の衝動に身を任せていた……。その間、彼女は無表情なまま、虚空をじっと見つめ続けていたのだ」


ルキウスは、かつての自分自身を思い出すように、虚空を掴んだ。


「……今の私なら、その違和感に気付けただろうにな……」


自嘲気味に微笑を浮かべ、ルキウスは静かに俯いた。


聖仁は、父の言葉に混じる不穏な気配を敏感に感じ取り、背筋に冷たい戦慄が走るのを覚えた。

これは単なる、初恋の成就という甘美な物語ではない。


父の語る記憶は、想いが叶ったという結末の、その先へと続いていた。


「……私は、興奮しきっていたよ」


ルキウスは自嘲気味に笑い、遠い目をした。


「誰もが望んで止まない、あの神々しい肢体を前に……思春期の私は、ただただ夢中だった。そして――二人は、結ばれた」


長い歳月を隔てた今も、その瞬間を振り返る表情に喜びはない。

彼はまるで、かつての自分を数十年越しに省みているかのような眼差しで、語り続けた。


「……息を整えながら、ようやく私は彼女を見た。汗と熱気が混じり合う中で、私は彼女の瞳を求めた」


ルキウスの声が、低く、震えるように沈んでいく。


「だが、彼女は……まるで祈るような、静かな声で……こう呟いたのだ」


『今まで伝えられず、すまない。……私は、レズビアンなんだ。君の想いには、応えられない』

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